聖ヴァレンティヌスの祝福

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 朱雀は憂鬱な気持ちで眼を開ける。静まった二月の朝はキンと冷えていて本当なら気持ちの良い目覚めのはずだ。布団の中にしまいこんでいた手を出すと寒さに肌が総毛立つ。この澄んだ温度の中でする筋トレが朱雀は好きだった。だが今日は話は別だ。待ち構えるものを考えるほどベッドから降りるのが億劫で寝返りを打つと足が掛け布団から飛び出したので、慌てて膝を曲げて温もりの中にしまい込む。蹴り溜めた毛布が足首に絡んでその中にいたらしいにゃこが抗議の声を上げる。朱雀は情けない気持ちになって、枕元に置いた携帯に手を伸ばす。
 二月十四日。バレンタインデー。少し前までは自分と無縁だったイベントは今や恐怖の対象だ。事務所にはすでにダンボール数箱ものチョコレートが届いている。先月末のサイン会でもたくさんの可愛らしい紙袋を差し入れてもらった。プロデューサーからはチョコレートは校外では絶対に受け取るなと釘を刺されているが、英雄や誠司に道で急に女にチョコを突きつけられる恐ろしさを滔々と語られた後ではあまり意味がない。少し前には冬馬からデビューすると高校ですら大変な目にあうのだと脅された。ガチ恋と呼びなされる女たちの良識に期待するなと真顔で言う彼の顔は間違いなく歴戦の勇士のそれだった。だから朱雀は昨日の夜起きたら十五日になっているように祈ったのだが、残念ながらそんな幸運には恵まれなかった。
 今日は玄武と待ち合わせて登校しようと約束している。だから布団から出なければならない。せっかく玄武がいるのに、と朱雀はしょぼくれながら思う。玄武とは夏に付き合い始めた。だからふたりにとっては初めてのバレンタインだ。それなりに期待もしていた。好物の甘いものをもらうくらいのことはあってもいいと思ったし、当然自分もなにか――普段なら買わないビターチョコくらいは用意しようと思ったのだ。ところが自分の身の周りはこのイベントのせいでめちゃくちゃだ。昨日も事務所で印刷用の礼状を書かされてそれらしい会話すらできなかった。帰り道に寄ったコンビニでもチョコレートの棚の前に行く前に、店内にいた同年齢くらいの制服の女たちに、ねえあれ、と囁かれてふたりで反射的に店を出てしまった。疲れ切った別れ際にかろうじて明日朝、と約束を交わして、なにひとつ恋人らしい会話はなかった。それでも、と朱雀は思う。
 あの男はこういうところはきちんとしているから、何かしら用意してくれるんじゃないか。
 昨日も玄武は礼状を書きながらこういうことをしてもらえるだけありがてえんだと、サボりがちになる朱雀を叱咤激励してくれた。朱雀がいかに玄武に惚れているかは折々に伝えてきたつもりだ。それに応えようとしてくれても、おかしくない。朱雀は自分に言い聞かせると、ようやく布団から出る覚悟を決めた。

 期待に反して玄武は平然とした顔で待ち合わせ場所のコンビニに立っていた。拍子抜けした朱雀に腹のにゃこがニャアと鳴く。
「よう、どうした、眠そうだな」
「んでもねえよ、おはよう! ジュース買ってっていいか?」
 玄武の脇を通り抜けてコンビニに入ると、綺麗にディスプレイされたラックに包装されたチョコレートが並んでいるのが視界に飛び込む。慌ててそこから目をそらして飲料の棚に駆け寄り、適当なペットボトルを手に取った。ちらりと横目で見ると玄武は雑誌売り場で週刊誌の見出しを眺めている。そのカバンはいつも通りの薄さで何か仕込まれている気配はない。残念な気持ちでレジに向かう。だが待て、ここでチョコを買う……と言う選択肢もなくはないのではないか。さっと後ろを振り向くと玄武はまだ雑誌の前にいた。それからふっと顔を上げてこっちを見るので、朱雀はよれた財布から千円札を店員に出しながら声をかける。
「あっあのよお今日」
「バレンタインだな」
 あっけらかんとした物言いに朱雀は出鼻を挫かれておう、とだけ返した。玄武はそのまますたすたと店を出てしまうので、慌てて小銭をポケットにしまって後を追った。横に並ぶと玄武は苦々しそうな表情を浮かべて、誰にともなく言う。
「去年も散々だったが今年はなお酷そうだ」
「去年」
 鸚鵡返しするしかない朱雀に、玄武はああ、と頷くと事のあらましを簡単に説明した。
 要は入学して半年程度で学校中を伸してしまったことで玄武には男女含めてヤンキー系のファンがついた。彼らが総じてチョコやら手紙やらを渡そうと目論んだせいで、去年の二月十四日、玄武は一日逃げ回るしかなかった。そして今年はデビューもあって母数が膨れ上がっている。それに対する危惧と不安を一通り滔々と述べて、玄武は顔をしかめる。
「イベントごとは悪かねえが、こう厄介なことが多いのもな……こっちとしちゃあ、普通に高校生活送らせてもらいてえだけなんだが」
 そのまま、なあそうだろ、と同意を求められて朱雀は頷いた。頷くしかなかった。玄武のことだから如才なくこなしているとどこかで思い込んでいた。それがここまでバレンタインデーに反感を抱いている。チョコレートなど期待してはいけないのではないだろうか。よくよく考えれば女からチョコを渡すイベントだ。自分たちのファンの男どもが勝手に寄越してきたからといって玄武が朱雀に用意しているとは限らない。この嫌がりようではこちらから渡すことさえ憚られる。ポケットに入れっぱなしの釣り銭が擦れて涼やかな音を立てるのを朱雀は悲しく聞いた。これは、ダメだ。

 行きがけに相談した結果、ふたりはとにかく一緒にいることにした。そうすれば本気中の本気だけは防げると玄武が提案したのだ。だから朱雀は授業が終わるたびにすぐに教室を脱走して、最上階の屋上に抜ける扉の前を陣取った。じきに玄武がやってきて、ふたりはスマートフォンで練習の動画を見るフリをして時間をやり過ごした。ときどき睨め付けるような視線を感じたが、顔をあげればそこには誰もいなかった。朱雀としては玄武に惚れているかもしれない誰かをシャットアウトできるいい機会だったが、それ以上に体温を感じるほどに隣にいる相棒兼恋人がこの距離になにも感じていないことが寂しかった。にゃこが飼い主の不安を感じ取ってか幾分優しいのが救いといえば救いだった。
 放課後、一時間授業が長い玄武を待ちながら朱雀はふかふかした毛並みに指を通す。にゃこはゴロゴロと喉を鳴らして応えてくれる。時折階下から女子が笑う軽やかな声が聞こえてくるが、あれもバレンタインがらみの話題だろうか。朱雀ははあと溜息をつく。相棒ならわかると思っていたことが恋人になるとわからなくなる。胸の奥がちりちりとして闇雲に叫びたくなった。抑えてスマートフォンの時計を見るとまだ三時半にしかなっていない。一日が長すぎる、と思ってまた溜息が出る。

 いつもの通学路をダラダラと歩くのが忙しい二人のデートの代わりだ。幸い帰り道に待ち構えているファンはおらず、どうにか安全な下校を達成して、道のりは終盤近くまで来ていた。会話の中身がよくある友達同士のそれの域を出ないのはいつものことなのに朱雀の心は重い。ああ、とトサカをかくと頭に載っていたにゃこが驚いて地面に飛び降りた。飼い主の情けない顔を見てそのままふいとどこかへ行ってしまう。後を追いそうになった朱雀に玄武が思いついたように声をかけた。
「寄ってもいいか」
「は」
「お前のウチだ。期末前だろう」
 玄武はそう言っていつもの顔で朱雀を見る。一瞬期待した自分を恥じて朱雀は頷く。テストはいつなんどきでもピンチで玄武はいつなんどきでもそれを助けてくれる。この関係も彼氏としては若干情けなさを感じなくもなかったが、玄武のほうが一年年長で世話焼きなのだから世話を焼かれればいいと思っていた。今日までは。一瞬朝のような冷たい顔でもう面倒見切れねえと自分を捨てる玄武が浮かんで、慌ててかぶりを振った。玄武に限ってそんなことはない。ないと信じているが自信がない。チョコレートひとつでこんなに動揺している。足元を見ながら歩く朱雀に玄武は呆れたような声音で早く行くぞと一言言うとどんどん先に行ってしまう。

 朱雀の部屋に上がると玄武はカバンからノートを三冊取り出した。
「これが英語、これが数学。あとこれは漢字ドリルだ。来週までにやってこい」
「いや待て、多いだろ!」
「お前がサボった授業に比べてもそう思うか?」
 ジッと目を見られて朱雀の心臓が跳ねる。レンズ越しの玄武の目が苛立っているようで居た堪れない。朝からの揺らいでばかりの心がはかられているように感じて朱雀は不承不承ノートを受け取って、そのまま机の上に投げた。
「それと」
 続いて玄武が突きつけてきたのは薄い紙包みだった。
「は?」
「いいから受け取れ!」
 胸元に押しつけられたそれを受け取って気がつく。この触感。
「なっ」
「あ?」
「なんにもねえ!」
 叫んだ朱雀に玄武は驚いたようで、切れ長の目を丸くして瞬かせた。その表情から疑問符が消えないのを見てとった朱雀は床で土下座の体制をとる。
「おい、何してんだ」
 手の中にあるのは間違いなくチョコレートだ。玄武から。今日、この日に。
「なんにも用意してねえんだ、悪い! なんか……なんか買おうとは思ってたんだけどよお」
「ああ……気にするな。お前が女かきわけてチョコ買えるとは思ってねえ」
「だけどよぉ! つうかそれだけじゃねえんだ!」
「ん?」
「あの、その、くれると、思ってなくてっうか、昨日までは思ってたんだけどよお、その、」
 がばっと朱雀は頭を下げる。
「悪い! おまえの、真心疑って!」
 叫んで額をフローリングに擦りつけた。詫びる思いしかなかった。玄武が朝からどんな思いでこの時間を待っていたかと思うと胸が痛む。自分はその間拗ねたり落ち込んだりと勝手なことばかりしていた。
「……気にすんな」
 ぽんと肩に手を置かれる。頭をあげると目の前には存外優しい玄武の表情があった。
「俺も今までビビって渡してねえんだ。お互い様だろう」
 へ、と気の抜いた声が出てしまった。朱雀は慌てて口を抑える。玄武は視線を彷徨わせるとあーと小さく唸る。
「二度言わせんな。ビビってたんだよ。ガラじゃねえことしてお前に引かれたらと思って気を揉んでた」
 杞憂でよかった、と玄武は形のいい唇に笑みを浮かべる。幾分スッキリしたような顔につられて、朱雀もようやく笑えた。よかった。本当によかった。玄武は背を丸めたまま、朱雀から視線をそらしていいから開けろと促した。うんうんと頷きながら朱雀は受け取ったチョコレートの封を開ける。紙包みの中から薄い紙箱が顔を出した。中には小さな板チョコが九枚丁寧に敷き詰められている。
「すげえ! うまそうだ、ありがとな!」
「なんだ……その、二月は月が短けえから、余裕があったんだ」
「んだよ、今更照れるなよ」
「うるせえ。早く食え」
 悪ノリした朱雀が玄武の脇腹をつつくと思いっきり頭を叩かれた。誤嚥でむせこむと玄武が慌てて顔を覗き込んできた。
「悪い」
「や、オレがからかったのがわりぃから……」
 胸を叩きながらどうにか喉を整えて、朱雀は玄武に向き直る。
「あのよ、次っつうか、三月はオレがやるからな」
「ホワイトデーな」
「それだ! ちゃんとよ、チョコ買うからよ」
 意気込む朱雀に玄武はホワイトデーはチョコに限んねえぞ、と呆れたように言うが、そんなことは知ったことではない。目の前で柔らかな笑顔を浮かべる恋人に抱きつくと一瞬遅れて確かな抱擁が返ってきた。
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