黒野玄武が相棒と交際を始めたのは一ヶ月半前だ。張本人の家で、ちゃぶ台にもたれながら漫然とWWEの録画を見ている最中に、急に惚れたと言われた。黒野の側はといえば、かれこれ一年この問題と向き合った結果、言葉にして感情の輪郭を顕にしてしまえばもはや息の根を止めるしかないと深く考えるのをやめた矢先のことだった。だからつい簡単に俺もだと応えてしまい、そのまました口付けが互いのファーストキスになった。
その日から三週間、紅井朱雀は見事に挙動不審になった。声をかければ返事は裏返り、レッスン中に指先が触れるだけで足をもつれさせて転倒し、事務所のコーヒーカップを都合四つ割った。備品に回せる金はねえんだよと怒鳴るプロデューサーとアスクルでプラスチックのマグを頼む山村を見て、黒野は本件について紅井と話し合う必要を強く感じた。
何より紅井はあれ以来ぴたりと自分のそばにいるのをやめたので黒野はそれなりに傷ついていたし、自分の不用意な反応が紅井を変に意識させてしまったことに、罪悪感に似たわだかまりを覚えてもいた。日頃ならきちんと考えて判断できる自分が、こと相棒についてとなると反射的に動いてしまう。考えて恋のせいかと黒野はひとり納得し、それから安い小説で散々読んできた話が自分の身の上に起こったことを不思議に思った。
*
当日、黒野はさりげなく、少なくとも本人はそのつもりで、話があるからと紅井を自宅に誘った。紅井は紅井でぎこちなく大きく頷いて、にゃこは置いてく、と搾り出すように言った。
黒野の部屋はアパートの二階にある。外階段を上がる前に紅井は愛猫を腹巻から引っこ抜き、放り投げるように地面に落とした。猫は華麗な着地を決めたあとすまねえと拝む紅井を白い目で見て、それから黒野を一瞥して前栽の茂みの中に消えた。紅井がいつまでもそれを見ているので黒野は外階段を上がる。後ろから待てよと硬いヒールがコンクリートを蹴る音がした。ふと黒野はその音をあと何度聞けるかと思い、もしかしたら最後かもしれないと思うたび喉元に痛みが走る。
一人暮らしだから部屋は殺風景にほどちかい。仕事を始めてから部屋にいる時間はますます減って必要なものが少ないのだ。わずかな装飾ともいえるラグに座るように無言で促すと、紅井は意を決したようにベッドに腰かけた。茶を出すか少し考えて黒野は紅井の向かいの床にあぐらをかいた。〈話し合い〉はどうせ自分しか口を開かないだろうし、そうすれば長くはならないと踏んだのだ。
「お前、変だぞ」
発語してから黒野は少し後悔した。紅井が目にも明らかにぎょっとしたからだ。もうすこし婉曲な言い回しを選ぶべきだったか。だがそれこそ読みかじりの小説からとってきたような甘ったるいセリフはふたりには不似合いだったし、黒野が真剣に話す場に選ぶべき言葉には思えない。諦めて単刀直入に話すことにした。
「嫌だったか、朱雀」
とたん、紅井はベッドから跳ね飛んで寄ると、黒野の肩を鷲掴みにした。痛みに眉をしかめると紅井は焦ってぱっと手を放し、ぱくぱくと口を開閉させる。だがそこから音は出ない。なにかを伝えたいことはわかるが、黒野もあいにそこまで察しがつくわけではない。落ち着け、とまだ痛みが残る鎖骨をさすりながら紅井の言葉を待つ。紅井はうーとかあーとか喃語を吐き出しながら、掴むもののなくなった両手をこすり合わせて、ちらっと黒野を見上げた。
「あ、あのよ、別れるとか、言わねえよな」
意外な言葉に黒野が目を見開いた。紅井はその反応をどうとったのか慌てた素振りで両手を床について、両目でしっかり黒野を見つめた。
「違えんだ、あの、オレがうまくやれてねえのはわかってんだ、だけどよ」
言いよどんだ紅井に黒野が目で先を促すと、唇を尖らせて続ける。
「オレは本気でおまえが好きで別にイキオイとかじゃねえし、その、いろいろ下手でわりいんだけど、どうしていいかわかんねえけど、とにかくマジで好きだから。だからよぉ」
紅井はここまで言ってから顔を朱に染めて口ごもり、三週間ぶりに黒野の体にしっかり触れて、腕を回して抱きしめた。学生服の上から染みわたる体温は黒野より少し高い。身じろぎするたびにお互いのペンダントのチェーンがぶつかって鳴り、紅井が居住まいをただすように薄い体を抱きしめなおす。首元に紅井の跳ねた毛を感じながら、無言で抱かれていることが心地よかった。だから黒野はそれ以上の言葉を求めなかった。
紅井は黒野のことを、黒野が紅井を思うように好きでいる。
これだけでいいと思った。黒野は自分より低い位置にある背中に手を添えて、子供をなだめるように優しく撫でた。紅井の身体が小さく震えたのがわかって音には出さずに笑った。自分も紅井も器用ではないし、こういう方面には明るくない。だからどんなに幼いやりかたでもいいから、少しずつ距離を詰めていこう。
そう決意して二週間、また紅井は頑として黒野に触らなくなった。ぎこちなさは減った。互いの体が掠るような振り付けにも動じなくなった。堂々と笑うようになった。それだけだった。
*
「テメエ、今日うちに来い」
放課後、別行動をしていた黒野と紅井はたまたま事務所で鉢合わせ、たまたまふたりきりになった。居心地が悪そうにしている紅井にいらだった黒野は前回以上に険のある声で宣言した。
「晩メシはなにがいい、なんでも作ってやる、豚と牛とどっちがいい。それとも魚か」
とんだ誘い文句だ、いや誘ってすらいない。恋の話になっただけで自分は悪手しか踏めないと黒野は思う。普段だったらうまいこと紅井をたきつけて己からそうするように仕向けられるはずがこのザマだ。だがそう思ったところで恋人を前にして理性的な行動がとれるわけではない。
「なん、なんだよ急に」
「来いっつってるんだよ。それともあれか、お袋さんとメシの約束でもしてんのか」
「してねえけどよ……」
紅井は視線をふらつかせながら出方を窺う。その挙動のすべてが癇に障って、黒野は大きく頭を振った。
「なにもねえなら」
「玄武」
重なった言葉に黒野が口をつぐむと、紅井は
「げ、玄武、その、また……その、別れるとか」
歯切れ悪く切り出した紅井に、今度こそ黒野はキレた。
そこまでわかっててなんでなにもしねえんだ、同じ轍を踏みやがってお前はそんなに間抜けだったか、それとも俺の目が曇ってたのか。どうして一緒にいたいと思わない。俺は苦しくて苦しくてたまらないのにお前にはそんな気は微塵もねえのか。黒野は思いつく限りなじった。自分たちの居場所が事務所であることは黒野の頭からすっぽ抜けていたが、幸い誰の気配もなかった。
怒鳴りながら湧き出た唾液で黒野は軽くむせた。むせながら好きでいてくれればそれでいいなんて甘言はうそだと痛感した。視界の隅に山村が〈燃える〉と大書したごみ箱が目に入る。中身はカラだ。
「俺はお前に触りたいんだ、ダメならもういい」
吐き捨てて黒野はごみ箱を蹴りとばした。プラスチックのごみ箱は間抜けな音を立てて壁にぶつかって跳ね返って、紅井の足元を急襲した。普段はいい反射神経を見せる紅井は、しかしぽかんとした顔をして、それから拍子抜けした顔でなんだよおまえもかよ、と呟いてへたりこんだ。黒野はわけがわからず、ひとまずごみ箱を元の場所へ戻して、それから紅井の落ちた視線を拾おうと、しゃがんで頭を両手で鷲掴みにした。ぐっとうめいた紅井に構わず強引に目を合わせる。
「痛え」
「どういう意味だ」
「もう少し優しいやりかたあるだろうが」
「知るか! だいたい男らしくもねえ、ウジウジしやがって、お前そんなガラじゃ」
そのまま苦情は途切れた。紅井が黒野の頭を引き寄せたからだ。
乾いた唇が頬をかすめて唇に落ちた。かさつきが接してわずかに離れてまた重なる。それから湿った舌が黒野の唇の端から端までをなぞって下唇に押し当てられた。不規則にびくつく粘膜に黒野の脳が兆しはじめる。紅井の頭蓋骨を掴んだままの手に力を込めて、黒野も舌を出して、舐め終えてふわりと緩んだ紅井の舌に添えた。敏感な先端に相手の脈を感じて肌が総毛立つ。紅井のよく鍛えられた胸元に自分の骨ばった身体が擦れて熱を生み、あとは勢いに任せて互いの舌を追い、唾液を絡めてもつれあった。
ふたりはしばらく衝動のままにしていたので、これがまだ二度目のキスだということはすっかり忘れていた。
「……だってよ、おまえが触るから」
紅井が言葉を継いだのは、口元がすっかり濡れて唇の皮膜がふやけてだいぶたったころだった。
「は?」
「触るからだよ! 変になんだろ、ここらへんが……」
紅井はそう言って自分の胸元のあたりをまさぐった。指先がしたたり落ちた唾液のしみに触れて、気まずそうに黒野の顔を見上げてまた目を伏せる。
要は二週間前の抱擁で黒野が背中をさすったのが悪いと言いたいらしかった。それまで紅井の中でぼんやりとしていた好意は、触れられた手つきを愛撫だと感じとった瞬間に欲に直結した。耳元から香る洗髪料の残り香とわずかな汗ばんだ身体のにおいに、紅井の体は反応して戻らなかった。
「だからってよぉ、そんなん、おまえもそうだとか思わねえじゃねえか」
額まで真っ赤にした紅井はつっかえながら言う。
「なんか、おまえ見てると全然そういう感じに見えねえから、オレばっかりそんなこと考えてて、だせえし、かっこわりいし」
でも触りてえし。呟いて紅井はうつむく。その耳が真っ赤で、黒野も自分の耳の中で太い血管がどくどくと音を立てて血を流していることを自覚する。耳、指、肘、舌先、ありとあらゆる先端が熱い。
あのよぉ、と視線をそらした紅井の口から本音が漏れる。
「オレは今みてーなの、もっとしてえ」
黒野の我慢はそこまでだった。紅井の首にしがみついてもう一度口づけた。半開きの紅井の唇を舌でこじ開けて、よく磨かれた象牙質を舐める。とたんにあふれた唾液が唇と唇の接点からこぼれる。構わずに食いつくと紅井の舌がゆっくり応え、黒野は舌が膨れるのを感じる。Tシャツの襟をつかんでいた左手で襟足をまさぐったときだった。
「だめだ!」
黒野の視界に紅井の手相が大きくフレームインした。生命線の先が見えない。
「その、だめじゃねえ、ねえんだけどだめだ、今は、ここじゃだめだろ」
しどろもどろになる紅井に、黒野もようやく事務所で繰り広げたことの顛末を思い返し、改めて赤面する。人がおらずとも防犯カメラが一部始終をとらえているはずだが、泥棒さえ入らなければリプレイされる心配はない、と頭の隅で考えながら袖をまくって口元を拭った。紅井はぐしゃぐしゃになったTシャツを伸ばしてどうにか恰好を整えている。
「……帰るぞ。ただし」
「お、おう!?」
「メシは作らねえ、無理だ」
言い切った黒野に紅井はいったんきょとんとして、それから合点がいったのかやたらと大きな声でおう、と返事をした。