起床は六時半。弁当は卵焼きとにんじんしりしりとゆでたブロッコリーと白飯。朝飯はその残り。時間があったのでシャワーを浴びてから家を出て電車に乗り、一度乗り換えれば高校の最寄りに着く。商店街を通って門を抜け、ブーツを上履きに履き替えて、二階の職員室で図書室の鍵を借りる。四階まで上がって図書室を開け、新しく本を借りる。また二階まで降りて鍵を戻し、教室に行けばまだほとんど生徒は来ていない。玄武は一番後ろの自分の席に座り、やっと補修された窓を見て、次にこれが破られるのはいつだろうと想像する。時計を見ると八時を少し回ったところで、始業までは間がある。窓際に立ち門から校庭を横切ってこちらへと流れてくる人の流れを眺める。その中に見知った赤毛を見つけて、心臓が跳ねた。土煙をあげ、裾をなびかせて走る姿は、今でさえ玄武には世界一好ましく映る。朱雀が樹冠に隠れて見えなくなってから、玄武は窓から離れて自席に戻った。
にぎわいはじめた教室のなかは縁日のように騒がしい。自撮りをするカメラの音がして、椅子が蹴られてがたがた言い、誰かが堰を切ったように笑い出して、周りがそれに加わる。玄武はその中でぽつねんと、今日の夕刻にはおそらく訪れる断罪のときを待っている。玄武は眼鏡をはずすと目元をこすり、ぼやけた視界の中でクラスメイト達が塊になってうごめくのをぼうっと見た。
授業が始まってしまえば玄武の脳は正常に必要なだけ働く。教師は学生時代の思い出話をはじめ、玄武はそれをノイズとしてすべて跳ねのけながら、教科書と参考書の未着手だった問題を解いていく。数学は型がわかれば簡単だし、公式も一度証明さえしてしまえば理屈が飲み込めるからいくらでも応用が利く。玄武はそうやってひとりで戦ってきたし、これからだってそうするはずだ。朱雀は人生の主題ではないし、通奏低音ですらない。ここ数年で親しくなった特別な友達というだけだ。だから、怯えるのは理屈に合わない。――そのはずなのに。顔をあげると誰かが飛ばした紙飛行機が教壇の前を横切っていく。はっと我に返って、また演習問題を解く。ぎし、とシャープペンシルの芯が軋んだ音を立てた。
昼は朱雀から声がかからなかったのでそのまま教室で食べた。昨日の舎弟ほどではないが珍しいものを見るようなクラスメイトの目を無視して、千切りにしたにんじんを口に運ぶ。朝よりも塩気が強く感じるのは水分が抜けたからだろうか。十三時の授業開始までに食べ終わればいい弁当を玄武は早々に片付けて、弁当箱を包んでしまい、図書室で借りた本を開く。作家は、土曜日に女が教えてくれた純文学系の若手だ。SFともファンタジーともつかない異界を書くのがうまい、と女は評していて、たしかに日常の隅がゆがむような感覚が文章の随所にあらわれている。頭の中で新刊を追うリストに入れる。玄武は存命の作家には網を張っておらず、どちらかといえば古典を濫読するほうだから、こういう情報はありがたい。
結局午後の授業の間はずっとその本を読んでいた。誰もまともに授業をしてくれなかった、と言うほうが正しいか。玄武は小説世界に片足を浸しながら、残りのメモリで朱雀のことを考える。まず学校から家までの間、なにか会話をしなければならない。ことは重大そうなので、スーパーに寄るのは延期だ。アパートの脇でにゃこを放して、朱雀には玄関で腹にコロコロクリーナーをかけさせて、茶の一杯でも出し、それから話を聞けばいいか。
シミュレーションを終えたころにちょうどチャイムが鳴った。玄武は本をしまうと帰り支度を済ませ、ホームルームが終わるのを待つ。積み立て金の書類を提出している何人かを見て、プロデューサーに話をしていなかったことを思い出す。顔を合わせたときでいいか。思ってカバンを膝に乗せ、放課後が待ちきれない子供のように時計を眺める。その実は、時が来なければいいと思っているのに。
やがて担任が話を切り上げ、クラスはまた一気にうるさくなる。玄武は立ち上がり挨拶を背に受けて朱雀の教室に向かう。二つ隣のその部屋ではまだホームルームが続いているので、玄武はラインを起動してプロデューサーに修学旅行についての連絡を入れる。おおよその日付と旅程、この間は朱雀も自分もおそらく仕事は入れられないだろう、という旨を打ち込んだところで、隣から「おう」と声がした。
「待たせたな」
視線を投げると朱雀はやたら偉そうに腰に手をやって、仁王立ちしている。明らかに通行の邪魔なので玄武が身を引くとそのままのしのしと寄ってくる。
「誰だよ」
「は?」
「それ」
「ああ、番長さんだが。お前ももらっただろう、修学旅行の話だ。もう言ったか?」
そう聞くと朱雀は一瞬変な顔を――なんともいえない、口元のゆがんだような、眉間に皺の寄ったようなして言った。
「連絡してねえ。わりいけど頼んでいいか」
「ああ、今送っちまうからちょっと待ってろ」
玄武は口早にそう言って、文面に集中する。二年後の五月、京都、奈良、大阪、三泊四日、間違いがないことを確認して送信したあと、念のためと思って山村が管理している事務所のメールアドレスにも同じものを送っておく。その間朱雀はにゃこに手もやらず、じっとこちらを見つめていた。正直なところ据わりがわるいのだが、見るなと言うのも変なので放っておく。
「よし、じゃあ帰るか」
ことさら自然を装って玄武が言うと朱雀はうなずき、黙って歩き出す。玄武は追いこさないように気をつけながら、なるべく視界に入らないように後を追う。正直何を話していいかわからない。朱雀が何を言い出すのか見当もつかない――あるいはつけたくない今、どの話題を選んでも地雷を踏むような心持ちがする。
駅まではあっというまにたどりついてしまい、朱雀がICカードにチャージするのを待つ間に、玄武は山村からの返信を読む。
〈修学旅行、とっても懐かしいです! プロデューサーさんなら仕事の都合はつけてくれると思いますから楽しんできてください!〉
賢アニさん、修学旅行は再来年だぜ。返信はせずに、戻ってきた朱雀と改札を通り、階段を降りて向かいのホームに行く。朱雀はいつもと反対向きの電車になる、それでも玄武の家に行くのは慣れているはずなのに、何号車だ?と聞いてきた。そういえばあの番組が始まってから、外でばかり会っていた、と思いあたる。玄武はおとなしく先頭車両の列に朱雀を案内し、やがてラッシュ前の空いた電車がホームに滑り込んでくる。
吊革につかまりながらふたりが話したのは主にテストのことで、朱雀の内偵のかぎりでは、いまのところひどい赤点の科目はないという。じゃあ期末も同じだけがんばれ、と声をかけると、朱雀は眉をさげて、中間と期末のあいだの期間が短すぎる、というようなことを言った。とがらせた口に目がいって、玄武は慌てて視線を逸らす。まだ執着している、と思い知る。
「ベンキョーできねえ学校なのにベンキョーさせるってどうかしてるぜ」
「あのな、最低限ってもんがあるんだよ。だいたいお前、大学はどうするんだ」
「行かねえと思うぜ。いまは仕事もあるしよ」
「……それにしたって、卒業はしねえとまずいぞ」
言うと朱雀はまず進級への不安を口にする。それはひとつひとつテストをつぶすしかない、と答えると心底嫌そうな顔をした。が、システムがそうなっているのだから仕方がない。
「オレ、絶対えんどうまめの色とか関係ねえ人生だと思うんだよ」
「クイズ大会にまた呼ばれたらどうするんだ」
「あ? そりゃあよぉ、玄武がぜんぶ答えりゃいいんだよ。つうかもうオレには声かかんねえと思うぜ」
朱雀はそういうと両手で吊革にぶらさがるようにつかまった。
ふたりは玄武の最寄りまで勉強の話をし続けた。ほかの話題について朱雀が珍しくセンシティブになっていることを察して、玄武の側頭部がずきりと痛む。
駅前の鯛焼き屋で朱雀がクリーム鯛焼きをひとつ買った。それをほおばりながら朱雀はほぼ無言で歩き、玄武も特に何かを口にはしなかった。途中スーパーの前で目配せをされたが首を横に振って断った。朱雀は納得したふうでまた歩き出す。この様子だと晩飯後まで長続きさせるつもりはないらしい。すぱっと斬られて終わりか、と玄武は内心ひとりごちて、カバンの持ち手をぎゅっと握った。
アパートの外階段を上がる前ににゃこを放す。玄武は郵便受けをチェックして要らないチラシをゴミ箱に捨て、ふたりは外階段を上がって玄武の部屋の扉を開ける。昨日までの手持無沙汰のおかげで部屋は問題なく整っている。朱雀にベッド脇に座るように勧め、玄武は水出し麦茶を二杯注ぎ、来客用の折り畳みのローテーブルを出してそこに置いた。朱雀は一口麦茶を飲んで、そのまま押し黙ってしまう。
口元をもごもごさせているから何か言いたいのだろうが、糸口がないといったところだろうか。といったって玄武だってどこから話を始めたらいいのか見当もつかない。自分から話があると言ったのだから切り出してくれと思いながら麦茶を飲み、しばらくまってもう一口飲み、まだ朱雀が黙って組んだ足を貧乏ゆすりしているのを見て、諦めて口を開く。
「――日曜は」
「その話はもういい」
即座にさえぎられて、玄武は眉間にしわを寄せる。玄武から話すことなど、それ以外にありはしない。
「謝ってねえ、と思ったんだ」
「もういい。二度とすんな、それで終わりだ」
「わかった」
玄武の返事のあとはまた部屋が静まる。冷蔵庫のモーターのぶうんという音がやけに大きく響く。今度こそ持ち札をなくした玄武は、あとは根競べをするしかない。
朱雀の膝はせわしなく上下に揺れて、振動で麦茶の水面がゆらゆらと動く。眉間に刻まれたしわはますます深くなり、すがめられた目の先は何を見ているのかわからない。
早くしてくれ。
そう願いながら玄武が麦茶のグラスに手を伸ばすのと、朱雀が口を開くのが同時だった。
「あのよお」
かちん、と爪がグラスにぶつかって音を立てる。しまった、と思ったが、朱雀はそのまま言葉を続けた。
「もういろいろ……あの人のこととか、調べるのは、よしてくんねえか。玄武にそういうことしてほしくねえんだ」
朱雀は慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと話す。
「だからラインももうすんな。プロデューサーさんにも嘘ついてることになるし、……オレが嫌なんだ、そういうの。頼む」
そう言って朱雀は頭を下げた。玄武は戸惑いながら手を膝の上に戻して、問う。
「いいのか、あの人のこと」
「……そういうんじゃねえってわかった」
朱雀は頭をあげ、困ったように顔をしかめてそう言った。歯切れの悪い言い回しは、語彙の問題ではなく心持ちの問題だ、と玄武は察する。
「なんつうか、勘違いだ。オレは……とにかく、そういうんじゃねえ。だからもうやめてくれ」
「……俺のしたことのせいか」
「違う。お前は悪くねえ」
「好きだって言っただろう」
「だから、気のせいだ、勘違いだっつってんだ」
朱雀は苛立ったように吐き捨てて、ばんと床を叩き、だからもう女とは連絡を取るな、と絞り出すように言った。
「……そういうわけにはいかねえ、協力してもらったんだ、筋を通さねえと話がおかしいだろう」
「それはオレが言う」
「言えるのか、お前が」
「……どうにかする」
「どうにかって、どうするんだ」
「知らねえよ、話すっきゃねえだろ、オレの気のせいだったって、そう言えば終わるだろ!」
「終わらねえよ」
「なんでだよ!」
激昂した朱雀がまた床を叩くのを玄武は睨みつける。終わるわけがなかった。自分の心は無茶苦茶だ、だいたい彼女に対してあんなに真っ赤になって応対していた朱雀が、人を好きになったと打ち明けてきた朱雀が、全部気のせいだ? そんなこと許されるわけがない。
「お前、逃げてるだけだろう」
「違え」
「怖気づいて、ビビって、それでなかったことにしてえだけだろうが」
「違えって!」
「何が違うんだ、服まで買ってめかしこんで楽しみにしてたデートが失敗して俺に当たってるだけじゃねえのか? それで出てくるセリフが〝気のせい〟か、ダセえにもほどがあるだろ、あ? 朱雀」
煽る言葉ばかりが口をついて出る。八つ当たりだ。わかっているが止まらない。朱雀の傷つけ方なら世界で一番よく知っている。
「女相手にビビって逃げて、てめえからも逃げて、それでおしまいってか? そこまでてめえが情けなくなるぐらい嫌な思いでもしたか? おい、吐けよ、何があったんだ」
「……それはオレのセリフだ!」
いきなりぐいと襟首をつかまれて引き寄せられた。朱雀の顔がすぐ間近にある。目をぎらぎら光らせて、朱雀が、本気でキレている。
「てめえ何してたんだ」
かすれた声が部屋にこぼれおちる。
「電話にも出ねえで、オレら置いて、あの人とふたりで、何してたんだ!」
ぎり、と握りしめられたロンTの生地が軋む音がした。玄武は混乱する頭をどうにか立て直そうとする。朱雀は日曜の玄武の態度に怒っている、惚れたのは気のせいだとと言っている、そして、玄武が〝隠し事〟をしていることにキレている。――言えるものか、そんなことが!
「……俺が責められるのは筋違いだろうが」
「関係ねえ! 黙ってんじゃねえよ、ふざけんなおまえ、オレが、……オレが……」
げんぶ、と朱雀がか細く言い、継ぐ言葉をなくしたようにそのまま黙りこむ。こめかみのあたりからたらりと汗が垂れて顎まで落ちるのを玄武は見る。こんな場面でもそれは美しかった。十六歳の少年から脱皮しようとしている紅井朱雀がまとうものは、なんでも美しかった。玄武にとって。そう見ることだけは、自分に与えてもらえないだろうか。
「……〝隠し事〟は、ねえよ」
玄武は抑えた声音でゆっくり言う。
「別に言う必要もねえってだけだ、ふたりでメシ食って、ダラダラ話してた」
「何話してたんだよ」
「……本の話だ、お前に話したってわかりゃしないだろう」
「っざっけんなよ、全部話せ!」
「てめえ、何勘繰ってんだ。別にお前たちの話をしてたわけじゃねえ、俺たちはただずっと本の話をしてただけだ」
「へえ、それでオレの電話に気づかなかったってか?」
「……それは、俺が勝手にやったことだ。彼女は悪くねえ」
「かばってんじゃねえよ、おまえらふたりでコソコソやってたことじゃねえか」
「その言い方はねえだろう、だいたいお前が――」
またぐいと襟首を引かれる。いまや朱雀の顔は目の前に、吐息がかかる近さにある。きれいな目頭の粘膜に視線がいく。威勢よく伸びたまつげ。真っ黒な瞳孔が開いた琥珀色の瞳。
「だからそれはもう終わりだっつってんだ。……終わりなんだよ、だからやめろ」
朱雀は急に意気消沈したように言葉尻をすぼめて、玄武の服から手を放すとどすんと座りなおした。ふてくされたように頬肘をついて脇に視線を投げる。
「……わかった、もう余計なことはしねえ」
「おう」
「お前の気持ちも分かった。お前がそういうんなら、そうなんだろう」
「おう」
「あの人には俺から謝りに行く」
「……それはオレが行く」
「お前が行ってどうするんだ、一から説明するのか? 無理だろう、だから俺が」
「ダメだ」
朱雀はきっとこちらを睨んで、オレが行く、と繰り返した。
「……聞き分けがねえな、さっきも言ったろう、お前が行くのは筋が通らねえ、俺が頼んだことは俺がケリをつける。別に手間のかかることじゃねえ。ちょっと会って話をつけるだけだ」
「それが嫌なんだよオレは!」
朱雀はばんと床を蹴って片膝を立て、座っている玄武を見下ろしてくる。逆光になった髪の輪郭が赤く燃えるようで、玄武は一瞬それに見とれる。
「おまえはもう仕事じゃねえところで会うな、ラインもすんな、全部オレがやる。連絡先よこせ」
言っていることが無茶苦茶だ。普段、朱雀の奔放な思考はそういうふうに自由なのではない。これは自分でもわかってねえな、と思いながら玄武はスマホを守るように手を腰に置く。朱雀が目をすがめてまた視線がきつくなる。
「何の権利があっててめえがそこまで俺の行動を縛れるってんだ」
「権利なんかねえよ、わかってる、だけど嫌なんだよ! おまえが、……おまえが」
朱雀の言葉はまたそこで途絶えてしまう。
俺が、なんだっていうんだ。ただの相棒が、友達が、お前にとってなんだっていうんだ。玄武はぐらぐらと煮立ちはじめる感情を抑えて深呼吸する。いますべきことは朱雀のこんぐらがった感情をほどいて論理の筋道を立ててやることだ。そうでなければ玄武だって腑に落ちない。
「嫌だっつったな。なにが嫌なんだ」
「……わかんねえ」
「諦めんな」
「そんなん知らねえよ、嫌なんだよとにかく! お前が余計な気ぃ回すのも、変なこといろいろ考えてんのも、気に食わねえんだよ!」
朱雀はますますふてくされて首の後ろをかき、襟足をぐしゃぐしゃとかき回すとまた頬杖をついてそっぽを向く。その視線の先には本棚があるばかりで、朱雀はなにも見ていないに違いない。
「朱雀。ちったあ考えろ。お前、さっきから全部気のせいだとか、嫌だとか、感情論ばっかりじゃねえか」
「もともとオレぁそうだろうが」
「にしても程がある。俺相手ならまだしもあの人たちに説明するときにはちゃんと論理的に話せねえとダメだろうが」
言うと朱雀は嫌そうに顔を歪めて、目を閉じた。寄せた眉からなにかを考えてはいるらしいことがうかがえて、玄武は黙って麦茶をもう一口飲んだ。それから抑えたままだったスマホを取り出して女とのラインを確認する。特に連絡は来ておらず、朱雀の態度についていぶかしがられている節はなかった。最後に話を打ち切ってしまったことを詫びるべきなのだろうかとぼんやり思った。
ばし、と手元に衝撃が走って、スマホが手の中から消える。視線をあげると朱雀が鬼気迫る表情でこちらを睨みつけていた。朱雀は壊さんばかりに握りしめたスマホに目をやり、吐き捨てる。
「またあの人かよ」
「おい、返せ」
「嫌だ!」
「ふざけんな、返せよ、俺の携帯だ」
朱雀は無視して画面を上へ上へとスクロールしはじめる。
「おい、やめろ! 人のライン勝手に……」
「随分仲よさそうじゃねえか、よかったなオレのことであの人と盛り上がれてよ!」
「……あのなあ!」
俺がどんな思いで、と言いかけて、朱雀の〝あの人〟がいつの間にかすり替わっていることに気づく。彼女の、はずだった。違うのか? そうじゃなかった、というのは。玄武はもう一つの可能性に思いあたり、頭を抱えたくなっま。いやどちらにしろ玄武になんの利もないのだが、女にどう説明をつければいいのか、それをするのは自分なのか、と思うと苦しみより先に頭が痛くなる。
「……惚れた相手、間違えたとかいうオチじゃねえだろうな」
「あ?」
「だから、……ああもう、俺に説明させるな」
玄武は顔を引きつらせながら、朱雀に問いただす。惚れた相手を間違えたのではないかと。彼女ではなく、女に内心惹かれていて、だから玄武が女と密に連絡を取っているのが嫌なのではないかと。言葉を重ねるごとに朱雀の表情が険しくなるのはわかっていた。心の柔らかい部分を他人がこういう風に暴くべきではないことは玄武だってわきまえている。だが堪えられない。
「だから、怒ってんだろ」
言い終えた瞬間、朱雀が床をばんと叩いた。腕がわなわなと震えているのを見てとって、また下手を踏んだ、とかすかに思う。
「違えよ! てめえふざけんな、なんでそんな頭よくてわかんねえんだよ、おまえ、おまえなあ!」
床についていた右手が伸びて、また襟首を掴まれる。深いVネックのロンTが顎に届くくらいまで引っ張られる。寄せられた朱雀の顔は怒りとそれからわずかな悲しみを浮かべていて、それはつまり失望だ。玄武がそう考えているあいだに朱雀は一度視線を切り、また睨みつけてきて、叫んだ。
「おまえだよ!」
朱雀の荒い息が鼻先をくすぐる。
「オレが、好きなのは、おまえだ」
深い呼吸で区切られた三言の意味が、わからなかった。玄武の脳から一瞬すべての血が引いて、それからかっと熱くなる。おまえだ? なにを言っているんだ、こいつは。
「……言うに事欠いて、それか?」
「なにがだよ」
「てめえの適当な言い訳に俺を巻き込むなっつってんだ。ビビってんならそう言えよ、お前、」
「言い訳じゃねえ!」
「冗談だろ」
「違う!」
「ならなんだってんだ、なんでお前が、俺に、そんなわけねえだろ、そんなわけ」
絶対にねえ、と絞り出した声はかすれて消え、玄武は俯いた。
「お前が、俺に惚れるわけが、ねえ、絶対」
それは玄武がずっと言い聞かせてきたことだった。それだけは絶対にない、どんな可能性がこの世に存在しようとありえない、そう繰り返すことで玄武は感情を縛りつけてきた。そうしなければ平気な顔で隣になんかいられなかった。相棒だけのふりなんてできなかった。巧妙に緻密に積み上げたそれを、朱雀は、勝手に、崩そうとする。
「……なんで、おまえがそんな顔してんだよ。泣きてえのはオレだろうが」
朱雀の拳の力がふっと緩む。ぐしゃぐしゃになった玄武のロンTの襟を放し、胸元を整えてくれる。手のひらが、熱い。
「……嘘もついてねえし言い訳でもねえんだ。玄武。……日曜よお、途中までは楽しかったんだよ。おまえと、あの人たちと、遊んでいろいろ買ったりして、でもおまえ途中でいなくなったじゃねえか」
一瞬辛そうに眉根を寄せて、続ける。
「マジで、どうしたらいいのかわかんなくなってよ。おまえは電話出ねえし、なにしてっかわかんねえし、探してもどこにもいねえ。そんで……ふたりでおまえら探してて、途中から変なことばっかり考えちまって」
朱雀はごくりと唾を飲み込み、ぼそぼそと、女と玄武がなにか――そういうことをしに消えたのではないかという想像が頭を離れなかった、と言った。
「そんとき、すげーしんどくて……ムネのあたりが痛くてよお、絶対嫌だって思ったんだ。おまえが、ほかの人と……付き合ったりとか、そういうことすんの、嫌だってわかった。だから高橋さんには謝って帰ってもらって、家帰って、そんでもおまえから連絡ねえんだよ。頭おかしくなりそうだった。おまえがあの人とふたりでどっかにいて、オレのこと置いてって、……なあ玄武、オレずっと、オレが玄武の一番だって思ってたんだよ。でもそうじゃねえかもって思ったら、怖くて、……ビビって、だからおまえからラインきたときも返事どうしたらいいのかわかんねえから、無視して悪かった」
そう言うと朱雀はぺこりと頭を下げて、そのまままた話しはじめる。
「……そんで眠れなくて寝坊して、慌てて仕事行ったらおまえは普通の顔してて、土曜なにしてたとか全然言わねえから、腹立って……しかもなんか、仕事終わったあと、あの人になんか渡してただろ? それ見てもうわけわかんなくなった。もやもやするし、おまえにもあの人にもめちゃめちゃイライラするし、オレのことなんかどうでもいいのかって思っちまって」
朱雀の声は悲鳴のように上擦りはじめる。
「なあ、玄武、おまえ、あの人のこと好きなのか? 教えてくれよ。……オレは、諦めらんねえし、おまえみてえに応援したりとかできねえけど……おまえの一番じゃねえのもほんとは嫌だ。すげー嫌だ。でも隠し事はもっと嫌だ」
朱雀はそう言い切って、玄武を正面から見据えた。
「教えてくれ、玄武」
玄武はまだ混乱していた。朱雀の言葉の奔流は玄武の思考回路を浸してショートさせ、満足に働かなくさせた。とぎれとぎれに拾えた言葉から、朱雀が、自分を好きだと言っていると、あの態度は嫉妬だったのだと、……そんなはずがあってはいけない、いけないのに、朱雀はそう言っている。からからに渇いた喉を潤したかった。だが朱雀の視線のなかでは身じろぎすることもできない。玄武はもつれかける舌で口蓋をひと舐めして唾液を搾り出す。
「……俺は」
「おう」
「あの人が、好きなわけじゃねえ」
「……嘘じゃねえだろうな」
「嘘じゃねえ。なんならそのライン全部見てくれて構わねえ、おまえの話しかしてねえ。土曜はメシ食ってただけだ。ものを渡したのは……あれは本だ、一日付き合わせた礼をしようと思って、それだけだ、他意はねえ」
言いながら、そうではない、と思う。核心を避けていると思う。朱雀が打ち明けてくれたことに応えなくてはならないと思う。
「……わかった。おまえの言うことだから信じる」
朱雀はそう言って、なお表情は晴れない。それは当然で、玄武はそれを明るくする方法を知っている。玄武自身が望むことでもある。
なのに自縄自縛の心は自由にならない。
「……朱雀」
「ん?」
「俺、は」
言葉が途切れて出てこない。感情を自覚してから、あの告白を聞いてから、玄武は幾億のシミュレーションをした。朱雀がどう出てきても平然としていられるように考えを尽くした。唯一この場合を除いて。用意した言葉はなにもない。
「俺は」
その先が出てこない。朱雀は言ってくれたのに。怖気づいているのは自分のほうじゃないか。玄武はぎゅっと拳を握る。今まで自分にあったのがただの蛮勇で、ほんとうの勇気というものは欠片も備わっていないのではないかと思ってしまう。目の前にいる一番大切な人を喜ばせられないで、安心させられないで、どうするのだ。
「……あのよお、言いにくいことだったら言わなくていいぜ。オレ、すげえダサいけど、おまえがあの人のこと……そうじゃねえってわかっただけですげーほっとしたし、仕事も多分ふつうにできるしよ。……あと、オレがおまえのこと好きなの、嫌がらねえでくれてんのも、嬉しいから」
はっとあげた視線が朱雀とかち合う。
「……あのよ、オレ、たぶんこれからもずっと、おまえのこと好きだし、一番になりてえって思ってると思うんだ。悪いけど、それは、わかっててほしい。そんでオレがやりすぎたら怒ってくれ。頼むぜ」
朱雀は淡々とそう言うと、ぎこちなく笑顔を浮かべた。浮かべてみせた。ダメだ、今言わなくてはダメだ。
「朱雀」
「ん?」
返される声があたたかくて、玄武の目頭がつんと痛む。これを望んでいた、乞うていた、目の前にある、捕まえなくてはならない。
「俺は、俺はお前が好きだ」
かすれた声が部屋に響いて、静寂があった。玄武はそれを埋めるように言葉をつなぐ。
「ずっと、ずっと前から、お前が好きだ。綺麗なもんじゃねえ、薄汚ねえとこばっかりだ、だけど好きなんだ。……お前があの人に惚れたって言い出したとき、比喩じゃなく殴られたみてえになった。でもお前が幸せになればいいって思って、俺は」
息継ぎをする音がやたらと大きく響く。朱雀は目を見開いてこちらを見ていて——その感情を量るだけの余裕が玄武にはもうない。
「……好きなんだ朱雀。すまねえ、俺はずっとお前に隠してた。好きだ、好きだ、朱雀、好きだ」
堰を切ったように溢れてくるのは簡単な単語だけだ。呪うように同じ言葉を繰り返す。一度たりとも口にしなかった思い。あの夜に気づいたときから、絶対に隠し通そうと決めたものが唇からこぼれていく。
「朱雀、許してくれ、好きだ」
琥珀色の瞳がひときわ見開かれ、朱雀の口からゆるすもなにも、と音が聞こえてくる。
「玄武、それ、その、オレが好きなのと、おんなじやつか?」
「……たぶん」
「たぶんってなんだよ」
「わからねえ、俺のはお前ほど綺麗なもんじゃねえんだ、好きだ、……触りてえし、触られてえし、お前の全部が欲しい。あさましいんだ、俺は」
「……なあそれ、オレ、お前に触っていいのか?」
朱雀が恐る恐るといった様子で聞いてくるので頷く。言葉が出てこない。
「玄武」
そっと伸びてきた手に肩を掴まれる。朱雀の手は熱を帯びてわずかに湿り、玄武の固まった関節にじわじわと浸みいってくる。布越しに朱雀のわずかな脈を感じて、玄武は泣き出したくなる。
「……悪ぃ、もうすこしだけ」
朱雀はそう言って玄武の手首を握り、引き寄せた。薄着の胸同士が触れ合う。朱雀の腕が背に回り、柔らかく抱きしめられる。
「……嫌じゃねえか」
玄武はかぶりを振り、そのまま朱雀の首筋に鼻先を埋める。ふわりと香るのは朱雀の匂いそのもので、すれ違うたびにかすかに感じていたものだった。そうだ、これも欲しかったのだ。玄武はそう思いながらのろのろと両手を上げ、朱雀の肩に回す。小さな身体にがっしりとついた筋肉が手のひらから肘にかけての柔らかい部分で感じ取れる。朱雀が腕の中にいて、自分は朱雀の腕の中にいる。胸の内に湧き上がる穏やかな幸福感は、脳内物質の分泌のせいだ。感覚器官は朱雀の情報を漏らすまいと限界まで駆動している。息をするたびに膨らむ胸、どくどくと脈打つ心臓、身じろぐたび肌をくすぐる髪、紅井朱雀を構成するすべての要素。
「玄武」
とろけたような声で朱雀が名を呼ぶ。玄武はそれに鼻を鳴らすような声で応える。
「いいんだよな、オレ、こうしてていいんだよな。お前は嫌じゃねえし、……オレのこと、好きでいてくれてんだよな」
「……そうだ、朱雀」
玄武は薄い胸に吸気を満たしてからささやく。
「俺はお前が好きだ。ずっと前から。誓って嘘偽りはねえ」
「……そっか、そうか、……嬉しいぜえ玄武」
朱雀はそう言って喉の奥で笑う。
「オレ、いま世界で一番嬉しい」
「馬鹿言え」
「あ?」
「一番嬉しいのは俺だ」
言うと、抱かれた腕に力がこもり、そうだな、と柔らかい声がする。夢想していた架空の誰かに、あるいは彼女にかけられるはずだった声が、ただひとり自分に向かってだけ発せられている。
「朱雀」
もっと触れたい、と思った。だから腕をほどいてそっと身体を離すと、朱雀は不安げな顔になる。そうじゃねえと目で教えて、朱雀の頬に手を添える。
「生まれて初めてだから、うまくいかなかったらすまねえ」
「は……」
ぽかんと開けられた口にそっと唇を寄せる。触れた唇は弾力があり、ぬるく体温に染まっている。味はよくわからない。二、三度角度を変えて触れあわせてから、思い切って舌をさしいれる。びくりと跳ねる朱雀の肩を空いた手でおさえて口の中で固まっている舌に触れる。ぬる、と唾液でぬめる感覚。硬直しきった朱雀は応えてくれないので、ぐるりと舐めてそっと舌を抜き、唇を離した。唾液がたらりと朱雀の唇の端に垂れる。それを親指でぬぐって頬の手も離した。
「おっ、おま」
「そんなに驚くな」
「だってよお! ……え、ちょっと、おい、不意打ちは卑怯だろ。す、すんなら言えよな!?」
「……俺は別に正攻法だけ取るタイプじゃねえ」
「そういう問題でもねえだろ! あーもう、なんだよ、よくわかんねえまんま終わっちまったじゃねえか! オレだって、その、いろいろ考えて……はねえけど、ちゅ、チューするときはこうしてえとかあんだぞ!」
「なら次はお前から来い」
「は」
「好きにしてみろって言ってんだ」
朱雀は口元を引きつらせて、いいのかよ、と呟く。
「いいも悪いもねえよ、……好きにされてえ、って言ったらいいのか? 朱雀。さっき言ってただろ。触りてえなら、触ってくれ。もっと、俺もお前に近づきてえから」
言っている間に朱雀の手がそっと玄武の頬に触れ、首筋をたどり、鎖骨のあたりに指がとどまる。骨に引っ掛けるように指を休めた朱雀ははあ、と浅く息を吐く。
「……昨日まで、さっきまで、絶対こうなんてできねえと思ってた」
「俺だってそう思ってたさ。……夢みてえだ。月並みだが、そう言うしかねえ」
朱雀の手が持ち上がり、玄武の頬を包む。
「じゃ、あ、するからな」
「予告はいらねえよ」
「オレは! 正々堂々やりてえんだ!」
そう眉を逆立てた朱雀は、またすぐにおぼつかない顔つきに戻って、ふっと目を伏せると顔を近づけてくる。玄武は瞼を閉じて待つ。やがて湿った呼気が先ぶれを告げ、柔らかい肉で唇が覆われる。それはぶつかるように密着してきて、離れ、また近づき、玄武の上唇を食むように動いてからぴくりと震え、失態を取りつくろうようにまた力がこもり、その全部が愛おしくて仕方ない。
「……おわり!」
「あのなあ」
「す、好きにしただけだよ! オレ、……わかんねえんだよ、加減がよお。そりゃおまえが丈夫なのはわかってっけど、そういうのとまた違うだろ。あと……どこまでしていいのか、わかんねえ」
朱雀はそう言って頭をかき、居心地悪そうに靴下の中の指を動かした。
「どこまでって、俺はどこまででも構わねえが」
「おま、そういうこと平気なツラで言うんじゃねえよ! 本気にするぞ! オレ、かけひきとか全然なの知ってるだろうが!」
「知ってるから言ってる。言わなかったか、俺は、お前にもっと触りたいんだ」
朱雀の視線がブレ、ごくりと生唾を飲み込む音が聞こえる。
「……いいのか」
玄武は頷いた。朱雀の覚悟がどこまであるかはわからなかったが、地獄の果てまでついていくつもりがある。
勝手のわからないふたりはやいのやいの言い合いながら服を脱ぎ、下着姿になった。ロッカールームでも楽屋でも見慣れた、そしてひそかに目に焼き付けていた朱雀の体は、綺麗だった。発達途上の骨格にしなやかについた筋肉と関節のあたりにわずかに残る少年の弱さに似た輪郭。それを目の当たりにして、恥じることなく正面から見て、玄武はまだ知らない酔いめいた感覚をおぼえる。
朱雀は朱雀で玄武の上半身に目をやってから露骨にそらし、なんか、普段とちげえ、とぼそぼそ言って、ベッドの脇の床に座りこんでしまう。
「おい、こっちだ」
「バッ、バカ、照れるだろうが!」
玄武がベッドを顎で示すと朱雀は頬を真っ赤に染め、ふうと息を吐いてから立ち上がる。
「……玄武よお、オレ」
「初めてなのは知ってる。俺もだ」
「そ、そうか……間違えたら教えてくれよ」
「正解なんか知らねえよ」
朱雀がベッドに腰かけた、すぐ隣に玄武も座る。肩が触れる。かっと顔が熱くなるのがわかる。隣を見ると朱雀もさっきよりなお顔中を赤くして、横目でこちらを見ている。玄武は黙って体をひねり、朱雀に正対した。朱雀の硬く握られた手をとり、自分の胸へ導く。
「触ってくれ、朱雀」
朱雀の瞳孔が開き、ぎらりと光る。
「……あとで文句言っても、知らねえからな」
言って朱雀は拳をひらき、玄武の素肌に触れる。その手は最初はおずおずと玄武の胸から肩を撫で、玄武は産毛がかしぐほどのかすかな刺激に震える。朱雀が上目で睨むようにこちらを見てきて、頭が胸元に近づき、鎖骨のあたりに鈍い痛みが走った。
「噛む、なら、痕は残すな」
「……おう」
吐息が生肌をくすぐる。朱雀の健康な歯が今度はゆっくり、食い入ってくる。玄武は目眩のような快感をたしかに感じて、上を向いて目を閉じる。硬いものがゆっくり横に動き、また噛まれる。そうやって朱雀は鎖骨を肩まで征服して、喉元に頭を戻すと、今度は首筋に唇を押し当てた。ぬるつく肉が玄武の肌を濡らして、舐められている、とわかる。
朱雀の舌は幼く動く。まだ与えることを知らないように、己のもつ可能性を理解しないように。玄武はそれに焦れながら、かといって朱雀を導くすべは自分にもわからない。ただ速まっていく鼓動と押し寄せる期待に興奮している。
「げんぶ」
朱雀の甘えたような声が鼓膜を打ち、玄武は低く、おうと答えた。それから音の選択を誤った気がして、薄く息を吐いた。
「玄武……好きだ」
朱雀は熱に浮かされたように言い、胸元にあった手をそっと滑らせる。腹から腰へ、手が這うのにあわせて玄武の背中は総毛立ち、その次を期待する。
「……触るからな」
そう断って朱雀は下着ごしに玄武のものに触れる。萌しかけていた部分にわっと血が集まる。朱雀はその変化を掌で感じとったのか、くっと笑いをこらえたような音を立て、違う、と弁明して玄武の手を自分の股の間に引き寄せる。そこは玄武と同じく硬くたぎっていて、朱雀は苦笑のような照れ笑いのような表情でオレもだから、と言う。
「玄武も、触ってくれ」
「ああ……」
といっても玄武には正しいそれの扱いがわからない。自分で抜くときのように乱暴にしごくことが誤りなのはわかっても、朱雀に触れるのには、懼れに似た感情がある。いっぽうで自分は心底それを望んでいて、いままさに叶うのだと、こみあげてくる熱もある。
布越しにゆるく上下にさすると、朱雀がうめいて、やべえ、マジで、とこぼす。朱雀に触れられている玄武だってそれは変わらない。
「朱雀、痛くねえか」
「痛くはねえよ、……すぐ出そうでやべえだけだ」
朱雀は口をとがらせて言う。
「おまえが触ってるってだけでやべえ」
「俺だってそうだ」
「だよな、好きなやつに……されんの、すげえよな」
それはまるで友達とする猥談のような口調で、玄武はつい笑ってしまう。聞きとがめた朱雀が不服そうな顔をするのをなだめて、玄武はトランクスに指をかける。引っ張った隙間に指を潜り込ませて、触れた朱雀の熱は想像よりずっとずっと熱くいきづいている。
「あー……、あの、ゆっくり、な」
「おう」
答えて玄武は見えないそれをゆっくり撫でさする。指先に感じる凹凸は血管のそれだろう。充血しているだろうものを思い浮かべながらうまく動かない指でいとおしむ。
隙を見て朱雀も玄武のボクサーの中に手を突っ込んでくる。朱雀の指が触れた瞬間、いままで感じたことのない電流のような痺れが走る。
「……これは、やべえな」
「だろ」
朱雀はそう笑うと視線を下にやって、脱がねえ? と問いかけてきた。玄武は黙ってうなずいて、朱雀のトランクスのゴムに手をかける。腰を浮かせてくれたのを見計らって膝まで脱がす。そのあとは朱雀が自分で脱ぎ、玄武のボクサーを同じ手順で脱がす。見慣れているはずの身体の真ん中には興奮を示すものが屹立していて、それはお互い同じだ。
「裸って、なんか、へんだな」
「……ならなきゃできねえだろうが」
「そうなんだけどよ。つうかオレら、風呂とかも入ってんのに、なんか……今、すげえドキドキしてる」
「……俺はずっとそうだった」
玄武は口走って、朱雀の下半身に手を伸ばす。間近に見るそれは想像とは違っていて、だがどこが違うのか、玄武にはもう判別がつかない。
「朱雀」
覆いかぶさるように口づけを求めると朱雀は笑って応えてくれる。ふたりは唇を合わせたままそれぞれに手を動かした。掌のなかでそれはびくびくと脈打ってこぼれる吐息や喘ぎは唇や歯を伝わって脳に届き、したたり落ちる熱とあいまって理性を追い詰めていく。朱雀の指はおそらくいつもそうしているように実直に上下に竿をしごいて、たまに間違えたように指が先端に引っ掛かる。そのたび玄武は上擦りかける声を封じ込めて、鼻から細切れに息を吐いた。
「ん……げんぶ、オレ、やべ」
「俺もだ、……なあ、一度出さねえ、か」
「……おう、一度、な、いちど……わかった」
朱雀は荒い息の中で含みを咀嚼してから答える。玄武はわずかに手に力を込めて、搾りだすようにそれをしごいた。朱雀も倣ったのか指がより絡みついて、玄武を追い込んでいく。
そして頂点は訪れて、玄武は朱雀の手の中に精液を吐き出した。脳天が痺れるのを感じながら震える腰をどうにか抑えて、出し切るだけ出し切ってしまう。瞑っていた目をあけた先には自分の精液で濡れた朱雀の手があり、動揺は想像以上で、玄武はティッシュを取ろうと朱雀から手を離そうとして止められる。
「おい、オレ、も、いきてえんだけど……」
「ああ、悪い、その、……ビジュアルが、強烈で」
「そうか?」
「悪い、集中する」
言って玄武は朱雀の脈打つものに改めて指をかける。竿を親指の腹で撫で上げ、鈴口のあたりをくすぐり、張り詰めた部分をしごく。朱雀は不明瞭にくぐもった声をあげて、やばい、と漏らし、汚れていないほうの手を玄武の肩に回すと頭を押し付けてきた。
「げんぶ、やべえ、なあ、」
「いいから、出しちまえ」
「ん……もったいねえんだよ、おまえが、してくれてんのに、よ」
朱雀が意地を張って言うのがじわりと胸に沁みる。玄武はあのときでさえ緩まなかった涙腺がちくちく痛むのを感じながら、目をすがめてそれを堪えて言う。
「馬鹿野郎、何度だってするだろ、出せって」
「うー、わかった、よ、ん……玄武」
ぎゅ、と額が擦りつけられて、朱雀が息をのむのがわかり、玄武は迸りを掌に受ける。幾度かに分けて吐き出されたそれは自分のものとさして変わらないはずなのに、愛しくて愛しくて仕方がない。吐精を終えた朱雀ははあと大きくため息をついて、確かに……、とぼそりと言う。
「なんか、悪いことしてるみてえだ」
「だろう」
「……玄武。ティッシュどこだ」
「そこの脇にある」
ふたりで、それぞれの手についた粘液を丁寧にぬぐった。まだ勃起したままの股間をそのままにしてそんなことをしているのは奇妙だったが、玄武は朱雀の手が清められることに少しほっとしていた。
そして間があり、先に口を開いたのは玄武だった。
「この先、してえか」
声は自分で思ったよりも乾いて低い。
「先、って」
「いれてえか?」
戸惑う朱雀に間髪を入れずに答える。
「……それ、オレが、おまえに、ってことか」
「そうだ」
「いいのかよ」
「なにが」
「その、おまえ、いれてえとかねえのか。そりゃオレは、してえ、けどよ、おまえだって、その、ついてるわけだし、いれてえんじゃねえのか」
「……言葉にした方がいいのか?」
「や、いい、言うな! おまえが言うとロコツなんだよ……マジか? マジで、オレ、いれて……いいのかよ」
「そうしたいんだ。俺が」
それは、最初に見た夢のリフレインだった。朱雀への片恋を思い知ったあの夜に、玄武は朱雀に抱かれる夢を見た。その日、まだそれは悪夢で、玄武を苛んで苦しめ、絶望させた。そのあとも夢はたびたび玄武を訪れた。ただ、望んでいることを思い知らされた。それが叶う。朱雀も望んでいる。だったら。
「手順はわかるか」
「……なんとなく、わかる」
「ゴムがあるから、それについてるローションで慣らしてくれ」
「お、おう」
玄武はいったんベッドから降りて、引き出しの箱の中からつながったままのゴムを掴み、朱雀の元に戻る。パッケージを破くととろみのついた液体がゆっくりとたれてシーツに染みを作る。
「指にはめて、」
「あー、その先はわかるから、説明しなくていいぜ……」
「そうか」
玄武はシーツに寝転がり、朱雀はその股の間に陣取った。立てた膝を割り、奥へと指が伸びる。
「冷たくねえか?」
「大丈夫だ……、ゆっくり、頼む」
おう、と小さな声が聞こえて、ぬめりを帯びた指が、そっと押し入ってくる。最初に感じたのは指という物体の大きさで、玄武の未開拓のそこは反射でかたく閉じてしまう。息を吐いて身体をなだめて、止まってしまった朱雀に先を促す。朱雀は本当にいいのか念押しをして、おそるおそる指を深みに入れる。指一本が収まるまでは恐ろしく長い時間がかかった気がした。
「朱雀、動かして、いい」
「大丈夫か? 痛かったらやめるから絶対言えよ」
「平気だ……ん、う」
朱雀の指がじわじわと抜かれ、また入ってくる。その繰り返しを途方もなく続けて、出入りが滑らかになったあたりで玄武は次の指を入れるように指示した。
「はいる……はいるか? わかんねえけどやってみっから、マジで痛かったら言えよ」
朱雀は一度指を引き抜くと、ゴムの中の指を増やしてから、乾いてら、と新しいゴムを開けた。そういう行為も生まれて初めてなのだろう、と玄武は頭の隅で思う。そういう玄武だって今日は生まれて初めてのことばかりだ。
「じゃあ、入れっから」
そうして同じことが反復される。玄武の身体は朱雀に拓かれていき、朱雀は慎重に慎重に指を往復させ、抵抗をひとつずつ取り除いていった。二本の絡み合った指が玄武のなかを自由に行き来できるようになったころ、朱雀がこれか、とつぶやいて、腹の裏の一点に力をこめた。初めはかすかな刺激だった。朱雀がなにをしているのかわからず、やがて理解する。
「お前、そこ」
「なんか気持ちいいとこなんだろ、わかんねえけど、たぶんこのあたりだって、……調べた」
どうやって、なぜ、と聞こうとしたとき、今度は明白に快感が走った。
「……っあ」
朱雀が当たりだ、と顔に出して、そのあたりに集中する。
「待、て、朱雀、すざ、く……う、ぁ」
「嫌だ。……気持ちよくなってくれよ、玄武」
「――っ、馬鹿、野郎」
脊髄を何度も快楽が走る。脳が覚えてしまう、と思う。朱雀に与えられるものを快感だと認識してしまう。喜びと、幸福のほかにもうひとつ。それは悪いことかもしれない。まだしてはいけないことなのかもしれない。だけど。
「なあ玄武、気持ちいい、だろ」
瞳をぎらつかせてそう問うてくる男に浮かんだ喜色がうれしいから、そんなことは、どうでもいいのだ。
いたぶられるように快楽にさらされて、玄武のものはしっかり熱を持ち上向いている。反射的に指を締め付ける内側も柔らかくほぐれている。玄武はねだり、朱雀はそれに応じてもう一本指を増やした。朱雀の不器用な指先が玄武の弱みになった部分を狙いすましたように刺激し、玄武はそのたびにもう我慢できなくなった喘ぎを漏らす。
「あ、……っ、すざく、」
「ん。すげーやわこくなってきた、からよ、もう少しだけ……」
朱雀が注視する一点がどうかたちを変えているのか、玄武にはわからない。ただ自分の身体のなかに朱雀の一部があって、それはさらなるものを呼び込むためにうごめいている。それが玄武にはうれしく、快楽とは違う波紋が心の中に広がる。同じものを求めている。朱雀と、自分で。
日はとっくに落ちて、灯りをつけないままの部屋は、暗い。朱雀はシルエットになって、わずかにカーテンを閉じない掃き出し窓から入り込む光によって照らされるだけだ。その輪郭の比類ない美しさに玄武は息をのみ、反射的に目を瞑った。とたんに腹の中の指の感覚が鋭敏になって、玄武は高く呻く。
「ふ……う、あ、朱雀、もう」
「……おう」
朱雀が答えて、指が抜かれる、その感覚にも声はあがる。自分で制御できない声帯の震えを玄武は懼れながら、やがてもっと自分が自分でなくなる予感がある。
目の前で朱雀がふたつ連なったパッケージの片方を乱暴にちぎり、中からゴムを取り出す。それはようやく本来の使用箇所に装着される、少し手間取って。ふう、と息を吐いた朱雀は、改めて玄武の脚を割るように身体をよせて、いいか、とささやいてくる。
「大丈夫だ。……痛かったら言うんだったな」
「おう。痩せ我慢すんなよ」
「無痛ってことはねえと思うが……、耐えきれなくなったら言う」
「もっと前に言ってくれ」
言いながら、朱雀は育ったそれに右手を添え、左手で肉を押し開くとその場所に先端を宛がった。
質量がある。先端はまるく人を傷つけないかたちにできているが、本来の用途とは違う場所に入れこもうとしているのだから多少の不具合は仕方ない。ローションを擦りつけるようにそれは上下に動かされ、玄武はくすぐったいような刺激に唇から息をこぼした。
「……っ、あそんで、ないで」
「遊んでねえよ。濡らさねえとダメだ」
「一丁前、に」
「おまえだって初めてだろ」
口で言いあいながら、繊細な場所へどう入り込めばいいか、ふたりは間合いを見計らう。朱雀だって怖いだろうとふと思う。ひとの身体の内側に敏感な器官をのみこまれてしまうことは、怖いはずだ。目の前の朱雀は懸命に玄武の身体を尊重してくれているが、それは朱雀の努力の結果だ。
「……朱雀、いれてくれ」
だからエクスキューズはこちらから出す。
「……ほんとに、いいな」
「ああ」
言うと、朱雀はよし、と自分に掛け声をかけて、玄武の腰を浮かせる。尻の下にタオルケットがぐしゃぐしゃのまま押し込まれた。その場所は上向いて、迎え入れる準備を整える。
「玄武」
朱雀がそっと腹に手を置いて名前を呼んでくる。
「うれしい。おまえと、こうなれてうれしい。今ちゃんと言わねえといけねえ気がするから言うけど、オレは幸せだ」
「……俺だって。お前のことが好きだ。朱雀」 玄武は置かれた手の上に自分の手を重ねる。今からこの奥に入り込み暴こうとしている男に、全幅の信頼を置いて言う。
「お前だから、こうしてえし、この先もしてえ。世界でお前だけだ、朱雀。だから……抱いてくれ、このまま」
重ねた手にぐっと力が入って、わかった、と聞き分けのいい声がした。
あてがわれたところにぐっと力が入り、それが入ってくる。いままでと桁違いの衝撃に玄武は息を詰め、朱雀がなだめるように立てた膝がしらを撫でてくれる。
「う、あ……」
「痛くねえか」
「へいき、だ」
言いながら、押し入られた部分がそれなりの無理をして広がっているのはわかる。だがこれは堪えられる。飲み込んでしまえる。息を細く長く吐いて天井を見る。染みでも数えていれば終わる、なんてのはうそだ。そういう質のものではない。朱雀のことを……肌を重ねる相手のことを、深く知って、それで成り立つわざだ。
ぐい、と朱雀が腰を寄せ、またふかく、丸い切っ先が入り込む。挿入は急がれず、ゆっくりと玄武を慮って先に進む。それでもすべてが入ってしまうまで、玄武は耐えた。
「……はいった」
朱雀が吐息交じりにそう言って、玄武はいつのまにか閉じていた瞼を開ける。朱雀はこちらに身を乗り出して、そっと手を差し出し、だいじょうぶかと気遣ってくれる。玄武はその手に顔を預けて、平気だと答えた。
「なか、おかしいとかねえか」
「……お前のが、びくびくしてる」
「真面目に聞いてんだけどよ……」
ふてくされたように顔を逸らす朱雀に玄武は笑って、その笑いがそのまま朱雀に肉を伝ってバレていることに、感動に近い目眩をおぼえる。
「……動いていいか、結構きつい」
「ああ」
そうして挿入され、引き抜かれる。さっき覚えこまされた場所をカリ首が通るたび、言いようのない快感が玄武を襲う。すざく、と悲鳴のように呼んだらそっと腹を撫でられた。大丈夫だと、ここにいると教えてくれる。
「すざ、く」
名前を呼べば同じく名前を呼び返してくれる。その三つの音に込められた、好きだとか、うれしいだとか、表現しようのない歓喜を、朱雀は全部汲み取って、同じだけ返してくれる。そのあいだもつながった下半身の部分は玄武を鋭い摩擦で抉り、神経叢から脳へと電気信号を走らせ、玄武の口から声にならない声を溢れさせる。
「すざ、く、すざく」
「ん……、玄武、好きだ、気持ちいい、げんぶ」
朱雀が玄武の腰をわしづかんで、出し入れを速める。お互い限界はそう遠くはなく、ただ触れ合う喜びからそれを先延ばしにしている。
玄武の身体はすっかりほころんで朱雀を受け入れ、その場所からはローションが泡立つ粘着質な音が聞こえてくる。AVで見たような派手な音は立たない。ただ必要なだけ聴覚を煽り、玄武を追い詰める。
「こっち、触るか?」
そう言って朱雀は玄武のものに手をやり、張り詰めたそれに手を添えて軽くこする。
「っあ、あ、待って、くれ、……」
「やだ、オレ、そろそろ、やべえから」
「馬鹿野郎……っ」
摩擦する朱雀のものがより大きく膨らむ。それが射精の予兆であると感じて、玄武は身体を震わせる。
玄武は自身に手を伸ばし、先にそれを握っていた朱雀の手ごと上下させる。朱雀は腰を打ち付けるほうに集中する。
ぐっと朱雀の腰に力が入った。押し付けられた一番奥のところで、なにかが弾け、朱雀のものが液体を押し出すように脈打つ。
「――っ、げん、ぶ……」
遅れて玄武も精を吐き出した。なににも覆われないそれは玄武の薄い腹と浅い臍のあたりに液体をまきちらす。
「……っは、あ、」
玄武は肺の中に濃い酸素を求めて深く呼吸する。朱雀も体の上で荒い息を吐いている。
終わった。
そう判断して、これが初体験、というやつか、と思い、それを好きな相手とできたことに、奥歯がむずがゆくなるような喜びを感じた。
ふたりはそのあと汗まみれになった体を濯ぐべくシャワーを浴びた。明るい電灯の下で差し向かいになって見る体はやっぱりロッカーで見るものとそう大差なく、さっきまで自分が興奮していた対象はなんだったのかと玄武はいぶかしむ。それでも身体の端々に自分がすがりついた部分を発見するたびに、玄武はかっと血が上る感覚をおぼえた。朱雀はボディーソープで身体を洗いながら、何か迷ったような顔でこちらを見る。
「どうした」
「……プロデューサーさんに報告、しなくていいよな」
「いいだろ、別に。プライベートなことだ」
「つってもよお、オレとおまえのことじゃねえか」
「……まあ、なんだ、俺たちが雁首揃えてそんな話を持ってったところで、あの人はたまげるだけだろうから、時期を見ようぜ、相棒」
「そだな。つうかよ」
「ん?」
「あ、相棒だけどよ、……こいびと、になって、くれんだよな」
泡まみれの朱雀が心配そうにそう言うので、玄武は吹き出しそうになる。
「……ちゃんと言わねえのはよくねえな。朱雀。俺の、恋人になってくれ」
「おう。相棒で、親友で、恋人、だ。そんでいいな?」
「ああ」
それからふたりは身体中についた泡を流し、頭も洗って、色気なく部屋に戻る。玄武は湯を沸かしてうどんをゆでることにし、朱雀につくりおきの惣菜をいくつか準備させ、鍋の中身が沸騰するのを待つ。
「玄武のメシ、玄武のメシかあ」
「食ったことあるだろ」
「あるけどよ、こう……なんかちがうじゃねえか」
「……うどんじゃなくて、もっと豪勢なもんにすりゃあよかったな」
「なんでだよ。オレうどん好きだぜ。玄武のうどん、つゆが薄くてうめえしよ」
「お前んち、関東風じゃねえのか」
「そうだぜ? でも玄武のうどんはうめえ。前風邪ひいたときにも作ってくれただろ」
そういえばそんなこともあった、と思い出す。朱雀とのことは全部覚えているつもりだったけれど、このぶんだと忘れていることもあるかもしれず、それをこれからふたりで確かめ合えることがうれしかった。
やがて湯が沸いて、タイマーを七分にセットしてうどんを入れると、やることがなくなる。朱雀は箸まできちんとセッティングしてくれていて、つゆはほんだしに薄口しょうゆと塩、酒とみりんで適宜味をつけたものだから、あとはほんとうにうどんだけだ。
手持無沙汰になり、コンロの脇で立っていた玄武の様子を見て朱雀がのそのそと近寄ってくる。
「なんだ」
「いや」
「……ニヤニヤしてんじゃねえ」
そういうと朱雀は確かめるように自分の顔にべったり触れ、口角が上がっているのに本当だ、という顔をして言った。
「今ニヤニヤしなくていつすんだよ」
「……それはそうだが」
「うれしいんだよオレ、玄武」
そう言って朱雀は抱き着いてくる。頭一つ分背の低い彼がそうすると、ちょうど胸元のあたりに鼻がくる。くくっと笑うたびに胸郭にそれが響いて、くすぐったい。
「……くすぐってえよ」
「おう」
「火使ってるんだから、あぶねえだろ」
「おう」
いい返事だけをして朱雀はちっとも離れる気配がない。背中に回った腕はますます強く玄武を抱きしめ、身体は密着し、玄武が隠そうとしている鼓動の速さもこのぶんでは伝わってしまっているに違いない。
「――玄武」
朱雀が仰向いてねだってくるのに応える。口づけはタイマーが鳴るまで続いた。
それからふたりでうどんをすすって食べ、セックスをしていたあいだにきていた各種連絡に返事をした。プロデューサーからは今週末のロケについてリマインドのラインがきていたし、それぞれ友達や舎弟や同僚から、少なからぬ連絡があった。朱雀は親に遅くなる、と連絡を入れている。
「あいつら、赤点確定だから補習してくれって言ってきやがった」
「そりゃ、オレだって玄武の授業なかったら赤点だったからな」
「どっかの週末にまとめてやるか……」
「あ、じゃあオレんち使ってくれよ。リビング使ったら全員入るだろ」
「……微妙だな」
「そんないんのかよ」
「数えたくねえな」
プロデューサーからのラインには承諾したむねを返す。玄武はトークルームをざっと見て、女との会話が途切れたままだったことを思い出す。朱雀を呼ぶと、顔を近づけてくる。
「ああ」
「お前から連絡するか」
「――いや、いい、おまえから、おまえが好きなように言ってくれよ」
玄武はしばらく考えて、こう打ち込んだ。
〈突然だが、相棒に付き合う相手ができた。いままで内偵みたいなかたちで協力してもらって本当に申し訳ねえが、どうかわかってもらえねえか〉
送信前に見せると朱雀はない……ってなんだ? と首を傾げたあと、それでいい、と言った。送ると、ややあって既読がつき、返事が返ってくる。
〈わかりました。これまでのことは気になさらないでください。週末またよろしくお願いいたします〉
遅れて、もう一通届く。
〈お幸せにとお伝えください〉
「――だってよ」
見せると、朱雀は耳まで赤くして、お幸せにってなんだよ! と叫び、プロデューサーには絶対にしばらく黙っておこう、と当初とは正反対のことを主張した。
女に礼を言うと、またデフォルトのクマのスタンプが送られてきた。たぶんもうやりとりはこれで終わりで、あとは現場で顔を合わせるだけになる。彼女に至っては結局連絡先もわからないまま、買い物に付き合わせるだけになってしまった。なにか礼をしたほうがいい、と朱雀に言う。朱雀も同意したので、番組延命祝いに現場に差し入れというかたちで菓子をもっていき、ついでに彼女に渡そう、ということになった。
「しかしなんで、その勘違いってやつになったんだ」
「……あー、それ、な」
朱雀が言いにくそうに答えたのは、玄武と彼女が仕事上のやりとりをしていたときに芽生えた不快感がきっかけだったという。要は、ふたりが話しているともやもやしてたまらない。それでその正体を考えているうち、これは嫉妬ではないかと思い、通念からして、惚れた相手は彼女なのではないか、と思ったらしい。
「マジで、もっとちゃんと考えて、おまえが相手だってわかってたら、余計なことなかったのにな。悪い」
「……ってことはお前、ずいぶん前から俺に惚れてたってことじゃねえか」
「……まあそうなんな」
そうか、と玄武は破顔した。朱雀の思いは思ったより根深くありそうで、これからが楽しみだった。
「相棒、これからよろしく頼むぜ」
「おう。いろいろ……わかんねえことだらけだけどよ、教えてくれよな」
「馬鹿、ふたりで考えるんだ」
「そうか? ……そっか」
朱雀は腑に落ちた顔をして、玄武にそっと額を寄せる。
「玄武、皿片づけたら、もうすこしくっついててえ。オレ洗うからよ」
「……皿、あとでいいんじゃねえか」
そう言って玄武は朱雀の頭に手を伸ばし、そっと引き寄せる。自分の熟しきった思いの深さは、少しずつ知ってもらおう。朱雀は驚くかもしれないけれど、なんだか同じくらいの熱さで応えてくれるような気もする。唇を重ねながら玄武はそう思い、朱雀の背に腕を回した。