「おまえ、人を好きになったこと、あるか?」
あの声が、らしくない震えた語尾が、耳にこびりついて離れない。
*
新しい仕事だ! とプロデューサーが持ってきた書類には、要約すれば週に一度、休日にロケをして、そのVTRが昼の帯番組の五分枠で流れるという趣旨のことが書かれていた。朱雀が喜んでにゃこを担ぎ上げている間、玄武は受け取った企画書を検める。「アイドル突撃☆NEWブーム(仮)」という企画タイトルには不安があったが、要旨を見るとつまりは新しい施設や店舗に開店前の時間に行ってサービスの体験をする、というものらしい。いくつか挙げられた案の中には玄武も耳にしたことがあるようなテーマパークの新アトラクションや、朱雀が甘党会から仕入れてきたスイーツショップの名前もあった。
テレビといえば年齢のせいで深夜帯には出られず、ゴールデンタイムのバラエティにもまだ声はかからず、ドラマの端役で出ることがあるとしても、神速一魂というユニットにそんなにいい話が巡り来ることはそうそうなかった。だからふたりは素直に喜んで、勢いのままレッスンをこなし、普段ならファストフードのところ、少し贅沢にファミレスで晩飯を食べることにした。にゃこは入り口の草むらに放す。玄武にとっては極めて不思議なことに、この猫はきちんと飼い主の意図を汲み取って待っているのだ。
「オレ、宮崎チキンのタルタルみな……なんとかと、じゅうじゅうハンバーグ、ライスで、大盛りで!」
「俺は鳥ささみフライの大根おろし定食」
注文を終えて、置かれたグラスの水をごくりと飲む。レッスン後に散々水分は摂ったはずなのに、まだうまい。と、目の前の朱雀が急にそわそわし始めるので、玄武はさっと釘を刺しておく。
「企画の話は、外ではなしだ」
「けっけどよお」
「附耳之言、どれだけ隠したって隠したりねえことはねえんだぞ」
言うと朱雀はトサカと威勢のいい眉毛をしゅんと垂れさせる。俯いてあーとかうーとか言ったあと、顔を上げて聞いてきた。
「……オヤジとかにも言っちゃダメか?」
「ロケの話はしといたほうがいいだろうが、どこの店に行くだとか、そういう話はするなよ」
「おう!」
そう言って早速スマホを人差し指でぽちぽちし始める朱雀を微笑ましく見守りながら、玄武はグラスの水の飲み残しを呷り、通路側に置いた。玄武には特に知らせる相手はいなかった。施設の昼間は保育園にまだいけない子供たちの相手をするので精一杯だろうし、東京の店を紹介する番組を京都で見ても仕方がない。まあ俺は番長さんが見てくれればいいさ、と思って、まだラインに打ち込んでいるらしい朱雀の手元を見守った。
「玄武! これでどうだ!」
画面を突きつけてくる。〈てれびきまった。どようかにちようの朝にロケがある。げんぶといっしょだから安心してくれよな!〉ひらがなだから読むのに時間がかかる、どうにか読み通していいだろうと頷くと、朱雀はいそいそと送信ボタンを押した。
「オヤジさんたち、喜ぶだろう」
「わっかんねー、テレビ、自分らが出てっから、あんまびっくりしねーんじゃねーか?」
言って朱雀は馬鹿でかい声で「お水お代わりください!」と叫んだ。ややあってデカいピッチャーが運ばれてくる。
「手酌でやるか」
「おう」
ピッチャーの水を半分開けたくらいで朱雀のチキン南蛮とハンバーグ、玄武の定食が運ばれてきた。朱雀はぱんと両手を合わせていただきます! と挨拶をし、白米にかぶりつく。玄武も箸を割って味噌汁を啜る。
「げんぶ」
「なんだ」
「楽しもーな!」
ファミレスの暖色の灯りの下で朱雀の笑顔はきらきらと光って見えた。眩しかった。玄武は目を細めて――それは喜びに擬態できたはずだ、頷いた。この相棒の一番そばに、いま自分はいる。それだけでいいのだと思った。言い聞かせた。その底にある沸々と可燃性のガスを発生させている感情のことは、無視をした。
この感情を玄武はずっと持て余している。相棒の、唯一無二の親友に対しての思慕を超えたもの。それは胸を焦がし心臓を締め付けて玄武を苛む。
朱雀を? そんな馬鹿な。
打ち消す理由はいくらでもあった。初めは勘違いだと思った。対等に親しい仲の人間をほとんど持ったことがない自分が相手に入れ込んでしまっているだけと思った。行き過ぎた友情が異形をとるように、自分のそれも歪に育ってしまっただけなのだとも思った。朱雀に対しての憧れとそこに微量に埋伏する嫉妬のような色がアルケミカルに変化して社会の規範にラインナップされていない類のものになったのだと思った。
だいたい恋などに玄武は縁なく生きてきたのだ。それはフィクションの中の出来事であり、自分とは無関係の誰かが誰かを恋うる噂話であり、自分に向けられる不躾な目線の正体だった。好きです。一目惚れしました。ずっと前から。そういう言葉を玄武は退け続けてきた。それは自分の今の人生には必要のないパーツで、いつか自発的に求めるようになった時には、たやすく手に入るようなものだった、そのはずだった。
否定し続けていた感情はある晩に化けて出た。
夜半、玄武は噴き出した汗でぐっしょり湿ったTシャツを洗濯機に叩き込み、そのまま縁を握りしめてしゃがみこんだ。あってはならない出来事が起きてしまった。夢だ。夢でしかない。言い聞かせるなかにも記憶はそれをリフレインさせる。
朱雀の柔らかな頬、ギターの弦で硬くなった指の腹が自分に触れる。いつになく近い距離を朱雀はさらに詰めてきて、見たこともない慎重で繊細な手つきで触れてきた。吐息の湿度を確かに覚えた。そこで目が覚めた。
しゃがみこんだ脚の間でまだ兆していた。興奮した事実に玄武は打ちのめされ、こみ上げる嘔吐感を必死で押し潰した。嘘だ。嘘だ。そんなことあるわけがない。理性が訴えるあいだも股間の熱は意思と関係なく脈打つ。その実感にぞわっと全身の毛が逆立ち肌が粟立つ。遅れて背中を汗が滴って着たままのスウェットに吸い込まれて消える。
助けてくれ、朱雀。
思った瞬間によぎった笑顔に、いつも見下ろしている鼻筋や淡く色づいた唇に、どうしようもなく欲情した。触れられたい。甘えたい。できることなら彼に乱されて思いを遂げたい。認めた瞬間にそれはソリッドなかたちをもって玄武を突き刺した。
玄武はその夜たくさんのことを諦めた。自分を否定することも、欲望を打ち消すことも、恋を叶えることも、なにもかも。ただ一つだけ、今まで通り相棒として傍にいることだけを願い、自分に許した。
あれからどれだけの時間が経ったのか、罪びとが牢の柱に刻むように数えていた日ももう忘れている。そして諦めると決めたにも関わらず、玄武の感情は吠え止むことがない。ぐるぐると喉を鳴らして隙あらば叫ぼうとする。
ライブの終わりに、スチル撮影の合間に、楽屋でのつまらない会話の境目に、玄武は横目で朱雀を見て、その額の直線や顎に残る少年の丸み、勁くなりかけたもみあげの毛、スニーカーからのぞくアキレス腱の陰、そういったものをひとつひとつ記憶した。そしてその夜は朱雀の欠片をかき集めたなにかで欲を吐き出した。罪悪感はないわけではなかった。だがそうしないわけにはいかず――つまりあの夜のようにブレーキの利かない夢を見るわけにはいかず、玄武はただ機械的に手を動かして、目の前の朱雀の幻影に目を瞑り、それをかき消すように刺激に没頭した。思うだけで性器は簡単に膨らみ張り詰めるので玄武ははじめ笑いそうになってしまった。肉欲と懸想はアンバランスなのに、諸手を取り合い玄武を苦しめるときだけは息を合わせる。射精が終われば自己嫌悪と割り切りが交互に襲い来るのをシャワーを浴びて拭い去った。翌朝になれば登校の最中か、遅くても廊下で張本人と顔を合わせるのを、平気な顔をしてやり過ごせるようにもなった。おはよう、玄武、と呼ばれる声の中には甘さのひと欠片もなく、代わりに全幅の信頼がある。それにおはよう、と律した声を返す。思い知る前と何ら変わりないように。
擬態はできている、と思った。そしてこの凪いだ関係が永遠に続くのならば、自分は絶対に朱雀に正体を悟られない自信もあった。朱雀はそういうことに聡いほうではないし、女を意識してあれだけうろたえる男が、逆に言えば男に対しては無防備にもほどがある彼が、そういう意図を抱かれているという想像をする、そんなことはありえないはずだ。ましてや黒野玄武が? それだけは、絶対にない。だから自分の恋心は――そんなきれいな感情だったか? 独占欲と、性欲と、嫉妬と、どろどろした甘苦いもの、それは、絶対に朱雀は知るはずがなく、いつか衰えて、自分も普通に戻れる。玄武はそう自分に言い聞かせ続けている。
ロケの日取りが決まって、先方から送られてきた概要がプロデューサーから手渡される。スポンサーは一社、衣装協力はなし、ヘアメイクは当日ロケバス内で――玄武の考える限りではいわゆる低予算枠だ。プロデューサーもとりわけ厚遇だとは思っていないようだが、今の神速一魂の実力相応程度の待遇ではあるらしいので、どうのこうの文句をつける気はない。朱雀はA4用紙に印刷された「猫ちゃんは今回はご遠慮ください(店舗ロケのため)」という一文に目をむいていたが、飲食店もあるという話を聞いてにゃこの額を撫でながらしょーがねえなあ、とぶつぶつぼやいてそれきりだった。
「駅集合でいいな? ピックアップしてくれるっつう話もあるんだが、どうせ初回だけだろうし、ついでに地理感覚養ってこい」
プロデューサーはそう言ってプリントのロケ地リストを指で叩いた。基本は都内、遠くても横浜、さいたま、その程度だ。玄武は頷くとまだにゃこを弄っている相棒に声をかける。
「ああ、わかった。朱雀、お前もそろそろ乗り換えアプリ入れろ」
「あ? だって玄武が連れてってくれんだろ」
ふいと顔を向けてくる、その目は本当に心底玄武を信じていて、ちくりと心臓のあたりが痛む。玄武はそれを無視して朱雀のスマホを掴む。とっくに覚えた暗証番号を打ち込み、アプリストアから乗り換え案内を検索する。
「あのな、これだって毎回二人とも限らねえだろう。自分で現地まで行けるようになるんだな。ほら、手貸せ」
「あ、てめ、勝手にアプリいれんな!」
引き寄せた朱雀の親指をホームボタンに宛がって指紋認証をパスし、ダウンロードされたアプリを起動する。朱雀がスマホを取り返そうと飛びついてくるのを彼の手の届かない高さまで持ち上げて回避して、頭の上で朱雀の自宅と事務所の住所を登録した。そのあいだ、朱雀の身体はべったり玄武にくっついていて、これが、もし全部ばれていたら絶対にありえないシチュエーションであることを頭のどこかがきちんと覚えている。朱雀は何も知らない、わかっていない、だからこうできる、自分だって素知らぬ顔で腕を掴める、その感触を今夜――いや、それを考えるのは今じゃない。
「ほら、これでどうにかしろ」
スマホを放り投げると朱雀は極めて嫌そうな顔をしながら一応設定を確認している。
「あーあー、ありがとよ、使わねえからな!」
「馬鹿野郎、絶対にいずれ使う、五百円賭けてもいい」
「言ったな、来週の週プロおまえ買え。あとよ」
「なんだ」
「おまえんちも入れてくれ」
は? と声が裏返りかけるのを慌ててとどめて、朱雀の眉間のあたりを睨む。
「おまえんち泊まるとき便利だろ」
「……俺の家はわかるだろうが」
そう返すのが精一杯だった。まだ修練が足りない。渡されたスマホに慣れた自分の家の住所を入れる。神奈川県、横浜市、……コーポ、201。登録した画面を見せると朱雀は満足そうな顔をしてスマホを受け取った。
「あー、お前ら、じゃれてんのもいいが、今週末だからな、ロケ。顔に傷つけんじゃねえぞ」
「それはねえからよ!」
「安心してくれ番長さん」
「一ミリも安心できねえ」
顔をしかめるプロデューサーに二人で笑った。そうだ、新番組だ。新しい仕事だ。言祝ぐべきだ。仕事のことを考えて、神速一魂でいる間は、本当に純粋に朱雀のことを考えられるような気がした。もっともっと忙しくなって、朱雀といる時間が増えても神速一魂の黒野玄武でさえいられれば。玄武はちくちく痛む胸を無意識におさえて、その強さでやっと掌の位置に気づいて手を膝の上に戻す。握りなおした拳の中で爪が食い込んでいることは、無視した。
ロケ当日、土地鑑がないという朱雀にあわせてふたりは新宿駅で待ち合わせた。中央線に乗って吉祥寺駅で降りて、井の頭公園の方に歩いてすこしいったところに店はあるという。山村からプリントアウトされたグーグルマップを一枚手渡されただけだが、たぶんどうにかなるだろう。プロデューサーはほかの仕事の仕込み(これが玄武にはよくわからない)があるから、今日はふたりきりだ。しかも今回仕事をする制作プロダクションは初めて組むところだから、顔見知りもいない。まあ相棒が元気に挨拶してくれりゃあどうにかなるだろう、と踏む。その相棒は隣で大口を開けて眠っている。土曜日の早朝、都心に向かうのとは逆向きの電車はそう混んではいない。だからふたりして座れた。朱雀はその瞬間寝た。たいして早起きでもねえだろうと思うとなりで、赤毛の頭がぐらぐら揺れている。その頭が少しだけ――ほんの少しだけでいいから、自分の方に傾いて、もたれかかってくれないか。肩口に存在しないくすぐったさを感じて玄武は身をすくめる。朱雀の腹巻きの中のにゃこがきっとこちらを見据えるので睨み返した。
――手持無沙汰だと余計なことを考える。本当は店の事前調査やらなにやらをしておきたかったのに、今回の企画は「フレッシュなアイドルのフレッシュな反応」が大事だからと食べログのチェックすら禁止されている。といったってかき氷屋なのだから出てくるのはかき氷だろう。と思うが、最近のかき氷は超パピってることを咲が語っていたことも同時に想起される。といっても玄武に想像できるのはせいぜいSNOWで加工された縁日のかき氷だ。甘味に目がない相棒ならあるいは最新のかき氷事情に詳しいかもしれないが、腕から腰にかけて、半身にじわりと滲む体温をなくすのがどうしても惜しい。まあいいだろうと思ってスマートフォンをジャケットのポケットに押し込んだ。
吉祥寺駅の改札を出る前に、「ようこそ神速一魂さん」と書かれた段ボール板を持った男が目に入った。ここは海外の空港か?と思いながら改札を出る。男はシャツの襟をへんに跳ねさせた中肉中背の中年だ。
「えっと、番組のスタッフの……」
「ディレクターの長谷川といいます」
「おう、長谷川さん、よろしくお願いします!」
朱雀は寝起きが嘘のように元気に挨拶し、にゃこも差し出された長谷川の手に元気にパンチする。玄武も右手をデニムの腰で拭ってから握手した。
「じゃあ、行きましょう。ここから十分くらいですから」
朱雀はにゃこを腹巻きから引きずり出して地面に下ろした。玄武は長谷川と名乗った男の隣、一歩だけ後ろを歩く。上背があるから隣すぎると圧迫感がある、と誰かに言われてから、どうしても癖になっている。
「いやあ、晴れてよかったですねえ。初日が雨だと気が滅入るじゃないですか」
長谷川は手数口数で闘うタイプの人間のようだ。玄武は合間合間に嫌味にならない程度に相槌を打ちながら後ろの朱雀の様子もうかがう。相棒は足元にじゃれつくにゃこに声をかけ、ふいとこちらを見てにやっと笑った。どくりと強く脈動する心臓をおさえて、玄武は長谷川の無駄話に意識を集中した。
掃除がゆきとどいた街路を歩くこと十分と少し、古民家風のたてつけをした店がそこにあった。もっとも和風なのは一階の路面に向いたところだけで、上階は普通の雑居ビルだ。
「うまそうだな」
「店の外見でわかるのか」
「うまそうな店ってあるだろ」
しゃがんでにゃこの腹を撫でながら朱雀は自信満々に言うので、そもそもあまり外食をしない、こと甘味にはまったく明るくない玄武はそういうものかと思う。朱雀がにゃこの和毛に覆われた腹を撫でる、その指の爪がきれいに切りそろえられていることに改めて好感を持つ。
「もう準備できてると思うんですけど、ちょっと確認してきますね」
そう言って長谷川は店の中に入った。朱雀はにゃこを遊んでこい、と道に放って立ち上がる。ふわん、と肩のあたりでトサカが揺れる。
「楽しみだな! 朝飯抜いてきたんだぜ」
「空きっ腹に氷はどうなんだ」
「知らねえ。『家庭の医学』には載ってねえのかよ」
「あれは西洋医学の本だからそういうことは書いてねえ」
言いながら玄武はちらりと横目で相棒を見る。目をキラキラさせて、本当に真面目に真摯に今日のロケに臨もうとしている。
それにくらべて、と玄武は最近いつも迷い入ってしまう迷路の入り口に立つ自分を自覚する。それにくらべて自分は、こうして仕事の合間にも相棒に懸想して、仕草の一つ一つに心臓を跳ねさせ、自分に向ける笑みに特別なものがないかと必死に掻き分けて、――いったい何をしているんだ。いや、ロケさえ始まってしまえば大丈夫だ。忘れられる。玄武はそう心の中で言い切って、朱雀がベロ青くなるか? と真剣に悩んでいるのを放置した。
やがて扉が開いて二人は招き入れられる。外装に似合う和風の店内だ。長谷川がロケの手順を説明するのをふたりでふんふん頷きながら聞く。大体が把握できたところで、朱雀が挨拶回りに行こうと言い出した。
「本番前は忙しいんじゃねえのか」
「けど、終わってから挨拶ってのも変だろ」
それもそうかと玄武が頷くと、朱雀はよっしゃとなぜか袖をまくり、長谷川から、カメラ班と音声班、それにディレクターやADは毎週同じメンバーであることを聞き出すと、玄武の手首をつかんでぐいぐいとカメラの方に向かう。
肌が触れている。と思う。それ以外にも思うことがあるはずなのに、脳は朱雀のまだ柔らかな手のひらの感触を受け取るだけでオーバーフローしそうになっている。温度、湿り気、手触り、そういった情報は手の角度がほんの少し変わるごとに玄武の神経に新しい刺激をあたえてきて、鼻の奥がつんと痛み、喉元に空隙ができたような気がして、玄武は無理やり絞りだした唾液を飲み込んだ。
「315プロの神速一魂の紅井です、今日からよろしくお願いします!」
気づくと朱雀がスタッフに向かって頭を下げている。慌てて玄武も礼をした。それから黒野です、と名乗る。順序が逆だ。まあいい。朱雀は玄武から手を放すと隣のもこもこした集音器をいじっている音声班へ歩き出す。手首がひゅっと冷えたように感じる。朱雀の肌が生んだわずかな湿り気の放射冷却。頭がそういうことを勝手に考えるのを押しのけて、玄武は朱雀の後を追った。
続いてふたりが向かったのはADの女性たちのところだった。すっと背が高いひとりと、それにくらべると小柄なもうひとりが談笑している。
「あのっ、オレたち、今日から世話んなります、よろしくお願いします!」
「あー、315プロから来ました神速一魂の、こっちが紅井朱雀で俺が黒野玄武です。よろしくお願いします」
おい、さっきの調子はどうした。内心突っ込みながら玄武は朱雀の自己紹介から欠けおちた部分を全部補った。
「よ、よっしゃ玄武つぎ行くぞ、つぎ!」
ADふたりはきちんとした笑みを浮かべて何か言おうとしていたが、朱雀はさっさとカメラ班のほうへ向かってなかば駆けるように逃げ出していた。玄武はもういちど頭を下げて、しかし毎週これじゃあ先が思いやられるぜ、とひとりごちる。女が苦手。相棒のその傾向についていままで深く立ち入ったことはない。それは玄武が必要以上の痛みを負うことを嫌がっているからだ。過去に何かあったのか、なかったのか、女を特別視する理由がなんなのか、それは異性として、恋愛対象として意識しているからなのかどうか。掘れば掘るだけ自分の手が傷つく。玄武はまた深みに陥ろうとしている自分を制して、朱雀の後を追う。
いや、それにしたって仕事だぜ相棒。
ロケ自体は極めて順調に進んだ。しゃりしゃりのかき氷にかけられたエスプーマの上に星形のマカロンとさらにフレッシュフルーツが飾られた、もはやなんだかよくわからない甘味に向かった朱雀のリアクションはこれ以上ないもので、玄武の動揺もポジティブにとらえられたらしく、一発OK。駅から店までのルートを辿りなおすヤラセシーンも、ぎこちなさが抜けてきた三度目でOKが出た。すべてのカットの収録を終えたふたりは用意されたロケバスに戻って、早めの昼飯だと出された弁当を開ける。さっきのADの背の低いほうが魚と肉、だったら肉ですよね、と差し出してきた弁当を朱雀は無言で真っ赤になりながら受け取っていた。玄武は本当は魚の方が好きなのだが、肉の弁当をもらった。バスの最後部座席に陣取って蓋を開けるとからあげとメンチカツにポテトサラダ、ご飯の上に青みがかったカリカリ梅が乗っていた。
「あー、たまこや行きてえな。おい玄武、帰り事務所寄ろうぜ」
「いいが、お前、もうちょっと女性に対する態度をどうにかしろ」
「はあ!?」
声が裏返ったのは図星だったのだろう。横を見ると朱雀は口をぱくぱくさせて、多分なにか反撃をしたいのだろうが言葉が出てこない、といったあたりだろうか。
「お前、来週からもADさんたちはいるんだぞ。それに仕事の話もあるだろう」
「わかってっけどよお、そりゃ、仕事の話はするぜえ? するけど、なんだ、他に何話しゃいいんだよお」
朱雀はぐだぐだ言いながらからあげをつまみ、ポテサラの山の半分を一気に口に放り込み、ものすごい勢いで弁当を食っている。
「世間話を覚えろ。この番組みてえな話だ。ちょうどいいじゃねえか」
「う~、わーったよお……」
トサカが少しけしょん、としたのは気のせいだろうか。相棒の向こうの席ではにゃこが割り箸の袋にじゃれついていた。
飯を食べ終わって外に出ると、ロケ隊はほとんど撤収していた。さっきのADがお疲れさまでした、と声をかけてくる。
「今週はこれでおしまいです。長谷川は所用で先に戻りましたので、現場の締めは私がさせていただきます。来週のロケ地はお伝えした通りですが、のちほど事務所の方にもう一度メールしておきます。もしプロデューサーさんが来られるようでしたら、念のためお知らせください」
ADはすらすら連絡事項を述べると、人のよさそうな顔にさらに笑みを浮かべて言った。
「初回のロケがこんなに順調なことってめったにないんです。おふたりのおかげです。来週からもよろしくお願いしますね」
朱雀が盛大に照れながらこっちこそ……と頭を下げる。玄武も礼を言い、さっき聞きそびれた名前を聞いた。
「私が高橋で、あっちが横川です」
背の高いほうを指しながらそう言って高橋はまた笑った。それは単純に人好きがする笑顔で、ああ業界というのはこういう潤滑油があるから回るのだと、玄武はそのときは完全に他人事として思っていた。
それから毎週末ごとにロケがあった。日曜の時もあれば土曜の時もあった。だいたいは早朝からお昼すぎくらいまで、客のいない時間にロケがあり、早めの昼飯を食べて、それからあとに仕事があれば移動し、そうでないときはふたりでファストフード店や事務所で反省会をした。
三回目のロケが終わったあと、ふたりは池袋まで出て、ひさしぶりにファミレスに入った。ロケ弁がハンバーガーだったので白米が食いたいと朱雀が言ったのだ。
「お前、すこしマシになってきたな」
席についてメニューを覗き込んでいた朱雀を見て、玄武の口をついて出たひとことに、玄武当人が驚いた。
「あ? なにがだよ」
「ADさんたちに、だよ」
「あー……」
初回にいた長谷川というディレクターは毎回顔を出すわけではない、ということを知ったのが前回のロケだった。現場を預かったのは高橋のほうで、びっしり書かれたメモ帳を片手にうまく現場を仕切り、VRアトラクションの施設の紹介動画をきちんと撮り終えた。その放送はまだ先だから見ていないが、再撮影の話が来ていない以上どうにかなった、と考えるべきだろう。
朱雀は仕事となると多少気分も違うようで、初回ほどうろたえずにADふたりに接していた。他のスタッフがほぼ男性なこともあって気がつくとそちらと会話していることも多いのだが、最低限支障をきたさない程度には会話ができている。普段他の現場でもっとひどい有様を見ている玄武からすると、正直なところ意外だった。
「……まあなんかよお、仕事だしよお、頷いてるだけっつーわけにもいかねえじゃねえか」
「それはそうだ」
「だからまあ、オレは、超頑張ってんだ。おまえの半分くらいしかしゃべってねえけどよ」
「そうか」
「デミグラスオムライス定食」
「は?」
「オレの昼飯だよ。おまえは?」
そう振られて、玄武は適当に開いたところにあったマルゲリータを頼んだ。店員が去ったあと朱雀は水を一口飲んで言う。
「なあ来週よお」
「声がでかい」
「……来週、ロケ、パンケーキ屋じゃねえか」
「そうだったか?」
「そうだよ! しかも誘ったのにおまえが断ったとこだ!」
朱雀はなぜか得意そうに、ざまあみろ、と腹巻きに手を突っ込みながら笑っている。その笑顔が心底楽しそうで、玄武はよかった、と思いながら口では「どうせ客は女ばっかりだぜ」とまぜっかえした。
「だから誰もいねえロケのときに行けてすげーラッキーなんだよ」
「……やっぱりお前、頑張ってねえだろう」
朱雀はなにがおかしいのかまだニヤニヤ笑っている。玄武もグラスを口に運びながら笑い返した。氷が唇にあたって、ふと最初のロケでおぼえた手首の冷たさを思い出した。朱雀との身体的な接触は日常的なことだ。それにいちいち律儀に反応する自分の体を、玄武はようやく御せるようになってきた。
そうだ。ここまではごく当たり前の日常だったのだ。玄武はまだ何も知らず、知らされておらず、朱雀だってきっと気づいていなかったに違いない。
*
屋上に呼び出されたのは、五月のよく晴れた火曜日のことだった。授業中にスマホに通知がきた。仕事の連絡かと思って机の下で開くと、朱雀からだった。起きてるなんて珍しいこともある。そう思って開くと、「ひるおくじょう」とだけあった。といってもいつもだいたい昼はふたりで屋上にあがって食べているから、わざわざメッセージを送ってくる理由がわからない。若干の違和感をおぼえながら玄武は了解、と返事をした。さかのぼれば、そこからすでに朱雀はおかしかったのだ。だが玄武はそのちいさなしこりを見て見ないふりをした。
授業終わりのチャイムが鳴って、玄武は弁当とペットボトルのお茶をとりだすと屋上に向かう。掃除のゆきとどかない踊り場の埃を蹴り、「開放していません」という張り紙を無視して鍵を開ける。ふわっと風が吹き込んでくる。頭を下げて扉をくぐり、陽光でよく熱されたコンクリの床に陣取る。朱雀はだいたい授業終わりのチャイムで目を覚まして、廊下で遊んでいるにゃこを回収して、それから上がってくるから玄武より着くのが遅い。玄武はお茶の蓋を開けて口をつける。といっても中身は自宅で煮出した麦茶だ。毎日ペットボトルを買う余裕はない。
やがてどたどたと足音がして、というのが普段なのに、今日は朱雀はやけに静かに上がってきた。神妙な顔をして、よく見ると腹巻きの中ににゃこがいない。
「にゃこ、連れてこなかったのか?」
「……あー、ああ」
朱雀は歯切れ悪く答えると、玄武の真向かいにどかりと腰を下ろした。首の後ろを掻いて、しきりに頭を振り、やけにまばたきの回数が多い。含みがある、と察したが、かといって水を向けてやるほどでもないだろうと玄武は思って、弁当を開ける。今日はアスパラガスが安かったのでそれのベーコン巻、冷食のハッシュドポテト、それに冷凍ごはんと昨晩の鯵の残りでつくったチャーハンだ。一口目を放り込んでから視線を上げると、朱雀は弁当にも手をつけず、まだ居心地悪そうにもぞもぞしている。
「食わねえのか」
「あ?」
「昼メシ」
「……あー」
屋上に来てからの朱雀は母音ひとつですべてを済ませようとしている。さすがに様子がおかしすぎる。玄武が質すために弁当箱を床に置こうとしたとき、朱雀が言った。
「なあ玄武」
「なんだ」
「おまえ、人を好きになったこと、あるか」
がん、と殴られたような気がした。ボディじゃない。頭に、手加減なしの、昏倒を目的にした一発。ぐらぐらと揺れる視界を必死に抑えて、玄武はまぶたを閉じ、ズレていた眼鏡を押し上げた。
「お前が色恋の話するなんて、珍しいじゃねえか」
「玄武、真面目に聞いてんだよ」
朱雀は正面切ってこちらを見据えてくる。座った場所が悪かった。いや、朱雀が後から来たのだから自分は悪くない。そういう雑音のような言い訳を押し分けて、玄武はようやく一言口にする。
「……何が言いたい」
問いには答えなかった。答えたくなかった。その現象のせいでどれだけ自分が苦しんでいるかを吐き出しそうになる。お前のせいだと胸倉をつかみそうになる。だから朱雀の意図を尋ねることにした。それならきっと、黒野玄武のふるまいとしておかしくはない。
朱雀はまた首のうしろを掻いて、口の中でなにかもごもご言い、視線を横にずらし、これ以上ない逡巡の様子を見せた後に、ぼそっと呟いた。
「……内緒にしといてほしいんだけどよ」
「分かった」
「オレ、多分」
言うな。口走りそうになるより先に、朱雀が言った。
「好きなひとができた」