その日曜日の午後、朱雀はギターを背負って玄武の部屋を訪れた。まずは駆けつけ一杯とソーダを出すと、朱雀はあっという間にグラスを空にした。おかわりを注ぐとそれも飲み干して、ふは、と大きく肩で息を吐いた。
秋の休日にぽんと生まれたオフに、朱雀はギターの練習をしたいと言い出した。番組の企画でエレキギターを借り受け、名前までつけて愛でたのち、朱雀はそのストラトキャスターを事務所に前借りした金で買い取った。しばらくして、ロケで訪れた御茶ノ水の楽器店で、今度はアコースティックギターが安売りされていた。同行していたエンジニアがお値打ち品だというので、朱雀はそれを取り置きして、翌週末に母親を拝み倒して手に入れた一万円札三枚をを握りしめて玄武と一緒に買いに行った。
だからいま朱雀の部屋にはギターが二本ある。住宅街にある朱雀の部屋ではもっぱらストラトは観賞用で、日々アコギで練習しているらしい。ライブで弾く予定はないが、放っておくとギターに悪い気がするというので、玄武がなら俺の部屋に来るかと誘うと相手は破顔一笑した。二人の関係が当初とは微妙に変わってからも、朱雀は招いたり招かれたりすることにてらいがない。その姿勢をうらやましいようなもどかしいような思いで眺めつつ、自分の生活範囲と朱雀の生活範囲が重なることが嬉しく、ここのところは空き時間があれば互いの部屋にいる。
やっと落ち着いた朱雀が妙に汗だくなのでその点を訊くと、今日は自転車でここまで来たそうだ。玄武が窓から階下の自転車置き場を覗くと、ママチャリのかごの中でにゃん喜威が昼寝をしていた。関東平野とはいえギアもない自転車は玄武が後ろに乗るとギシギシと音を立てて、朱雀の気質ではろくに手入れもしないだろうから玄武はいつかあの自転車を修理する羽目になるだろうと踏んでいる。
朱雀はおもむろに立ちあがり、尻ポケットから取り出したくしゃくしゃのミニタオルで丁寧に両手をぬぐうと、ソフトケースからギターを取り出した。木目も新しい胴にそっと手を添えて、ストラップを首にかける。ケースのポケットからピックの袋を取り出すと、中から一枚真新しいものを選び取った。そして手元も確認せずにコードを鳴らす。C、D、F、G。
「やたら威勢がいいじゃねえか」
「玄武んちのほうが弾きやすいんだよ。下手でも怒られねえし」
「怒るのか、お母さん」
玄武が問うと朱雀は一瞬きょとんとした。それから言いづらそうに口に出す。
「……いや、変な意味じゃなくてよ、おまえがお母さんていうの初めて聞いたぜ、オレ」
たいていの場合朱雀の言いたいことは言葉より多くも少なくもないから、玄武も文字通りに受け取って、そういや初めてだったなと返した。いつも彼女のことをどう呼んでいたか思い出そうとしても、掴みどころがなくどこかへすり抜けてしまう。そういう午後だった。
朱雀がページの折れた教本を開いて指慣らしを始めたので、ホスト役の玄武にはやることがなくなってしまった。朱雀と同じタイミングで玄武にも楽器を引き取るという選択肢もあったが、玄武には主に金銭的な理由でベースを続ける気はなかったし、番組を見た榊が必要なら貸すから、と細い声で言ってくれたのであの楽器にこだわる意味もなかったのだ。
手持無沙汰をつぶすのは活字に限る。玄武は通学カバンから文庫本を取り出した。九十九に勧められたSFはテラフォーミングものの王道で、そこかしこに詰め込まれたトリビアルな閑話が玄武の性に合った。全体の量の半分まで進んだところで、主人公はヒロインに似た生き物に出合って困惑している。ヒロインの体ではない似た体に触れて、残してきたヒロインのことを思う。まだるっこしい恋愛事情が他人事に思えないのは生まれて初めてだ。本は読む年齢で意味が変わると真面目な顔をして渡してきた相手が何を考えていたのか、玄武は深追いしそうになる思考を止めた。
ページから目を上げると、朱雀はいつの間にかこちらに背を向けてギターの弦を爪弾いている。窓から差し込む光がその身体を照らし、Tシャツのしわを浮き立たせる。あの番組でスポットライトを浴びていた姿に被って少しおかしい。聞き覚えのある練習曲が流れる中、いつものようにベッドにもたれて座る。朱雀の分厚い背中が弦の一本一本を弾く小さな動きに従って揺れるのを眺める。
その身体が自分に密着したときにどう高鳴るか、どう湿るか、玄武はこの間知った。ライブで感じる体温とは違う、自分だけの温度を体中に受けて、恥ずかしげもなく涙がこぼれて止まらなかった。終わったあとに朱雀はそのことをいたく気にして心配してくれたが、玄武からすれば忘れてほしい出来事だ。朱雀と走る毎日はいつも鮮やかで褪せないから簡単に思い出せる。それが幸福であることを玄武はよくわかっていて、だから逃さないように必死でいることをなるべく朱雀に隠したいと思っている。
膝を折って体育座りになるとちょうどよく視線が本にいく。ほどよくインクが抜けた古びた書体が、日に焼けた紙と相まって時間を経た物語の信頼度を高めていく。玄武が没頭するのはあっという間だった。
ふと気づくと陽が少し傾いていた。物語に浸っていた脳が現実に戻る。いや、物語は進んでいない。眠ってたか、と玄武はズレた眼鏡のブリッジに指をあてる。戻したレンズの中で朱雀の背中にピントが合う。
朱雀の音はつたない。不揃いで不正確で、不規則にブレる。時折ピックと弦が嫌な角度で擦れて金属音がする。そのたびに朱雀は呻いて、口の中でなにかもごもごとつぶやきながらまたいちから始める。背中から見る腕が軽く動いて音調が変わり、指先がネックから覗いては隠れ、隠れては覗く。その繰り返しが徐々に音楽を成すのを玄武はぼうっと聴いている。
コードを繰り返すだけだった手のひらはいつしか繊細なアルペジオを不器用に生み出し始めてた。朱雀の指が鳴らす音はいつも玄武に優しい。優しすぎて、懐かしいようなもどかしいような不思議な思いを抱かせる。その感覚が何に似ているのか、玄武は読み覚えた知識をひとさらいして、ああこれはもっと近くに寄りたいんだと気づく。靴下に覆われた自分の爪先と朱雀の身体の間にはたかだか二メートルもない隙間しかないのに、この部屋にいる間はもっと近づいていることが多いから引き剥がされたように感じてしまう。
玄武は身体をやや強く後傾させて、ベッドの骨組みに押し当てる。ごうつごつした感触が何かに、自分の背後に回っているときの朱雀の肌触りに似ていて、首のうしろにちりっと走るものを感じた。
後ろから見る朱雀の肘や肩は去年より少し骨が太くなり、贅肉が削げてそのぶん筋肉がついて男らしくなった。自分の身体はどうだろうと手のひらを眺めてから、玄武は比較に意味を見出すことを避ける。自分の身体がどうであろうと朱雀の身体がどう変化しようと、それをお互いに知る手段をもうふたりは確かめている。
朱雀は玄武の視線に気づかず、まだ熱心にギターを引いている。完全でないハーモニーがまどろみを呼んで、玄武は諦めて本を日陰に置いた。今日の午後はもう作り物の物語はいい、と思った。