ADの女とのラインははかばかしくなかった。そもそも玄武は彼女について知りたいことはなく、むしろできれば何も知らないままでいたい。そこを押して朱雀の思いを想像してみはするのだが、そのたびに指先まで痺れるような痛みをおぼえて部屋で立ちすくんでしまう。それでも無理やり捻りだした、夜の間に送った子供のような質問に女は簡潔な言葉で答えてくれる。それを翌日の昼に朱雀に伝えるのが都合三日続いた。そして金曜日の夜、二十二時を過ぎたあたりで送ったラインに、めずらしくすぐ反応があった。それはこう始まった。
〈早く言わなきゃと思ってたのですが、ごめんなさい〉
トークルーム一覧に表示されたコメントはそれで、未読メッセージが数件溜まっていた。タップして開くと、女にしては長く連なった文字が目に飛び込んできた。
〈隠していたことがあります〉
〈高橋には恋人がいます。もう長い付き合いです〉
〈彼氏さんとはとっても仲が良くて、よく話を聞きます〉
〈だから、紅井くんのことは、すごく難しいと思います〉
〈早く言わなきゃと思ってたのですが、ごめんなさい〉
読み終えて、胸に湧き上がってきたのはまず喜び、そしてそれを嫌悪する倫理観、朱雀に伝えなければと逸る思い、そしてすべてを押しとどめる理性だった。
恋人がいる。
その想定をどうして自分たちはしてこなかったのか。三十近い女性に恋人がいる可能性は当然高い。いつか見たニュースで報じられた統計の数字がぱっと頭を走る。玄武は左の薬指に指輪がないことばかり気にしていたし、朱雀はそんなこと考えてもみないに違いない。
玄武はスマホを握りしめた手を緩めて、それをベッドに放ると自分も横になった。
恋人がいる。
今までしてきたシミュレーションのほとんどががらがらと崩れていく。どう声をかけるか、時間をもらうか、そういうことはたいしたことではなくなった。朱雀は長い付き合いらしい恋人と闘って、勝ち抜かないといけないのだ。その困難さにふっと唇の端が緩み、玄武は自罰的な強さで口元をおさえた。喜ぶな。不幸を喜ぶな。それは相棒のすることではない。頬に食い入る指にさらに力を込めながら、玄武は眼鏡をはずして枕元に置いた。視界が一気にぼやけて、天井と壁の境がおぼろになる。光源と真っ白な靄に覆われた世界に、スマホを滑り込ませる。とにかく返信は、しなければならない。
〈知らせてくれてありがたい〉
指をのろのろと動かしてそれだけ打ち込み、送信ボタンを押すか迷ってやめる。
〈朱雀には〉
打ち込んだ指はそのまま自律的に動いた。
〈言わないでおく〉
そうだ。それが正しい。朱雀が諦めてしまってはいけない。
〈よければこれからも色々教えてほしい。裏切らせるようで申し訳ないが、よろしく頼む〉
そこまで一気に打ち終えて、送信した。スマホを持っていた腕から力を抜くと、位置エネルギーが消費されて腕と精密機械はシーツに弾んで横たわる。
考えるべきことはいくらでもあった。まず彼女からの好感度をどう上げるか、もう一度戦略を練らなければならない。長い付き合いの恋人がいる女性が年下の初心な男に言い寄られて――いや、この言い方は古い、だがほかに思いつかない――どう思うのか、それこそ恋愛小説でも読んで学ぶべきなのか。朱雀には本当に隠し通しておくべきなのか。〝相棒〟としての自分の振る舞いは本当に正しいのか、これでいいのか。
玄武は放心しかけた頭で最後の問いにだけ答えを出した。これでいいに決まっている。自分は無鉄砲で世間知らずで相棒思いの十七歳なのだから、相棒の利になることだけを考えて、実行すればいいのだ。
玄武はむくりと起き上がり、キッチンに向かうと水切りかごのなかで乾いた皿を念のため布巾でもう一度ぬぐって食器棚に戻した。それから冷蔵庫の中の食材を総点検して明日の献立を決め、ロケ帰りに買うもののリストを作り、ついでに冷凍庫の中の冷凍ご飯の残りを確認して、明日は米を炊かなくていい、と判断して扉を閉める。それから薄っぺらいカバンの中からクリアファイルに挟んだ明日のロケ概要を取り出した。
七時半入り、店は新宿駅近く、台湾資本のタピオカ屋、日本一号店。日本ローカライズのため研究された抹茶ミルクタピオカがイチ押し。
新宿集合だから朱雀の面倒を見る必要はなかった。駅からはいつも通り案内がつく。また、どうせ、彼女が来るのだろう。二週続けて二人きりにするのはわざとらしいから今回は玄武は目の当たりにしなければならない。朱雀と彼女が話す、そのしぐさと、表情と、声、言葉、そういったものたちを。
企画書を半分に折り私用のカバンに移し替えて、玄武は立ち上がるとシャワールームに向かった。澱はますます濁って玄武の肺に溜まり、息苦しさだけがつのる。
そういえばいつだったか、タピオカには誘われたのだった。いつもの調子で女に混じって並ぶのがそんなに嫌かと茶化して、断った。朱雀は悔しそうな顔をしながら他に誘えるヤツがいねえんだよと追いすがってきた。それを半笑いでいなしたのは悪手だっただろうか。二人きりで友達として何かをすることに慣れ切っていた。次があるだろうと、その時には十回に一度くらいはつきあってやろうと、そういう気持ちでいた。
――今度から朱雀は彼女を誘うのかもしれない。
翌朝の目覚めは最悪だった。いつもの五倍ほどに感じられる重力に逆らって持ち上げた手で目覚ましを止め、スマホのアラームを切り、玄武はまだベッドから出られない。
朱雀の夢を見た。それだけならいつものことだった。あの日のように身勝手に触れられる夢にも慣れた。
彼女がいた。
朱雀の隣にごく自然にそれが当たり前のように立っていた。場所は高校だった。見慣れた校門に彼女が立って待っていて、教室から二人で並んで歩いてきた朱雀がそれに気づいてぱっと顔色を明るくする。そしてこちらを振り向いて、照れたような表情で、じゃあな、玄武、と言う。その口の動きが玄武にはスローモーションに見える。鼓膜が受け取って耳小骨から脳に伝わる痺れがわかる。また明日、はない、シンプルな別れの挨拶。そして彼は重い刺繍の入った学ランの裾を翻して彼女のもとへ向かう。彼女は現場で見るような動きやすい服装をしている、それは玄武の脳の中にそれ以外の彼女の像がないだけで、朱雀を見やった彼女が笑みを浮かべるのが見える。隣に立った朱雀はなにか二言三言口を動かし、それから手を伸ばして、彼女の手を。
そこで意識が急に引き戻されて、目が覚めた。
覚めなければよかった。もっと徹底的で根本的な痛みを目の当たりにすればこの馬鹿な感情を殺せたかもしれなかった。手をつないで、肩を抱いて、キスの一つでも見てしまえばあるいは。
玄武はスマホに手を伸ばして時間を確認する。五時半。目覚めるのには少し早いが洗濯機を回して朝飯を作って洗濯物を干して家を出るにはぎりぎりの時間だ。粘着するようにシーツにいたがる身体を起こして、ランドリーボックスの中身をそのまま洗濯機に突っ込んだ。ここから四十分で着替えて朝飯を食べて出かける支度をして、脱水の終わった洗濯物を干す。それは途方もない作業に思えた。
結局朝飯は買い置きのバターロールにハムとレタスを挟んだもので済ませてしまった。天気予報は曇りで降雨予想は午後から三十パーセント、玄武は浴室乾燥を選び、電気代の請求を想像しながらスニーカーを履いて部屋を出た。横浜駅に出れば快速で新宿まで行ける。読みかけの海外文学を一冊持ってきた。だから今朝の夢のことは、多分考えなくて済む。
ボックスシートに座ってページをめくる。本はまだ始まったばかりだ。山間の小さな村に空から隕石が降ってくる。それは異臭を放って人々を困惑させるが、なぜか彼らはそれを忘れてしまう。そして生活は変わらず続く。緻密に記述されるそれらを読んでいるあいだにあっという間に三十分が経って新宿についた。そこから御苑のほうに行ったところに店はある。待ち合わせ場所の南口についてすぐ、後ろからどん、と背をたたかれた。
「早えぇな!」
振り向かなくてもわかる笑顔を浮かべて朱雀がそこにいる。
「十五分前行動だ。お前な、人違いだったらどうすんだ」
「おまえみたいなでっけーやつがゴロゴロしてたら嫌だろ」
朱雀はそう笑ってあたりを見回した。
「まだみてえだぜ」
「だな。オレもちょっと早く来ちまったし、待つかあ」
それは、会いたくて来たのか、と口をついて出そうになるのを押しとどめた。黙って持ったままだった本をバッグにしまう。
「何読んでんだ」
「ポルトガルの本だ」
「……よし、わかんねえからこれ以上聞かねえ」
「そういやよかったな、タピオカ。行きたかったんだろ」
水を向けると朱雀は喜色を浮かべて頷いた。
「しかも並ばなくていいんだぜ! 仕事っていいよなあ」
にこにこしながら言う相棒にどこか違和感があり、頭の先から爪先まで眺めてから気づいた。
「お前、にゃこどうしたんだ」
「今日はおいてきた。タピオカ屋狭いっつうからよぉ」
「いいのか?」
「ん? 今日はオヤジいっから大丈夫だぜ。つうか猫は留守番できんだよ」
そうではなく、彼女が、と思い、自分がそのことばかり気にしているのにうんざりする。今ここには朱雀しかいないのに、そのかたわらに網膜にできた染みのようになにかがとりついて離れない。
「紅井さん、黒野さん、すみません遅くなって」
そう言いながら駆け寄ってきたのは、彼女ではないほうのADだった。珍しい、と思ったのが顔に出たのか、女は高橋は店長と話がありまして、と言い、プリントアウトされたグーグルマップを手渡してきた。
「これから向かいますが、念のため」
もらった紙を手渡すときにちらりと相棒の顔を見た。とりわけなにか落ち込んだり当てが外れたような顔をしているわけではなく、意外に思う。先週利かせた気が無駄だったような思いがする。女は猫さんは今日はいないんですねと独り言のように言い、行きましょうとこちらに背を向けた。
店は本当に小さな二坪ほどの敷地にあり、イートインコーナーもなかった。普段は店の中で待機しているカメラ班も店が面している路地にたむろしている。
「おはようございます! よろしくお願いします!」
朱雀の馬鹿でかい声にスタッフたちが振り向いてそれぞれに挨拶を投げかけてくる。玄武もそれに会釈を返し終え、少し先に停めてあるというロケバスに向かう。
「店ちっちぇえし道狭いし、あれ大変だな」
「並んでたら道路交通法に抵触しそうだ」
「どう……?」
「あのな、お前、道交法くらいは知っとけ」
混ぜっ返しながら乗ったバスには先客がいた。彼女だ。明るく透き通った声で挨拶され、玄武の中で何かがまた濁る音がする。朱雀のなかにこの声を聞いて生まれるなにかがある、それだけで、そんなことが癪に障る。彼女はいつものようにこざっぱりした動きやすい格好をしている。それが逆に身体の丸みを浮き上がらせていて、玄武は落とした視線の先にある自分の骨ばった手に嫌悪をおぼえた。
「じゃあ、準備ができたらお呼びしますね」
そう言って彼女はふたりの間を縫ってバスを降り、あとには香水らしい柑橘系の香りが残る。
どう言葉を継いでいいかわからず、玄武は黙って朱雀に目をやった。朱雀はさっきまで彼女がいたあたりをぼんやり見ていたが、はっと気づいたように我に返り、目を瞬かせてこちらを見る。逸らす間もなくばちっと視線が合う。
「……んだよ、こっち見んな」
「何がだ、悪いか?」
「だーから、その、おまえまた余計なこと考えてんだろ」
「そりゃあ一世一代のなんとかってやつだからな」
「ちげえって!」
「盈盈一水、焦れてるばっかりなら声でもかけりゃいいだろう」
「えい……? とにかくよぉ、仕事なんだよ仕事! 気ぃつかうんじゃねえって」
朱雀はそう吐き捨てると置かれていたコンビニ袋の中身を乱暴にあさり、オレこっち、とサイダーのペットボトルを取り出した。蓋をひねって開けるとぷしゅ、と二酸化炭素が抜ける音がする。
――やはり黙っておこう、と玄武は思う。朱雀のひよわな恋心に水を差すような真似はすまい。それは優しく育まれるべきで、彼女以外の人間の手にかかる必要はないのだ。
玄武はコンビニ袋から緑茶を取り出し、開けて唇を濡らした。
ロケはいつも通り順調に進んだ。彼女が出すキューのもとで、ふたりは店に入り、抹茶ミルクタピオカを飲み、それだけではさすがに尺がもたないので最近のメディア露出に少しだけ触れ、番組提供のプレゼントの告知をした。朱雀がフリップに書く提供の提の字を二度間違えたが、彼女は面倒くさがるそぶりも見せずにこやかに新しいフリップを手渡してくれ、朱雀は申し訳なさそうにそれを受け取って大きく元気に手偏を書いた。
玄武はそのあいだ、腕を組んで絶対に手は貸さないという意思を見せ、朱雀がちらちらとこちらに視線を投げてくるのをすべて無視した。
「……ぜってえおまえが書いたほうがよかっただろ」
ロケバスの中で弁当のひれかつを食べながら朱雀がこぼしたのは、撮影が終わってしばらくしてからだった。
「お前の書くほうが味がある」
玄武はほうれん草を飲み込んでから返す。
「俺が書いても面白くもなんともないだろ」
「紙無駄にしちまったじゃねえか」
「予備があったろ」
すげなくすれば朱雀は黙る。もとより口で勝とうとは思っていないらしいし、それは正しい認識だ。玄武は弁当の空容器を隣の座席に置き、ついてきたおしぼりで口を拭う。
「だいたい――」
言いかけたときに、タラップを上がる音がして、彼女が姿を見せる。
「次の予定、お渡ししますね」
そう言ってホチキス留めされた書類を手渡してくる親指の、爪のホログラムがちらちらと輝く。恋人がいる、というラインの文面がふっとよみがえる。その男はこの手に触れている。今朝見た夢のなかでは彼女に触れようとしていたのは朱雀だった。ふたつのイメージが交錯して一瞬視界が揺れる。白い柔らかい女の手。
「次、上野になります。また現地集合で申し訳ないんですが……」
説明する彼女の声がかろうじて耳に入ることで現実と自分をつなぐ。紙に印字された文字がブレる原因が、おそらく嫉妬であることを直観して玄武はまた自己嫌悪に染まる。自分ともあろう男が、たかが恋愛ごとで、無害な女相手にこんなに揺さぶられている。朱雀を持っていかないでくれと思ってしまう。仮にふたりがうまくいったとして、朱雀は相棒の座から自分を下ろすようなことは絶対にしないとわかっているのに、それしかよすががないような気になって、朱雀の両手を空いたままにしてと願ってしまう。
「――ということで、ご予定、大丈夫そうでしょうか?」
はっと顔を上げると彼女がこちらを見ている。化粧品に彩られた唇はつややかだ。中華、上野、パンダ、そういう言葉がようやく脳に食い込み、玄武は何食わぬ顔でうなずいた。向かいで朱雀もわかりました、と小さな声で言う。
「また変更がありましたら、ご連絡ください。いつでも大丈夫ですから」
そう言って彼女は通路を歩きバスから出ていこうとする。一歩進むたびにタイトなジーンズの脚の付け根のあたりに皺ができては消え、その下の脂肪の柔らかさを演出する。
朱雀は彼女に触れたいだろうか。思って脳からその発想をかき消すそばから、恋人がいる、という例の言葉が浮かんでくる。
彼女は、そういうことをしている、おそらく、恋人と。それを朱雀は知らない。
途端に湧き上がってくる悪辣な感情の息の根の止め方が玄武にはわからない。自分だけが知っている手札、ワイルドカード。万能のその一枚を自分は好きな時に切れる。朱雀の思いを踏みにじり、ねじ切って、二度と日の目を見られないように、できてしまう。
「玄武?」
声をかけられて、はっとした。見つめていたはずの彼女の背中はとうにバスの中にはない。向かいの朱雀は不思議そうにこちらを見ている。
「ぼーっとしてんな、どうした」
「……ポルトガルの本が、よくなかった」
「は?」
玄武はかぶりを振って、手にあった書類をふたつに折るとバッグの中に入れた。
「食ったら帰るぞ。バスにもレンタル料がかかってんだ」
「あ、わりい、あと米だけだからちょっと待て」
朱雀はそう言ってメシをかきこむ。動く唇はなめらかではなく柔らかそうでもなく、米粒がくっついているのにさっき見た彼女の唇の何倍も蠱惑的だ。
触れたい。
そうだ、触れたいのだ。朱雀に触れたい。わかっている。夢を何度も見るのも彼女に嫉妬するのも、自分にその資格がないのに望んでしまうことが理由だ。朱雀の膨らんだ頬が咀嚼のたびに動き、産毛が南中まで間もない陽を受けてわずかに光る。指を伸ばすことは許されない。そう思ってから違う、許さないのはただ自分だと気づく。朱雀にこの邪心がバレてしまえばすべては瓦解する。相棒でいることも、友達でいることも、無防備な笑顔も接触も何もかもがなくなる。それが怖くて自分は一歩を踏み出さないまま、朱雀の片思いの言葉を聞いてしまった。
「おし、お待たせ」
朱雀が空いた弁当をコンビニ袋につめて、うんと伸びをしながら言う。
「じゃあ挨拶して帰るか」
「おう」
自分の返答は当たり前に平坦で反射的で動揺の色がない、と自分では思っている。決して鈍くはなく、何か異変を感じれば隠し立てはしない相棒が何も言わないのだから表には出ていないと信じたい。
バスを降りると撤収にかかっていたスタッフたちが一斉におつかれさま、と声をかけてくる。それにいちいち返事をして、最後に彼女たちのところに足を向ける。
「おつかれさまでした。また来週よろしくお願いしますね」
彼女がそう笑いかけてくるのに朱雀はぎこちなく頷いた。それを一歩後ろから眺めながら玄武がもうひとりのほうに視線をやると、あとで、と口が声を出さずに動いた。また何か連絡してくるのだろうか。それは吉報だろうか、凶報だろうか。どちらにせよ玄武にいいことであるわけがない。
「なあ玄武、事務所顔出しとこうぜ。今プロデューサーさんいるってよ」
帰り道、スマホを見ながら朱雀がそう言う。玄武も異論はない。今週はレッスンにこそ行っているがプロデューサーとは直接会っていなかったから、仕事の報告もしたい。駅について、朱雀がラインに今から行く旨を打ち込んでいるあいだに玄武はICカードに千円だけチャージする。家から現場までの交通費は実費で支給されるがそこまで財布に余裕があるわけではない。
深い地下鉄のホームまで降りてしまえばあとは一本で着く。休日の車両はそれなりに空いていて、ふたりは並んでシートに座ることができた。
「そういやお前、中間テストはどうなんだ」
「……なんつうか、いつもどおりだぜ!」
「レッスン削るんなら早めに番長さんに言えよ」
「あー、……いや、それはぜってえやらねえつもりなんだけどよ、こないだの抜き打ちがマジで点取れなくてよお」
抜き打ちに限らねえだろ、と言おうとしたところでスマホが震えた。通知を見るとADの女だった。
〈遊びに行きませんか〉
ロックしたままの画面に表示された言葉に固まった。
「プロデューサーさんかあ?」
手元を覗きこんでくるのに一瞬遅れて気づく、画面を隠すのが遅れた。
「あそびに、って」
朱雀が目を見開くのがわかる。玄武おまえ、と朱雀が口走るのを、そうじゃねえ、と念のため訂正する。
またスマホが震える。今度はもう隠すのも億劫になって、朱雀に見える位置で画面を確認した。
〈高橋を誘います〉
事務所に着くまで朱雀はずっとふてくされていた。余計な気を回すなと、そういうことらしい。玄武にしたって女が急に言い出したことをどう飲み下していいのかわからないから、なだめるのも煽るのも違う気がしたし、ラインに既読をつけないままにしてある。
「おう、お疲れ。どうだった」
たまこやの婆さんに挨拶し、脇の階段を上がって事務所に入った途端、待ち構えていたようにプロデューサーが声をかけてくる。
「万事順調だ、今日もすぐ終わったぜ」
「タピオカっつうのはうまいのか、あれは」
「うまかったぜ! 砂糖で甘くしてあるんだよ、プロデューサーさんも今度食いにいこうぜ」
「アホ、俺みたいなのが若い女に混ざって並べるか。お前だって並ぶの面倒だとか言ってた癖に。よかったな仕事で食えて!」
「おう!」
朱雀はラインのことはなかったかのようにプロデューサーと話している。玄武はバッグからもらったプリントを取り出しコピーをとった。
「多分メールできてると思うが、これが来週のぶんだ」
「ああ、まだ見てねえ。どこだ?」
「上野だ。パンダ関係らしい」
「そうか、おう、山村! ちょっとメール見といてくれ」
「はーい」
そう言って事務所のパソコン周りを全部担っている事務員は画面に向かい、しばらくして玄武が手渡したものと同じ書類をプリントアウトしてプロデューサーに手渡す。
「十五分前にきてました。朱雀くん、玄武くん、ちょっと早いお中元でカルピスがきたんですけど飲みますか?」
「おっ、頼んでいいか?」
「はいはい、甘くしときますね」
山村がそう言って冷蔵庫を開けるのを、朱雀は待てと言われた犬のような顔で見守っている。玄武はそこから離れて応接ソファに腰掛けて手に持ったままだった上野のプリントに目を落とす。が、シャンシャンのことは当然頭にはない。
遊びに行きませんか。
それはなんの誘いか。朱雀と彼女を近づけるための方策なのは間違いない。恋人がいると知っていてそういう話を持ちかけてくる女の意図はわからないが、朱雀にとってはいい機会だ、アイドルとしての紅井朱雀ではない、素の高校一年生の朱雀を知ってもらうチャンスだ。だから玄武は諾を答えなければならない。
だが、それで本当に彼女の気持ちが朱雀に向いてしまったら?
仮の問いだ、長く付き合った恋人がいる、二十代後半らしい社会人の彼女が高校生の仕事相手に本気になるわけがない、打ち消す言葉が山ほど湧いて出る。それがすべて自分のエゴから生まれてきていることも玄武はわかっている。可能性はゼロではないのだ。朱雀と彼女が、今朝の夢のように並び立つことの。
気づくとプリントの端に皺が寄っている。慌てて込めていた力を抜いて、ローデスクの上でよれていた部分を伸ばす。と、山村がグラスを持ってやってくる。
「はい、玄武くん、ここに置いておきますね。ぶどうカルピスです」
「すまねえ賢アニさん」
「次はパンダなんですか?」
「ああ、これによると——」
山村がふんふんと素直に聞いてくれるので、調子に乗って上野動物園にまつわるトリビアルな話までしてしまう。いつのまにかプロデューサーと朱雀もそこに混ざって、やれ幼稚園の時に遠足で行っただとか、そんなことまで知ってるなんてお前は幾つなんだとか、ひとしきり盛り上がった。帰りの電車の中ではポルトガルの山間の村の事件を読み進めた。
だから、そのまま家に帰るまで玄武はスマホを開かなかった。
夕食を終えてシャワーを浴びて明日の支度を終え、あとの言い訳が読みさしの海外文学一冊になってから玄武はようやくラインを開く。八時間ほど前に送られてきたメッセージは変わらないままだった。
〈遊びに行きませんか〉
〈高橋を誘います〉
スタンプも何もない簡潔な二言だった。つまりこれは二対二でどこかに行こうという誘いなのだろうと玄武の脳は簡単に正解に至る。朱雀と彼女がメインで、玄武とこの女がサポートをする。
少し考えて、玄武はそれしかない返答を打ち込んだ。
〈ありがたい。ぜひ行かせてもらう〉
送信してから思いついて付け足す。
〈中間テストが六月にあるから、それが終わってからでもいいか〉
〈それまでに場所や、何をするかや、そういったことを打ち合わせたい〉
それは自分への猶予期間のようなもので、本当に覚悟を決める必要を先延ばしにし、恋心の息の根を止めるための下準備だ。
玄武はごろりと寝返りを打ち、画面を眺める。それからカレンダーアプリを起動して日付を数えた。今日は五月の終わり。中間テストまであと二週間。それが終わって、六月の半ばになれば時期は梅雨でそうよくはないが遊びに行くことはできるだろう。ロケの入っていない土曜日か日曜日、ふたりが仕事がない日で、彼女が恋人と何かがなければ、遊びに行く、くらいはたいしたことはないのだろう。これまで週刊誌に張られていたことはないし、神速一魂にそこまでのバリューはない。何なら仕事の予習だと口実だってつけられるはずだ。
ラインに戻ると朱雀とのトークルームを開く。
〈今日の件。テスト終わりのころに四人でどこかに行かねえかって話だ。お前が中間頑張ったら追試なしで遊びに行ける。頑張れ〉
一息に打ち込んで送信した。すぐに既読がつく。
〈はなしがはええよ〉
〈かってにきめんな〉
それからややあって着信がある。
「おい、おまえ、勝手に話決めてんじゃねえよ」
「何がだ。向こうからの提案だ。ありがたく受け取るのが筋だろう」
「だー! そうじゃねえだろ、プロデューサーさんにだって言わなきゃいけねえんじゃねえのか!?」
「別に必要ないだろう。だいたい俺たちが勝手にやったことにしておかねえと、番長さんが黙認してたってのが一番まずい」
「そうなのか?」
「監督責任ってのがある」
「……よくわかんねえけどよお、とにかく、遊びに行く話はオレは反対だ」
「お前が反対してどうするんだ。せっかくのチャンスなんだろう」
言いながら玄武は起き上がり、机の上に置いてある小さなカレンダーを手に取る。もふもふキングダムのノベルティだからやたらにパステルカラーで日付が見にくい。週末は二回あるからその仕事は潰せない。それ以外のレッスンをなるべく活かしながらテスト勉強を進めるにはどうしたらいいのか考えながら、口早に話を進める。
「いいか、とにかくお前はテストをちゃんとやって追試をゼロにしろ。日程のすり合わせやどこに行くかは俺たちが決める。終わったらご褒美だ。昼飯食うなり、なんだ……俺も別に女と遊ぶのに詳しいわけじゃねえが、そこらへんは横川さんがうまくやってくれる。お前はとにかく勉強だ」
「だから勝手に決めんなって!」
「俺たちのやってることが余計なお世話だって言うんなら、それでもいいから、とにかく勉強して、準備するんだ。会いてえだろう、高橋さんに」
強めの語調で言うと、スピーカーの向こうで押し黙る空気が流れ、ややあって朱雀が渋々といった風に答える。
「……わーったよ。じゃあ玄武、明日から放課後マジで頼むぜ」
「ああ、それはもとよりやる気だから気にするな。英語と数学、古文、あとは生物か?」
「おまえうちの親よりオレの成績に詳しいよな……」
朱雀の呆れる顔が眼に浮かぶ。眉根を上げて眉尻を下げ、口元を緩めて中空に視線を投げているのがわかる。そんなことはわかるのに。思いながら脳の論理的な部分は補習のスケジュールをざっくり組み立てる。高校受験の時に叩き込んだことはもうとっくに抜けているだろうから中学の内容からやり直す必要があるだろう、とか、そういうどうでもいいことだ。玄武は朱雀のクラスの進度を確認して、だいたいの予定をつかみ、日付に余裕のないことを知る。
「じゃあ明日、使ってないノート持ってこい。ルーズリーフでもいい」
「おう、なんか紙持ってく。そしたら、切るぜ。おやすみな!」
「ああ、おやすみ」
そう言って朱雀の返事を待たずに切った。通話時間は十分もない。朱雀の声がまだ耳に残っている。気を許した相手に見せる朱雀の子供っぽい声音。玄武がこれを聞けるのは渦巻く思いを隠しているからだ。言い聞かせてカレンダーを机に戻し、玄武はベッドに寝転がる。通学カバンからルーズリーフを取り出して決まっているレッスンの時間を書き込み、おおよその予定表を作る。明日の朝イチで渡そう。嫌な顔をされるのはわかっているが、逃げられるものではない。玄武本人はそもそもテスト勉強というものには縁がないし、大問五あたりに教師が嫌がらせのように設置する、露骨に玄武だけに向けた難問さえ解ければいい。それだってオウケンの教師が出せる問題には限度があるから、たいした苦労ではない。
玄武は表をカバンに入れるとリモコンでシーリングランプの輝度を下げた。一気に暗くなる部屋のなかでスマホの画面だけが光っている。
09分23秒。
さっき話した記録が残っている。今日、朱雀とどれだけの時間一緒に過ごしただろう。新宿に朝七時半に集まって、昼前にロケが終わり、夕方まで事務所にいた。その長い時間より、さっき共有したふたりだけの会話が玄武には嬉しい。朱雀が、自分にだけに向けて話すわずかな時間が。その胸の中にいるひとが自分でなくても、それはあたりまえのことだから、今更胸は痛くない。そのはずだ。大丈夫だ。自分はまだ正気だ。スマホの電源ボタンを押し込んで光源を消す。赤黒く照らされる灯りの下で自分は不恰好で情けない。朱雀のおやすみな、がリフレインする。弾け飛ぶように元気な朱雀の声の少し丸い部分。それを紡いだだろう唇、柔らかな頬、くるくるとよく動く目、脂の薄い額、朱雀、朱雀。
寝返りを打って視界を暗くする。その中に今日向かいの席で弁当を食べていた朱雀の間抜けな顔が浮かぶ。のぞく皓歯と逆光の中で光る琥珀色の瞳、箸を持つ無骨な指は、決して自分に触れない。わかっているのに。
じくりと身体の奥が疼く。そういえばしばらく抜いていない。玄武の口からため息がこぼれて静まった部屋に溶ける。今日はやめないか? 自分の本能に問いかける。今日は、いろいろあった。だから、朱雀を思って射精するような虚しい真似はしたくない。少しずつ重くなる下半身をなだめて玄武は灯りを完全に消した。睡眠薬でもあればいいのに。今度薫アニさんに相談でもしてみるか、いやそれは筒抜けになる、守秘義務はもうないのだから。そう思って玄武は無理やり意識をぼやけさせる。五胡十六国、スペイン・ハプスブルクの系譜、助動詞の活用。脳味噌はキーワードさえ入れれば無限に知識を吐き出す。それは文字で、画像で、動画で、玄武の脳のメモリを消費して、余計なことを考えさせない。
今日は嫌な夢を見ずに眠りたい。意識が途切れる寸前にそう思った。
テストまでの二週間、玄武は朝から晩まで朱雀と一緒にいた。早めに登校させ、予鈴が鳴るまで補習、授業中は教科書の問題を解かせて放課後に答え合わせ、レッスンの空き時間には暗記科目の一問一答を繰り返した。朱雀の勉強には向いていない頭は見るからに煙を噴いてオーバーヒートしていたが、日本語における助動詞の役割や現在完了の文法はどうにか頭に刷り込まれたようだった。
レッスンになれば切り替えの早い彼のことなのであっという間にアイドルの顔になる。トレーナーの出す課題曲の振りを難なく覚えて披露した朱雀が言うところには、「テスト中、身体動かしてよかったらもうちょっと解けるぜ」ということらしい。身体反射と単語を結びつけるのはライブでは有効だろうが、朱雀が動詞の活用を思い出すために立ち上がって華麗にターンをキメるところを想像して玄武は何ともいえない顔をしてしまい、朱雀にたとえばだよ! と訂正を食らった。
その間も二回ロケがあり、どう考えても時期遅れのパンダグッズの紹介で上野に行き、吉祥寺のカエル専門雑貨店に行った。吉祥寺では借りてきたカエールのぬいぐるみを朱雀がパペットのように見事に動かしてスタッフを驚かせた。つくづく勉強なんかさせなければいいのに、と思いながら、玄武はカエルの顔をしたがまぐちをぱちんと閉めた。ピエールにお礼ついでの土産にするつもりで買ったものだ。
そして彼女はいつもそこにいた。必要なぶんちょうどの存在感を出し、あるいは黒子に徹して、現場を円滑に回し、スタッフを気遣い、ふたりの世話を完璧にして、最後は笑顔で送り出してくれた。話すたびに朱雀はああともううともつかない声をあげ、こちらに助けを求めるような視線を投げかけてくる。玄武はそのたびに朱雀と彼女の間の空間に言葉を投げて、ふたりが話を続けられるように図らった。
にゃこがひと声かけて場を和ませる時もあり、そうすると彼女はシザーケースにバミ用のテープやらマジックペンやらと一緒に差してあるねこじゃらしを取り出す。そうなってしまえば玄武には割り込む余地はないから、一歩引いてふたりの景色を眺めた。朱雀が絶対に肩の触れない距離にしゃがみこんでにゃこを監視するように視線を下に固定するたび、同じくしゃがんでいる彼女の胸元を意識しているらしいことを察して、玄武の心は澱んだ。玄武が見下ろす女の胸元は仕事場にふさわしい程度の襟の開きで、柔らかい肉は首元から胸になだらかにつながる線から感じられるのみだ。朱雀がそれを見ないようにと意識していることが、どうしようもなく苦しい。それに惹かれる朱雀の思いを想像する、その意識の片隅にも玄武の姿はない。朱雀は彼女を夜に思い出したりするのだろうか? その肉体のことを思って夜ごとに自慰をしたりするのだろうか?
沈みかかる意識を、バラストを捨てるように余計な妄想を切り落とすことで保つ。
そういえば女は、彼女にもうあの話をしただろうか。
一週目の上野の現場で玄武はそれを聞こうとしたが、タイミングが合わなくて女とふたりきりになれなかった。おおよそ算段がつけば向こうから連絡してくるだろうと踏んでそのままにしていたら、週の真ん中、水曜日に日付だけ決まったと連絡がきた。ロケが日曜日にある週の土曜日だった。幸い仕事もレッスンも入っておらず、そのままOKを出した。しかし失敗したら翌日気まずい、と一瞬思う。が、失敗にカウントされるような大規模なミスはそもそもしようがない、ということにも思い至る。朱雀はあの調子だし、彼女のほうははなからその気はないのだから。
翌日の昼休みに日付を伝えると、朱雀は真っ赤になって「マジかよ……」とつぶやき、カレンダーアプリに渋々「でかける」とだけ予定を入れて、その日は家にいるらしい親に出かける旨のメールを打った。玄武はその一部始終を見届けて、腹くくったな、と茶化す。朱雀は露骨に嫌そうな顔をして、「おまえ責任とれよ!」とよくわからない因縁をつけた。そしてそのまま食べ終わった弁当箱を乱暴に包んで、階下へ降りて行ってしまった。
残された玄武は、進める予定だった古文の資料を眺めて、まあ仕方がないかと呟き、自分のカレンダーにも予定を登録した。どこに出かけるのか、何をするのかもまったくわからなかったが、今月は学校と事務所で勉強会ばかりしていたせいで予算には余裕があるし、そもそも相手が社会人なのだからそう多額の出費にはならないだろう。玄武は財布を繰ってから安心する。
しかし彼女にはどう説明したのだろうと思ったが、そのころには朱雀の勉強が追い込みにかかっていて、ラインに意識がいかない日も多く、結局テストが終わるまで詳細はつまびらかにされなかった。
二日間のテストの最後の教科、英語が終わって、玄武はふうと息を吐いた。玄武専用の難問は結局東大二次の過去問から引っ張ってきたもので、模範解答をさらに丁寧にしたものを書きつけるだけで済んだ。前半はオウケンに見合ったレベルの文法問題でミスはひとつもない自信があったし、後半の読解もたいした問題は出なかった。これなら朱雀も赤点は免れるはずだ。伸びをしてにぎやかな教室をあとにする。ホームルームまでに図書館に本を返しに行きたかった。途中、すれ違った舎弟が気まずそうな顔をして挨拶をしてくるので、どうやらこいつは赤点らしいと察する。仕事に障るので朱雀の面倒を最優先にすることで了解をとりつけていたが、このぶんだともうしばらく自分は補習に付き合う必要があるらしい。
図書室の扉をくぐる、人影はない。貸出カードに日付印を押印して本を返却し、クレストブックスの棚の前に立つ。この棚は全部玄武がリクエストした本で、やる気のない司書教諭を傀儡に、潤沢とは言えない図書室の予算はおおよそ玄武は好き勝手に使っていると言っても過言ではない。一応刊行順に並んだところからミランダ・ジュライを取り出して、カウンターで勝手に貸出手続きをする。生々しく青光りする紺色のインクの日付を見て、約束の日までもうわずかなことを改めて知る。
「連絡……」
つぶやいてから口に出していたことに気づき、唇を噛んでからラインを立ち上げる。女とのやりとりは三日前で途切れている。
〈テストが終わった。出かける場所やすることについて打ち合わせをしたい〉
そう送信して、教室に戻る。担任が来るまではもう少し時間があるので、借りた本のページをめくる。真っ黒な表紙と扉の間にカラフルな帯が挟んである。先を進める気にならず、本を閉じてカバンに入れる。中にはもう一冊文庫本が入っている。玄武はその背をそっと撫でた。百円棚で買った古本の一冊だ。百円にしては珍しく帯もついていて、そこに〝恋愛小説〟と書かれていたのがトリガーだった。そもそも玄武は恋愛小説の類がそこまで得意ではなく、かろうじて〝百パーセントの恋愛小説〟を読み終えた程度だった。だがいまや恋愛は玄武の――朱雀と玄武の大問題で、女心を解さない玄武にはケーススタディが必要だった。そちらのほうは半分ほどまで読み進めていて、主人公の女が泥酔して片恋の対象の男と言葉を交わす、そういうシーンが細やかに積み重ねられていた。玄武にはその女の欲望も感情も立体的には理解できない。ただ自分が朱雀に抱くものとそれは、相反すると言えるくらい、質を異にするものだと感じられる。それは相手がフィクションだからか。いやそうではない、恋と呼ぶにはもはや育ちすぎてしまった感情は、美しく語られることを拒む。
やがて担任が入ってきて、試験休みの存在を告げる。人の話を聞かない生徒たちは今初めてそれを耳にしたかのように喜び、さっそく遊びに行く約束をし始める。一気ににぎやかになった教室の一番後ろで、同じく試験後の休日をすっかり失念していた玄武はいまさら仕事を入れられるわけもないことに落胆し、担任がやれ品行方正な行動をこころがけろだとか、不埒な行動はつつしめだとか言うのを聞き流す。と、スマホがポケットの中で震えた。
〈ふくかいにいきてえつきあってくれ〉
朱雀からのメッセージはすぐに意味をつかめず、品詞分解を経てようやく概要がつかめる。理解と同時にポップアップしたのは朱雀が普段の私服では挑めないなにかに向かい合っている図で、それはつまり、そういうことだ。
〈断る。一人で行け〉
〈なんでだよおまえのせいだろ〉
〈俺が見立てたら事故になる。店員に聞け〉
返しはぽんぽんと出てきてよどみない。
〈年上の女が好きそうな洒落た格好なんざ俺にはわからねえ、専門家にあたるに限る〉
〈そーゆんじゃねえってげんぶたのむ〉
〈断る〉
玄武はそれだけ打ち込むとデフォルトのスタンプをよく見もしないで送り、スマホをポケットに戻した。担任はのろのろとプリントの文字を読み上げた後それらを配布して、また三日後に会いましょう、と小学生に言うようなことを言った。
ホームルームが長引いているらしい朱雀の教室の前で、玄武は女とのラインを確認する。まだ既読はついていない、仕事中なのだろう。玄武にはロケが終わった後のことはよくわからないが、やりとりの呼吸からして夜討ち朝駆けと呼ばれるような勤務体系であることは察せられる。ふうとため息をついて、今度は未読が溜まっている朱雀のラインを開く。案の定適当なスタンプへの文句、そして服は自分で買いに行くからいい、そのかわり遊びに行くときは絶対に近くにいろ、と続く。
やなこった、やってられるか。
そう玄武は胸の内で呟く。何を好き好んで彼女と朱雀が睦まじく——かどうかはわからないが、それなりの距離で親しくしているところを見なければならないのか。玄武は頃合いを見計らってはぐれたふりをして帰るつもりだ。当然朱雀は怒るだろうが。
やがて教師の話し声がやみ、扉が開いてヤンキーどもがぞろぞろと教室から出てくる。中を覗くと朱雀は隣の席の男子生徒と話していたが、玄武の視線に気づくとあわてて机の中のものをカバンにしまい、駆け寄ってきた。
「……とりあえず、テストは多分大丈夫だ」
「そうか、そりゃあ補習やった甲斐があったってもんだ」
「数学がちょっとやべえけど、仕事潰すことにはなんねえと思う。玄武がアレ作ってくれただろ、なんか、点がどれだけ取れるかってやつ」
「配点の予測か?」
「それだ。たぶん最初の計算するとこで二十点くらいとれてっと思うんだよな……わかんねえけど」
言葉を交わしながら下駄箱に向かう。朱雀は不自然に服の話、そして出かける話に触れない。ただひたすらテストの出来について話し続ける。逆に玄武が焦れて、先に言葉にした。
「めかしこんでこいよ」
「あ?」
「土曜だ」
途端に朱雀は黙りこんで、自分の下駄箱の扉を乱暴に開けて靴を地面に叩きつけ、上履きを戻すと吐き捨てる。
「マジで今回の恨んでっからなオレ」
朱雀は言うとかかとを踏んだままのしのし歩き出す。途中、植え込みに隠れていたらしいにゃこが合流して、ぴょんと腕に飛びつくと肩までのぼりあがる。そのにゃこにも朱雀は一瞥もくれずに先へ行ってしまう。
玄武はその背中を見ながらブーツに足を突っ込み、ファスナーを上げたあとで紐をことさら丁寧に結び直して、距離を詰めないように後を追う。朱雀の不機嫌はどうやら本物だが、本気で怒っているわけではないらしい。要素としては戸惑いや混乱が多いのだろうと玄武は分析して、女に追加でラインを送る。
〈途中で二人きりにしたい〉
大丈夫だ、これは正しい。正しい。
事務所のブースでボイストレーニングを終え、山村にこのあいだとは違う味のカルピスを作ってもらっているあいだに、朱雀が問題用紙に乱暴に書き残した回答をチェックした。手応えはおおよそ正確で、赤点をかろうじて回避している科目がほとんどだった。なぜか現代文だけは五割が見えるところまできていて、朱雀に問うと台本で漢字を覚えたから、と答えが返ってきた。アイドル稼業で成績が上がるならありがたい限りだが、二次関数やえんどう豆の色とはそうそう巡り合わないだろう。
「配点が予想通りなら大丈夫だ、番長さん、心配かけたな」
「マジか! よっしゃあ!!」
「やったじゃねえか紅井」
「おう! ベンキョーってやればできるんだな……知らなかったぜ」
「あはは、お疲れさまでした。はい、今日はマンゴーカルピスですよ」
山村が置いたグラスを朱雀はすぐに飲み干して、うめえ! と口走る。玄武も一口飲んで、プロデューサーに顔を向ける。
「この調子で期末もうまくいったら、もう少し仕事も入れられると思うんだが」
「期末が七月頭だっけか? 夏休みの後半の特番あたりに営業してみるか」
プロデューサーは顎をかきながら玄武の家にあるのと同じもふもふキングダムのノベルティカレンダーを手に取る。それからぼそりと言う。
「あ、そうだ。レギュラーの例の五分枠、九月期もとれそうだぞ。まだ確定じゃねえが」
「本当かい。それは僥倖だ。なあ朱雀」
「あ? ああ、そーだな! 仕事があんのはいいことだぜ」
朱雀がややぎこちなく言うのを引き取って、玄武は先方の反応をプロデューサーに聞く。数字はとりわけ良いわけではない、というか尺が短すぎて数字が出ないのだが、視聴者の反応は悪くなく、SNSにハッシュタグができる程度には盛り上がっているという。それで枠のスポンサーの企業も継続を検討しているらしい。
玄武はその吉報を聞きながら、彼女と顔を合わせ続ける未来を想像する。土曜日がうまくいっても、いかなくても、仕事は続く。うまくいって朱雀と彼女の距離が近くなればそれを見続けなければならないし、失敗したらそのフォローが必要だ。どちらにせよ玄武は朱雀の親切な相棒として、ふたりの関係を見続けなければならない。遊びに行くお膳立てをして、当日はふたりきりにしてやり、結果を受けてまたなにか計り、そうして九月になったら彼女の誕生日プレゼントでも一緒に選ぶのだろうか。それでも恋心は殺されないのだろうか。山村にカルピスのおかわりを作ってもらっている朱雀を見ながら、玄武はぬるまったマンゴー味をもう一度飲みくだした。
プロデューサーが収録に出かけるというので朱雀と玄武も事務所を出る。階段を下りながら朱雀がたまこやに寄りたいと言うのでせめてそれくらいには付き合うことにする。といっても玄武は帰って食べなければならない食材があるから買い物はしない。そのあたりの事情はたまこやの婆さんはわかってくれているし、変に気を使わないのでありがたい。
ショーケースの前でしゃがんだ朱雀がメンチカツをはふはふ言いながら食うのを見下ろす。ざっくり揚がったカツは学食のものよりふた回りほど大きく、火の通った肉のいい香りがして玄武の食欲もくすぐる。朱雀の大ぶりの前歯が衣に食い入って中身をちぎり、唇に隠れて見えなくなる。もぐもぐと上下する顎は健康な筋肉で駆動し、首回りから肩のあたりもつられて動く。朱雀の食いっぷりは気持ちがいい。そう、気持ちのいい男なのだ。こいつは。初手に見た目で敬遠されなければ、知れば知るほど好きになれる。——彼女だって、そう思うはずだ。
朱雀がメンチカツを食べ終えて尻を払って立ち上がる。包み紙をたまこやの婆さんに渡して、玄武の顔を見ずに駅のほうへ歩き出した。玄武もあとを追う。
「あのよ、本屋付き合え」
「今日、火曜だぞ」
「週プロじゃねえって! その、服の本だよ、雑誌!」
振り向いてがなる朱雀の頬がかすかに赤い。
「普段のカッコじゃダメなんだろ? わっかんねーから雑誌のそのまま買う!」
「ダメってこたあねえと思うが」
「だって、あのひとたち、アラサーだろ。隣ガキ丸出しのが歩いてたら嫌だろ」
ずん、と胸に重石が落ちる。隣と言った。隣を歩くつもりなのだ、朱雀は。二対二になるつもりで、当然朱雀は彼女と組み、またそれは玄武とラインの相手の女がペアになることでもあり、そこになんの疑義もない。それは計画通りのはずなのに玄武に陰を落とす。
「……変に背伸びしねえかだけ見てやる」
「おう、サンキューな。あんま派手じゃねえのにすっからよ」
言って朱雀はこちらに歩み寄り、手のひらを差し出してくるのでしかたなくハイタッチで応えてやる。ぱん、と触れた一瞬、玄武の手の細胞は朱雀の温度と湿度、汗で緩んだ皮膚、刻まれた皺、親指と小指の付け根から手首まで広がる分厚い筋肉、そういうものを感知して逐一脳に届ける。〇・五秒もない時間を玄武は丁寧に綴じて海馬にしまった。抜くときにでも思い出すに違いない、自分の卑怯さに内心苦笑しながら駅前の本屋を目指す。
朱雀は結局大学生向けのカジュアルなものと、三十代以上向けのワイルド系の二冊の雑誌を買った。それだけで千円を超える。そのあとふたりはファストフードに入って、限定のヨーグルトシェイクを飲みながら戦略を練った。
「お前は身体ができてるからシンプルな格好でいいんじゃねえか」
「でもこんな高えTシャツ持ってねえぜ。ロードんときに着てくやつばっかだ」
「とりあえず普段の柄シャツはやめろ。あれは心証が悪い」
「予算がよお、上が三千五百円で下が六千五百円なんだけどよ、載ってる服が一枚も買えねえ」
「……下はいつものジーンズに適当なスニーカー履いて、上を八千円くらいのにすればいいんじゃねえのか。あの人の身長がおまえの首くらいだから、よく見えるのは上、胸元のあたりだろ」
「お、そうか! なるほどなあ。だったらこういうの……」
そう言って朱雀は事務所から拝借してきたらしい付箋を雑誌に貼り付ける。それを見ながらほとんど買い物についてきたのと同じだと思い、玄武は自分のシェイクをすする。朱雀のおごりなので文句は言えないが、甘い。
朱雀が読み終えた大学生向けの雑誌を手に取る。ファッションの載ったカラーページはざっと飛ばして後半のモノクロページにうつる。iDeCoだとかキャッシュレスだとかの流行り物特集、書評と映画と音楽の紹介欄、芸能人のコラムがあって、やっぱり夏前の号にはセックス特集がある。そこだけ紙が裁断されたときのままぴったりくっついていて、朱雀が手も触れていないことがうかがえる。
玄武は完璧に動物園の「どうぶつのこうび」研究コーナーを見る気持ちでページをめくる。経験の少ない、あるいはまったくない大学生がどのようにその空気に持ち込み、安全なセックスの準備をし、女体に負担をかけない気持ちのいいセックスにいたるか、そして抜き取った後のアフターケアのやりかたまで、懇切丁寧だ。全国で何人がこの手順の通りにことをすすめるのか、いらぬ好奇心が持ち上がる。が、朱雀もそこに加わるとなったら自分はきっと平静ではいられないし、その可能性は前よりずっと高い。
顔を上げると朱雀は時計の特集で難しい顔をしている。玄武は雑誌を閉じてページを覗き込んだ。
「あのよお、マストバイってのは、英語のマストだよな」
「そうだが、別に時計はいいんじゃねえか? お前はブレスレットしてるし、スマホもあるだろ」
「あー。そうだよな、時計、そもそも買えねえし、いいよな」
思ったよりマニュアル頼りの相棒の一面を見て意外に思いながら、買うものは決まったのかと水を向ける。
「Tシャツと、あとこういう……体にくっつく感じのカバン買う。女の買ったもんなんかは持ってやったほうがいいんだとよ。靴とかはあるもんでどうにかするぜ、サンダルでも平気みてえだし」
「それでいいんじゃねえか」
「おまえは?」
「……あー、まあ、普段からお前ほど派手じゃねえからな。適当に見繕うさ」
そう話をごまかして残りのシェイクをずっと音を立てて飲んだ。
それから二日間の試験休みのあいだ、一日だけ朱雀はレッスンを休み、どうやら買い物に出かけたらしかった。玄武は事務所でミランダ・ジュライを読み終え、止まっていた恋愛小説のほうを読み進める。主人公の女が相手の男とはじめてまともに会話をするシーンがひかえていた。ふたりは自分の職業を丁寧に説明して、本の話をする。玄武の経験から言うと偶然出会った二人が本の話をすることはまずないのだが、そこは小説なので、本の話でいいのだ。
〈「本はおすきですか」とわたしはきいた。「もうほとんど読みませんけど、昔はすきで、読んだ時期がありました」「小説とかですか」「そうですね。勉強には関係なかったけれど、学生の頃は小説を読むのはすきでした。古いのばっかり読んでいたような気がします。ずいぶん読んだような気もするけど、内容はもうほとんど覚えてないですね〉……。
玄武は一度文を見て内容を把握し、二度読んで情景を立ち上げ、喫茶店の中を想像する。ちいさな丸い机を挟んで向かい合う男女はかすかな糸を切れないように手繰りながら会話を重ねていく。その情景がぶれて、登場人物がすり替わる。朱雀と彼女。なんの話をするのだろう。猫か? 仕事の話、学校の話、そこから食べ物の話でもするのだろうか。朱雀があれでいて細やかな気遣いを見せるのを、先回りして理解している彼女が笑って褒めてくれる。朱雀は照れて耳まで染め、慣れてねえんだ、と呟くだろう。
ずきりと心臓に久しぶりに針が刺さる。いまごろショップで店員を避けながら普段手に取らない上質な布地を取っ替え引っ替えしているだろう朱雀。それはすべて彼女のためにだ。自分と遊びに行くとにめかしこむ朱雀は想像できない。それを自然体ととって喜ぶには玄武の感情は時間が経ちすぎてしまっている。
玄武は文庫本をローデスクに放ると背にもたれて伸びをした。山村がおつかれさまです、と声をかけてくれる。疲れちゃいねえんだがなと苦笑しながら、果たして本当だろうかと、思った。
木曜日、昼休みにまた屋上に集まった。玄武は昨日プロデューサーに託されたロケの書類を渡すほかにも用があったし、朱雀は買った服の写真を見せたいと言う。見たところで買ってしまったものは取り換えが効かないのだがと思いながらスマホを覗いた。黒地にチャコールグレーでトライバルが描かれたTシャツがうつしだされていた。
「悪かねえんじゃねえか」
「正解がわかねんねえんだよ……」
「そんなもんあるか」
「これに半ズボンで、スニーカーはいときゃおかしくねえよな?」
「俺じゃなくて雑誌に聞け」
玄武はそう言ってハムレタスサンドをかじる。
「マジでわっかんねえ……ああもう」
「そういや時間と場所、決まったぞ」
「どこだよ」
「横浜だ。俺の家から近いからお前もわかるだろ、現地集合でいいな」
朱雀に送られてきたショッピングモールのサイトを見せる。ここは前に朱雀が泊まりに来た時に映画を見に行ったことがあって、土地勘はあるはずだ。
「あー……行ったことあんな。わかった。横浜から乗り換えか」
「時間は十時半。そこから買い物して、昼飯食って、場合によっちゃもう少し遊ぶ。そういう段取りだ」
「また買い物すんのか! オレもう小遣いねえぞ」
「前借りでもなんでもしろ。俺もよく知らねえが女は買い物が好きなんだろう。こじゃれた店がいろいろ入ってるらしいから服でも見繕ってもらえ」
「あ? じゃあ服買いにいかなくてよかったんじゃねえか?」
「……それはそうだな」
天を仰ぐ朱雀をまあ当日全裸で行くわけにもいかねえだろと諭して玄武は残りのサンドイッチを口に放り込む。あんなにしょげていた食欲はだいぶ戻ってきていて、レッスンには当然支障はないし、自主トレをする余力もある。
「とりあえず、財布と携帯とハンカチ、ティッシュ持って、にゃこは置いて集合場所に来い。あとはどうにかする」
「……わーった。任せる」
任せられたところで途中離脱する気なのだがそれはおくびにも出さないで、玄武は女に集合時間と場所が確定した旨のラインを送った。ややあって既読がつき、プリインストールのクマのスタンプが送られてきた。
「了解だそうだ」
「はー……マジで遊び行くのかよ、プロデューサーさんバレたらメッチャ怒るぜ」
「お前が言わなきゃバレねえよ」
「親父とオフクロには玄武と遊び行くってだけ言った」
「お前そんなこと報告してんのか」
「遊びに行った先で事故とかあったら困るから、だいたい行く場所は言う約束なんだよ!」
朱雀はふてくされたように横を向いて、毛づくろいをしているにゃこに手を伸ばしてははたかれている。
「……まあなんだ、次の日もあるしそう遅くはならねえだろうから、気楽に行け」
「無理にきまってんだろ!」
玄武がようやっと絞りだした一言を朱雀は一刀両断し、ついに寝転がって無理だー、とデカい声を張り上げる。
無理なのはこっちだ。玄武は内心そう思って、女とのラインの履歴をたどる。
〈途中ではぐれた振りをしてふたりきりにしたいんだが、協力してもらえるか〉
〈できればメシの直前くらいがいい。そのあとは解散でかまわねえ〉
〈わかりました〉
〈高橋はあの性格なのでふたりになって気まずいってことはないと思います〉
〈恩に着る。何か言われたら俺が無理に誘ったことにしてもらって構わねえ〉
〈賢い子なのでたぶんわかりますよ。笑〉
最後に添えられた「笑」は、ちっとも笑っていなかった。不愛想にほど近い女の態度を思い出しながら、玄武はラインを閉じて、まだにゃこにじゃれついている相棒を見る。赤毛は陽を受けて金色にも似た光を放ち、襟足はあちこちに跳ねている。この髪も土曜日にはちゃんとセットされて彼女を待つはずだ。
デートだぞ、朱雀。
玄武はこれまで封印していた言葉を口の中でつぶやく。それは自分と朱雀がどれだけどこにでかけても名付けられない名前だ。これまで映画館もプラネタリウムもゲームセンターも水族館も動物園も美術館も、ありとあらゆるそういうスポットにふたりで訪れた。仕事のときもあったし私用のときもあった。食事だって千回は一緒にしているし、パンケーキだとかパフェだとかにも同行した。だがそれは〝遊び〟で、友達同士の付き合いで、絶対に〝それ〟ではなかった。おそらく朱雀の人生史上初のことになるのではないか。買い物をして、うまくはぐれられたら、あとはふたりでパンケーキか何かを食べて盛り上がればいい。
そして玄武はそれを見とどけずに逃げる。それぐらいは許してほしい。誰に乞うでもなく思う。はぐれたあとでどれだけ怒られようと、最悪絶交されようと、構わない。
そうして金曜日もあっという間に終わり、夜が来て、朝になった。玄武は最近癖になった五時半に目を覚まして、三十分先に設定していたアラームを止めた。朱雀ほどではないが女と出かける以上身だしなみには気をつかう。シャワーを浴びて髪も洗い、普段は節約のために使わないドライヤーで念入りに乾かした。昨晩そろえておいた七分袖のカットソーとジーンズを身に着けて、髪をいつも通りのオールバックにセットする。それから鏡に近寄って、まだ生え揃ったとはいえない髭を、丁寧に剃りあげる。アフターシェーブローションをなじませた顔色は悪くない。最後に眉のあたりをチェックして洗面台を離れる。トーストを焼いている間に目玉焼きを作り、簡便な朝飯とする。買い置きの段ボールからお茶のペットボトルを取り出し、スマホと財布と文庫本と一緒にボディバッグに入れる。ブレスレットと指輪をはめて、ペンダントの留め具を首の後ろで留めた。
そこでやることが尽きてしまった。まだ七時にもなっていない。玄武の家から集合場所までは、徒歩で行ったって一時間にもならない。
ひとまずスマホを手に取り、昨日の夜送った女へのラインを確認する。
女はざっくりとしたプランを送ってきてくれた。まず服屋で朱雀と玄武の服を見繕う。それからオーガニック系の石鹸ブランドでしばらくテスターで遊ぶ。そのあと雑貨屋を見る。これは彼女がクッションカバーを替えたいと言っていたからだそうだ。それはできれば朱雀が選んでやる。そのあと人の多い広場のあたりではぐれる。完全に見失ったのを確認して、ミッションは終了だ。
プラン自体には玄武は諾否を言う権利はないし、朱雀が引っ掛かりそうな点も見当たらない。室内で完結しているから天気を気にする必要もない。玄武はモールのウェブサイトと首っ引きで動線を確認し、レストランフロアに入る前にはぐれたほうがよさそうだと判断してそれを送って、昨日は寝た。女からは夜のうちに返信が来ていて、承諾したという。
〈念のため、どこかのお店に入ってしまうほうが分かりにくくなると思います〉
それに了解した、と返事を打って、玄武は床に座りベッドにもたれかかる。
やることが、ない。
靴は昨日の夜に揃えてある、面倒をみるペットや植物があるわけではない、テレビはそもそもひいておらず、ネットニュースは朝飯を食べながら見た。朝のルーティンはオプションも含めて全部終わっている。洗濯は明日ロケから帰ってきてからする予定だ。
予定を全部キャンセルして服を脱ぎ散らかして髪もぐしゃぐしゃにして寝っ転がって眠って何も見ずに今日を終えてしまいたい。
衝動がこみあがってくるのを抑え、玄武はふうっと息を吐く。それでもやらなければよかったとは思わない。朱雀がそれを望むなら、玄武はどうやってでも彼女と朱雀を近づけたかった。朱雀が幸せになることが一番だと、それは大きな嘘で、玄武は本当は自分が諦める方法が知りたいだけだ。朱雀に打ち明けられて、二人の姿を見て、先を想像して、それでもまだこの感情は息づいて育とうとしている。意図的な枯死は存外に難しく、理性の指揮下にない。朱雀が笑うたびに、げんぶ、と柔らかく呼びかけてくるたびに心は跳ね、水を得る。
玄武はぼうっと視線を床に投げたまま、はぐれたら相棒はどれだけ怒るだろうか、と想像する。まずラインは大量にくる。着信もやまないだろうし、あの大きな声で名前を叫ばれるのも間違いない。いっそ映画館にでも入ってしまおうかと思うが、休日の映画代千九百円をひねり出して興味のない映画を見るよりは、多少耳をふさいで、千円少しの昼飯を食べに入るほうが現実的だ。
時計を見る。まだ出かけるまでに三時間ほどある。玄武は諦めて棚からハードカバーの小説を取り出した。ながらく絶版で、最近復刊されたのを九十九から借りたものだ。九十九は酔うから読む場面には気をつけろ、と言っていたが、少しだけなら大丈夫だろう、と扉を開く。
十時十五分。玄武は食いすぎたようにもたれた腹をかかえて約束の場所についた。読んだ本がよくなかった、と思う。内容のよしあしではなく、単純に女と遊びに行く前に読む本としては重すぎた。恋愛小説の続きを進めたほうが効果的だったに違いない。
あたりを見回しても朱雀や彼女たちの姿はまだなく、玄武はスマホを開くと朱雀にラインを送る。
〈着いた〉
間を置かず既読がつき、もうすぐつく、という一文がポップアップする。
彼女たちも遅刻をするたちではないだろうと考えながら腕を組む。しばらくして「黒野さん」と声がした。振り返ると女がいた。
「お疲れさまです、今日はよろしくお願いします」
それは仕事のときと変わらない声音で、言えば格好も白シャツにデニムといつもどおりで、そもそも彼女にとっては今日は仕事の延長戦のようなものだ。玄武は少し脇にずれながら、重ねた非礼を詫び、セッティングの礼を言った。直接目の前で言うのは初めてだった。
「気にしないでください。私はただの野次馬なので」
女はそう言うと、玄武の隣に収まる。
「高橋は遅刻はしませんがだいたい五分前くらいに来るので、お待たせしてすみません」
「ああいや、俺が早すぎるんだ。この間も朱雀に言われた」
「そうでしたか」
そこで会話は途切れる。女の発言は玄武から言葉を引き出すものではなく、玄武も続けるつもりはない。
しばらくして駅のほうから朱雀が駆け寄ってきた。写真通りのTシャツにハーフパンツ、スニーカーに玄武と同じくボディバッグ。十六歳の格好としては好感度は悪くないだろうと思う。
「わりい、待たせたな」
「いや、まだ揃ってない」
「あ? あ、そうか、そうだな」
朱雀は息を整えると女に向かっておはようございます、とぎこちなく言い、玄武に視線を戻す。玄武はそれを受け流して女に予定にあった石鹸屋について尋ねる。女は新宿や渋谷にも店舗があると説明して、横浜限定のバスボムがあり、それは珍しいので贈ってやればいいのではないかと提案してきた。朱雀は目を白黒させて「かんがえておく」と平板に返す。
「千円しないくらいだろう、いいんじゃないか」
「バ……スボムってなんだよ」
「入浴剤だろう?」
訊くと女はそうですとうなずく。
「……風呂でつかうもんとか、贈り物にすんのか?」
「わりとよくありますよ。差し入れでいただいたりとか」
「マジか……」
また朱雀が助けを求める視線を投げかけてくる。
「あのな、気負うな」
「つったってよお」
「普通にしてろ、普通に」
言いながら玄武はスマホに目を落とす。五分前。
「お待たせしましたー」
来た。朱雀がそわつくのを肘で制してから顔をあげる。薄桃のTシャツにくるぶしまであるモノクロの幾何学模様のスカート、空色に塗られた爪の見えるサンダル。これが彼女の〝遊ぶ時の格好〟なのだろう。
「すみません、電車一本行っちゃって」
「いや、時間前だ。今日はすまねえな、時間を割いてもらって」
「いえ、全然ですよ、私たちでお役に立てるんでしたら、いつもお世話になっていますし」
若干噛み合わない会話に玄武が黙りかけた瞬間、女がそっと口を添える。
「今日はお二人の洋服の見立てを先にして、それから申し訳ないですけど私たちもついでに買い物させてください。紅井さんの一揃いと、黒野さんのトップス、で大丈夫だったでしょうか」
玄武がうなずくと女はスマホを取り出し、目星をつけておいたらしいショップのサイトを彼女に見せる。
「あ、いいね、似合うと思う」
「時計回りにこう行けば時短じゃないかな」
「うーん、価格帯高いところから先に見たほうがよくない? 似た安いやつあとから見つけると悔しいし」
「そうだね」
女ふたりはそうして順路を決め、男ふたりはフロアマップすら手にせずに店を見て回ることになった。最初入ったセレクトショップで朱雀は何の気なしに値札を見て、玄武! と大声をあげる。
「うるせえ、なんだ」
「オレこんな金持ってねえ」
「あ? ……高えな」
単行本が四冊買える。そう思った瞬間、彼女から声がかかる。
「大丈夫ですよー。ここで系統決めちゃってから安いとこ行くんで」
そう言う彼女の手にはすでに数枚の服がかかっている。朱雀はさっそく鏡の前に立たされて、あれでもないこれでもないと女たちの評価の的になった。しばらくして肉付きのいい朱雀はオーソドックスなTシャツとハーフパンツがいいと結論が出て、今度は玄武の番になる。
「黒野さんブルベですか? グレートーンがいいかも」
朱雀がなんだそれという顔をしているが玄武にもわからないことはある。黙って身体に押し当てられる服を我慢している間に議論は進み、色の派手ではないポロシャツがよいということになった。女たちは服をたたまずに店員に渡して――どうもそのほうが都合がいいと彼女は言う――、次の店に入る。朱雀が着せ替え人形になっている間に確認したところ、さっきより二千円ほど安い。戻ると朱雀は深い紫のTシャツを着て借りてきた猫のような顔をしている。
「悪くねえじゃねえか」
「紅井さんメッシュ入ってるんで、補色の紫いけるかなって思って」
彼女が解説し、女もうなずきながら言う。
「秋まで着られますから。あと、セール品なので三千円台です」
「お、マジか」
朱雀が胸元をつまみながらぱっと表情を明るくする。女たちも二軒目での購入に反対しなかった。朱雀が会計を済ませている間に店の外で少しだけ三人で話す。女が補ったところでは、今日は私服撮影の多いふたりが一度他人が見立てた服が買いたい、と彼女たちを指名したことになっているらしい。彼女はわりとそういうことが好きなほうで、女が今日身に着けているアクセサリーもいくつかは彼女が選んだものということだ。
話が玄武の身長におよんだところで朱雀が戻ってきた。続いて玄武のポロシャツを探して数軒の店を回る。玄武は一軒目の三千八百円のチャコールグレーでよかったのだが、袖の長さに注文が付き、結局モールをぐるりと半周したところの店でようやく決着した。玄武が遊興費用の財布から支払いを済ませて戻ると、朱雀が助かったと言わんばかりに「なあ玄武!」と同意を求めてきた。何の話か尋ねるのも面倒で、とりあえず首を縦に振る。
「紅井さん、パンツどうしますか? あんまりいいのなかったんですよね」
「あ、ああ……その、別に今日じゃなくても、なあ!」
「おふたりの買い物を先にしてもらったほうがいいかもしれねえな」
顔を見合わせた女ふたりはじゃあ、と言って階上へ歩を進め、くだんの石鹸屋に足を踏み入れる。漂う香料に朱雀が反射的に腹に手をやって、にゃこの不在を確かめてほっとしたような顔をする。と、玄武の脇に女がすっと寄ってきて、あっちにシャンプーとかがあります、と言う。察した玄武は朱雀に石鹸の種類を説明する彼女から距離をとり、敷地の対角線まで移動する。
「話好きなんで、たぶんしばらくああしてるかと」
「すまねえな」
「いえ、私も久しぶりに来たかったので」
そういう女の手には小さな容器がある。聞くとリップクリームの類だという。能書きを見せてもらうがどれが有効成分なのかさっぱりわからない。
「礼というわけじゃねえが、それくらい払わせちゃくれねえか」
言うと女は最初は遠慮し、それからこれは少し高いので入浴剤にしましょうと言って玄武をカラフルな棚の前に案内する。玄武は一通り検分して、結局横浜限定だというラメの入ったものを手に取った。
後ろで朱雀の声がして振り返るとふたりは女の店員に捕まっていた。朱雀は水のはられたボウルの前に座り、手に水をかけられて泡をぬりたくられる。やれくすみがどうだとか説明を受けているが、店員に手を握られていることでそれどころではないはずだ。彼女はにこにこしてそれを見守っている。
絵には、なっている。こういうことに疎い彼氏と積極的な彼女の初デートといったふう、ではある。だが成功しているのか、どうなのか。
疑問を抱きながら玄武は会計を済ませて女に紙袋を渡す。しばらくして生気を失った朱雀が彼女とやってくる。
「あれ、買ったの?」
「買ってもらったの。横浜限定のやつ」
「私も買う!」
そう言って棚のほうに彼女が行くので、玄武は朱雀の肩を叩く。朱雀が一瞬こちらを見て、それから意を決したように後を追う。声をかけて何かしら話し、断りかけた彼女に対してなぜか頭を下げて、結局諾をとり、連れだってレジへ向かう。
胸のあたりを無意識におさえていた。殴られたあとのように空白があって、痛みが広がる。意識がそちらにいきかけた瞬間、女が「先に出てましょうか」と呟いた。
「そういえば、雑誌読みました」
「雑誌?」
女は玄武の原稿が載った誌名を口にした。ジュヴナイルの書評依頼が来て、書いたのはもうずいぶん前だが、やっと載ったらしい。
「お好きなんですか、海外文学」
「そういう言い方をするってことは、そっちも好きなほうかい」
「国内作家よりは読みます」
へえ、と思ったところでふたりが戻ってくる。
「朱雀お前、いろいろ混ざった香りがするな」
「なんかよお、いろいろ石鹸使われて……はちみつと、みかんと、塩と、あと草っぽいやつ……なんだったか忘れた」
言いながら、朱雀は手にした財布をバッグにしまった。時計を見ると十二時前で、人の流れはさらに階上のレストランフロアへ向かっているようだ。
「メシにするか?」
「どうしましょう、混んでますかね?」
言いながら彼女はさっとフロアガイドを取り出す。
「いや、もう少し後からにしねえか。今行くと並ぶだけだろう。腹が空いてるってなら別だが」
言いながら玄武はそっと視線を流した。女は了解したふうにフロアガイドのページをめくり、それなら先に雑貨屋に行かないかと提案してきた。女はいくつかある店の中から大手チェーンの名を挙げて、返事を待たずに先導するように歩き出す。玄武は並ぶようにそれを追う。
「広いですから」
女は玄武にだけ聞こえるように言った。
店に着いて、彼女が欲しがっていたというクッションの棚に四人で行く。玄武はそれとなく女の側に近寄り、二対二になるように仕向ける。朱雀がとまどったようにこちらを見たが、知ったことではない。仕方なく彼女に話しかけに行き、へたな役者のようなおおげさな声で応対する。
「あー、どんなんが好きなんだ?」
「洗えるのがいいんですけど、リネンとか、ワッフルとか」
「り……えーと、どのマークの探しゃいいんだ。家庭科でやったぜ、たぶん」
言いながら朱雀は陳列されたクッションのタグを片端から調べ始める。彼女が肩を寄せて、同じものを覗き込んだところで玄武は視線を切った。女に視線をやり、そっと売り場から離れる。迷路のように組まれた棚の間を抜ける瞬間、女の手が玄武の手首に伸びた。
「言い訳がつきますから」
女はそのまま玄武を先導して店を出て、エスカレーターに乗り、ようやく手を離した。玄武は手首に残る温度に自分が毫も動揺していないことに気づく。
レストランフロアで唯一並んでいなかった店に入り、ランチメニューを開いたところでポケットに入っているスマホが震えた。どうせ朱雀だ。玄武は取り出しもしないまま無視をする。最初はラインの通知で、そのあと着信を知らせる長いバイブレーションが続く。
「何にしますか」
同じく震えるスマホを放置したまま女が言う。玄武はメニューを見下ろして、ようやく店がイタリアンであることに気づき、百円増しで大盛りの和風パスタを頼んだ。女はカルボナーラを頼み、運ばれてきた水に口をつける。その間もずっとスマホは脚に振動を伝えている。
「……すまねえな、巻き込んで」
「いえ。たいしたことでは」
「ここは奢らせてくれ」
「さっきプレゼントをいただいたので、割り勘で」
「……そうか」
玄武はドレッシングのかかりすぎたサラダをかきまぜて口に運ぶ。
「さっきの話ですけど」
「さっき?」
「最近読んだ本は何ですか」
「……ああ、それか」
玄武は合点して、先般読んだポルトガル人作家の本の名前を言う。すぐに表紙が犬の、と反応が返ってきた。読んではいないが、書評で見たという。
「電子書籍にないと買うのに躊躇してしまって」
「俺はクレジットカードがねえから、まだ全部紙だ」
言うと、十七歳でしたっけ、と女は呟き、何かを調べようとして鞄に手を伸ばしてからスマホが使えないことを思い出したらしく膝に戻す。
「面白かったですか」
「迫力があった」
「嫌な逃げ方しますね」
それからふたりはそれぞれパスタを食べながら本について話した。共通の話題があることに玄武は内心ほっとして、合間にさすがに鳴りやんだスマホを確認した。不在着信が十五件。ラインの未読は三十二通。よくそれで済んだな、と思いながら顔をあげる。
「映画にでも行ったことにしますか」
「電源を切り損ねたから、その言い訳は無理だな」
どうせ真意は朱雀にはバレているし、玄武のほうは無理な言い訳をこしらえる必要はない。女がじゃあ本屋に行ったことに、と雑に言うのに同意した。店員がわざとらしくお水のおかわりは、と聞いてくるので、玄武はジェラートを、女はパンナコッタを頼んだ。六百円はそれなりに懐が痛いが仕方ない。女はお手洗いに、と言って鞄から小さなポーチを取り出すと席を立つ。玄武はランチセットについてきたコーヒーを飲みながら店の賑わいをぼんやり聞く。後ろの席では家族連れが食事をしているようで、親がはしゃぐ子供をたしなめる声が聞こえる。通路を挟んで隣の席は大学生とおぼしき女のふたり連れで、パフェをつつきながら噂話に事欠かない。
ふつうの世界が広がっている。
無縁だ、なにもかも。玄武はそう思ってブラックだったコーヒーにミルクポーションを注ぐ。白濁りしていくコーヒーの渦を見ているうちに、女が戻ってきた。口紅を塗りなおしている。
「……黒野さんは小説は書かないんですか」
「俺が? 俺は読む専門だ」
「アイドルが書くって結構聞きますけど」
そのまま話は最近映画化されたアイドル作家の小説に移り、たまたまふたりとも原作を読んでいたのでキャスティングの是非について少しだけ話は弾んだ。運ばれてきたデザートを冷たいうちに食べ、また本の話をする。九十九たちと話すときとはジャンルが違うから未読の作家の話も出てくる。ところどころで詰まりながら進む会話は悪くなかったが、玄武が女に抱けるのは共感と好感までだ。その先は、ない。
二度ほど客が入れ替わった。長尻は嫌がられるのを承知でふたりは話し続けた。玄武はもうスマホを見なかったし、それが震えることもなかった。やがて女が時計を見て、四時です、と言った。都合三時間以上、時間をつぶしたことになる。
「さすがにもう帰ってると思います、いくら高橋でも場がもちませんから」
「今日は本当にすまなかった。改めて礼をさせてくれ」
「いえ。それより明日もよろしくお願いします」
ふたりは席を立って割り勘で会計を済ませ、そのまま駅に向かい、女は用があるからと言って改札の前でわかれた。玄武はそのまま電車に乗り、横浜駅まで行った。駅前の書店で図書室で借りたあの本を買い、プレゼント用に包装してもらった。それを提げて最寄りまで帰り、スーパーで総菜を買って家に戻った。今日の出費はおおよそ七千円だった。それだけを支払って、玄武は朱雀と彼女をふたりきりにすることだけに成功した。後のことはわからない。
家についてラインを開く。朱雀からのメッセージは三十二から増えていなかった。
〈どこだ〉
〈へんじしろおい〉
〈でんわでろ〉
そういった文面をざっとスクロールして流し読み、玄武は一言だけ送信した。
〈はぐれて悪かった。家に戻った〉
返信が怖かった。だから玄武はスマートフォンをベッドに伏せて置き、米を解凍して晩飯にし、一週間分の冷凍ご飯を作るべく炊飯器のスイッチを入れてシャワーを浴びた。次にスマホを見たのはメッセージを送ってから一時間弱経っていた。
既読がついていない。
最初は拗ねているのかと思った。だから続けて〈明日は一人で行けるか?〉と送った。ロケは池袋で朱雀が迷う心配はなかったからだ。それにも既読がつかない。
ざっと血の気が引く音がした。頭に浮かんだのは最悪の展開だった。朱雀と彼女はまだ一緒にいる。いや、最善か? 玄武は唇の端に浮かぶ笑みをこらえて、情けなくラインにもう一言打ち込む。
〈現地集合でいいな〉
アプリの上に表示されている時計が六十秒ごとにひとつカウントを増すのをただ見守っていた。自分の呼吸が荒くなるのがわかる。耳元では血流の音がするのに指先は冷えていく。そうして十五分経った。
夜だ、もう補導対象になる時間だ。それともそういう心配のない場所にふたりでいるのか? 抑え込んでいた想像が暴発する。そうなればいいと、思っていただろう。そのために今日一日、いやこの数ヶ月を使ってプロデューサーとの約束を破ってまでお膳立てをしてやった。その結果がきちんと出た。文句はないだろう。それを望んでいたのだろう。あの厄介な感情を殺してほしいと何度も願ったのだろう。
涙は出ない、玄武の涙腺は眼球を必要最低限に潤すことしかしない。首を絞められたように苦しく、内臓は不随意に収縮して痛みを訴え、なにより心臓にはまたたくさんたくさん針が刺さって、もう動くことすらできない。
朱雀と、彼女がうまくいけばいいと思っているのは嘘ではないのだ。朱雀が幸せになるならばそれはいいことだ。祝福できる。ただ心の底から、というわけにはいかなかった。玄武は――朱雀に触れられることを諦めてはいたけれど、望むことをやめられない。情がなくても欲がなくても朱雀に一度でいいからそういう意味で触れたかったし触れられたかった。朱雀の一番になりたかった。だれよりも優先されて愛されて慈しまれたかった。それももう全部諦めなければならないというのなら、最初から相棒にも親友にも友達にもならずに遠くから朱雀を見ていたかった。たったひとつ抱いた私欲すら叶わないのなら。
玄武はのろのろとタオルケットに手を伸ばして、抱きしめるように引き寄せた。同じしぐさを今この瞬間朱雀は彼女にしているかもしれなかった。そういう想像は安易にできて、指輪を外した朱雀の手が、彼女の柔らかく薄い脂ののった背中に回り、肌と肌が触れる瞬間に立つ小さな音さえ聞こえる気がした。あの奥手な朱雀がそんなことをするわけがない、と否定するのは理性を装った感情で、十六の男が好きな女とそういうことに及べる機会があるなら、逃すはずはないと、本物の理性のほうが言う。玄武だって、朱雀とそうできるなら、していたのだから。
翌朝目覚めて、機械的に外出の支度を終えた。鏡の前で昨日と同じくらい入念にチェックをしたが、それはテレビに映る商品の自分を検品しているだけだ。アイドル黒野玄武は健康そうで、きちんと寝たような顔をしていた。プロデューサーの怒りが飛ぶ心配はない。そう思って玄武は家を出た。早すぎる電車はテーマパークに行くらしい同い年くらいの学生の群れや、老年のグループでそれなりに賑わっていた。玄武は立ったままコンビニで買ったゼリーを胃に流しこみ、栄養ドリンクを飲んで食事を食べたことにする。渋谷で乗り換えて池袋まで行き、ファストフードでお茶だけ頼んで席に座る。
集合時間まではあと一時間あるが、静かな住宅街で家にいるのが耐えられなくて出てきてしまった。渇いていない喉を茶で潤して、玄武はしばらく開かないままだった文庫本を取り出した。主人公は九時に仕事を始めて六時に終えて、そのあとお酒を飲む。そういう規則正しい生活を送りながら、名前と職業しか知らない相手の男から借りた本を読む。それは恋愛に似た何かのように玄武には感じられた。玄武にとって恋はいまや両刃のナイフのようなもので、柄を握っているのは朱雀で、触れられるのはよく研がれて立ったエッジの部分だけだった。血をだらだら垂れ流しながら玄武はそれに飽きることなく触れ、わかりきった傷を負い、また新しい傷口が開く。痛みは指先から血管を通って胸を覆い心臓を侵して生存をあやうくする。
集中できない。きめ細やかに作家が配置した言葉が頭のまばらな網をすり抜けてこぼれてしまう。玄武は本を閉じて机に置く。深い青、夜の樹々の真ん中に置かれた小説のタイトルが目に入る。
恋人たち。
その言葉に彼女と朱雀のありえただろう、おそらく確実なシーンを思い出して、玄武は机に肘をつき、眼鏡をはずして目元を覆った。進展はあるはずだった、あってよかった、なければならなかった、そうするように図ったのは玄武の意図だった。
それがどうしてこんなに痛い。
犬の唸り声のようなため息が口からこぼれて、玄武は慌ててあたりを見回し、化粧を始めた女や徹夜明けらしいホストじみた男たちが自分のことをまったく気にしていないことにほっとして、また俯く。
おおよそ十七年生きてきて、玄武は生まれて初めて恋をして、そして失恋しようとしている。初恋は叶わないほうがいいと初めて言ったのは誰か。玄武はスマホにその一説を打ち込んで、アフィリエイトサイトの群れを目にしてブラウザを閉じる。そうだ、初めての恋だった。紅井朱雀という男は玄武の心に飛び込んできて、初めての感情を教えてくれた。ひとが笑っているだけで幸せになれること、こちらを向いて話しかけてくれるたびに心が弾むこと、幾たびも惚れ直す、という精神の機能、そして、その心がどこかを向いていると知ったときの苦痛。
どうして好きになったのだろう、と玄武はありふれた歌詞のようなことを今更思った。世界で一番、大事な相手になったまではよかった。玄武の世界を開いてくれた相手に、信頼と対等な友情を抱いた。それが独占欲と性欲に化けて、手に負えない怪物になってしまった。朱雀から向けられる好意に素知らぬ顔で嘘をついて相手を騙して隣にいる、自分はそういう不純な存在になってしまった。それなのに自分は己を棚に上げて朱雀の恋の成就を裏切りのように感じて、今日だってどんな態度をとってしまうかわからない。彼女と朱雀の間の空気が変わっていたら? 朱雀がはにかみながらそれを報告してきたら? 自分はどうするだろう、平気な顔ができるだろうか。崖から突き落とされたような心地にならないだろうか。色を失って、取り乱して、仕事を無茶苦茶にしてしまわないだろうか。朱雀の期待する、黒野玄武、でいられるだろうか。
怖い。恐ろしい。怯えたときに呼ぶ名前はいつだってひとつしかない。
朱雀。
違う、その名前を呼んでいいのは、もう俺じゃない。
顔を上げて、眼鏡をかけて、時計を見る。三十分ほどが経っていた。玄武は文庫本をバッグにしまい、眉間を揉んで、席を立った。待ち合わせ場所の駅に戻る。足取りは想像よりは確かで、五指はスニーカーの中でしっかり地面を掴み、視線はぶれることなく池袋のごみごみした街を眺める。ライバル事務所のグループが街灯をジャックしている。ショップのディスプレイはすっかり夏に変わっているし、ドーナツ屋は瀬戸内レモンの新商品ののぼりを立てたままにしている。
おいていかれないように、生きていかなければ。玄武はそう漠然と思い、待ち合わせ場所に着くと黙ってまた文庫本を開いた。一文字一文字を追うことで小説の世界に入り込む。自分の思考とは違う回路をつかって、違う人生を読む。それが恋愛の話なら、いいクッションになるはずだ。
「黒野さん」
没頭していた。名前を呼ばれて顔を上げると、女が立っていた。
「――紅井さんは、まだですか?」
女は少し含むところのある調子でそう言った。玄武はああ、と反射的に答えて、尻ポケットに入れっぱなしだったスマホを見た。約束の時間を五分すぎていた。
「いや、遅刻するようなやつじゃねえんだが」
「はい、それは重々」
「ちょっと待ってくれ」
ラインは昨日玄武が送った〈現地集合でいいな〉から一言も進んでいなかった。朱雀が連絡なしに遅れることはまずない。
〈今どこだ?〉
送った。それから女を見た。女は少し目を伏せてから言った。
「高橋は、現場に入ってます」
それは文字面以上の情報を何も持たない。
「……昨日は、」
と口に出したところでスマホが震えた。
〈あと4ふん わるい〉
玄武はそれを音読し、女は頷いて自分のスマホを取り出すとメッセージを打ち込み始めた。玄武は画面に目を戻して返事をする。
〈大丈夫だ。焦って転ぶなよ〉
何事もなかったように返せたのはもう仕事モードに入っているからだろう。そのまま女と玄武は無言で五分少し待った。朱雀は改札にばんと財布を叩きつけてこちらに駆け寄ってきた。
「すまねえ、寝過ごして、その、わりい」
朱雀はなぜか女に向かってまくしたて、バッグからくしゃくしゃの地図を取り出すと行こうぜ!とバカでかい声をあげて早足で歩きだした。玄武があっけにとられている間に女は朱雀のあとを追うので、遅れて歩きだす。
「おい、朱雀、走るな。時間はあるんだ」
声をかけても背中は振り返らない。その赤い背中を見て、玄武はようやく、朱雀がよく着ている見慣れたTシャツ姿であることに気がついた。ということは、家には、帰っている。彼女も現場にいるということは、朝まで一緒だったわけではない。ぱっと計算する自分の脳に嫌気がさす。ただの助平根性じゃねえか。
「紅井さん、そこ左です」
「……おう!」
そう言って、朱雀は駆けていく。
現場に着くとセッティングは終わっていた。朱雀はスタッフ全員に頭を下げて、それからなにか手伝うことはないかと問い、ロケバスに押し込まれた。玄武も遅れて詫びを入れに回る。当然その面子には彼女も含まれている。
「遅れてすまねえ、それから昨日は……その、はぐれて、悪かった」
玄武が歯切れ悪くそう言うと彼女は何もなかったような顔で巻いてるんで大丈夫ですよ、と言い、今日はコールドプレスジュースを買ったので、中で飲んでてください、とロケバスのほうを示した。朱雀とふたりきりになるのは正直なところ死ぬほど嫌で、だがそれは玄武の勝手で現場のジャマになるのは確かだ。気乗りしないままバスに乗り、彼女の言っていたジュースだけ取って前のほうの席で茶を濁そうとした。
「おい」
声をかけてくるとは、思っていなかった。視線だけ左にやると、朱雀は股を大きく開いて片足を肘掛けにのせ、こちらを睨んでいる。
「遅刻はよくねえぞ」
「てめえふざけんな」
「――昨日のことか、それなら」
ばん、と朱雀が踵で肘掛けを蹴る。玄武は黙らざるをえない。
「……二度とああいうことすんな」
朱雀はそれだけ吐き捨てて、足を戻すとふいと窓の外を向いてしまった。グレーガラス越しの変わり映えのない街を見て楽しいわけがないから、相当機嫌を損ねたのだろうと察して、玄武はジュースのボトルを適当にとると前のほうの座席に戻って座る。大きめの蓋を取って飲むとたしかにつぶつぶした果肉が入っていて美味い。拗ねた朱雀はすぐ機嫌を直すが、怒った朱雀はそれなりに長くなる。来週末までにどうにかなるといい、と思った。
ロケが始まっても朱雀はまだぴりぴりしていた。店の名前を噛んだし、NGを何度か出した。ただスタッフには平身低頭謝るし、じきに普段の調子を取り戻したので、寝坊を引きずったのだろうと皆が納得してくれた。時間も彼女が巻いていると言っただけあり、予定時刻にはすべての収録を終えることができた。ただふたりきりになると空気は一変し――つまり朱雀はあいかわらず不機嫌で、玄武がラインで事務所に報告を送るあいだ、黙々とサンドイッチを食べ、にゃこが鳴くのを無視してスマホをいじり続けていた。
やがて彼女がバスにやってきた。VTRの確認がすべて終了したので、帰っていいという。
「来週は予定通り土曜日ですが、雨天の場合はもうしわけないんですけど翌日にずらさせていただくかもしれません。場所の変更はありません。また天気予報が確実になったらご連絡します」
「すまねえな、俺たちはどっちの日も空いてるから、直前の変更でかまわねえ。それから――おい、朱雀」
まだスマホを弄っている相棒にさすがに声をかける。朱雀は彼女の顔を見て、きまり悪そうにしながら遅刻を詫びた。その様子からは、ふたりが昨日どうしたのかはまったく汲み取れない。
「じゃあ、お食事終わったらいつも通り解散ということで」
彼女もビジネスライクに微笑んで、バスを降りて行った。
玄武もサンドイッチを食べ終え、ごみをまとめ、それからバッグの中に手をやって、手に触れたものを思い出した。バスを降りると女を探す。打ち合わせか、店の中で店長と言葉を交わしていた。会話が終わるのを待って声をかける。
「……あー、昨日の、礼っていうのもおかしいが、これ」
差し出した袋にある書店名を見て女は目を瞬かせる。
「黙って受け取っちゃくれねえか」
女は袋を開けて本を取り出し、珍しくあからさまに驚いた顔をした。昨日会話に出した、件のポルトガル作家の本だった。
「クレストじゃないですか。いただけませんよ。こんな高い」
「迷惑代だと思ってくれ」
「でも」
「……俺は、昨日は楽しかった、だから」
そこまで言った瞬間、腕を引っ掴まれて上体が傾ぐ。慌ててバランスを取って振り返ると、朱雀が眉間に皺を寄せて、立っていた。
「帰るぞ」
「は? おい、話し中」
「帰る、っつってんだよ!」
ぐいと腕を引っ張られる。昨日、女に触れられたのと同じ腕の、同じ場所。痺れるように熱い。
「すまねえ、そうしたら、また来週」
「……わかりました。お疲れ様です」
そう交わすのもほどほどに、女との話を打ち切った。朱雀は手首を掴んだまま駅のほうへと大股で歩いていくので、玄武は遅れないように追うしかない。
「おい、離せ。人が見てる」
「っせーな」
「なんだお前、怒ってんじゃねえのか」
「怒ってるよ!」
「じゃあ」
なんで、俺に触るんだ。口走りかけた瞬間朱雀が振り向いて、うるせえ、と低い声で言う。やっと手を放してくれて、玄武は本当に血流が止まって痺れている手を擦った。
「帰るっつってんだよ」
「だから帰ってるだろ」
「……帰る、別々だ!」
朱雀はそう吐き捨てて駆けだしていってしまった。人の波の間を縫って、そう高くない背はやがて紛れてわからなくなってしまった。
予想以上にこじれている。玄武は今日何度目かのため息をついて、軽くなったバッグを肩にかけなおす。結局朱雀と彼女がどうなったのかは一言も聞き出せなかった。
玄武はそのまま池袋の街をぶらつき、ジュンク堂に寄って新刊をチェックして、ブックオフの百円棚から二冊を入手した。今週末はどう考えても金を使いすぎていたが、難消化性のストレスを発散するために、活字が欲しかった。
行きと同じ経路で家に戻り、浴槽を洗い、昨日濡らしたままだった床と天井をぞうきんで拭いた。ベランダに舞い込んでいたごみを掃いてまとめ、ついでに窓ガラスもきれいにした。それからキッチンに行って週の前半用に米を四合炊いてラップに包み、晩飯用に回鍋肉を作った。引き出しから眼鏡を取り出してレンズを全部拭き、フレームの色味がグラデーションになるように並び替えた。満足して玄武はベッドに腰かけ、そのまま横に倒れた。
玄武の理性は事物を解釈することに疲れていた。だから言葉より手を優先させた。そしてすることを全部終えて、昨日の朝と同じような手持ち無沙汰に陥ってから、ようやく現実に気づく。明日からも朱雀はあの調子だろうから何かを聞きだすにはよほどの時間と手間をかけなければならないだろう。女から話を聞くのはもっと危険だし、だいたい今日の調子では女もなにか聞いているわけではなさそうだ。
玄武が知りたいのは本当に下世話なこと――つまり朱雀が、彼女と、そういうことに及んだのか、及ばずともたとえば口づけを交わしたり、手に触れたり、抱き合ったりといった恋人だけに許されることをしたのかという点だった。
だがそれも機嫌を損ねた相手にフランクに聞いていいことではない。普段の朱雀の恋愛ごとに対する繊細さを考えればなおさらだった。たとえばもっとわかりやすく顔に出てくれていたら――だったら、自分はどうした? 玄武は問うて、答えがないことに思い至り、眼鏡をはずしてベッドに置いた。それからぼやけた視界の隅で黒い塊にしか見えないバッグから今日買った百円本を取り出す。
それは卒業論文の書き方を指南する実用書で、今の玄武にはまったく不要のものだ。ジュンク堂で平積みになっていたのをブックオフで見つけたので買った。そして玄武は午後の穏やかな時間を、引用の表記基準や論文の構成について学んですごした。玄武が卒論を書くのはもっとずっと先の話だし、そもそも大学に進学するかもまだ決めてはいない。入ろうと思えばどこにでも入れるだろうが、朱雀から離れる時間が増えることに、この間までの玄武は抵抗を覚えていた。だが今日のような態度と雰囲気が続くなら、進学してお互い少し距離を置くことだってできる。
――いや、何年先の話をしているのだ。それまで和解しないつもりか? だがもし彼女と朱雀がうまくいっているなら、玄武と朱雀の距離は自然と離れるだろうし、今までのようにオンもオフも四六時中一緒にいるようなことはできなくなるに違いない。
玄武は暗くなってきた部屋に早めにカーテンを引いて、シーリングランプをともし、回鍋肉を温めると夕食にした。食いながらスマホを見る。普段なら他愛ないことを送ってくる朱雀からは何の連絡もなく、プロデューサーからもなにも言われてきてはいない。九十九からアマゾンのリンクが一件送られてきていた。それに適当に返事をして皿を洗い、シャワーを浴びる。整髪料をトニックシャンプーで丁寧に落とす。それから全身をくまなく洗い上げた。明日から五日間はまた総長として過ごす。瑕疵は自分が許さない。たとえ心がずたずたになっていようと、朱雀が自分を無視しようと、黒野玄武は黒野玄武でなくてはならない。
タオルドライで最低限髪を乾かして、部屋に戻るとスマホに通知が着ていた。飛びつくと九十九からの返信で、それにがっかりすることに申し訳なさを覚えつつ、今日はもう朱雀とは連絡は取れないだろう、と判断する。あるいは朱雀は彼女と連絡先を交換してそっちに熱心になっているのかもしれない。それならそれでいい――いや、いいとか悪いとか、決めるのは玄武の役目ではなかった。朱雀が何をしようと、朱雀の自由だ。言い聞かせながら、御せない部分が脳に澱のように溜まるのがわかる。
一番になりたかった。
子供のように思う。なんでもよかった。朱雀の一番になりたかった。誰よりも優先されたかったし、大事にされたかった。その願いは相棒という場所を得たことでなかば叶っていたはずだったのに、幻想であることを突き付けられた。
今日の朱雀の怒りに満ちた目は、自分の虚勢を張った魂の柔らかい部分を委縮させた。余計なこと、だったろうか。朱雀に介入しすぎただろうか。愚かな黒野玄武に朱雀は嫌気がさしただろうか。
玄武は枕にタオルをしいて、生乾きの頭を載せた。ライトは手元のリモコンで消せる。もう立ち上がる気はしなかった。目を閉じると上と下の瞼の接線が熱くなる。泣けるか? 玄武はしばらくそのままでいたが、涙腺は相変わらず定量の涙しか生産しない。諦めて明かりを消し、スマホを充電ケーブルに差した。ごろりと壁を向いて、丸くなって眠りに入る。掃除でそれなりに動いた身体はすぐにまどろみはじめた。意識が落ちる間際に、朱雀の琥珀色の目がふっと浮かんだ。その視線の先は、わからない。
カレンダーが一列ずれて、一週間が始まる。登校中朱雀には会わなかった。朝からラインもない。今週は水曜と木曜にレッスンが入っているだけだから、最悪三日後まで顔を合わせないことだってありうる。教室に着いた玄武はロッカーから時間割通りの教科書を取りだし、鞄から例の文庫本を取り出そうとしてやめた。恋愛小説だのを読んでいることはあまり大っぴらにしたくはない、パブリックイメージを損ねる。もう一冊持ってきていた書評用のミステリーを引っ張り出す。デカデカと殺人、と書かれた表紙なら、総長が持っていても悪くない。
玄武は結局昼までにそのミステリーを読み終え、朱雀にラインを一通送った。
〈昼は教室で食う〉
わかった、と簡潔な返事がきた。雨の日などは朱雀も玄武の教室に来て、前の席の生徒にどいてもらって一緒に食べることもあるが、今日はそういうことはないだろう。玄武はコンビニのおにぎりを片手で食べながら、ルーズリーフにざっくりと書評の構成をメモした。昨日読んだ卒論の書き方を真似してみたが、いかにも学生が書いた風で、それはそれで求められているものなのだろうが、自分の名前で発表したくない。もう一枚取り出して今度は自分の言葉で書くことにした。
そうしているあいだに昼休みは終わり、午後の授業が始まる。といってもクラスの誰もが昼休みの延長でにぎやかにしているので、玄武も教師に構わずスマホのメモ帳で原稿を進めた。最終的に事務所でパソコンを借りて指定の八百字に収めればいい。教師がヤマト王権について説明を進めるのを聞き流しながらおおよそを書き上げて、玄武はふうと息を吐いた。
これ以上スマホで手を入れるのは文字数の都合上得策ではなく、結局またすることがなくなる。教師は天皇の名前を呪文のように呟き、その効果で半分以上の生徒は眠っている。玄武の席は廊下寄りだから外に目をやるわけにもいかない。仕方がないのでもうほとんど丸暗記している教科書を適当に開き、明治新政府の閣僚についた注を読む。読みながら、不平等条約のことはもはや頭になく、また朱雀のことを考える。長くても今週末までには関係を回復しないと仕事に差し障る。だからといって今回の件は玄武から声をかけるのは筋が悪い。朱雀が大人になって――という言い方をガキの自分がするのはちゃんちゃらおかしいが、とにかく態度を改めてもらうしかなさそうだ。
その一助に、彼女がなるのだろうか。思った瞬間ぴくりと左手の指が痙攣する。昨日の様子では彼女と朱雀はいままでどおりの距離を保っていたように見えた。それがなにもなかったことの証左になりえないことを玄武は知っているが、一方で極端な進展はなかっただろうことを薄々感じ取ってはいる。最悪の、あるいは最善の結果はなかった。それだけで湯舟に入ったような脱力感をおぼえる。それがたとえ一週先に延びただけの話であっても、玄武の文字通りの猶予期間は延長される。それがどれだけありがたく、苦しいことか。
スマホがポケットの中で振動する。開くと女からラインがきていた。
〈お礼が遅くなってすみません。改めて本をありがとうございました。大事に読ませていただきます〉
〈高橋からは何も聞いていません、念のためお伝えしておきます〉
〈授業中すみませんでした〉
業務報告書のような文面はリアクションを封じ込めているようにさえ見える。一読して玄武はこちらも何も聞いていないこと、朱雀が機嫌が悪いのでしばらくは何もしないでおこうと思っている旨を伝えた。仕事の合間だろうから返信は期待せずに教科書に視線を戻す。やがて授業終わりを告げるチャイムが鳴り、申し訳程度のホームルームが始まった。教師がプリントを配って題目を読み上げる。
「修学旅行の積み立て金、三年の時に一括で支払ってもいいが、いまから積み立てられるので、やるなら親と話して申し込むように」
親と、の部分で教師はこちらを見もしない。玄武も別に期待はしていないので黙って字面を眺める。年間四万円の積み立てで、行き先は京都、奈良、大阪。気乗りしないにもほどがあるが、先週までの玄武なら朱雀とともに行く旅行に喜んで金を払っていただろう。だが今は。
――いいか、別に。
浮かんだ声は自分のものだ。何にも投げやりになっている。積み立て分が三年で十二万なら、ギャラを貯めればどうにか支払えるはずだ。プロデューサーに報告だけしようと決めてプリントをカバンに放り込む。
そのままホームルームは解散し、前のほうの席では部活に行く生徒がその場で着替えはじめて不評を買い、グループがカラオケに行くかタピオカを食べに行くかでもめている。玄武は静かに席を立って教室を出た。いつもなら朱雀の教室の前で待っているところだが、今日はやめておこうと思う。下駄箱の前でブーツに履き替えていると、声をかけられた。
「あれ、朱雀サンいねんっすか」
舎弟のひとりがきょとんとした顔をしてこちらを見ている。
「今日は別だ」
「珍しっすね」
「そういう日もある」
舎弟は納得したような顔で、玄武サンについてくの大変ですもんね!と極めて失礼なことを言い、どこかへ駆けて行った。
そこまで不自然か、と思う。朱雀が隣にいないことが。斜め下を見下ろしていつも後ろに撫でつけられた髪があるあたりに視線をやる。そこを〝眺めがいい〟と表現したのは誰の歌だっただろうか。だが空隙を感じている場合ではないのだ、いまは、これからは、もう。
玄武はそのまま家に帰った。朱雀から連絡はなかった。まだ拗ねてやがるあいつ。そう思うだけにとどめてから、今週なかばからテストが返却されることを思い出した。万が一赤点の場合はまた顔を突き合わせて補習してやらなければならない。最近増えたため息をまたひとつ吐いて、玄武は夕食を作り、熱で油の緩んだ五徳を洗って干し、シンクもぴかぴかになるまで磨き上げた。心の荒廃とはうらはらに部屋はどんどんきれいになる。自嘲して、玄武は夜の日課を済ませるとベッドに寝転がり文庫本を開いた。今日昼間に読めなかったあの本の続きを読むつもりだった。眠気はまだおぼろで、時間も二十二時になっていないから、一時間ほどは没頭できるはずだった。
スマホが連続して震え、また九十九だろうかと思いながら見た画面には、朱雀の名前があった。びくりと身体が震え、急に喉が渇く。画面には〈よろしく〉とだけ表示されている。玄武は立ち上がり、キッチンで水を一杯飲み、呼吸を整えてからスマホに向き合った。指紋認証でロックを解除して、ラインを開く。
未読四件。ためらう指が画面のうえで揺れる。気づかなかったふりをして夜中に既読をつけ、明日の朝に返事をする方法もある。玄武にはままあることで、別に不審がられはしないだろう。そうしようか、と思った瞬間、昨日の朱雀の怒りに燃える瞳がよみがえった。
これ以上の悪手は打たないほうがいい。
思い直してトーク画面を開く。
〈きのうもゆったけどああいうのやめろ。おれはきらいだ〉
〈あとあしたはなしがある〉
〈ほうかごきょうしついくからおまえんちではなす〉
〈よろしく〉
メッセージはそれだけだった。うちに来る? 真っ先にそれが脳に刻み込まれる。事務所でもない、学校でもない、わざわざ玄武の家に? それが導く最悪の解は即座に出力される。ひとに言えないこと、聞かれてはならないこと、そういうことに、決まって、……いや、まだだ、決めつけるな。玄武はぐるぐる回る視界をなだめながら考える。教師に赤点を事前に通知されたのかもしれない。仕事のことでまだプロデューサーに聞かれたくないことを相談するのかもしれない。それとも全然関係なく、久しぶりに玄武の家に来たいだけなのかもしれない……最後の可能性はないな、と考えながら、玄武は〈わかった〉とだけ打ち込んで画面をオフにした。さっきまでわずかながらあった眠気はどこかへ吹き飛んでいる。朱雀が既読をつけたかどうかは明日の朝まで確認しないことにして、本棚に文庫本を差し込み、シーリングライトを暗くした。回り始めた脳にブレーキをかける必要があった。
できれば、よい報告が聞きたい。そう嘘をついてみてから、心がついていかないことに気づいてやめた。何も聞きたくなかった。彼女にかかわることは何も。仕事の話だって嫌だ。朱雀の感情が彼女に揺らされるのが嫌だ。ただの女ではなく特別な女であることが嫌だ。仮に朱雀が彼女にがっかりしたとして、それだって嫌だった。究極的には、彼女のことをひとつも考えないでいてほしかった。駄々っ子のような自分を自覚して玄武はシーツの上で膝を折り曲げ丸くなった。
心臓は普段より少し早く打っている。身体の隙間で熱が滞留して、上がり始めた夜の気温の後押しをする。
明日。明日か、早すぎるぞ朱雀。俺にも心の準備ってもんがあるんだ。お前は知らないだろうが。
朱雀が自分に向ける尊敬とも憧憬ともつかない善性の視線が呼び起こされる。続いてそれに冷や水をかけるように昨日の怒りの瞳が浮かび、玄武はますます背を丸めて小さくなった。