そこから先は、よく覚えていない。真夏でもないのに背中がじりじりと焼けるように感じた。ただ朱雀の言葉だけが脳の中でこだました。午後の授業中じゅうその言葉たちは玄武を蹂躙しつづけ、そのおかげで朱雀の話したことのアウトラインはとれた。
相手は、あのADの女だった。よく世話を焼いてくれる、高橋という。二週間くらい前から、自分がおかしいことに気づいたと朱雀は言った。よくわからないがもやもやする。たまに相手の顔がよぎる。そのたびにどこかの内臓がぎゅっとわしづかまれるような感覚がある。生まれて初めてだからよくわからない。誰にも相談できなかった。でも明らかに変だ。それで、いろいろ考えて、これは好きなんじゃないかと、恋なんじゃないかと思ったと。
授業をまともに受けている生徒なんかいないから、自然教室は私語とスマホの振動音とゲームの音で溢れることになる。その中で玄武は真空につつまれたように脳の中の朱雀の声だけを聞いていた。
「じゃあ、黒野」
中年教師がのろのろと指名する声が聞こえて、はっと顔を上げた。教科書は追えていない。なにをしろと言われたのかもわからない。教師は不思議そうな顔をして、十八ページの英文の和訳を書け、と言ってきた。それで玄武はようやく現実に立ち返れて、黒板の前に向かい、達者な字でキング牧師の演説の一部分を書きつけた。全文は暗記しているからこなれた訳だって書けるけれど、逐語訳になるように気をくばることも忘れない。玄武にとってそれは脳の片隅で処理できることで、残りのほとんどで、やはり朱雀のことを考えていた。
席に戻る。椅子の座面はいつもと変わらないのにやたらふわふわと感じられる。もう今日は駄目だ。いやこれからずっと駄目かもしれない。玄武は眉をしかめて、教師の目も構わずにスマホを取り出すとプロデューサーから送られてきたPDFを表示する。今週のロケは、土曜日。四日後。四日後に、あのADと、朱雀の想い人だということを分かったうえで、平然と顔を合わせて仕事ができるか? スクロールするとロケ地は浅草だという。朱雀はどうせ道がわからないと言い出すだろうから、一緒に行かなくてはならない。いや、今日だって明日だってレッスンがある。授業が終わったらまた朱雀と一緒だ。ずっと。絶え間なく。
ぐっと喉が詰まり、胃の腑からなにかがこみあげてくる。玄武は胸を押さえてせりあがるものを留め、ようやくひとつ息を飲み込んだ。生まれて初めて、授業が終わるな、と思った。
チャイムが鳴り、ホームルームが終わり、周りの生徒たちが連れだって教室を出ていくのを、玄武は立ちあがらずにずっと眺めていた。乱暴に消された黒板の消し痕が気になった。壁に貼られているポスターのゆがみが気になった。昨日誰かが割ってそのままになっている教室の一番後ろの窓が気になった。それからこれが何もかも癇に障る状態だということに気がついて、自分が怒っていることを自認する。それはまったく理不尽なもので、朱雀が誰に惚れようと誰と交際しようと玄武にまったく関係なく、むしろ報告してくれたことは信頼の証で、玄武はそれを喜ばねばならず、相棒の初心な初恋の背を押して助けてやらねばならず、――そういうことのすべてに恋心が腹を立てている。朱雀。お前のことが好きなのに、俺はどうしてお前の口からそんなことを聞かなきゃあならないんだ。お前が俺を信頼なんかするから、俺はちっとも気づいていなかったことを思い知らされなきゃならない。今まで相棒のささいな変化はすべて拾えていたと思っていたのにそうでなかったこともわからなければならない。思い上がりと、思い込みと、勘違いと、そういったものたちの後ろ側に、失恋が笑って横たわっている。
がらりと扉が開く音がして、朱雀が顔を出す。
「おい、玄武! 居残りか?」
声を聞いたとたん、さっきの告白の言葉たちがわんわんと頭の中で鳴り始める。玄武は口元を押さえて目線だけで朱雀を見る。視界の中の朱雀は目を見開いて、そうだ、驚きの表情だこれは。玄武は改めて認識の遅れを自覚する。朱雀はさっきのできごとなんてなかったかのように玄武の机に駆け寄ってくる。
「おま、大丈夫かよ、顔色めっちゃ悪いぞ」
「……平気だ」
「今日休むか? オレ連絡しとくぜ」
「後から行く」
「……ほんとに、大丈夫だな?」
念を押す朱雀はまさか自分が元凶だとは思ってもいないに違いない。玄武はその思いを唇のゆがみにして、どうにか笑っているような顔をとりつくろう。
「後から行く。保健室で薬でももらうさ」
朱雀はそれでようやく納得して、「じゃあプロデューサーさんにはオレから言っとくから、おまえはちゃんと保健室行けよ!」と言うと教室を出ていった。玄武はその足音が遠ざかるのをぼんやり聞いていた。それから机の中に放り込んでいた教科書を取り出すと、明日の時間割の通りに並べ直してしまいこんだ。鞄の中を確認すると弁当箱がきちんと入っており、開けると半分以上が残っていた。自分はどうやら飯も食いきれなかったらしいと自嘲して、蓋を閉じてまた鞄に入れる。それから大きく息をついて立ち上がる。立ちくらみはない。ただ腹の奥がずっともやもやと具合がわるい。対症療法でもいいと思い、階下に降りるついでに約束通り保健室に立ち寄って吐き気止めをもらった。それをその場で飲んで、下駄箱に向かう。通りがかった舎弟が大丈夫っすか、と声をかけてくるのに適当に応えて、ブーツに履き替え、駅に向かう。はたして電車に乗れる体調なのかわからないが、とにかく事務所に向かうには電車に乗るしかない。
夕方の電車は幸い空いていて、座ることができた。ふうと息をはいたとたん、スマホが震える。見るとプロデューサーからで、無理してこなくてもいい、とのことだった。行く旨を簡潔に伝えてスマホをポケットにしまう。レッスンは無理でも事務所に行けば誰かしらがいる。家に帰ってひとりになるのが嫌だった。いまひとりになったらまた朱雀の声だけを反芻するに決まっている。玄武は腰の筋肉を緩めて座席の背もたれに体を預けた。眠れなくても少し休みたかった。
結局顔色を見たプロデューサーがレッスンへの参加を中止させて、玄武は事務所の応接机でぼんやりコーヒーを飲みながら朱雀のレッスン終わりを待つことになった。特に打ち合わせがあるわけでもなく、本当は帰ってもよかった。朱雀と一緒に帰るのと、ひとりになるのと、天秤にかけて前者を選んだだけだ。ホットコーヒーをすすりながら玄武は週末のロケのPDFを読み直す。浅草の和風アイスクリーム屋。いつものメンバーで、いつもの通りやる。そこに必ずあの女はいるだろうし、朱雀に話しかけてもくるだろう。それを玄武はただ耐えて見ているしかない。
いつのまにか紙コップを持つ手が震えている。ローテーブルにそれを置いて、玄武は震えを隠すように手を組んだ。
聞いたことをなかったことにはできない。その上で、玄武がやるべきことは、友人としての振る舞いだった。昼に自分がどう応対したかは覚えていないが、遮るようなことは言っていないはずだ。だとすれば自分は、その恋を応援する立場に立たなければならない。たとえば女とのやりとりを朱雀に一任するとか、それとなくふたりきりにさせるとか、そういう子供じみた気遣いを見せたほうがいいだろう。それ以上のことは――考えながら玄武は自分を守る建前をひとつずつ剥ぎ取る。芸能人だから、というのはなしだ。仕事相手だから、というのもなしだ。年が離れているから、まだ高校生だから、そういうのも全部全部なしだ。それはプロデューサーやあちらが配慮するべきことで、まだ十七歳の、世間知らずの、親友思いの玄武は愚かに朱雀を応援しなければならない。
ぐ、とまた胃の腑が音を立てる。せっかく飲み込んだコーヒーが胃液と混じってこみあげるのを無理に飲み下して、玄武は思考に意識を集中させる。
どうしたらいい。どうしたら朱雀の役に立てる。何も抱えていない顔をしてエールを送れる。焦点の合わない視界に女の顔がよぎる。といっても名前と顔と雰囲気しか知らない。どうしてそんな女に――いやそれは妬みだ、僻みだ。女は確かに好感のもてる人物で、容姿も悪くなく、仕事の手際もいい。だいたい恋にまっとうな理由なんかない。そんなこと自分を顧みればよくわかる――玄武は千鳥足になる意思をどうにかまっすぐ進めようと試みて、やがて諦めた。
ソファの背もたれに背中を預け、天井を仰ぎ見る。事務所には山村がキーボードをたたく軽い音だけが響いている。
どうしようもなかった。嫉妬だけがあった。朱雀のことを何も知らないくせに懸想されている女が妬ましかった。自分は決してそちら側に立てないのだろうという予期を顕わにしてしまった女の存在が疎ましかった。そしてそれらの感情はすべて、土曜日までに角を丸めて捨てなければならなかった。
玄武は目を閉じて、せめて眠るために浅い呼吸を繰り返した。だが睡魔は訪れず、やがて目は自然と開いて、天井の蛍光灯が網膜を焼いた。
思考が極端になっている。玄武はぎゅっと目を瞑り、暗い中に焼きついた青黒い円を見る。
好きなひと。好きなひと。それが指す人物は玄武にとってたったひとりだ。それなのにそいつが何か言っている。玄武オレ、その先は再生したくない。どうしたらいい。信頼して打ち明けてくれた。多分俺にだけだ。世界で一番信用されている、だから聞けた、聞いてしまった、知ってしまった、恐ろしいことを。
手が震えているのに気付いて、握りしめすぎていた拳を開いた。仰向いたまま視線だけ下にやると、手のひらには爪痕が並んでいる。ぐらりと頭を前に揺らして、ローテーブルと向き合うように背を丸めた。
友人として、親友として、相棒として、正しい振る舞いをしなければならない。
それだけが玄武の中にあった。だから土曜日に自分がどう行動すればいいかは知っていた。浅草は朱雀は不案内だと言っていたから駅までは一緒に行かなくてはならないだろう。そこで待っているのが彼女だったらなにか買い物をするとか言ってふたりを先に行かせる。朱雀は余計な気を回すなと後で怒るかもしれないがそんなことはどうでもいい。あとから着いた現場では朱雀がうろたえながら彼女と話しているか、憮然とした顔でひとりで待機しているだろう。文句をやりすごしながら、何か適当に打ち合わせる事項を思いついて彼女のもとへ朱雀を連れて行く。あとは流れに任せる。仕事はいつもどおりやればいい。それから買ってきた差し入れ――そうだ、駅のコンビニで本当にお菓子でも買えばいい――を朱雀に手渡して背中を押す。その手が触れた瞬間にきっと自分はまた余計な感情を思い出して胸を痛めるのだろうが、それもどうでもいい。肝心なのは自分の外側がいかにも不器用に相棒の恋を応援する高校生に見えることだ。
プランを立ててしまうと、気が楽になった。やることが決まっているのは勉強に似ていて玄武にはあまりにも簡単だ。目の前にやるべきことがあり、ひとつひとつ駒を進めるようにこなして、やり残しがあれば潰し、その場でなにか思いついたらやる価値があるか検証し、実行する。そうやって玄武は生きてきたし、これからも生きていける自信があった。ただひとつ御せない感情とかいうものに我慢を強いればいいだけで。
やがてレッスンルームの方から声が聞こえてきて、事務室のドアが開く。朱雀はプロデューサーと何か言葉を交わしていたがそれを中断し、さっと視線をこちらに向けて笑顔になった。
「お、薬効いたか? 元気なってんじゃねえか」
「保健室でもらう薬がそんなに効くわけねえだろう。休んだおかげだ。すまなかったな番長さん」
朱雀の言葉を適当にいなしてプロデューサーに水を向けると、今週は適当でいいから、土曜までに復調しろよ、と厳命された。素直にうなずく。神速一魂のレギュラー番組はいまあの一本だけだから、ライブやら単発のバラエティ仕事やらを除けば「休み」なんてことはありえない。それは玄武だって朱雀だってわかっている。その現場でうまく笑えるか自信がないと言ったら、このふたりはどう思うだろう? 朱雀はプロデューサーに今度の店の話をしている。甘いものが好きだから嬉しいのだろう。店を事前に調べてはいけないというお達しをやぶるくらいに楽しみなのだろう。なんなら今度プロデューサーを連れて行くくらいのことはしてやりたいのだろう。そうだ、相棒のことは手に取るようにわかる、そう思っていた、今日までは。
恋だって? 朱雀が、あの朱雀が? 百回繰り返した言葉がリフレインする。同時に喉がぐっと詰まる感覚があり、玄武はふたりにばれないように細く息を吐く。
とにかく、彼女と彼女に恋する朱雀を見て、取り繕えるようにならなくてはならない、土曜日までに。
その日は当たり前に訪れる。地下鉄を降りて指定された改札に行くと、彼女が立っていた。
「おはようございます、今日もよろしくお願いします」
大げさでなく感じのいい微笑をたたえて、彼女はしっかり仕事をしている。朱雀がぺこりと頭を下げたのを見て玄武も倣う。ややあって面を上げると朱雀はまだ下を向いていて、気づけばその耳はうっすら赤らんでいた。
ああ、こういうことか。
玄武の血管は意に反して収縮し、手先が一気に冷える、氷に触っているようだ。胸の奥が針で刺されている。それは刺繍針のような繊細さで間違いなく痛みを与えてくる。その痛みを凍りつかせて、玄武は予定通り芝居を打つ。
「ああ、そうだ。少し買いたいものがあるんで、先に行っててくれ」
「はあ!?」
デカい声を上げる相棒を目で制すと、さすがに察したのか朱雀は下唇を噛んでそっぽを向いた。
「あ、お待ちしてますよ、全然時間大丈夫ですし」
「いや、打ち合わせもあると思うから、先に行っててくれ。後から追いつく。大丈夫だ、場所はわかってる」
「そうですか、そしたら紅井さん行きましょうか」
利口な女性だ。こういう「芸能人のわがまま」みたいなものをじゅうぶん承知していて一番手数が少なくて済む方法を知っている。話を振られた朱雀は猫が尻尾を掴まれたような顔をしながら頷いた。
「じゃあ、また後で」
踵を返して、ふたりが見えなくなった瞬間玄武は目頭からにじみ出そうになる涙に顔をしかめた。これでは困る。平気な顔をして今日を終えなければならないのに。胸はずっと痛い、どの内臓だかわからないがぎゅうぎゅうと胸郭が締め付けられて呼吸が浅くなる。少し歩いて振り返ると、朱雀はいちおう彼女の目を見て口を動かしている。そのやや下がった視線が胸をつく。そうやって少し背の低い彼女と一緒にいるのが正しい。そう言い聞かせて、玄武はコンビニで欲しくもない炭酸とエナジードリンクを買った。差し入れに向いた菓子はコンビニでは買えないことがわかったのは収穫だった。エナジードリンクはその場で飲んで捨てた。カフェインと砂糖の力を借りなければとても今日は乗り切れそうになかった。
遅れてアイス屋に辿りつくと、現場はセッティングの真っ最中で、もうひとりの愛想のないほうのADにロケバスに案内された。中に入ると朱雀が憤然とした表情で座っていて、待ってた、と押し殺した声で言う。
「なんだ、うまくいかなかったのか」
「うまくとかそういうんじゃねえよ! 変な気遣うなよ! そんなこと頼んでねえし、だいたいいつもあの人と話してたのおまえじゃねえか……オレいきなり話せって言われたってなんにも話すことねえよ!」
あの人、あの人か。朱雀はそう呼ぶのか。そう思いながら玄武は差し入れの菓子を袋から取り出しながら言い返す。
「じゃあなんで俺に言った」
途端に朱雀は黙り込む。
「俺に手伝ってほしいから言ったんじゃねえのか? まさか牽制じゃねえだろう」
「そんなことじゃねえよ!」
「そうだろう? だったら俺のしたことは余計なお世話ってわけじゃねえだろうが」
手元で荷物を整理して、その間玄武はずっと朱雀の顔を見ない。見ないままウィルキンソンのペットボトルを朱雀のほうに向ける。
「飲むか?」
「いらねえ! なんか、おまえ、……そういうとこあんだな」
「どういうとこだよ。お前が珍しいこと言いだすからこっちは応援してやろうってだけの話じゃねえか」
言いながら玄武は受け取られなかったペットボトルを足の間に置き、胸に突き刺さった針をひとつずつ抜いていく。朱雀の恋心を守る、それが正しい。自分のするべきことだ。なにせ玄武は自然体の朱雀が好きなのだから、そこに勝手に手を加えて盆栽だか纏足だかのように撓める事は絶対にしたくない。
「と、とにかくよお、ロケは普通にしろよ!」
「当たり前だ。仕事は仕事だ」
ちらりと視線をやると朱雀はまた尻尾を掴まれた猫のような顔でこっちを見ている。眉間に力が入って、目をかっぴらき、唇はかたく閉じて、不格好だ。曲がりなりにもアイドルなのだからそういう顔はするなと言いかけて、やめた。
いつも通りアイス屋への案内から始めて、店に入り、朱雀はあずきと抹茶とほうじ茶のトリプルを、玄武は抹茶と季節外れのさくらのダブルを食べる。あんこもいける朱雀はうまいうまいと言ってあっという間に全部をたいらげ、玄武は抹茶アイスの控えめな甘さと舌にしっかり残る苦みを意外に美味く食べた。食後に出てくるそば茶で冷たさに痺れる舌をほどきながら、店の簡単な紹介文を玄武が喋り、撮影は順調に終わった。
カメラマンの男性が君たちいつも早くてありがたいよ、と笑うのに朱雀は元気に礼を言い、玄武は曖昧に流す。初回にいた長谷川というディレクターが来ないことといい、番組自体の作りがそう慎重なものでないことは、朱雀だってそろそろわかってきているだろう。ただ、仕事があるのはなんであれありがたい。
朱雀が寝こけていたにゃこを起こして、ふたりはロケバスに戻った。席に置かれていた弁当を開けると、彼女が姿を見せた。
「猫ちゃん、使いますか?」
差し出したのは糸の先端にねずみのぬいぐるみがついている釣竿めいたおもちゃだった。腹を撫でられていたにゃこは朱雀の手の内からうなぎのように逃げると果敢に布のかたまりに手を伸ばす。彼女は元気ですねえ、と言いながらおもちゃを左右に振り、上手ににゃこを遊ばせている。
「猫、飼ってるのか」
「いえ、たまたま買ったんです」
たまたま、とはどういうことだろう。玄武はこれだけ朱雀といるが、猫のおもちゃなんて一度も買ったことがない。横目で見ると朱雀はまた耳を赤くしてひとりと一匹が戯れる様子を見ている。その視線が揺れているのは、ねずみを追っているのか、彼女の揺れる白い手を見つめているのか、玄武には判断がつかない。ただ朱雀の目、琥珀色の半球が見えるだけだ。また胸にたくさんの針が刺さる。玄武はできるだけ乱暴にならないように弁当の蓋を脇に置き、俵型に押し固められた米に箸を突き刺した。
食事が終わったころにVTRのチェックも済み、問題なかったということで解散になった。彼女はバスから転げ落ちたにゃこに跳びつかれて、さっきのおもちゃをまた出す羽目になった。しゃがみこんで遊んでくれているところに朱雀もちゃんと行って、ふたりでにゃこを眺めている。それはごく自然な画に見えた。ふたりの関係が、まるで、と思い、玄武はもう針を抜くことを諦めた。
もうひとりのADが珍しく見送りにきてくれた。お疲れさまでした、と言って玄武の隣に手持無沙汰に立ち、同じように遊んでいるふたりを眺めている。その時玄武はふと思いついて、女に声をかけた。
「こういうのがよくねえのは分かってるんだが、連絡先を教えちゃもらえねえか」
女が名刺を取り出そうとするので、玄武は慌てて遮った。不思議そう、というよりは不審そうにこちらを見てくる女に、言い訳のように言う。
「個人的な、その、あいつのことで相談があるんだ」
顎をしゃくった先には朱雀と、まだじゃれて遊んでいるにゃこと、彼女がいた。通じるだろうか。仔細を自分の口から言うのは嫌だった。どうにかわかってほしい、と思うなか、女はちょっと迷ったような色を浮かべたが、それから頷いて、尻ポケットからスマホを取り出した。
「わかりました、ラインでいいですか」
儲けた、と、終わりだ、が同時に来た。すべてがふたりをうまくいかせるようにお膳立てされているようにすら思える。玄武は滲み出る手汗をぬぐってスマホを取り出し、QRコードを差し出した。女はささっとスマホを操作する。
〈送れてますか?〉
ぽん、とメッセージが表示された。筋道は立った。あとは流れるだけだ。
「すまねえ、恩に着る」
玄武は言って頭を下げ、女がそれ以上なにも言ってこないことを確認して、朱雀のほうに歩きだした。「仕事」として、そろそろ彼女を解放してやるべきだった。
逃げるにゃこをどうにか捕まえて腹巻の中に押し込んだ朱雀が、彼女に「遊んでくれてありがとう」を遠回りに噛みながら伝えて、現場は解散になった。朱雀が礼を伝え終わったのを見計らって駅の方へ歩き出すと、うしろからばたばたと足音が聞こえる。駆け寄ってきた朱雀の頰は少し汗ばんでいて、それは走ったせいではない。
「よかったな」
「あ!?」
「喋れて」
「あー……おまえ、おまえなあ、ほんとマジで気ぃ遣うんじゃねえよ」
「そうでもしなきゃあお前、ろくに喋りもしねえだろう」
「だから! その、いいんだよ、別によ、仕事だし、そういうの、別によお」
言いよどむにもほどがある、と思いながら玄武はウィルキンソンを口にして、そのぱちぱちと弾ける泡で思考を駆動させる。
「連絡先聞いたぞ、お前の好きな方じゃないが」
「はあ!?」
「いろいろ聞き出せるだろう」
「おま、おまえ、そういうのダメだってプロデューサーさん言ってただろ!」
「公然の秘密だろう、そんなのは。みんなやってる」
一言言うたびに心が鎧われる感覚があった。朱雀と彼女を応援する。そう決めた。正しい「相棒の振る舞い」をする。絶対にそれだけは揺るがさない。その奥で啜り泣いている心のことは、見ない振りをして。
「手始めに何が聞きたい」
「何とか、いや、ねえ! ねえから!」
「ねえこたねえだろう。惚れた相手なんだろう」
「……そういうの、考えたことねえよ」
「だったら考えるんだな」
言うと朱雀は顔をしかめて口を曲げ、思いついたら言う、と吐き捨てるように言った。
その夜、玄武は長いラインを女に打った。ルール違反への陳謝と礼、秘密にしてほしいこと、それから、朱雀が彼女を好いていること。そのために融通を利かせてほしいこと。できれば彼女のことを教えてほしいこと。
文面を書くのは想像以上に苦しかった。俺の相棒が、と打って消して、紅井が、と書いてまるで芸能記事のようだと思い、フルネームで紅井朱雀が、と書いて、朱雀の存在がまるごと彼女のほうを向いているような気が――それは気のせいではないのだが――して消した。結局元の「俺の相棒が」に戻した。それから彼女のことをどう呼ぶべきか迷い、苗字にさんづけにすることにして、そうだフルネームを聞いておこうと文章の最後につけたした。彼女のことを朱雀がファーストネームで呼ぶことがあるのかどうかはわからなかったが、その声は簡単に再生できる気がした。愛しそうな、玄武が聞いたことのないはずの声で、彼女の名前を呼ぶ。あの張りのある声が。
囚われそうになる妄想を切り捨てて、玄武はバスルームに向かった。シャワーを浴びて、全部を洗い流したかった。服を脱ぎ捨てて、四十度のお湯をカランを目いっぱいに開いて痛いほどに浴びる。足元からたった湯気が鏡を煙らせる。そのなかにうっすら映る自分はどう見ても男の身体をしている。ふくらみとまるみと甘さがない、そぎ落とされた直線的な身体。
これを、朱雀が恋うわけがない。触れたいと思うわけがない。タオルにボディーソープを押し出して、泡立てもせずに皮膚に擦りつける。商品だから、売り物だから、そう雑に扱ってはいけない。わかっているのに乱暴に全身を洗う。ようやく立ったあぶくがわずかな自重でつっと肌を滑り落ちていく。朱雀には必要のない身体。誰かから必要とされる身体。玄武を求めるのは朱雀ではない、朱雀だけを求めているのに。シャワーを浴びて頭から湯をかぶる。足元に泡が渦を巻いて排水口に消えていく。朱雀。朱雀が欲しい。求められたい、自分が求めているのと同じだけ、あるいはそれ以上に。そう思うのに脳裏によみがえるのは今日自分に背を向けて駅を離れていった二人の、本当にそれらしい後姿だ。あれが自然で、普通で、当たり前だ。言い聞かせるたびに自分がすり減っていく、なくなっていく。本当になくなってしまえたらいい。SF小説のように自分がなくなって、自動的に求められる黒野玄武を――朱雀が信じている黒野玄武をやれるようになれたら、どれだけ楽だろう。玄武はのろのろと屈むとコックを捻って湯を止めた。水道代をずいぶん無駄にした、という感想が真っ先に出た。それから暑くなりはじめた日の、それでもまだだいぶ冷える夜の気配が浴室に忍び入っていることに気づき、手早くシャンプーを済ませて風呂場を出た。今日は抜かなくて良さそうだ、と自嘲する。あの二人を見て、まだそんな欲がある自分が不思議だったが、明日か明後日には、どうせ朱雀の幻影を求めているに違いなかった。
翌朝起きると女から返信が入っていた。
〈ラインありがとうございます〉
〈フルネームは、高橋愛実です。まなみと読みます〉
〈年はわかりません。でもたぶん、アラサーだと思います〉
〈何が知りたいですか?〉
真っ先にSiriみたいだな、と思った。たぶんSiriと同じように、聞いたらぽんと返事をしてくれるのだろう。そうやって無限に彼女について知れる。朱雀が望もうと望むまいと。
高橋愛実。たかはしまなみ、と声に出してみた。それが自分の恋敵の名前だった。あかいすざく、たかはしまなみ。並べても座りはいいように思う。名前を並べる? そんなことがなんの役に立つのか、好きな女子のファーストネームを自分の苗字にくっつけてドキドキする小学生の遊びでもあるまいし。思いながら、玄武はぎこちない指で返信を打つ。
〈なんでもいいんだが、なんでもいいというのは駄目な質問だな。月並みだが、好きな食べ物なんか分かるといい〉
打って送信して、それを聞いてどうなるのかと思いながら玄武は茫然とベッドの上で返信を待つ。すぐ来るかもわからないのに、と気づいたのは、受信を知らせるバイブレーションが鳴ったあとだった。
〈お肉は好きみたいです。前にシュラスコを食べにいきました〉
〈甘いものも好きだと思います。〉
〈クッキーとかおいてあると、食べるほうです〉
みっつの吹き出しが順繰りに現れた。ラインというのはどうやら小刻みに送ったほうがいいらしいと遅れて気づく。普段はプロデューサーや朱雀、それに同僚たちとくらいしかやりとりがないからそのあたりの機微がわからない。なるべく短く推敲した返事を打つ。
〈ありがたい。ロケに差し入れを持っていったら変か?〉
送信して、しばらく返事がないのを確認して冷蔵庫から食パンを取り出してトースターに入れた。今日は弁当を作る余裕はない。コンビニだな、と算段をつけ、焼けたトーストにマーガリンを塗っている間に通知が来た。
〈変じゃないですけど、個人に差し入れたら、ちょっと変かもしれません〉
〈誕生日がたしか9月なので、その前後なら、おかしくないかもしれません〉
九月。そのころにはいったいどうなっているのか想像もつかない。さくさくに焼けたパンに浸みたマーガリンの香りが逆に食欲をそぐ。無理に胃に押し込んで、返信する。といっても次のことを思いつかないから会話を終わらせることにした。
〈恩に着る。また連絡させてもらうかもしれないが、その時は宜しく頼む〉
ややあってクマのスタンプが送られてきた。どうやら向こうも打ち切りを了承したようだった。
少し早めに家を出たのもあって、幸い登校中には朱雀に会わなかった。デカい声で挨拶をしてくる舎弟たちをいなして、玄武は下駄箱に向かう。普段なら校門に立って遅刻しそうな奴らに発破をかけるくらいのことはするが、今日はコンビニの袋を提げている決まりの悪さもあって――いや、違う、朱雀に会いたくないだけだ。会えばその話を、自分は必ず切り出す。知りたいのだ。朱雀が彼女のどこに惹かれたのか、どこを好いているのか、どの程度その思いは深いのか。要はそれは自傷行為で、玄武の諦めの傾向を改めて決定づけてくれる。
「一思いにってとこか」
周りに誰もいないのを見て、口に出してみる。自分の馴染んだ声がひどく色褪せて聞こえた。
予鈴が鳴り、教材を抱えた教師が教室に入ってきて、誰も手伝おうとしない。教師が誰にも聞こえないような声で今日のページ数を呟き、数人が殊勝にページをめくる音が聞こえ、やがて読経じみた授業が始まる。誰かがコンビニのドリアを食べているらしい、温まったチーズの香りがする。玄武はその一切を無視して覚えてしまった教科書の内容を目でたどりながら、今朝方手に入れた情報のうまい伝え方を考える。といっても選択肢はそんなにないし、だいたい直截に言ってしまうのが一番いいだろう。相棒は目を剥いてそういうのはダメだってプロデューサーさん言ってただろ!と言うだろうが、今回は特例措置だ、なにせ自分の恋心の葬式を挙げている途中だ、その理由は朱雀には言えないから、せいぜいお前の本気に対して俺が手を打たないって方はないだろう?とでも答えておくか。納得はしないだろうがそもそもこちらにだって納得させる気はないのだ。
教科書のページの上で二次関数のグラフが四象限を行き来するのを玄武はぼんやりと見る。朱雀。昨日耳を真っ赤にしてそれでも平静を装って彼女と話していた。あれが彼の恋心の発露なら可愛らしいものだ。女のシャツの下の肩の丸みが思い出される。無意識に自分の右肩を掴んだ、学ランの縫製の下には骨ばった肩関節があるばかりで朱雀が恋い焦がれているであろう柔らかさはない。ぐり、と骨と骨の間の凹みに指を押し込む。このままもげてしまわない程度には筋肉はついてるがそれだけだ。
それから朱雀が見下ろしていた視線——自分といるときには見せない角度のことを思い出す。幼さの残る顎の線が一生懸命になにかをしゃべっていた、その内容は聞いていないが、にゃこの話か、ロケの話か、まだプライベートにまでは進み入れてないに違いない。彼女はにこやかに、それはビジネスのさなかという意味でまったく完璧に笑顔を見せていた。玄武からしたって決して嫌な笑顔ではないのだ、ただ朱雀がそれに惹かれていると思うと心臓が締めつけられるような思いがする。喉が詰まって目頭のあたりに火花が散る。後頭部の脳膜がぎゅっと収縮して一瞬血の流れが止まる。
両想いなんてはなから諦めていた。ただ公私ともに相棒という立場を利用して、一番近くで朱雀を見ていられればいいと、心の底から一片の迷いも躊躇いもなくそう思っていた、はずだった。
朱雀が、ひとを好きになって、それが自分ではない。
それだけのことにどうしてこんなに傷つくのか。
案の定、昼休みにラインで得た情報を話すと、朱雀は「約束破りだ!」と叫び、トサカが崩れんばかりに頭をかき、あーとかうーとか呻いたあとに、小さく礼を言った。それで玄武はこの行為が正しかったことを思い知る。
「いつラインとか交換したんだよ……」
「にゃことお前らがじゃれてるときだ」
「油断も隙もねーな」
朱雀はそう言って口を尖らせる。今日は父親が作ったという茶色い弁当はもうとっくに空っぽで、三十回噛んだりは絶対にしていない。
「よかったじゃねえか、肉料理にでも誘えよ」
「はあ⁉︎ いや、無理だろ、無理、無理だ。だいたいシュ……ってなんだよ」
「シュラスコだ。簡単に言うと串に刺して焼いた肉だな。ブラジル料理だ。事務所の近くにもあるぜ」
「んなとこ食いに行ったことねえよ! よくて牛角だぜ、オレんち」
「そりゃあお前のご両親はよく食うからな」
「よくわかんねーけどよ、なんかその、女の人、牛角に誘うの、おかしいだろうが……」
それぐらいの分別はあるのだなと相棒を見直しながら玄武はコンビニのそうめんを啜る。自炊はあれいらいとんとご無沙汰だ。そもそも食欲があまりない。薬味の乾いたおろししょうがが舌に絡みつく。
「俺だって女の好みそうな店なんざわからねえ。お前が好きなパンケーキの店でも連れてったらいいんじゃねえか?」
「ど、どうやってだよ」
「誘うんだろ」
「だから、どうやって」
そう問われても玄武だって女を遊びに誘ったことは一度たりともないし、もっといえば誘われて応えたこともない。表面が干乾び始めたそうめんをつゆに突っ込んで啜り、咀嚼しながら考える。彼女の柔らかく彩られた唇が薄く切られた肉を食むところを想像するが、それはまったく玄武をげっそりさせるだけで、そこに至るまでに朱雀がどう動けばいいかというシミュレーションはできない。
「……思いつかねえな」
「だろぉ!?」
「いや、お前はちゃんと考えろ。お前の話だ」
「だってよぉ、無理だって、オレ、女子とサシでなんかしたこと握手会しかねえし、握手会はにゃこがいたけど、メシ食うんならにゃこもいねえし、どうしようもねえじゃねえか!」
「いろいろ言いたいがまずにゃこに頼るんじゃねえ。ああ、もういい、俺が考えておくからお前は次のロケで何しゃべるかだけ考えとけ」
そう話を中断させて、玄武はふたくち分ほど残ったそうめんをそのままにパックの蓋を閉め、立ち上がって屋上の隅まで行くと排水溝につゆを流した。そのあいだも朱雀は呻きながら肉ぅ……とつぶやいている。
「……わっかんねーよ、玄武」
「なにがだ」
「オレ、どうしたらいいんだ」
「好きなようにしたらいいだろ」
「だから、それがわかんねーんだよぉ。どうしてえって、別になんかしてえわけじゃねえんだよオレ。おまえが色々考えてくれてんのはわかってっけどさあ……」
それを俺に言うのか。と玄武は朱雀に背を向けたまま思い、振り返って日に照り輝く朱雀の赤毛のあたりに視線をやる。
「進展したいんじゃねえのか」
「はぁ!?」
「あのひとと、どうにかなりてえんじゃねえのか、って聞いてんだ」
「ど、どうにか、って、どう、どうだよ」
「……恋人とかになりてえんじゃねえのか」
言ったさきからまた心臓がぎゅっと痛んだ。こいびとの四つの子音と母音の組み合わせを口にするときに、それが朱雀にかかわって、自分に無関係であることに、わざわざ傷つく自分が滑稽だった。ぎしぎしと軋む脳を揺らしながら朱雀の向かいに戻り、座る。灼けたコンクリートが尻のあたりを一瞬で加熱する。
「こ、こい、びととか、そういうんじゃねえって、だから!」
朱雀はしどろもどろになりながらにゃこを半ば握りしめるように抱き、視線を床に落とす。
「……オレ、ほんとに、わかんねえんだって。想像つかねえんだよ。その、つ、つきあうとか、なんか、そういうの」
「俺だってわからねえ」
「おまえは色々、本とかで知ってるだろ」
「……お前、雑誌の体験談とか信じてねえだろうな」
「信じてねえよ! その、北斗さんとか、類さんとか、色々話してるじゃねえか。すげえと思うし、北斗さんとか類さんならわかるんだよ、なんかオシャレなメシとか食うんだろ? でもオレが、そういう、なんか女子とメシ行ったりとか、一緒に遊ぶ……とか、そういうの全然思い浮かばねえんだよ」
珍しく口数が増える朱雀に、奇遇だな、俺もだ、と返そうと思ってやめる。朱雀が彼女とそういうことをしているシーンは、いくらでも想像できる。簡単だ。自分が夢想していたそれを彼女に置き換えるだけで済む。馬鹿馬鹿しいほどに簡単で、容易で、単純で、玄武を苛む。締まる喉を無理やり開いて玄武はわざと明るく言った。
「相棒、深刻にならずに考えようぜ。あのひとは俺たちの人生経験も豊富だろうし、俺たちが満足なプランを考えられるわけがねえんだ。要はお前がどれだけ一生懸命にやるかだろ。それに心打たれてくれりゃあ、勝算があるってわけだ」
一気に吐き捨てて、反射的に吸った空気の熱さに肺の細胞が痛む。いやそうではない、わかっている。だがこれ以上はもう考えたくない。
「……そぉかよ」
「ああ、そうだ」
まだ訝しげにこちらを見てくる相棒に、玄武は迷いなく頷いた。
朱雀がちゃんと教室に戻るのを見届けて、玄武も自分のクラスに帰る。扉を開けた瞬間、教室がふっと静まり、玄武を見とめたクラスメイトたちがほっとしたようにまたおしゃべりを始める。玄武は一番後ろの自分の席に戻り、机に詰め込んだ教科書から午後の現国の教科書を取り出してなんとはなしに眺める。評論、小説、エッセイ、すべて教科書が配られた四月に読み終えて覚えてしまったものばかりだ。ぱらぱらとめくっているうち、ある詩で指が止まる。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
作者は茨木のり子。戦後を代表する詩人だ。代表作は「わたしが一番きれいだったとき」。苗字は濁る、「いばらぎ」だ。そういう百科事典的な情報がざっと頭をよぎる。玄武の脳は一度トリガーが引かれればタグ付けされた情報が一度にあふれ出てくるようにできている。
みずから水やりを怠っておいて。
果たして自分は水やりを怠っていたか? 玄武は自問しながら教科書を伏せ、その上に突っ伏した。眠気はなかったが午後の授業を聞く気にもなれなかった。今日は月曜日、火、水、木、金、と過ぎてまた土曜日が来る。その五日間で自分はどれだけ変質するだろう。朱雀と彼女のことを想像して自分を傷つけ、朱雀の背を押して自分を傷つけ、その傷口からにじみ出るきれいなはずもない膿汁を滴らせてどうしようというのだ。玄武はぐっと首に力をこめて、組んだ腕に額を擦り付ける。あの教室では朱雀がどうにか眠気をこらえながら授業を聞こうとしているのだろう。その頭の片隅にいつも彼女の姿があるのだろう。朱雀の角度から見た、自分にはわかりえない魅力的な彼女を思い、ときに自分の欲に戸惑いながら、それでも朱雀は受け入れていくのだろう。自分がかつてそうしたように。そして自分の時とは違って、朱雀はきっと、うまくいく。
また心臓に針が刺さる。玄武は眉をしかめてそれをやり過ごす。痛みを和らげる魔法の呪文はない。どこにもない、この世のどこにも。