灰の城

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 しとしと雨の夜だった。フロントガラスを雨が叩いて波紋が広がっては重力に負けて下に流れて行く。朱雀は永遠に続くようなその戯れを眺めながら女を待っている。
 この職は晴れより雨のほうが仕事が多い。普段は風俗に行く客が外出を億劫がって女を部屋に呼ぶのだ。自室にセックス目的で女を呼べるやつがそんなにいるのかと朱雀などは思うが、実際数に出ているのだからわからない。女に聞いても割合部屋が綺麗で、新品の歯ブラシと柔軟剤の効いたバスタオルなんかを用意するような男が大多数だそうだから、いつも洗剤だけのぱりぱりのタオルで体を拭いている朱雀はやはり少数派なのだと思う。週刊誌を助手席に投げ捨てて、朱雀は女が帰ってくるのを待つ。住宅街の真ん中の指定住所から、迎えの車を停めたコインパーキングまではいくらか距離があった。この天気ならホテルの出口まで迎えに行ってもいいのだが、呼ばれたのが自宅とあっては黒スーツ姿の朱雀がこれ見よがしに行くわけにもいかない。水滴で屈折し乱反射する街灯の光を受けてダッシュボードがぼんやりスポットライトを浴びたように光っている。朱雀はぶるりと身を震わせて湿気を抜くための空調を少し弱めた。それから足を組み替えてスマートフォンを見る。規定の時間から少し経っているが、店長曰く常連とのことだから心配するほどでもない。だから何をするでもなくぼうっと雨垂れを見ては、描かれる図形に何かを見出せる気がして、切り上げる機を逸している。
 あのあと玄武と三度夕食を食べた。一度は朱雀がコンビニから持って帰ったコンビニのホットスナックで、一度は玄武が用意したどこかの店のサラダと唐揚げで、一番最近はついに米が尽きたとのことで玄武がナポリタンを作ってくれた。太いスパゲティにピーマンの輪切りとソーセージがはいった、ケチャップの焦げが香ばしいやつだ。たまたま滅茶苦茶に暇な日があって、二人とも事務所にいたときに朱雀がふと腹減ったな、と零したのが原因だった。玄武はそのためにわざわざ二十四時間スーパーでスパゲティとピーマンとソーセージと深めのフライパンを買ってきた。ケチャップは誰かが持ち込んだものがあったから拝借した。玄武が手際よく具材を切って炒めて火を通し、一度皿に開けてからフライパンをよく洗い、ポットから湯を注いでスパゲティを茹でるのを朱雀は隣でずっと見ていた。会話はほとんどなかったが玄武がソーセージを輪切りにしたときに、あ、と声が漏れたのを彼は聞き逃さなかった。ちらりとこちらを見るので、朱雀は言おうか散々迷ったあとに「うちのおふくろはナナメに切るんだよ」と告げた。玄武は少し考えてから、次のソーセージからはそぎ切りのようにしてくれた。だから出来上がったナポリタンには輪切りとナナメ切りの両方が入り混じっていた。紙皿に大盛りにしたそれを二人で食いながら、朱雀は玄武に連絡先の交換を申し出た。玄武もそんな方法があったことをすっかり忘れていた、といった顔でラインでいいかと返してきた。朱雀はこの男の口からラインという単語が出るのを不思議に思いながらIDを交換して、お試しにデフォルトのクマのスタンプを送ってやった。すぐに玄武のスマートフォンが震えて通知が出るのを隣で見た。玄武は少し考えてから頷いて、おなじクマを送ってきた。
 そのあとのふたりのトークは基本設定のままの青背景がだいたい食事の話で埋まっている。たまに気が向いたように無料のスタンプがペタペタと貼られているが、それも長続きはしない。長く続けられる話題を朱雀は思いつかなかったし、玄武にもその気はないようだった。だがこの間少しだけいいことがあった。朱雀は直近の会話を呼び出す。お互いに食べたいものを列挙していたら、珍しく玄武から今度食いにいくか、と約束のような言葉が飛び出したのだ。朱雀はそのひとことの上に親指を置く。長押ししていると吹き出しの色が変わってメニューがポップアップする。〈キープ〉しようか迷ってやめる。今まで誰の言葉にもそんなことをしたことはなかったしされてもこなかった。だからこの機能のことを朱雀はよく知らない。正直に言えば、万が一通知が行くとこっぱずかしい、というだけの理由でためらっている。
 やがて車に傘をさした女が戻ってきた。雨脚はさっきより少しだけ弱まっていたが、彼女の足元はぐっしょり濡れていた。車に乗り込むときに外の湿気が流れ込んで、少しだけ空気がよみがったような気がした。朱雀はバレないように新鮮な空気を肺に入れながら、コンビニで買っておいたタオルを渡す。女はパンプスを脱いで足を拭う前に靴のほうにタオルを突っ込んだ。その上に足を置いて、ストッキングに染み込んだ水分を吸い込ませる。雨の日には尻まであるものではなくガーターストッキングを履いて濡れたら脱いでしまう女が多いが、こいつはそうではないらしい。朱雀は女が一通りの始末を終えたのを見計らって自分の傘を持って車の外に出る。コインパーキングの精算機に五〇〇円玉を突っ込んで釣りの一〇〇円玉を受け取るあいだに、手首から先が精算機のひさしから滴る雨粒でぐっしょり濡れた。足元も女ほどではないがそれなりに濡れ始めている。朱雀は舌打ちをしながら運転席に乗り込む前に傘をたたんで、肩に落ちた水滴を払い、最後に濡れた右手首を振った。女は後部座席のシートにしどけなく横たわって早く出してよ、と文句を言う。朱雀は生返事をしてキーを回した。エンジンがかかって車が震え、タイヤと濡れた路面がこすれる音がして走り出す。朱雀はさっき読み返していたトークの最後の言葉を思い出す。
〈今日は米を炊いた。メインもあるから買わなくていい〉
 まるで友達と同居しているようだと思う。口元がにやけそうになるのを隠して、ハンドルをきつく握った。


 雨の夜だ。さすがに安全運転を心がけたおかげで、いつもより五分ほど遅く街についた。本通りから横道に入ろうとして、行先を塞いでいるビニール傘をさした客引きたちに軽くクラクションを鳴らすと、透明な傘の輪郭がささっと左右にわかれる。そのまま軒下に入り込んで傘を閉じたウィンドブレーカーの男を見ながら、今日みたいな日は外に出たくなんかねえよなと朱雀は口の中で呟いて、契約している駐車場に向かう。ビルとビルの谷間にある駐車場は街灯の光が遮られて薄暗い。その闇の中、店が契約している枠の前にひとり背の高い男が傘をさして立っているのを見て、朱雀は目をぱちくりさせた。何度見ても見知った顔だったからだ。同時に後ろで寝こけていた女がむくりと体を起こして、フロントガラス越しに男の姿を認める。
「黒野じゃん」
「んだな」  朱雀は徐行しながらそっと玄武のもとに近づいた。パワーウィンドウを下ろして頭を出そうとすると、玄武はそれを制して、さしていた傘を朱雀の頭上に差し出す。その小脇には畳んだ傘が一本抱えられている。
「なんだよ、なんかあったのか」
「いや」
 玄武は一度言いよどんで、立て板に水の彼には珍しくゆっくりと喋った。
「デカイ傘があったから持ってきたんだ」
 は、と朱雀が怪訝な顔をしたのがわかったのだろう、玄武は眉をしかめながらとにかく車を入れろと手で合図するので、朱雀はおとなしくギアをバックに切り替える。玄武は必要もないのに手で誘導してくれて、暗がりの中、車は白線と白線の間に無事に収まった。女はシートから飛び起きるとまだ乾いていない靴の中に足を突っ込んで、気持ち悪そうな顔でドアを開ける。玄武はすっと手持ちの傘を開いて彼女の頭の上に差し出した。
「傘、これ使いな。デカイから濡れねえだろ」
「あんがと! あたしの使ったやつさあ、中にあるから持っといてきてくれる?」
「ああ」
 玄武が頷くと女は靴めっちゃがぽがぽ言う!と笑って玄武の胸を叩き、受け取った傘をさしてそのままビルの方へ歩き出した。女の体を支えるには華奢すぎるようなヒールが歩くたびに震えている。朱雀はその一部始終を運転席から見守っていたが、玄武が開けっ放しの後部座席に体を突っ込み、細々したゴミや女が投げ出した傘を拾い始めたのを見てやっと我に帰る。
「傘」
「あ?」
「オレもあいつも持ってる」
 ああ知ってる、と玄武は顔も上げずに言った。長身は狭苦しくかがめられて、長い手足は車の横幅ちょうどに折りたたまれている。その手の中のビニール袋はあっという間にいっぱいになる。玄武が掃除しているのを見るたびに朱雀は一体どこからそんなゴミを見つけてくるのだと思う。聡い目とよく働く手だ。
「サービスだ」
「そんなデケエのかよ、傘」
「二人入れる。直径九〇センチだ」
「数字言われてもわかんねえよ、普通のっていくつなんだよ」
「コンビニのは六五とか七〇じゃねえか」
「ふうん、じゃあデケエな」
 そこで会話が途切れて朱雀はシートに座ったまま伸びをした。それから足元にある自分のゴミを拾い集め、助手席の手提げ金庫の上に乗せる。それを玄武はゴミ袋に詰め込む。何度かそれを繰り返して車の中はすっかりきれいになった。
「仕事あんのか」
「このあと出る」
「マジかよ、こんなんしてる暇ねえだろ」
 朱雀が振りかえると玄武はしばらくシートを見つめて、それから視線をこちらに向けた。
「じゃあ、帰るか」
 その口ぶりが思ったより柔らかく、朱雀はこの会話に感じていた微妙な不自然さのことをすっかり忘れようと決めた。玄武はゴミ袋の口をきゅっと閉じると長躯をうまいこと後部座席の上で回転させて、車の外に傘を出すとぱんと開いた。視界が真っ黒な傘の布地で覆われて、朱雀は初めてそのサイズを認識する。
「あー、デケエな、傘」
「人を送るのに都合がいい。経費で落ちるかと思ったんだが断られた」
「そりゃ無理だろ……」
 玄武は車を降りると足元を確かめて、さっと運転席の扉を開けて傘を差し出した。女をエスコートするようなその仕草は完璧で、朱雀はすっかり気を抜かれて玄武に促されるままにそっと足を地面に下ろした。濡れたアスファルトが靴裏を少し滑らせて、止まる。水が跳ねないようにもう片足を気をつけて下ろして、立ち上がると玄武の澄ました顔が視界に入る。いつかもこんな仕草を見たと思いながら、朱雀はいろいろ考えるのが面倒になって、思いついたことを口にした。
「あのよ」
「なんだ」
「オレの傘開くのめんどくせえからこのまま行ってもいいか」
「いいぜ、男二人でも入るだろ」
「九〇センチだもんな」
 手提げ金庫を持ってキーを抜いたことを確認し、最後にゴミがないかをもう一度見て、半ば乾きかけた傘を持ち出すと朱雀は扉を閉めた。車体にびっしり付いていた水滴が衝撃で驚いたように一斉に滑り落ちる。鍵がきちんとしまっていることを確かめて、朱雀は玄武を見上げた。玄武はふいと顔をそらすと歩き出した。朱雀も遅れないように隣に並ぶ。二人の歩幅の違いが足音のテンポの差になって、ばしゃばしゃという水音がズレては揃い、揃ってはズレる。玄武の右腕と朱雀の左肩が少しだけ擦れて、また離れた。朱雀は金庫を抱え直して、隣を歩く男の顔を見上げる。玄武は何事もないような顔をして歩く先だけを見ているが、その傘が少しだけ朱雀の方に傾いているのを自分は当たり前のように知っている。胸元に生まれた温もりに朱雀は身震いして、玄武と同じように進む先だけを見ようときっと前を向いた。





「紅井、ちょっと話があるんだけど」と呼び止められたのは、朝から割といいことが続いていた日だった。といっても朝の占いでおひつじ座が一位で、コンビニのポイントが貯まってペプシ一本ぶんになり、朝飯と昼飯を買ってくじを引いたら一〇〇円引きのクーポンが当たった程度だ。だからしっぺ返しがあるにしてもそうたいそうなことではあるまいと踏んでいたのが悪かったのか。朱雀を呼び止めたのは玄武と寝ていたナンバーの女だった。


 仕事の後に、と無理やりに約束を取り付けられて、朱雀はげんなりしながら車に乗った。そんなときに限って道は混んでいるし、後ろからエアロパーツがゴテゴテついたシャコタン車に煽られる。朱雀は舌打ちを繰り返しながらあくまで交通法規に則って運転する。パクられたら余計なことでグダグダと警察に因縁をつけられるに違いなかった。煽ってきた車はしばらく後ろをウロウロしていたが、諦めたのか朱雀のバンを追い抜いていった。ふうと息を吐いてバックミラーで後ろを見ると、女は口を半開きにしてスマートフォンに熱中している。朱雀は黙ってミラーの角度を元に戻した。
 女をホテルに見送って電話を入れると朱雀は車の中に戻った。仕事の初っ端につけられた因縁で食欲が失せていて、昼飯の予定だった弁当がまるまる残っているから買い物に行く必要はない。今日は一二〇分コースなので戻れないし、この時間はシートに座って悶々とするしかなかった。朱雀はラインを立ち上げて玄武との会話を見返す。いつも通り食事の話ばかりで、この間の〈約束〉はまだ具体性を持っていなかった。朱雀は話が流れてしまうのが怖くて玄武からきたメッセージのスクリーンショットを取っていた。何に使うわけではなく、本人に送りつけるわけでもなく、それは朱雀の画像フォルダの中に眠っている。お守りのようにその一言を撫でながら、朱雀は女に言われたことを玄武に相談しようか迷う。視野の狭いらしい女の言うことだから間違いなく玄武絡みのことだろうし、言えば玄武は手を打ってくれるに違いなかった。ただ、それはフェアではないという思いと、そもそも女相手にチクるような真似はできない矜持のようなものが朱雀にはあった。トーク画面を開いては閉じて、朱雀は結局玄武には何も言わないことにした。だいたい何を難癖つけられるかわからない前から、布石を打っておくようなことは向いていなかった。弁当のパッケージを開けてカピカピに乾いたスパゲティをすすりながら、朱雀はなにか言われて面倒そうなら助けを求めるくらいのことはしてもいいかと思った。そう思っていたはずだった。


「あんた玄武くんのなんなの」
 女はいきなりそう切り出してきた。朱雀の待っていた〈仕事の後〉は今日の仕事が全部終わったあとのことだったのだが、女は早速店長に話をつけたらしく、戻ったばかりの朱雀をとっ捕まえた。まだ仕事があるからと半ば玄関でもみ合うようになりながら朱雀は部屋の奥に助けを求めようとして、女の肩の向こうで店長が苦笑いを浮かべて「紅井、すまん」と口パクで謝ってくるのを見た。脱力した朱雀を女は階下の踊り場に引きずりこんだ。この間蹴散らしたビールケースはきちんと積み上げられていた。その上に無理やり座らされて、朱雀は顔の整った女を見上げる羽目になる。
「あんた玄武くんのなんなの」
 棘々しい口調で繰り返す女に朱雀はつい、はあ?と答えてしまう。女はきっと眦を釣り上げてまた同じことを言った。それから豊かな胸の下で腕を組んで、朱雀の答えをじっと待つ。朱雀は仕方なく問われたことを反芻する。自分は玄武のなんなのか。同僚だと思う。それも少し仲のいいやつだ。たまにラインをする。だが一緒に遊んだりはしない――例えば自分は玄武の家を知らないし、玄武も多分知らない。この間の約束もまだ果たされていない。だから、多分、友達ではないのだと思う。削り出した事実が思ったより自分に負荷を与えていないことに驚きながら、朱雀は女の顔を見上げる。カラコンを入れたやや緑がかった目が光り、逆光で傷んだ髪の毛が光ってよりパサパサに見える。誰かが愚痴っていた、綺麗な女がいてもあいつらはどこか欠けてて、完璧にいい女がここにはいない――どこにだっているものかと朱雀は思っている。ゴクリと唾を飲んで朱雀は口を開く。
「玄武は、仕事仲間だろ。それで、多分玄武もそう思ってる」
「じゃあなんでご飯食べてんの」
「は? 飯?」
「そう、あんたと玄武くん、ご飯食べてる、他の誰とも玄武くんそんなことしないのに、なんであんただけそんなことできるの? おかしい」
「おかしいって――普通に飯食ってるだけだろ。玄武が料理できっし」
「だからなんで玄武くんのご飯食べられるの!」
 女は半ば叫ぶように怒鳴って朱雀の座っているビールケースを蹴飛ばした。朱雀はそれなりに重量があるからビクともしない。むしろ反動で足を痛めたのか女は恨めしそうな目を朱雀に向ける。そのカラコンの奥の瞳孔が開きかけているのを見て、朱雀は思わず背後をふりかえって店長の姿を探した。とたんに女の金切り声が響く。
「よそ見てんじゃねーよ!」
「わ、悪い」
「なんであんただけ玄武くんのごはんが食べれて玄武くんとごはんできんの? あたし玄武くんとエッチしてんだよ? 玄武くんのことあんたよりずっとわかってんのに、それなのにあんたばっかり、あんた玄武くんのことなんかなんにも知らないくせに」
 女は続けてがなるが、朱雀は女の言葉の一点で耳が止まってしまった。まばたきのあいまにふっとあの白い体が蘇って脳を揺らす。足元がぐらつく感覚に朱雀はぎゅっと床を踏みしめた。大丈夫だ。言い聞かせながら、同時に余計なことを思い出させた女にとたんに腹が立ってくる。
「……ふざけんなよ」
「ふざけてんのはあんたのほう、だいたいあんた」
「難癖つけてんじゃねえよ!」
 女がうっと黙ったのを隙と見て、朱雀は一気に畳み掛けると決める。つかえていた言葉がようやく見つかった気がして、また八つ当たりだと思いながら朱雀は胸の中のものを吐き出す。
「あいつはよ、玄武は好きでオレと一緒にいんだ! オレだって玄武と好きで一緒にいんだよ、それでなにが悪いってんだ! おまえとは違えんだよ!」
 女は眼を見開いて、それから信じられないといった顔つきになり、ぼろぼろ涙をこぼし始めた。女の綺麗な顔が歪んで熱い涙に化粧が溶け始める。しゃくりあげる声が階段に響いて、それを聞きつけたのか店長がどたばたと足音を立てて降りてきた。
「バカ、お前何やってんだ」
「喧嘩売ってきたのはあっちっすよ」
「そうじゃねえだろ、ああ、もう開店中に!」
 店長がなだめるように腕の中に収めようとしたのを振り払って女はきっと朱雀を睨むと綺麗にルージュを塗った口を大開きにして朱雀に怒鳴る。
「玄武くんは違う! あんたなんかになにがわかる、違う、違うんだから!」
「うるせえ! 違わねえ、違いやしねえよ!」
「紅井、やめろ! なあ、ほら、泣き止めって。おい」
 女は泣き声と金切り声をあげながら店長の腕の中でもがいては朱雀を罵った。朱雀はそれを真正面で受け止めたまま仁王立ちになる。引くわけにはいかなかった。女が玄武を勝手に定義しようとする言葉の一つ一つを切り捨てた。その一言に女はまた泣き叫ぶ。そのうち止められないと悟った店長が焦りながら「黒野!」と叫ぶ。
 振り向くと渋い顔をした黒野玄武が踊り場に立っている。その影が自分の足元まで伸びているのを朱雀は辿って確かめて、もう一度玄武の顔を見る。玄武は眉間にしわを寄せながら、朱雀ではなくもみ合いになっている店長と女のことをはるか上から見つめている。
「黒野!」
 店長がもう一度声をかけたのに玄武はあからさまなため息で応えると、階段を降りてこちらに向かってきた。その静かな顔に諦めのような陰が落ちているのを見てまた朱雀の腹が沸き立つ。
「玄武!」
 呼ばれて男はやっと朱雀の顔を見て、朱雀の目の前で足を止めた。眼の中にはこの間の途方にくれた子供の表情の名残があった。咄嗟に助けてやらなければならないと思った。そして今度こそ求められているものを差し出せるという確信が浮かんだ。それは卵から孵ったばかりの雛鳥のようにおぼつかないけれど、確かに脈打つ感情だった。
 朱雀は汗がにじむ手を握りなおして玄武に体を寄せ、拳固でとんと背中を叩いてやる。とたんに自分を見る眼の中で固く結ばれたものがほぐれたように見えた。朱雀は後押しをするようにもう一度背を叩く。玄武は朱雀の眼をしっかりと見つめ返して、口元を一度引き結ぶと女の目の前に立った。女は気圧されながらも朱雀の心をズタズタにするような一言を期待した顔で玄武の顔を見上げる。だがそうならない自信が朱雀にはあった。
「あんたの気持ちにゃ添えねえ」
 ひっ、という女の悲鳴のような声と店長の制止を玄武は目だけで押さえ込んで、もう一度女の顔をしっかり見据える。
「悪いことをした。すまねえ。俺には応えられねえんだ。俺は……あんたじゃねえんだ」
 そこで玄武は言葉を切ってちらりと朱雀に視線を寄越した。朱雀はそれを受け止めて、先を促すために頷く。玄武は安心したように詰めていた息を吐くと眼を女に戻した。
「すまねえ、殴りたきゃ殴りな」
 その低い声は静まった空間にやけにはっきりと響いた。朱雀は口の中に溜まった唾液を音がしないようになるべく静かに飲み込んだ。女は俯いたまま何も言わず、店長は怒ったような焦ったような顔色で汗をかきながら、女と玄武を交互に見ては何かしようとしてまごついて何もできない。朱雀は少し高い位置にある玄武の横顔を眺める。玄武のもともと持っている怜悧さが今は冷徹さに見える、そのくらいに玄武はわかりやすく女を拒んだ。そのことに安堵している自分と、そんな自分に驚かないもう一人の自分がいた。
 女はしばらく呆然と玄武の顔を見ていたが、やがて力なくしゃがみこむとその場にうずくまってしまった。店長は苦い顔をして玄武と朱雀を追い払うように手で合図した。朱雀はその場に突っ立っていた玄武の背を押して階段を上がる。少し戸惑うような間を置いてから足音が続いたのを聞いてほっとする。朱雀はそのまま事務所の前まで歩いて、立ち止まった。一定のリズムで後をついてきた足音が止まって、そのまましばらく時間が流れる。階下では店長が何か声をかけているがもう意味のある言葉には取れない。
 振り返って、見上げた玄武の顔がやけに青ざめているのに気づく。おい、と声をかけると玄武は苦しそうに胸を一度叩いて、浅く息を吐いた。朱雀の顔を見て何か言いたげに口を開き、そこから小さく舌を出して唇を舐めて潤す。また息を吐いて襟元を整える。それから殴られなかった頬を撫でて、その手を所在なさげにぶらりと垂れ下げる。朱雀は一部始終を見守って、この年上だろう男のやけに頼りない一面を知る。それも驚きより嬉しさの方が先に立った。やがて玄武は重い口を開いた。
「卑怯な真似をした」
 溢れた言葉を朱雀は丁寧に掬い取ろうとしてやめた。追及することも玄武の細やかな気持ちを理解しようとすることも興奮した直後の自分には不向きで、この場面にも不似合いだった。
「いーんだよ」
 玄武はふっと顔を上げ、視線を朱雀の顔まで下げる。その頬に血の気が戻るように祈りながら朱雀は言葉を繋いだ。
「別によ、卑怯でもなんでもいーんだよ。おめーもオレも、それで」
 玄武は口元を緩めて、そうか、と小さく呟いて、また苦しそうに息を吐いた。





 結局その日はもう営業どころではなくなって、朱雀と玄武は半ギレの店長に命じられて、それぞれ予約の客だけ処理して帰っていいことになった。ついでに翌日も予約の客のみにして、それも店長とヨシイで捌ける量ということでふたりは自宅待機になった。今月の給料が半分以上吹っ飛ぶような予感があったが、それも隣で居心地悪そうに話を聞いている玄武の顔を見ればどうということはなかった。説教終わりの別れしな、ふたりには少しだけ言葉を交わす時間ができた。朱雀はあれ以上何を言っていいかわからず玄武の顎先を見上げる。玄武はまだ息苦しそうな顔をしつつも朱雀の視線に気づいて「大丈夫だ」とだけ言った。朱雀はそれを真に受けて頷くと「約束」と一言口にした。玄武は少し時間をおいて合点したらしく「休みの予定を送る」と返してきた。そこで時間切れになりふたりは別々の車に乗って別々の女を迎えに行くことになった。今日はそのまま散会ということだったから、出先までの距離が違う玄武と帰りがけに会うことは考えにくく、朱雀は運転席で唯一のよすがのスマートフォンを握り変えた。
 夜中の街道を飛ばしてホテルの前に着き、女を待っていると、相手はやたらウキウキした顔で車に乗りこんできた。「紅井やっちゃったんだって?」話は出回っているらしいからごまかす労力が無駄になると判断し、朱雀は黙って頷いてバンを駐車場から出した。「なんかあの女泣かせたらしいじゃん、よくやるね、あの子すぐキレるけど泣かせたの初めて聞いたよ」「オレが泣かしたんじゃねーよ、玄武だよ玄武。オレはキレさせただけだぜ」「黒野が? 相手してなかったからね~、でもそりゃ泣くよね、あんだけベタベタに好きだったら。何言われたか知らないけど」聞いて朱雀はあの女の片恋が女連中には公然の秘密だったことを初めて知り、そして玄武が女を抱いていたことを誰も知らないとぼんやり悟る。「わかんねーけどよ、あんま騒ぎにしてくれんなって」「手遅れでしょそれ。みんなもう知ってるし」「そーかよ」言いながら朱雀は玄武が何を感じて今車に乗っているか知りたくてたまらない。あの瞬間は心が繋がったと思った。それが今日もう顔を合わせないとなって心は驚くほどにびくびくしている。今すぐ玄武と顔をつきあわせて、何もかもを吐き出して、脳の中のまだ形を得ていないものまでかき出してしまいたかった。


 女を雑居ビルで降ろして金を回収し、まだ渋い顔をしている店長に金を渡して無言で頭を下げ、事務所から逃げ出して呑んだくれと夜遊び帰りの学生がダラダラと乗った電車で家に帰る。いつもの通勤路が倍も長く感じられるのは手元でスマートフォンをいじっていないからだ。玄武からまだ連絡はなく、それを待っている自分が自分でないように思えて、画面を見たくなかった。
 アパートの玄関で靴を脱ぎ捨てると朱雀は台所へ向かって蛇口をひねった。洗い損ねのグラスをざっとすすいで水を飲む。火照った体温の中を冷たさが流れ落ちていくのを感じて一呼吸ついた。蛇口を閉めて水を止めて、コップを水切りカゴに伏せて置いた。スマートフォンは尻ポケットの中で静かに出番を待っている。朱雀が店を出たときには玄武の車は駐車場になかったから、まだ仕事中だろうか。休みの予定を送るとあの男は確かに言ったから、朱雀から連絡を入れるのは格好悪いような気がして黙っている。いや、予定も何もない、ふたりして自宅謹慎なのだから機会は明日なのだ、玄武だってそれはわかっている。だが明日ふたりで会って、冷えた頭で自分は玄武に何を言えるだろうかと疑問に思う。今、体の熱でとろけかけた言葉をどうしてもぶつけたかった。それはきっと正しくない言葉で玄武と自分の両方を悩ませるに違いない。それでも言わないでうやむやにしてしまえばもう二度と口には出せない気がしていた。
 朱雀はスマートフォンを尻ポケットから引っこ抜くとラインの画面を起動する。広告のメッセージをいくつかスクロールして玄武とのトーク画面にたどり着く。最後に玄武と会話したのはあの女がケチをつけてくる前のことだ。〈角煮天丼〉〈限定のやつか。俺も食いたい〉〈ヤバそーだよな〉。何も知らないで話しているふたりと今の自分たちは連続した生き物だろうか? 朱雀はその画面の下をタップしてキーボードを呼び出す。なにを言いたいかわからないままむやみに誘い文句をフリックしては消し、アプリを画面から消してはまた起動させる。そんなことを繰り返している間に世の中はすっかり朝になった。朱雀は眠気と戦いながら曖昧な心情をどう玄武に示せばいいかまだ考えている。玄武に対する感情がなんなのか朱雀にはまだはっきりとはわからないが、あの途方にくれた子供の顔だけは二度と見たくないと心が言っている。それができるなら関係性の名前はなんでもいいとすら思った。それをこの無機質な文字で伝えるには朱雀には語彙がなく、そういったコミュニケーションの鍛錬も足りていなかった。時折立ち上がってコップで水を飲んでまたしゃがみこむ。ああでもないこうでもないとネジくりまわしては消す。するべきことは女の話でも慰めでも店長の悪口でもなく、もっとふたりの間に建設的に何かができあがることだった。そう脳裏によぎってから、朱雀は試しに四文字を打ち込んでみた。
〈会いたい〉
 文面を眺めた瞬間すっと腑に落ちて、そのまま送信ボタンを押した。不思議と後悔はない。朱雀はスマートフォンを床に置くと立ち上がってもう一杯水を飲み、玄関に投げ捨てていたカバンを拾うと中から財布と充電器とコードと今日コンビニで買った晩飯を取り出した。あんなことがなければとっくに片付けていたコロッケ弁当を地べたで開けて箸を割る。コロッケとポテトサラダ――――だいたい原材料は同じだ――――を食べて白米をかきこんでいると床置きのスマートフォンが小さく震えたのが尻に伝わってきた。玄武のアイコンはどこで拾ったかわからないしゃれた洋書の写真だが、それを持っているところは見たことがない。
〈俺も会いたい。謝らなきゃいけないことばかりだ。今日は一日空いてる〉
 朱雀はその文面をよく読んで、謝ることなんてねえ、と打ち込んでから消した。それから新しく自分の希望を書き記した。
〈今からじゃダメか〉


 そして朱雀は玄武の家の前に立っている。あのあとすぐに着替えて顔を洗って、シャワーを浴びる余裕はなく余っていたギャツビーで体を拭いて家を出た。玄武の家があるのは、店からJR一本なのは朱雀と同じだが家賃が二万は高いエリアだ。アパートも朱雀のものより築浅のようで、雨樋から伝う雨の跡がぼんやりとしている。住所はしっかり一〇二号室まで教わった。エントランスともつかない狭い広場から廊下に入り、奥から二番目の部屋を確認する。表札は出ていないが綺麗に磨かれたインターフォンが住人が誰かを物語っていた。ボタンを押すと部屋の中でピンポン、と間の抜けた音が響いて、やがてガチャリと扉が開く。
「早かったな」
 その声を聞いて朱雀の心は密かに弾む。見上げるといつも通りのつかみどころのないような顔をした男が、ゆっくり部屋に招き入れてくれる。初めて見る私服の玄武はきちんと襟のついた半袖のシャツを着ていて、黒の細身のパンツをはいていた。仕事中とさして変わらないシルエットを眺めながら、朱雀は行きしなコンビニで買った朝食になりそうなものを玄武に渡して靴を脱いだ。
 玄武の部屋はがらんとしていた。部屋自体が朱雀のものより広いのもあるが、圧倒的に家具が少ない。大概のものはつくりつけのクロゼットのなかにしまいこんであるようで、出ているのはベッドがわりのマットレスに小さなスツールがひとつだけだった。玄武はそのスツールにコンビニ袋を置いて、「悪いな、机がねえんだ」とぽつりと口にした。朱雀は黙って首を横に振り、コンビニ袋を持ち上げて地面にどさりと下ろし、その脇にあぐらをかいた。
「俺ら普段台所で食ってんだから、どこで食ったって行儀は変わんねえぜ」
 玄武はそれもそうかという顔をして、袋の隣に腰を下ろす。
「朝がパンか飯かわかんなかったから、テキトーに買ったんだ。余ったら昼でも晩でも食ってくれよ」
「……ありがとう」
 礼の言葉のしっかりとした感触に朱雀はちらりと上目遣いで玄武の顔を盗み見る。コンビニ袋に手を突っ込んで中身を外に並べているさまは完璧にいつもの黒野玄武だ。今日、いやもう昨夜か。かいま見せた動揺はどこにもない。玄武はパンとおにぎりを二列に並べて、サラダをその脇に添えた。
「お前は何が食いたいんだ」
「オレ? なんでもいいぜ、なんか……」
 そこで朱雀は言い淀む。やたらと気恥ずかしいことを口にしてしまいそうな先触れを感じて一度唾を飲んだ。
「その、おまえが食いたいもん先に取れよ」
 玄武はそれを聞いてゆっくり頷くとじゃあ、とおにぎりをふたつとパンをひとつ手に取り、サラダのパッケージを開けてついていたドレッシングを回しかけた。そして立ち上がり、狭いキッチンから割り箸と普段使いらしいプラスチックの箸を手に戻ってきた。朱雀は残ったおにぎりとパンを自分の前に置く。
「で、どっち派なんだ」
「なにが」
「パンとご飯だよ」
 玄武はしばらく考えてから「米だな」と呟いて、手にしていたおにぎりのビニールを丁寧に破いた。朱雀も先程の食事でだいぶ膨れていた腹を更に満たす。
 短い食事が終わり、玄武が持ってきた麦茶で喉を湿らせると、もう他にすることがなくなってしまった。朱雀はあんなメッセージを送ったことが今更恥ずかしくて仕方なくなり居心地が悪い。かといって世に言うところの夜勤明けの時間にわざわざ押しかけて、メシを食ったから帰るとも言えなかった。朱雀は尻ポケットのスマートフォンを撫でながらラインの会話を思い出す。そうだ、玄武は謝りたいと言っていた。何を謝りたいのか一向に検討がつかない。騒動についてなら事を大きくしたのも玄武を焚きつけたのも自分だから謝られる理由は一つもない。
 台所にゴミを捨てに行った玄武が戻ってきて朱雀の前に腰を下ろして胡座をかく。その顔はいつも通り冷静で怜悧だ。朱雀は自わから尋ねるのも奇妙だと思って沈黙を守る。少し開いたガラス窓の網戸の向こうから鳥の声が聞こえてくる。玄武はそれに耳を傾けるように目を閉じて、深く弱々しく息を吐いた。それから口を開く。
「朱雀」
 おう、と返す。玄武が何を言いたいかわからないから、せめてなんでも受け止められるようにじっと目を見た。玄武の灰色の目が朱雀を見つめる。
「……昨日はすまなかった。巻き込むつもりはなかったんだが、結果的に迷惑をかける羽目になった」
「や、おまえは悪くねえだろ」
 玄武は首をわずかに横に振って続ける。「言い含めたつもりだったんだが、全然聞いちゃいなかったみてえだ。まあもう、何も言ってこねえとは思うが、また何かあったら必ず教えてくれ。絶対に迷惑はかけねえようにする」
「わーったけどよ、多分もうねえだろ。おまえはきちんと断ったんだからよぉ」
 言いながらそれが自分の願望であることを自覚する。もうあの女と玄武の間にはなにもあるべきではなかったしそうあって欲しかった。そして恐らくそれは叶う。後押しをしたのは紛れもなく自分だった。
「その話は、もうやめようぜ。終わったんだ。もうなにも起こらねえ。なあ玄武」
 朱雀は言葉を繋ぎながら考える。なぜ今日自分は玄武の家に来ているのか。会いたいと思ったことの理由はなんなのか。突き止めるまで、時間が少し欲しかった。
「……おまえ、どこ生まれなんだ?」
 朱雀の唐突な質問に、玄武は二、三度まばたきをした。それから少し首を傾げて口を開く。
「京都だ。中学の途中までいた」
「そっか。オレは生まれだけ北海道だけど、ほとんど東京だ。だいたいこのへんで育った、高校も実家も近えよ」
「高校は横浜だった。それからは……ウロウロして、この家は二年目だ」
「実家は?」
 質問に玄武は少し言い淀んで、小さく息を吐く。
「ない。俺は施設育ちだ」
 玄武は朱雀が驚いた顔をしているのを見て少し笑う。そうして自分の生い立ちをゆっくりとした口調で話し始めた。親がいないこと、施設で育ったこと、関東に来た理由。高校を出て、大学という選択肢もあったが奨学金を受けてまで行く気がなかったこと。どうして今の仕事に就いたのかまでは語らなかったが、朱雀は玄武が打ち明けてくれたことが嬉しかった。時々質問を挟みながらこの男の幼少期から多感な時期の輪郭を脳内に形取り、今目の前にいる姿とのミッシングリンクは気にしないことにした。お返しに朱雀も高校を出てから、家を飛び出してこの仕事に至るまでの話をつっかえつっかえ話し、玄武は目を細めてそれを聞いた。太陽が昇ってすっかり昼間になっていた。





 話が一息つき、玄武が冷蔵庫から麦茶のボトルを持ってきて注いでくれた。朱雀はそれを飲み干し、空のコップを床に置く。窓から陽が差し込んで床に明るく四角を描く。玄武は朱雀のコップにまた麦茶を注いで、自分のコップも満たした。その音を聞きながら朱雀はやけに寛いでいる自分に気づく。よく晴れた夏休みの一日に友達の家で遊んでいるような感覚だった。一方目の前にいるのはただの同僚で、この部屋は遊び道具もない殺風景な初めての場所だ。ただ玄武がいることだけで空気が和らいでいる。玄武も同じように感じているといいと思いながら朱雀はあぐらをかいていた脚を伸ばした。玄武は朱雀に構わず、麦茶をちびりちびりと口に含んでは嚥下している。コップを持つ指の爪は丁寧に整えられていてわずかな艶すらある。襟足の毛がシャツの襟に引っかかって変な方向へ飛び出している。座った姿勢もいつもより猫背で、この男にもオンとオフがあるのだと朱雀は思う。その様子をぼんやり見ていると朱雀の胸が温もっていく。その正体に朱雀は薄々気づきつつあった。
「なあ玄武」
 呼びかけるとすっと視線が自分を射抜く。その中のわずかな熱に朱雀の神経はピリッと反応する。
「おまえがラインで言ってた、謝んなきゃなんねえことって、多分謝んなくていいことだと思うんだ」
 言葉は存外するりと朱雀の口から飛び出した。あの文面を見たときからずっとわだかまっていた。朱雀から見れば一つも悪くない玄武に、何が謝ることがあるのか。
「教えてくれよ、オレ頭悪いけどよ、なんつーか、わかると思うんだ、おまえの言うことなら」
 言い終えて朱雀は座ったままずりずりと床を移動し、玄武の顔と正対した。朱雀の投げ出した脚は玄武の折りたたんだ膝に届きそうで届かない。玄武は麦茶のコップを持ったままぼんやり朱雀の顔を見ていて、きっと何か考えている。その唇が濡れていることに朱雀は気づいて、堪えて目を逸らすまいとした。負けてはならなかった。黒野玄武の抱えている、彼自身は誤ったと思っていることを丸ごと受け止めて、もうあんな寄る辺ない子供のような顔をさせないこと。それが朱雀の第一の目標だった。
 玄武は朱雀の目をしばらく覗き込んで、まぶたを伏せ、コップを床に置いた。コトンという音は家具のない部屋の床の隅々にまでさざなみのように広がって消えた。眼球の柔らかな丸みが窓から差し込む朝の光に照らされて、そこに眼鏡のつるがまっすぐな影を落としている。生白い肌は見たことがない色に艶めいていた。朱雀はそれに一瞬見とれて、気を持ち直すようにぎゅっと眉間に力を入れた。あるいは睨んだように見えたかもしれない。
「……朱雀」玄武はゆっくり口を開く。「今から俺が言うことは、普通じゃない。マトモでもない。だからお前が聞きたくなかったら、すぐに止めろって言ってくれ」
 その声は細く、だがしっかりと朱雀の鼓膜を震わせる。朱雀は黙って首を横に振り、「止めねえ」とだけ言った。その後に続けたかった「全部聞かせろ」はこの男に向けるには乱暴すぎるような気がしたからだ。玄武はそうか、と呟いて、麦茶で唇を湿らせる。それから手にコップを持ったまま話し始めた。
「俺には色々噂がある。お前も聞いたことがあると思う。アレのほとんどは嘘だ。俺はヤクザとは関係ねえ、少なくとも自分では一度も関わったことはねえと思ってる。当たり前だが人も殺してねえ。殴ったことは何度かあるが、病院送りまでだ。店の女のバックレにも一度も関わってねえ。そんなことをするのは無駄だし、俺はあいつらには店側の人間だと思われてるから、誰も頼ってなんかこなかった。ただ、」玄武は一度息を飲み込む。朱雀はいつの間にか噛んでいた下唇をゆっくり解放して、目線で先を促す。
「……俺がゲイだってのは、あれは本当だ」
 玄武は夕飯の献立を告げるのとそう変わらない声音で、静かにそう言った。
「俺は男にしか惚れたことがねえ。やろうと思えば女も」そこまで口にして玄武は露骨にしまったという顔をした。朱雀も自分の激昂を思い出した。それは記憶に成り果てていて、もう脳裏にはあの日の画は浮かばなかった。だから朱雀は過去に構うなというふうに顎をしゃくる。伝わったのか玄武は安堵を見せて続けた。「……女も抱ける。ただ、惚れるのはいつも男なんだ。もしかしたら、それだからこの仕事をしてるのかも知れねえ。店の女に手を出さないのは――多分いいことだろう?」
 玄武の口元が苦笑いのような自嘲のような不自然な笑みを浮かべるのを朱雀は見る。
「オレも褒められるぜ、そこは」
「人並みの節操があるだけで加点される、不思議なもんだな」
 玄武は視線を床に流して今度は本当に笑った。朱雀はその頬がかすかに震えていることに気づく。玄武はグラスを一度床に置き、また持ち上げて喉を潤す。朱雀も倣って麦茶を飲む。いつの間にか口の中がからからに渇いていた。玄武も同じだったようで残りわずかな麦茶を一口口に含んでゆっくりと飲み込んだ。
「――とにかく、俺はゲイだ。男にしか惚れねえ。……なあ朱雀」
 玄武の声は今度こそ消え入りそうに弱々しかった。朱雀はどう振る舞っていいかわからずに、とにかく投げかけられた言葉に、おうと応える。それから玄武の目をなるべく水平に見ようと少しだけ背筋を伸ばした。窓からの光を受けた玄武の目はいつもより明るく澄んで見えたが、その中に苦渋が浮かんでいることは容易に見てとれた。次の言葉をどう繋いでいいのか玄武は確かに迷っていた。コップを持つ指先は力がこもったせいで白くなり、肩がやや内側に落ちて呼吸が窮屈そうだった。玄武はその体勢で二、三度まばたきを繰り返し、息を吸うときに小さくすんと鼻を鳴らした。朱雀はそれを見ていたたまれない気持ちになる。玄武がここまで明白に戸惑うのを見るのは二度目だった。あの日、玄武はすぐ立ち直って朱雀を動揺の外に追い出した。今日は違う。惑いをそのまま表出させてまで、間違えないように――玄武が言うところの謝らなければならないことを増やさないようにしている。玄武のその態度を朱雀は誠実だと思う。だからその先が知りたかった。
「言えよ」
 受け止めるから、とは口に出さなかった。それはほぼ確実になされるとわかっていても、万が一嘘をつくのが怖かった。
「オレはちゃんと聞く。おまえの、」
 おまえの、何なのだろう。朱雀は口ごもる。いい言葉が探せなかった。秘密。告白。謝罪。朱雀の多くない語彙のなかに適切な単語はなかった。ただその行為が、黒野玄武という男の浅い呼吸を少しでも楽にすることはわかっていた。なら、朱雀がするべきことは玄武のなにかに耳を傾けて、それに対して同じように誠実にあることだった。
「聞くからよ」
 朱雀は手を伸ばそうとして、自分と玄武の距離に気づく。朱雀は伸ばした脚の隣から麦茶のグラスを退けて、玄武ににじり寄った。その距離が腕一本に近くなった瞬間、玄武は堰を切ったように話しだした。
「本当にすまねえ、俺は、そのつもりはなかった、この店でこれ以上厄介ごとを起こすつもりもねえ、そのはずだったんだ」
 玄武は眼鏡を外すと片手で顔を覆う。秀でた額にはじんわりと汗の粒が浮かんでいた。目の前で体を震わせる男に朱雀はそれ以上近づけず、ただ隠された瞳のことを惜しく思う。玄武はしばらくその姿勢を崩さずにいた。やがてもう片方の手で己の肩を抱くと、嗚咽に似た詰まった声が喉から絞り出される。 「お前が好きだ。俺は、お前が好きだ」
 かすれた声がガランとした部屋に響くのを、朱雀はどこか夢見心地で聞いていた。





 初対面の印象はよくはなかった。男の冷徹な表情と無駄のない口ぶりはこの世界でどう振る舞ってきたのかを物語っていて、朱雀は挨拶を聞きながらうっすら寒気を覚えたものだ。こなす仕事はいつも簡潔で完璧。待機中はいつも文庫本を片手にしていて、仲間の雑談を聞きもせずにどこかの世界に精神を没頭させていた。それから黙々と掃除をする背中。清潔への偏執めいたものを読み取った記憶がある。
 そのイメージが共に働くうちにブレ始めた。冷えた目がページを辿るのを横目で眺めたのが、もしかしたら始まりだったかもしれない。読書と掃除好きの男は話してみれば思ったよりいいやつで、陰ながらこの事務所に秩序を生み出そうとしていた。そうだ。誰かが汚した洗面台を拭く姿に胸がざわつくこともあった。そんな風に心が動いたのは本当に久しぶりだった。週に三回まとめられるゴミと、手入れの行き届くようになり始めた部屋べや。その中で他愛もない話をしながら、ふたりで重ねた時間は朱雀にとってかけがえのないものになっていた。そして。
 玄武は浅く呼吸をしながら眼前にあった。汗の浮かんだ顔からは血の気が失せて、ただでさえよくない顔色を人形めいて見せていた。空っぽになったコップを掴んだ手はごく小さく震えている。不器用に不安を露呈させたその姿を朱雀は綺麗だと不本意ながらに思った。あるいは初めて朝の光の中で見ているからだろうか。
 玄武は好きだと言った。
 十分な前置きのあとに告げられたその意味をとり逃すほど間抜けではない。頭が悪いのを自称している朱雀でもそれくらいは――玄武の言うことなら、わかる。あの落ち着いた玄武が平静を失いながら口にしてくれた言葉に、脳は間違いなく喜びのシグナルを発していた。
「あんがとな、玄武」
 朱雀が繋いだ言葉に、玄武は視線を床に投げたまま、伏せたまつげを震わせる。唇がきゅっと引き結ばれるのを見ながら、その唇をふたたび開かせるために、朱雀は正面から玄武に向き合った。玄武も相対するように、悲愴なまでにまっすぐな視線を向けてくる。その中に彼が固めた決意と、至るまでのおそらく何度も思い巡らせただろうためらいを感じ取る。熟慮はこの場面では不要だった。朱雀は思いつくままに口を動かす。
「オレ、そういうこと考えてこなかったから、自分が男が好きかも知んねえとか、そういうのは、正直今もよくわかんねえ。だけど嬉しいぜ玄武。オレのこと好きだって言ってくれて、オレはめっちゃくちゃ嬉しい」
「朱雀」無理は、と玄武が続けたのを朱雀は手を振って遮った。
「してねえよ。するかよぉ。知ってんだろ、オレは嘘も下手だし、だいたいおまえに嘘ついてどうすんだ」
 頭をかきながら苦笑いを浮かべると玄武も口の端をわずかに上げる。それだけで朱雀の胸は跳ねた。
 積み重ねた時間のこと、やり場のない怒りのこと、あの夜に朱雀の体中を駆け巡った、叫びに似たなにか。脳の中で感情が渦巻いて、ひとつの結論に到達しようとしている。それはごく自然な帰着に思えた。あとは玄武にどう伝えればいいのかを、手探りで考える。朱雀は緩く握った拳の中で指を擦り合わせて、正しい言葉を探す。玄武はさっきよりすこし人間らしい顔つきになり、朱雀が黙る間に一度目をつむり、持っていたコップから指を離した。まつげの影が透き通ったグレーの瞳に落ちて色味を深める。眺めている朱雀の脈が一つ大きくなる。
「マジで嬉しいんだ。おまえが秘密にしてたこと言ってくれたのも、その、好きだって言ってくれたのも」
「……ありがとうな、嫌わねえでいてくれて」
 玄武が苦しそうに吐き出した一言に、どこかに離れていきそうな匂いを感じた朱雀は慌てて噛み付いた。
「バカ、嫌うかよ。……その、前のはマジで悪かった。でもオレすげーショックでよ、おまえが――――悪りぃ、考えながら喋ってっから、よくわかんねえかも知んねえけど」
 喋りながら朱雀は玄武にいざり寄る。すこしだけ玄武の匂いがするように感じて朱雀は大きく息を吸い込んで、それから目を閉じた。
 記憶から消そうとしていたあの日の光景が脳裏に蘇る。部屋の入り口で立ち尽くす自分と、ベッドから立ち上がった玄武の間には絶望的な隔たりがあった。玄武はその距離を放ったままにして、朱雀を事態から遠ざけた。いまも思い出すと喉の奥でちくりと痛む。本当はあのときに近寄るべきだったのかもしれない。そうしたらものごとはもっとシンプルに進んでいたのかもしれない。いや、今更焦ることはない。口に湧きでる唾を飲み込んで自分の思考を追う。玄武は手を伸ばせば届く場所にいる。大丈夫だ。
 朱雀は瞼を開いた。ふたりの間の空気がわずかに熱を強めて揺れる、そのかすかな風に煽られながら、朱雀は思いの丈を吐き出す。
「おまえが、他のやつといるの、嫌だったんだ。オレに内緒で」
 言ってから朱雀の脳は合点した。ぐちゃぐちゃに乱れていたパズルがあるべきところに収まるように、胸の中を荒らしていた要素が理屈の中に収まっていく。ああ、と嘆息して、朱雀は跳ねさせっぱなしの襟足を手櫛でかきまぜる。結論は単純で、格好をつけられる点はひとつもない。
「多分そーなんだよ。おまえに隠されてたのがヤだったんだ。ダセぇ……」
 俯きながら伺った玄武の顔を見て、朱雀は息を呑んだ。
 ごく薄い微笑が浮かんだ唇の端を、涙がかすめて落ちた。まなじりに透明な液体が湧いては重力に従って流れていく。玄武の涙を当然朱雀は初めて見た。雫がしたたり落ちるたびに胸に何かが刺さって抜けない。こぼれ落ちそうな何かを受け止めたくて、朱雀は慌てて手を伸ばす。触れた頬の皮膚は冷えていたが、その奥にしっかり体温が息づいていた。玄武は急に伸びてきた腕と接触に驚いたように目を瞬かせて、それから自分の涙に気づいたようですんと鼻を鳴らした。
「玄武、」
「悪い」
 泣くつもりは、と呟いた声が震えてかき消えた。玄武はすこし肩を震わせて俯き、眼鏡を外すとありがとう、と絞り出すように言った。いままでで一番柔らかい音だった。朱雀は喉が詰まるのを感じながら、頬に添えたままの掌をゆっくり動かして濡れた跡をなぞる。首に回った小指に玄武の頚動脈がしっかりと時を刻んでいるのが伝わった。生きている。朱雀はやけに安堵しながらそのまま玄武を抱き寄せた。素直に預けられた身体に腕を回す。玄武が投げ出した手の先で眼鏡のフレームが床に当たってかつんと音を立てた。呼吸のたびに薄い胸が膨らんでは元に戻るのが腕全体でわかる。低い体温を感じながら朱雀は子供をなだめるように高い位置にある頭を撫でた。感情の奔流が合わさった胸から伝わればいいと思った。玄武はしばらくの間、朱雀の腕の中で涙をこぼして、それは受けとめた朱雀のシャツに吸い込まれて肌をあたためた。
 薄い胸が呼吸でゆるく上下する。その肌から体温がじんわりにじんで朱雀の肌に移る。朱雀は腕の中の男を壊さないようにそっと抱きしめた。すすり泣くような声は止まって、いまは深くゆっくりと呼吸する音だけが聞こえてくる。その遠くに街の喧騒を聞いて朱雀は腕に込めた力を強めた。
 ラベリングするならこれは守りたいという気持ちに類するものだ。一人前の男に対して何を言っているんだという思いの反面、触れた肩や背中が想像以上に細かったことが感情を刺激してやまない。接触した端からまだ知らない硬さや柔らかさが伝わってくるのに、朱雀の心はさらなる情報を求めて呻く。さっき玄武がぽつりぽつりと話してくれた昔のこと。ひとりきりで生きてきたという男の語り口は寂しさの一つも浮かべずに淡々としていた。脳はその向こうにいとけない子供の姿を見た。
 ちくりと胸が痛み、朱雀はむずかるように玄武の首筋に顔を埋める。吸い込んだ息の中にかすかに汗の匂いを認めてごくりと喉が鳴った。玄武はそれに構わず朱雀の背に腕を回す。ぬくもりが人の身体はあたたかいという当たり前のことを伝える。触れ合う細胞のひとつひとつが喜びを胸に渦巻かせて、朱雀は身震いした。ふたりの脈は徐々にテンポを揃えてゆるやかに絡まり、まるで一体になったような錯覚が生まれる。朱雀は詰めていた息を吐き、玄武はそれに応えるように呼気を肺に招き入れる。少し膨らんだ肋骨を自由にしたくて朱雀が腕を緩めると、玄武は回した掌に力をこめてきた。慌てて朱雀もまた細い体を抱きしめる。児戯めいた無言のやりとりに脳は歓喜のシグナルを発して、その間もどくどくと脈打つ心臓はお互いの身体の端々までに熱い血を届ける。考える心より先に身体が動く。心地よい遠心力に朱雀は身を委ねて、ひたすらに玄武を受け止めた。体温が同じ温度になるまで、ふたりは抱き合ったままでいた。
 やがて玄武は朱雀の背中から腕を離した。朱雀も促されて回した手を解く。ふたりの身体の間で熱くなっていた空気ががらんとした部屋の中に溶けていく。玄武は目元を擦ると放りっぱなしだった眼鏡に手を伸ばして、ツルを折りたたんで手元に置いた。覗き込むと白目がわずかに赤い。
「なんだ」
「や、なんつうんだ、泣かせたなって……」
 玄武は眉をしかめて、泣くつもりはなかった、とぶっきらぼうに繰り返した。意地を張る姿に笑うと、眉間のシワがさらに深まる。ふと思いついた朱雀は指を伸ばしてそのシワを軽く撫でた。面食らった顔の玄武が「お前」と言ったあと文字どおりに二の句が継げないのを見て、朱雀は本当に愉快になる。
「お前、……そういうことをするんじゃねえ」
「だめか?」
 玄武が嫌そうな口調で言うのを一言で混ぜっ返すと、玄武はなお渋い顔をして口をつぐむ。そうだここで言うべきなんじゃないか、と朱雀の脳は出遅れていた言葉を紡ぎ始める。不思議そうに眺めてくる男の前でしゃっきりと座り直して、軽く咳払いをし、息を大きく吐くと朱雀は玄武の目を見据えた。玄武も釣られるようにしゃんと背を伸ばす。
 さっきまでの触れ合いに感じていた一抹の申し訳なさを殺すのはいまだ。
「こういうの、生まれて初めて言うけどよ。玄武、オレはおまえが好きだ。本当に本当に好きだ」
 言い切った朱雀の心は晴れやかだった。目の前の男の頬があっという間に赤らんで耳が染まる。自覚があるのか玄武は手の甲で頬をさすって、睨みつけるように朱雀を見つめる。
「……流されてねえか」
「まさか。つうか、流されててもいい。今はすっげえおまえが好きだから、そんでいい」
 安心させたくて笑った顔は多分うまくできていたのだろう、玄武は寄せていた眉根を緩めて、諦めたように溜息をついた。
「口説き文句が上手えとは思わなかった」
「そうか?」
「心の支度ができてねえときに聞くもんじゃねえな」
 そう言って玄武はまた手の甲で頬をさすり、熱い、と呟いた。その一言がやけに嬉しく感じて朱雀は手を伸ばして玄武の跳ねた髪を頭に撫で付けてやった。玄武はされるがままにまぶたを閉じて、細く息を吐いた。





 ふたりはそのあとどちらともなく口を開いて、いつだかした約束の話をし始めた。飯を食いに行くというやつだ。さっき食べたもので腹はくちていたし、それ以上のことで朱雀はまるで食欲はなかった。ただ今までの自分たちが過ごしてきた数直線に繋がることが話したかったのかもしれない。笑いあったのが嘘かのような、あの部屋のキッチンで話すのに似た訥々とした会話だった。ふたりしてスマートフォンをいじっては行きたい店をトークルームに投げ込んでいく。それだけでも今までにないくすぐったさがある。明日も明後日もこの関係は続いていく。朱雀は玄武とこれからの話ができることが嬉しかった。
 変調は思わぬ形で現れた。朱雀は二、三度かぶりをふって、深呼吸した。頭に妙にもやがかかって、手足が熱い。ぼうっと考えを巡らせて、ふと視線を落としたスマートフォンの画面に答えはあった。
「玄武、わりい」
「ん?」
「オレ、眠みぃみてえだ」
 気がつけば昼も過ぎていて、朱雀はもう都合二〇時間は起きている計算だ。さすがにこの睡魔に勝てない。玄武も似たようなものだったようで、ふいと立ち上がり、クローゼットを開けてシーツと薄い掛け布団とタオルケットを出してきた。部屋の隅のマットレスの上で器用な手先がベッドメイクをこなすのを朱雀は見守る。携帯の充電はまだ十分にあるから電源を借りる必要はない。
「オレはそこらへんで寝っからよ」
 それを聞いて玄武は変な顔をした。正確には朱雀にはその表情が言いたいことがよくわからなくて、変に見えた。首をかしげると相手もわずかに首をかしげて、いや、と口ごもる。朱雀はますますわけがわからなくて、その顔を見つめる。
 結局玄武は根負けして、布団の端に潜りこむとぶっきらぼうにその隣の空きスペースを叩いた。そこで朱雀もやっと合点する。シャワーを浴びていないことや着替えも寝巻きもないことが頭をよぎったが、目の前の眠気には勝てない。なにより家主の潔癖めいた玄武がそれらに構わずに布団に潜りこんだのだから、どうでもいいんだと思い直す。玄武が襟元を緩め、眼鏡を外して気持ちよさそうに目をつむるのを見て、とうとう朱雀も隣に滑りこんだ。とたんにさっき抱きあったときとはまた違う玄武の匂いがして胸が苦しくなる。狭い布団のなかでふたりの身体がふれあって熱い。朱雀は眠りに落ちようとする頭を抱き寄せて、どくどくと音を立てる胸元に押し付ける。面食らったようなつかえた声が顎の下から聞こえるのをいい気味だと思いながら、今度こそ温もりに身を任せて意識を手放した。


 次に目が覚めたのは夕日が辺りを茜色に染める頃だった。朱雀が重いまぶたを開けると、眼前にはいまだ眠りの中にある玄武の顔が見えた。毒気の抜けた表情にほっとして、起こさないようにそっと布団から這い出る。睡眠時間はさておきこの時間まで寝ているのは久しぶりだった。陽の熱が室内にこもって喉が渇いている。朱雀は床に置いてあったコップを拾って蛇口のもとへ向かう。水道水は少しだけぬるく、そのぶん素直に口の中を潤してくれた。
 事務所はようやく開店しかけたころだろうか。今日は予約だけでロクな実入りがないのだから、店長はイライラしているに違いない。明日出勤しても、その場でクビになる可能性もゼロではないだろう。だがそれもどうでもよかった。朱雀は抜け出した布団に目をやる。玄武は姿勢を変えずこんこんと眠りこけている。タオルケットに細い身体の線が浮かんでいるのを見て心がざわつくのを感じながら、朱雀はスマートフォンの画面に目を落とす。ゲームのスタミナ全快の報せ以外は特に何もない。いつものことだ。そう思いながらもう一度玄武を見る。
 寝顔は安らかで眠りは深い。それだけで朱雀の胸は満ちた。近寄ってしゃがみこむ。薄く開いた唇からたしかに呼吸の音が聞こえていることにほっとして、朱雀は薄赤い目元を撫でた。泣き疲れるほど泣いてはいなかったはずだが、少し腫れている。黒野玄武。同僚で、友だちではなくて、多分恋人になったオレの男、……オレの男。口の中で繰り返しながら朱雀は玄武の頬を撫で、唇をなぞり、襟足にゆるく指を絡めては鎖骨まで流す。よほど深く寝入っているのかそれだけ触っても反応は薄い。それを信頼だと判断してしまう能天気な脳が、いつの間にか朱雀にマウントされている。その片方で朱雀の心は少しだけ不安がり、相手に安心されるだけではダメだと叫ぶ。なぜか――その答えに焦ってたどり着くのはどうにもダサい気がして、朱雀は考えるのを止めた。
 指先にまつろう玄武の黒髪が白い首筋のうえで緩やかな曲線を描くのを追い、産毛がきらきらと光に照らされるのを見る。黒野玄武は綺麗だと、初めててらいなく思った時間だったかもしれない。朱雀は玄武の髪を弄びながらひたすらその寝顔を眺めた。
 やがて夕焼けが夕闇に変わるころに玄武は目を覚ました。脱力していた身体に力が入り、まぶたがぴくぴくと痙攣して薄い灰色の瞳がのぞく。一部始終を朱雀は傍らで見ていた。朦朧とした視線が焦点を結んで、玄武は布団に首まで入ったまま頭だけをこちらに向ける。
「朱雀」
「おう、よく寝たなあ!」
「……何してたんだ、お前は」
「見てた」
「は?」
「おまえを見て……いろいろ考えてた」
 玄武はしばらく呆然として、そうか、と吐くのがやっとだったようだ。タオルケットを頭から被って、五分待てと言う。朱雀はずっと待っていたからもう五分なんて造作もない。スツールに腰掛け直して玄武の潜った布の塊を眺める。寝起きが悪いのかと聞くと、よくはないと返ってきた。玄武はしばらく布団の中でむずむずうごめいていたが、やがて枕元のメガネに手を伸ばして、よし、と誰に言うでもなく声をあげて身体を起こした。
「寝られたか」
「ん? ああ、寝たぜ、すっきりした」
 玄武は良かった、と薄い笑みを浮かべると手元のメガネを両手でかけて、さっきまで寝そべっていたマットレスからシーツを剥ぎ取り洗面所の方へと去っていった。朱雀は窓の向こうの景色を眺めながら、昨日から今日にかけての不思議な時間の流れを思い返す。あの女に呼び出されたのがちょうど昨日のいまごろだった。玄武はまだ誰のものでもなく、朱雀も自分の思いをぼんやりとしか認識していなかった。それがあっという間にこうだ。
 外を歩く高校生だろうか、甲高い声が聞こえてきて、朱雀は苦笑いした。戻ってきた玄武が不思議そうにこちらを眺める。
「洗濯、いいのか?」
「明日回す」
 言いながら玄武はクローゼットから新しいシーツを出してきた。朱雀は数時間前と同じようにベッドメイクの様子を見守った。たたまれた一枚の大きな布が玄武の手で拡げられ、四隅を折りこまれてぴんとシワのないベッドになっていく。
「おまえ器用だよなあ」
「気になる性分なだけで、器用ってわけじゃねえんだ」
「そうか? オレそういうの苦手だからよ、今度ウチのやってくんねえか。見本にする」
「ああ、出張してやる」
 玄武は歌うように軽やかにそう返して、シーツの最後の端をマットレスの下にたくしこんだ。その上からタオルケットと掛け布団を載せれば、ベッドは完璧に出来上がる。
「そうだ朱雀。晩飯どうする」
「買いに行っか」
「外で食ってもいい……とにかく出るか」
 言うと玄武は財布と携帯を手早くボトムスの尻ポケットにしまって、玄関の方に歩いていく。朱雀もカバンを拾って後をついていった。
 玄関の小物入れには鍵がいくつかぶら下がっていた。そのひとつを玄武はポケットに入れ、もうひとつをつまんで、朱雀に差し出させた手の上に載せた。
「やる」
「は?」
「……持っていてほしい」
 玄武はそのまますぐ玄関をでてしまったが、言われた朱雀はその意味を処理するために、三和土でたっぷり三〇秒は固まった。掌の上の金属片は玄武のやまない熱情を伝えてくる。今日初めて入った玄武の家の鍵。つまみあげて眺めれば変哲も無いシリンダー錠の鍵なのだが、朱雀にとっては玄武の家に理由なく行っていいという承認が与えられたに等しい。とそこまで考えて玄武をドアの外で待たせていたことに気づく。慌てて靴をつっかけて扉を開けると、玄武は玄関の壁にもたれて外の景色を見ていた。朱雀はその玄武にかけるべき言葉を探す。
「あっ、あのよ」
「遅かったな」
「鍵、大事にすっからよ、あとでオレのももらってほしい」
 それが精一杯の朱雀の思いだった。玄武はなるほど、といった顔で、「もちろん、喜んで」と答えた。口ぶりではさらっと流してみせたが、昨晩聴いた中では玄武にはそういう友達――か、恋人はいなかったのではないかと朱雀は思っている。それならひとつひとつ間違いないように積み重ねることがお互いの安心に繋がるはずだ。朱雀は自分の踏んだ手順がおそらく間違っていなかったことを喜び、玄武のぬくもりが残る鍵を握りしめた。
 そしてふたりはアパートの外階段を降りて、腹を満たすために商店が立ち並ぶ賑やかなエリアに足を向ける。





 夕食はうどんのチェーン店に入った。たいした空腹は感じていなかったし、朱雀は食事をさっさと済ませて玄武とふたりきりで話がしたかったのだ。店内はほどほどに混んでいて、軽装のサラリーマンと長話をする女子大生が目についた。朱雀はざるうどんにからあげとレンコンの天ぷらを添えて、玄武はかけうどんにちくわ天を選んだ。鶏肉を噛みながら朱雀はしきりに向かいの玄武の様子を伺ったが、玄武は事務所で食事をするときと同じように小さく口をあけてはうどんをすすって、ほとんど何も喋らなかった。


 店を出る頃にはとっぷり夜が暮れていて、ふたりはぶらぶら歩きながら玄武のアパートへと戻った。途中、駅前にあるスーパーで朱雀は替えの下着とTシャツ、スウェット、旅行用の歯ブラシのセットを買った。玄武はその間食料品売り場をぶらついていたらしく、入り口で合流したときには麦茶のパックとロールパンの袋とアスパラガスを一把持っていた。それを見た朱雀は今日泊まることの可否を聞くのをすっかり忘れていたことを思い出して、スーパーの目の前で玄武に承諾を得る羽目になった。もっとも玄武ははなからそのつもりだったらしく、「狭いがよろしく頼む」と涼やかな笑顔で言いい、朱雀は男の造作のよさに改めて気づかされて頭をかいた。


 部屋に戻り、腰を据えて話をしようとした朱雀に対して玄武はシャワーを勧めてきた。
「その間に片付けとく。普通のユニットバスだから好きに入ってくれ」
「ってもよお、どこ掃除すんだよこのキレイな部屋」
「一通りやらせてくれ、その、なんだ」
 玄武は視線をそらすと、言いにくそうに口にする。
「俺も平常心に戻りたい」
 ぼそりと呟いて照れ隠しに頬に手をやった姿に朱雀の心臓がとくりと脈を打つ。緊張しているのは自分だけではなかったことにホッとしながら、相手の肩に手を置いた。その瞬間、触れたぬくもりに心が突沸する。
「……そしたらゆっくり入ってくるからよ」
「ああ、頼む」
 顔を上げて笑みを作った玄武を、朱雀は半ば衝動的に抱き寄せた。よろめいた身体を体幹で支えて、強張った背筋に腕を回す。また汗の匂いと、その中に混じってかすかな玄武の体臭が甘く香って朱雀の脳に火を放つ。鎖骨の窪みに鼻を寄せて擦り付けながら、朱雀は薄い身体を自分に被せるように引き寄せ全身で玄武を味わう。回した腕でシャツの下の肋骨を数えて、背中に浮いた肩甲骨の稜線をたどる。手の中にある玄武の身体のすべてが愛しくて、朱雀はこめた力を強めた。無体に最初玄武はおとなしくしていたが、我に返ったのか朱雀の腕の中でもぞもぞと身じろぎした。不快にさせたかと焦った朱雀はぱっと両手をほどいて玄武から離れた。
「わ、わりぃ……その」
 弁解をしようとした唇がぬるい温度で塞がれた。見開いた朱雀の瞳いっぱいに閉じた瞼と寄せられた眉が映る。初めての感触に心臓がオーバーヒートを起こして、朱雀は反射的に瞼をぎゅっとつむった。その両肩を掴んで、玄武は触れるだけの口づけを続ける。乾いた粘膜同士がくっつき、こすれては離れる。くすぐったさが唇から神経をいたぶる感触を、朱雀はただただ甘受した。
 やがて玄武は満足したのかそっと唇を離した。熱い吐息が吐息が前歯にかかる。朱雀は背筋を震わせながら瞼を開ける。灰色の瞳の中に間の抜けた顔をした朱雀が映り込んでいる。玄武の頬は紅潮して、さっきまで自分に触れていた唇も赤みを帯びていた。肩に食い入っていた指から力が抜け、遅れて手のひらが離れる。玄武は一つ息を吐くとふいと朱雀に背を向けた。
「いいから早く風呂に入ってこい」
 一息に言い、そのまま振り返らない。その耳がみるみるうちに赤くなるのを見て、朱雀の頬も熱くなる。声をかけようとしても真っ白な頭は何も思いつかない。結局「風呂、借りる」とだけ震える声で告げて、ビニール袋に入ったままのスウェットと下着を拾って洗面所に駆け込んだ。
 キスをした。
 ファーストキスだったのはこの際玄武には言わなくてもいいだろう、勘のいい男だからバレているかもしれない。朱雀はその場にへたりこむ。唇同士が触れただけなのに驚くほど甘く気持ちよかった。思い出して耳の後ろでぞくぞくと欲がうごめいた。もっと触れたい。振り払うように立ち上がり、Tシャツを脱いで蓋を閉めた便器の上に投げ捨てた。洗面台の鏡には間抜けな顔をした自分が映り、脇には準備よくバスタオルが畳まれていた。用意した玄武の姿を想像してまた鼓動が大きくなる。いや、そんなことで動揺している場合ではない、今晩もあの狭いベッドにふたりで眠るのだ。想像して頭がかっと熱くなる。さっき抱きしめた玄武の骨ばった身体を、今度は一晩中抱いていられる。そう思うだけで心臓は脈を速める。平常心なんてとんでもない。玄武も自分もこの上なく浮わついている。それに。いつの間にか股間に溜まった熱に朱雀は頭を抱える。そういうことは考えていない――――いやそれは嘘だ。考えていた、だけどあまりにも急だ。
 朱雀は素裸になってバスタブに入り、シャワーのコックを力任せに捻った。冷えたままの水が頭の上から降り注ぎ、背筋に走った寒気に金玉がきゅっと縮み上がる。構わず朱雀はしばらく冷たいシャワーを浴び続けた。キスとその先のことが明滅しては昂る脳をどうにか鎮めたかった。
 玄武に触れたい。暴きたい。深いところを共有したい。欲求が全身を苛み外に出ようとするのを押し留める。温度のコックを捻って、降り注ぐシャワーを湯に切り替えた。徐々に温まる水が冷え切った皮膚が緩んでいくのを感じながら朱雀はもう一度意識を集中させる。子供ではないのだから、関係がこのままで終わるわけがないことはわかっている。自分の欲は決して間違ってはいない。自分も玄武も無垢ではない。言い聞かせながら脳裏に浮かぶのは、記憶から消したはずのあの生白い身体だった。触った感触はまだ服の上のものでしかない。玄武の肌はどんな風に自分に吸い付くのか、どんな風に色を変えるのか知りたい。そして今度こそは自分の番だと本能が言う。それを否定できない。
 朱雀は流したままのシャワーの下から抜け出すとシャンプーを手にとって思い切り泡だて、十分に濡れた髪を洗い始めた。単純作業が陥穽にはまりこんだ思考を解きほぐしてはくれないかと期待したのだ。舞い込む雑念を払いながら、指の腹でしっかり地肌を洗う。長い襟足を泡が滑って肩から背中に流れる。無香料のシャンプーからは玄武の香りがしない。それにほっとしてまた男の首筋を思い出してしまい、朱雀は思い切り髪の毛をかき回した。


 朱雀がどうにか股間を収めて風呂から上がると、玄武は台所のシンクを磨いている途中だった。上がったぜと声をかけるとびくりと背を震わせて振り返る。
「あったまったか」
「おう、まあ……おまえも入れよ」
「ああ」
 玄武は頷くと持っていたメラミンスポンジを水切りして蛇口の脇に置く。相変わらず曇りひとつ残さない手際に感心しながら朱雀がバスタオルでわしわしと頭を拭くと、玄武は少し笑いながらドライヤーはいるかと聞いてきた。他にすることもないので頷くと玄武はクローゼットから折り畳みのドライヤーを取り出して朱雀に手渡した。それから着替えを同じクローゼットから出してきたので朱雀はがぜん扉の向こうが気になってくる。もっとも部屋の主がいない隙に見るほど行儀は悪くない。
 玄武が風呂場に消えたので、朱雀は空いたコンセントにドライヤーを差して髪を乾かしにかかった。うるさいモーター音をBGMにつむじのあたりから適当に風を当てる。じっとり湿った髪が徐々に重みを減らすのを感じながら、しばらく床屋にも行っていないことを思い出す。いろいろありすぎた、と朱雀は思う。女ともめたのも、同僚を殴ったのも、玄武とこうなったことも。変化の少ない自分の生活の中で玄武を取り巻くあれそれはあまりに刺激的だった。それから風呂の中で考えていたこと――――玄武と、すること。
 セックスは正直朱雀にはあくまで想像の中のことでしかない。エロ動画の中で腰を振る男も受け入れる女も自わからはかけ離れているし、玄武からはますます遠い。一方で自分の身体は確実に玄武を求めていて、おそらく玄武で射精できるし、能動的に抱ける、とも思う。要は心が身体に追いついてくれないのだ。好きと性欲が断絶してバランスが取れないままにシチュエーションだけが先行している。まるで中学生のように。朱雀は初めて店の女たちの努力に思い至って頭を俯かせる。セックスがこんなに心の準備が必要で、相手への想像力が必要な行為だとどうして誰も教えてくれなかったのだ。自分の感情の正体に思い当たったのがついさっきだということを、朱雀はすっかり忘れている。それくらい玄武への思いは心に根を張っていた。大切にしたいという闇雲な理想と、とにかく触れ合ってわかちあいたいという率直な欲求がぶつかりあって、最後に出てくるのは自分が玄武のことを心の底から欲しているのだというシンプルな思いだけだった。
 朱雀は自分の結論に嘆息してドライヤーのスイッチを切った。途端に部屋は静かになり、扉を隔てた向こうで玄武がシャワーを使う音だけがかすかに聞こえてくる。その水音によからぬ妄想が膨らみかけるのを泡を食って押し留める。玄武が戻ってきたときに間抜けに勃起していたら、あの男はいったいどんな顔で呆れるのだろう。そんな真似をしたら本当にただの中学生になってしまう。朱雀はゆっくり息を吐いて、意識をそらすためにもう一度ドライヤーのスイッチを入れた。この際、髪が痛んでも構わなかった。


 四苦八苦して時間を潰した顛末はもちろん知らないまま、玄武は少し上気した顔で湯から上がってきた。半袖のTシャツに紺のスウェット。靴下は履いていない。襟のない服を着た玄武を見るのは初めてだ。濡れた髪が色味を深めて首筋に張り付くのを朱雀は胸を高鳴らせながら盗み見た。湯上りの玄武は自分のものとおぼしきプラスチックのコップを手に取って水を飲む。嚥下するたびにのどぼとけが動き、食道に液体を送りこむかすかな音がする。耐えきれず朱雀はマットレスに寝転がった。
「どうした」
「や、なんでもねえんだ」朱雀は顔を覆いながら玄武に聞かせるでもなく呟く。「なんでもねえんだけどよ……」
 欲情していると素直に言えるほど幼くはない。朱雀に駆け引きの心得はないが、率直さが仇になる場面があることは知っていて、おそらくいまがそれに該当する。ムードというやつだ。自分には難しすぎる。仕草のどこかが狂ってはいないかと心配しながら朱雀は呼吸を整える。買ったばかりのTシャツの繊維が肌に擦れて気持ちが悪い。
 みし、と安普請のフローリングが軋む音がして、玄武がベッドに近寄るのがわかる。裸足のくせにぺたぺた足の裏が張り付く音がしないのはなぜだろう。朱雀はつむった瞼の裏に玄武の日に焼けない足指を思い描き、眉根を寄せる。どんな空想にしろ心を蝕むものでしかなかった。止めろ。消せ。潔癖な自分が黒野玄武によこしまな思いを抱くのを嫌う。喉元まで謝罪が出かけて、朱雀はそれを飲み込んだ。これは独り相撲だ。
「……玄武」
「どうした」
 腹筋で上体を起こして目を開けるとそこには玄武がしゃがんでいる。途端に胸が苦しくなって、朱雀は玄武の肩に右手を伸ばす。硬い鎖骨と薄い皮下脂肪の乗った弾力のある筋肉が手のひらに触れ、そこに玄武の左手のひらが重ねられる。いつも嵌められている指輪はなく、伝わる体温がさっきより少し高い。朱雀の目玉は落ち着きなく無遠慮に玄武の全身を舐め回す。細い首、骨ばった手、薄い胸、腹、折りたたまれた太腿――――何にせよ朱雀の欲を確実に煽る。胸のざわつきと痛くなるくらいに煮詰まった脳をどうにかしたくて朱雀は玄武を抱き寄せる。平たい肩甲骨に手のひらを回し、重ねられた手のひらを捻って指を絡めた。
「好きだ」
「どうした」
「わかんねえ。好きだ。むちゃくちゃ好きだ」
「あんまり俺を甘やかすな」
「甘やかしてんのはおまえだろ」
「そうか?」
 玄武は小さく笑って朱雀の肩に頭を預けてくる。濡れた髪がTシャツ越しに朱雀の肌を湿らせる。朝もこんなことがあったと思う。あれは涙だったか。朱雀は回した腕をそっと動かして玄武の背を撫でる。でこぼこした背骨の感触が朱雀の手のひらに伝わる。指の関節も硬い。男の身体だ。触ったこともない女と比べることはできないが、そこに直接触れたいという願望は消えることがない。どこかで安堵しながら朱雀はもう一歩先に進もうとする。
「玄武、わりい、オレ」
 息が荒くなっていることに朱雀は気づく。耳元で心臓がぶっ壊れたようにどくどくと鳴っている。黒野玄武はここにいる。朱雀の目の前に、手の届く場所にいる。その事実に際限なく興奮している。性懲りもなく熱を持ち始めた股間の存在が玄武にバレないようにと祈りながら朱雀は玄武のまとう空気をいっぱいに胸に吸い込んだ。かすかなボディーソープの香り。それから温まった肌の匂い。素肌で触れる頬のわずかな産毛。胸に直接伝わる鼓動。玄武のもつすべてが本能を駆り立てる。
「さわりてー……」
 溢れた本音に玄武がぴくりと反応したのを朱雀は全身で感じた。失敗した。無意識にゴクリと唾を飲む音が静かな部屋に響く。リカバリーの仕方がわからない。背中から汗が噴き出すのを感じながら、朱雀は頭をぶん回す。
「いや、その、触ってるよな! 触ってんだけどよ、その……」
 間抜けな弁明だとわかっていて滑る口を止められない。
「その、オレ、えっと」
 とん、と胸を押された。密着していた身体が離れてすっと冷たい風が入りこむ。
「朱雀」
「お、う!」
 返事だけはよくできた。朱雀は半ば涙目で玄武の顔を見る。目の前の男は怒っているように見えた。
「俺が触りたくないとでも思ってんのか」言葉に朱雀の目が丸くなる。「俺だってお前に」
 それ以上は不要だった。朱雀は玄武の頬を両手で挟んで引き寄せた。二回目のキスは性急だった。ふわふわした玄武の唇。己の唇で挟んで、前歯を立てるとわずかに口が開く。マンガで読んだ知識をフル動員させて、朱雀はおずおずと舌を差し入れた。触れた玄武の舌は熱く、とろけるように柔らかい。ざらつく表面をこすり合わせるだけで脳内に火花が散る。気持ちいい、と脳が理解して、玄武の頭を逃すまいと腕に力がこもる。小さな前歯が朱雀の舌を拒むように降りてくるのにすら昂る。ぐねぐねと動く舌を追って朱雀はキスに没頭した。玄武の舌も応えるように朱雀の歯列を割って絡みつき、しなやかな腕は朱雀の身体を抱きしめて離さない。
 結局息切れで唇を離したのは朱雀が先だった。唾液でぬるつく顎を二の腕で拭って、ガンをつけるように玄武を見上げる。玄武は肩で息をしながらゆっくりこちらを見た。
 玄武のぎらついた目が朱雀を射抜く。澄んだ色は出会ったころと何も変わらないのに、今の朱雀はそこから情欲を汲み取れる。焼きつきかけた脳が安堵でほどけていく。
「あのよ、オレ、やり方よくわかんねえんだ。その、間違ってたら教えてくれ。直すからよ……かっこつかなくて、悪りい」
 朱雀はそう言って頭を下げる。
「いい」玄武はとろけるような笑顔を浮かべて言う。「俺が惚れたのはそういうお前だ」





 マットレスに座った朱雀に少し待てと言って、玄武は洗面所のほうへ消えた。朱雀は言われた通りにシーツの上で三角座りをして家主を待つ。腹の底で煮えたぎる欲と、これから先を手探りで進めなければならない不安感が交互に訪れて、朱雀の心は引き裂かれそうな痛みを訴えた。耐えられるのは玄武とふたりで作り上げていきたいという理由があるからだ。
 戻って来た玄武の手の中にはコンドームの薄いパッケージがあった。認めた朱雀の心臓がどくりとひとつ脈を打つ。玄武は多少照れ臭そうに朱雀の隣に座るとマットレス脇にコンドームを投げ出した。
「使うのはお前だからな」
「は」
「俺を抱くのは嫌か?」
 言った男の顔は笑っているようにも歪んでいるようにも見えた。朱雀は即座に首を横に振る。やり方の仔細はわからないが、玄武になにかしていいと本人が言うのなら否定する選択肢はない。ただ。
「いいのかよ」朱雀は恐る恐る問う。「なんだ、よくわかんねーけどよ……おまえだって、その、抱きてえとか」
「抱いてほしい」
 玄武は朱雀の言葉を遮って端的に告げた。仰ぎ見る瞳の中に揺らぐものはない。だが声がかすかに震えている、と朱雀は感じた。
「……わーった」
 朱雀はマットレスの上で脱力した玄武の手を取った。壊さないようにそっと握る。玄武の速い脈が手のひらから指に伝わった。玄武だって、少なくとも緊張はしているのだ。これはふたりでやることだ。心の内で繰り返しながら朱雀は言葉を継ぐ。
「優しくすっからよ。言えよ。痛いとか、気持ちよくねえとか、そういうの……」
 言い淀んで朱雀は頭をかいた。繋いだ手にじんわり汗がにじんだ気がして、しかし引っ込めるのも格好がつかない。今朝はあんなに勢いよく玄武のすべてを受け止めると思っていたのに、どうにもキマらないことばかりだ。
「なんつうか、初めてで、悪い」吐き捨てるような口調になったことを後悔しながら朱雀は玄武の目から視線を逸らした。「もっとうまくやりてえんだけどよ、へたくそですまねえ」
 いまは謝る場面だろうか。呆れられてはいないか。こんなことになるなら誰かと試しにやっておけばよかったんじゃないか。きりのない自問自答を振り切って朱雀は玄武の顔を見る。玄武は柔らかい笑顔を浮かべていた。
「俺は、お前の初めての相手が俺で死ぬほど嬉しい」ひそめたような小さな声が静かな部屋にしみいるように響く。
「一度目は一度きりだからな」
 そう言って玄武はにやりと唇の端を上げてみせた。それだけで、もう十分だった。


 おずおずと朱雀が始めたキスを玄武はたちまち深いものに変えた。口の中でうごめく舌を夢中になって追いかけていると背中にひやりと冷たい空気が当たる。しなやかな腕が朱雀のTシャツをまくり、玄武の熱を持った手のひらが直接肌に触れ、指が神経をいたぶるように肌の上で踊る。官能を揺さぶる感触に背筋が震えて、朱雀は玄武の舌を甘く噛んだ。玄武の鼻息がくすぐるように肌を撫でていく。
「げんぶ」
 息継ぎの合間に名前を呼び、朱雀も玄武のTシャツの中に手を突っ込んだ。風呂上がりの余韻が残る皮膚はうっすら汗をかいていて、指先が留まっては滑る。ひとに触れることがこんなに嬉しくて、際限なく欲求を煽ることを朱雀は初めて知る。日に当たらない肌を部屋の灯りに晒したくて、朱雀も玄武の背を覆う布をたくしあげる。冴えた蛍光灯の光は玄武を少し不健康に見せた。その肌に血を巡らせようと朱雀は唇を噛み、口腔に舌を伸ばしてぬめる粘膜を擦り上げる。ぬちぬちと湿った音が立つのを半ば恍惚として聞いた。
 朱雀の口からこぼれおちた玄武の舌が朱雀の顎に垂れた唾液を拭って、そのまま喉へと吸い付いていく。朱雀はそれを甘受しながら玄武のなめらかな素肌を楽しんだ。触れるたびに触覚がたしかに黒野玄武を形どっていく。そのすべては自分のものだと傲慢に訴える心があった。玄武は玄武のものだ、と思いながら、朱雀は玄武の浮いた骨を辿り、にじむ汗を拭った。
「朱雀、脱がせてやるから」
 言われて朱雀は玄武から身体を離す。両腕を差し出すと玄武は苦笑いして、朱雀の背中に腕を回してTシャツを脱がせてくれた。朱雀は水から上がった犬のように頭を振り、顔を上げる。
「おまえも脱げよ」
 玄武は頷いて自らTシャツを脱ぎ捨てる。肉のつかない肩回りに喉が鳴った。腕を伸ばしてそっと触れる。それから肩をわし掴んで抱き寄せた。目の前にある鎖骨に食いついてしゃぶる。汗の塩辛い味と玄武の肌から匂いたつ生き物の香りが、朱雀の脳を悪い薬のように犯していく。
「止まんねえ……」
 呟くと玄武が自分もだと頷く。細い首が傾いで玄武は朱雀の頭に顔をうずめた。すうと深く息を吸われる音がして朱雀の心は焦る。身体も髪もきれいに洗った。なのに、玄武が触れるにはまだ汚れている気がする。
「好きだ、玄武」
 もやもやした思いをごまかすように言って、それから誠実ではない、と思う。それでも口をついた言葉は嘘ではない。触れあうことを許してくれた玄武のことを心底愛しいと思う。そして自分に惚れていると、あのとき苦しそうに告げた男が、自分の拙い行為に失望しないといいと思う。そればかりは祈るしかない。
 朱雀はむきだしになった玄武の薄い胸に指を這わせる。淡い褐色の乳首を手のひらで潰すと玄武の唇から感じ入った呼気が漏れた。薄い胸板の筋肉のかすかな盛り上がりを撫でながら朱雀の骨ばった指は粒立った乳首を撫でる。
「気持ちいーか」
「……ああ」
 玄武は目を閉じて酔いに浮かされた口調で言う。朱雀は嬉しくなって手を下に滑らせ、平たい腹に張り付いた臍を優しくくすぐった。また玄武が鼻にかかった声をこぼす。その頭を引き寄せて唇にキスをした。玄武もうっすら目を開いて朱雀の唇をゆっくり食む。朱雀は玄武の腰に手を置いて口づけに集中していた。だから玄武の手が自分の猛った股間に触れた瞬間に色気のない声が飛び出た。
「うお」
「初めてか?」
 尋ねる玄武の顔にはからかう意図は読み取れず、だから朱雀も真面目に答える。
「おう」
「そうか、よかった」
 言いながら玄武は朱雀のスウェットの中に手を突っこみ、おろしたてのパンツのゴムを無理やり伸ばして侵入する。
「玄武……」
 兆したものに玄武の長い指が触れるのを朱雀はその目で見る。触れられた瞬間、雷に打たれたように全身がしびれて思わず呻き声がこぼれた。聞いた玄武は頬を緩めて、朱雀の耳元でもっと、とつぶやく。もっと。朱雀はきたるべき快感にぐっと骨盤を後傾させて備える。玄武の指は滴る先走りを絡めて、浮き出した血管になすりつけるようになぞる。朱雀の神経は指紋の溝のひとつひとつを感じられるくらいに鋭敏になっている。玄武はゆっくりと煽るように指を添えて上下に動かす。その動きに合わせるように腰を揺らしながら、朱雀はひとつ大きく息を吐いて、吐精への欲望を散らした。背筋から汗が噴き出て滴るのを意識は意図的に感じて、直接的な快感を追うのを防ぐ。そのあいだも玄武の指は繊細に動いて朱雀のカリ首を周回し膨れ上がる裏筋を撫でる。
「玄武、オレも」
 言って朱雀は玄武の股座に手を伸ばす。果たしてそこは朱雀以上に張りつめて熱を持っている。玄武が身体を捻って腕を避けようとするのを無理にとどめて、朱雀もスウェットの中に手首を入れる。下着の上から湿ったその部分をゆっくり撫でる。玄武の唇から甘えたような吐息が転がって、朱雀の気分を良くした。朱雀はそのままパンツの中に手を突っ込んで、硬く充血したものに触れる。初めて触れる他人の性器は弾けそうに張っていた。できるだけそっと触れて撫でると玄武の腰がびくりと揺れて引く。それを追ってまた触れると、玄武が眉をしかめて顎で朱雀の額に不満を伝える。獲物を追い詰める嗜虐的な快感の突端を朱雀は掴みかけて逃す。笑ったのが伝わったのか、玄武はくっつけていた胸を離して朱雀の目を見る。
「ん?」
「少し、……加減してくれ」
「おう」
 言われても既に極力優しく触れている。朱雀は過熱で回らない頭を無理に捻って指をそっと動かした。たらりと先走りが玄武の茎を伝って朱雀の指を濡らす。また玄武の呻く声が聞こえる。これもハズレ、らしい。どうしたらいいんだともごもご口の中で言ったのが聞こえたようで、玄武は首を振ると掠れた声で言う。
「お前に触られてるのが、おかしくなりそうなんだ」
「オレだって、その、イきてえよ」
「……俺はまだイきたくない」
「おまえ、ほんと意地っ張りだな」
 ふてくされたように言うと玄武が笑う。それから「意地じゃない、もっとしてえんだ」と早口で言って、玄武は手の中の朱雀の鈴口を親指でこすりあげる。吐き気めいた強い快感を朱雀は肩をすくめて逃し、玄武の根元を捻るように摩擦した。今度は玄武が背を丸めて熱い息を吐く。
「朱雀、」
「おう」
 応答しながら朱雀は玄武のものをスウェットから引きずり出した。外気に触れたその部分が身震いするのを手のひらに感じながらゆっくりと扱く。先走りが溢れて朱雀の手首を濡らすのを玄武は茫然と見て、それから気がついたように指先をたわむれさせていた朱雀のものを同じく外へと招きだす。腫れあがった朱雀のものに玄武は指を逆手に絡めて手のひらで刺激する。う、と朱雀が呻くのを玄武は楽しそうに眺めて手を動かす。そのたびに朱雀の腹筋に力が入り汗が噴いた腹に溝が浮かぶ。朱雀は息を吐いて射精感を散らし、玄武への刺激に集中する。根元から先端まで、余すところのないように。マットレスについた手のひらが緊張と筋肉運動の呼んだ汗で濡れそぼる。
「っ、すざく、朱雀」
「おー……」
 乞うように名前を呼ぶ玄武に感情がくすぶる。もっとしたい、玄武の快感に歪む顔を見たい。柳腰を引き寄せて朱雀はふたつの性器を直接触れ合わせた。不意打ちの刺激に玄武が目を見開いて小さく悲鳴を上げる。構わずに扱き上げると。玄武の手のひらが朱雀の手の上から被さって動きを止めた。
「手、どかせよ」
「無理だ」
 出る、と玄武は喘ぎ声の隙間で言う。朱雀は玄武の制止を振り払うと握る手に力を込めた。敏感な器官同士が摩擦に更なる熱を持って血液を溜めていく。膨張しきった海綿体に乱暴な手つきはひたすら過剰で、玄武は朱雀の首に顔をうずめて引きつるように喘いだ。
「いいから、出し、ちまえ」耳朶をくすぐるように言う。「オレもいくから、玄武」
 実際朱雀も限界だった。玄武の首筋にいくつもキスを落として、手の中のものをまとめてこすりあげる。金玉がぐっと上がる感覚に身を震わせながら、並んだ亀頭を指の腹で刺激した。
 どくどくと断続的な射精は長く続いた。ふたつの違う脈が精液を吐き出してはひくつき、粘ついた液体が玄武の腹を汚して糸を引く。ふたりはどちらともなく深い息を吐いて、朱雀は管に残った精子を扱きだした。玄武の腹にぽたぽたと白濁したものが散る。自分のものが少し濃いことに気付いて朱雀は色の違う精液を混ぜ合わせた。玄武が感じ入ったように吐息をこぼす。
「玄武、きもちいーな」
「ああ……」
 玄武は少し体を後ろに傾けると腹に飛散した精液を指で拭う。少し考え込んでからその指を口元にもっていった。朱雀がぎょっとした顔で見るのも構わずに、口に含んで、まずい、と謡うように言った。
 それから玄武はふらふらと立ち上がると、おぼつかない足取りで風呂場に向かう。戻ってきた玄武の手にはローションのボトルとウエットティッシュがあった。
「少し、待ってくれ」
 玄武はウエットティッシュで腹と性器を拭いながら言う。朱雀も渡されたティッシュで精子とカウパー液にまみれたものを適当に拭いた。玄武は丸めた紙屑を床に投げ捨てて、ローションを手のひらから指先にまでまぶすと、座ったまま、立てた膝をゆっくり開く。その一番奥の窄まりにぬるついた指を這わせた。
「するから……」
 目眩に浅く息を吐きながら玄武の仕草のゆきつく先を見る。わずかに色づいたそこに玄武は指を揃えて差し入れる。
「わかるか?」荒い息のあいだに玄武は朱雀を見上げて、指で少しだけ拡げてみせる。「ここにいれる……」
 朱雀は口の中に湧いて出た唾液を飲み込んで、垣間見える赤い肉を食い入るように見つめる。玄武の内側。ローションでどろどろの指が窄まるそこに入っては出る、うごめく入り口は違う生き物のようで、脚の影になっているのにやたらとてらてらと光る。
「女じゃねえから、濡れねえんだ。こうやって……やってやる、っ」
「はいんのか?」
「いれる、お前がいれるんだ」
 玄武は笑ってみせる。その指はきつい孔が反射で締まるのを拒むように小さな空隙を維持した。
「だけどよ、」
 言ってから朱雀は自分が何を伝えたかったのか見失う。うろたえて走らせた視線の先にローションのボトルがある。何も考えずそれを手に取って、中身を指にぶちまけた。透き通る粘ついた液体。玄武の身体の支度をするもの。
「オレの、そりゃ、でかくねーけど、ちっこくもねーからよ……玄武」朱雀は玄武の脚の間に割りいって、指をその場所にそっと這わせる。きゅっと反射的に締まる孔は玄武の指を二本飲み込んでいっぱいに見える。朱雀のものはそれよりも確実に太い。
「ぶっ壊れる、こんなところ」
 言いながら指は玄武の中に押し入ろうとする。むちゃくちゃだ。思いながら頭は酸欠でがんがんと痛み、それ以上のことを考えさせない。玄武が少し指を引いた瞬間、吸い込まれるように朱雀の人差し指が中に飲まれた。
「うお」
 ぬるりと粘膜が指を包み込む。爪先で感じるごつごつしたものは玄武の指だ。指の腹は玄武の収縮する肉に絡みつかれる。肉の動きに共鳴して玄武が小鳥のように鳴く。心臓が喉から飛び出そうだ、という比喩を朱雀は身体で理解する。馬鹿になったように打つ鼓動は朱雀の萎えたものをあっという間に充血させた。首をもたげるものを見て玄武は薄ら笑いを浮かべて、喘ぎながら指を動かす。締め付けられる感覚に朱雀は呻いた。
「挿れてえだろう?」
「馬鹿やろ、……いれてえよ、いれてえけどよ、壊れちまう」
「お前が、壊さないようにしてくれりゃあ、いいんだ」
 こうやってれば、少しずつ、ひらく。さっきも風呂でやってきたんだ。お前が萎えたらやめるつもりだったが、大丈夫のようだから。
 耳打ちされる事実に朱雀の脳が沸騰する。玄武がはなからそのつもりで朱雀を泊めていたこと。最初にコンドームだけを持ってきたのは朱雀の欲の限度に不安があったということ。自分はどうやらその不安を解消できたらしいこと。首の後ろが痛むように熱を持つ。最後までいける。ふたりで。朱雀は玄武の粘膜に抱かれた指をわずかに前後させる。
「ん、朱雀、指」
「おう」
「いい」
 玄武はうっとりとした口調で呟く。危うく聞き逃しかけるほど小さな声だった。朱雀は焦れる下半身を叱咤しながら飲み込ませた指をうごめかせる。ごくわずかな変化に玄武の身体は敏感に反応し、喘ぎ声が上がる。目をつむって快感を追う玄武の唇から唾液が垂れたのを、朱雀は唇で受け止める。すすると汗の混じった味がした。
「すざく、気持ちいい」
「ん」
「朱雀……」
 吐息交じりの声で名前を呼ばれるたびに心臓が痛い。玄武の快楽に自分の身体が貢献している。朱雀の肌がまた粟立って、腕で玄武の背を抱き寄せた。組み合った脚が汗で滑る。朱雀は片手で玄武の背中の筋肉をたどり、食い込ませた指で内側を蹂躙する。男の硬い身体のなかにこんなに柔らかく傷つきやすい場所がある。そこに押し入りたいと思う自分がひどく残酷に思えた。玄武が望んでいるとはいえ、一方的な暴力だ、と頭を振る。そうしながらも玄武の中を拡げる指は動きを止めない。玄武の二本の指の間に割り入り、きつく締まる肉を押し拡げて、どうにか自分の入り込む隙間を作ろうとする。玄武が甘い声を漏らして朱雀の頬に擦り寄った。媚びるようなその仕草が快楽から来ていることを、自分の指から来ていることを朱雀は知っている。
 朱雀はこれまでになく丁寧に玄武の身体を拓いていった。徐々に弱まる肉の反発すら愛おしい。途中で促されてローションを足した。乾きかけた肌に潤いが戻って、出し入れが滑らかになる。ぐちゃ、と指の付け根と玄武の皮膚の間で音が立って、粘り気のある液体が糸を引いては途切れた。朱雀は注意深く指を差し入れて、中で軽く曲げながら引き抜く。玄武の背が震えて動物のような声が漏れる。あの冷徹な男が髪を乱しながら快感に没頭する姿に朱雀の喉が鳴る。そして言葉は玄武の口からこぼれた。
「はいる」
「は、」
「はいるから、いれてくれ」
 言って男は瞼を開けた。澄んだ灰色の目に欲情している自分の姿が映る。玄武の瞳孔は広がり、光を受けてぎらぎらと光る。





 玄武の目の中で、自分は獣のようにいきり立っている。獰猛に、貪欲に。
 傷つける。
 とっさに思ったのと同時に口をついて出た。
「玄武、オレ、ぶっ壊しちまうかも知んねえ……」
 朱雀は玄武の目玉を見据えながらゆっくり言葉を繋ぐ。自分は怯えている。勃起したものはいくら慣らしたとはいえ玄武の孔にはまりこむには大きすぎる。触れている肉が裂ける錯覚に、玄武に食い込む朱雀の指が震えた。
「いれてえんだ、セックスしてえんだ。玄武。けどよ……」
「何言ってんだ……いいか朱雀、大丈夫だ」
 玄武がよく通る低音で抜いてくれ、とささやいた。朱雀はおとなしく玄武の内側から指を抜く。抜けおちるときに玄武の濡れた声がこぼれて、また勃ちあがりはじめた玄武のものがひくりと震えた。それも朱雀の逡巡を消すには至らない。よほど不安げな顔をしていたのだろう、玄武が眉を寄せて苦笑いした。玄武は額に落ちた前髪を後ろに撫でつけて朱雀と正対する。その手にはさっき投げ捨てた薄いパッケージがあった。
「コレだってあるし、お前がちゃんとしてくれただろう」
 パッケージを破くとゼリーに包まれたコンドームが転がり出る。玄武はそれを朱雀のものに宛がい、くるくると伸ばして装着した。根元まで辿りついた指が陰毛をかきわけて朱雀の肌を刺激する。充血しきった竿はそれだけで反応した。
「玄武……」
「大丈夫だ。そんな軟弱じゃねえ」
 玄武はそう言ってゼリーでぬるついた指を朱雀の胸元に這わせる。爪先が外気に尖った乳首をかすめて朱雀は呻いた。指はそのまま臍へ流れ、下生えを割って勃起したものをさする。これを。玄武は目を伏せながら言う。
「いれてほしいんだ。朱雀。抱いてくれ」
 そう言って、玄武の視線は朱雀の目を射抜く。欲情は確かに玄武の目にもあった。認めた心が解ける感覚に朱雀は息を吐いて、自分の猛ったものに視線を移した。膨らみきった竿は玄武の中を暴くには大きく見える。それでも玄武が望むなら? 言い訳かもしれない。思いながら朱雀はじっとりと濡れた手のひらを太ももで拭う。
「痛かったらすぐ言えよ」
「ああ」
「ほんとに、おまえのこと痛めつけてえわけじゃねえんだ。気持ちよくならねえと意味ねえんだから……」
 言いながら朱雀は玄武の脚の間にもう一度割って入った。細い腿を持ち上げて、玄武の身体を倒す。玄武は片肘で姿勢を支えて、朱雀を招くようにもう片方の手を伸ばして肩に捕まった。朱雀はローションを手に出すと自分のものに入念にまぶす。
「じゃあ、その、いれる……」
 朱雀は脈打つものを支えて孔に宛がった。空いた手で玄武の腰を掴んで目を閉じる。被膜に覆われた亀頭がゆっくり孔の中に埋もれていく。先端に感じる粘膜の感触に気が触れそうになりながら、朱雀はできる限り緩く行為を進めた。汗でぬるつく腰が反射で逃げようとするのを抑え、自分の呼吸の音を大きく聞く。肉の輪が拡がりきって、一番太い部分を飲み込んだ。
「う、あ、玄武」
「……っ、いい、そのまま、来い」
 絡みつく内壁に朱雀の呼吸が乱れる。玄武の腹の脇に腕をついてぐっと腰に体重をかけた。屹立した朱雀の雄が玄武の肉をうがつように食い込み、内側が徐々にひらかれていく。浮いた血管の凹凸にまで腸壁が沿って擦れる感触に朱雀は喘ぎながら耐える。今すぐ射精したい、と我慢の利かない本能ががなり立てるのを堪えて、じわじわと太い竿を玄武の中に押し入れる。受け入れる孔をそっと撫でると玄武の腹の上で勃起したものが雫を垂らした。それを見て安堵しながら朱雀はまたゆっくりと玄武にのしかかっていく。そしてすべては玄武の中に飲み込まれて、朱雀はひとつ息を吐き、玄武は左手で下腹を、朱雀のものが入りこんでいるあたりを撫でまわした。
「……よく入ったな」
「は」
「冗談だ」
 玄武は鼻をすすって笑った。そのまなじりには涙が浮かんでいる。朱雀は手を伸ばしてそれを拭った。
「痛くねえか……」
「いや、大丈夫だ……朱雀」
 玄武の腕が首に回り、朱雀の額にそっとキスが落ちる。触れるだけのそれは児戯めいて、朱雀の胸をきゅっと締めつけた。
「ありがとう」
「や、こちらこそ……?」
 的外れな朱雀の応答に玄武は吹き出して、「そうだな」と笑った。その振動が飲み込まれたものに響いて朱雀はまた呻き、眉根を寄せて息を吐く。もうあとどれだけ保てるかわからなかった。ぬかるんだ玄武の腹の中は熱く朱雀のものを飲み込んで、やわやわと緩慢だが確実に朱雀の身に快感をもたらしている。正直なところすぐにでも動いて、玄武の奥をむちゃくちゃに突き上げて達してしまいたい。無体を働かないでいるのはただ玄武の身体が心配なだけなのだ。玄武はそれを知ってか知らずか、ふっととろけた目を朱雀に向けた。
「どうだ、セックス、気持ちいいか」
「玄武……」呆れながら吐息交じりに名前を呼ぶと、玄武は頷いて応える。その余裕すら浮かぶ顔に仕返しがしたくなって、朱雀はわざとらしく真顔を作って言ってやった。
「気持ちいーぜ。おまえのなか、めちゃくちゃ、いい」
 聞いた玄武の頬にさっと朱が走る。馬鹿、と口走った玄武はついと視線を逸らして、俺も気持ちいい、と吐き捨てるように言う。自然と頬が緩むのを感じながら朱雀はゆるく腰を揺さぶった。玄武の結んだ口の端から甘い息がこぼれはじめて朱雀の襟足をくすぐる。
「すげー気持ちいいんだ、玄武、なあ」
 呼ぶ声がどうしようもなく甘ったるい。自覚して朱雀は口の端をゆがめる。こんな風に他人を求める日がくるとは思わなかった。胸には絶え間なく腕の中の生き物への愛しさが湧いて出る。しがみついてくる腕に安心を、耳元で喘ぐ口にもっと幸福を注ぎ入れたい。朱雀の指は玄武の腹の輪郭を辿り、硬くたちあがったものへと近づいた。
「玄武、もっと、欲しい」
 とろとろと滴り落ちる液体を玄武の雄にまとわりつかせて扱くと中がきつく締まる。朱雀のものは狭まる襞を押し分けて奥へと侵入しては後退し、肉をいたぶった。玄武は口から鳴き声めいた喘ぎをこぼしながら朱雀の腰に脚をかけ、踵が朱雀の腰を打ち、交合をより深いものへと導く。
「すざく」
「ん……もうちょい」
 腰を打ちつけながら答えると玄武の声が上擦って途切れる。感じ入ってふやけた視線が朱雀の顔を横切り、唇の端から涎が垂れた。朱雀はそれを指で拭うと口に運ぶ。舌は確かに甘さを感じた。その味を口の中で噛みしめながら、汗でぬめる玄武の腰を持ち上げて揺さぶると脱力した身体のなかで朱雀を食う一点だけにぎゅうと力が入る。朱雀は玄武の腕を首にしっかりとかけなおしてやり、浅く深く抽送を繰り返した。
「玄武、気持ちいー……」
「俺も、あ、朱雀、っ」
「すげえよ。ちゃんとふたりで、……玄武」
 なあ、と笑うと玄武も苦しい息の下で微笑みかえしてくれる。朱雀は気をよくして玄武の背に手をやりその身体を起こした。あ、と短い声がして玄武の身体は重力に従って朱雀のものをより奥までくわえこむ。朱雀、と名を呼ばれて、黙って頷く。玄武の肉の中で自分のものが限界まで腫れあがり、解放を求めている。朱雀は玄武の身体を担ぐように安定させて、その腰を片手で支えた。
「あのよ、オレ、もうもたねえからよ……」
「ん……」
 いっていいか、と問うた声に玄武は薄く瞳をあけた。灰色の瞳は潤んで、朱雀の姿を映しこむ。目頭から涙が一滴零れて汗と混ざって滴る。その姿にどうしようもなく煽られる。もうこれ以上はないはずだった欲望が膨れ上がる。玄武は細く開けた唇から長く息を吐いた。
「……朱雀、来てくれ」
 掠れた声で承諾を得て、朱雀はもう一度腰を振りはじめる。ランダムな動きで突き上げられるたびに玄武は声を上げ、かぶりを振って快感を受け止めた。熱くとろけた内側は朱雀を搾り取るようにうごめく。荒い息を吐きながら朱雀は玄武を揺さぶった。大丈夫だ。ふたりとも気持ちよくなれている。玄武の甘い声を聞きながら朱雀は思う。そうだ。ふたりでやることだ。ちゃんとできている。大好きな玄武。これを、オレもおまえも、ずっと求めていたんだろう。汗まみれの身体を抱き上げて、朱雀は最後に深く深く突き入れた。
「いけよ、玄武……!」
 びくりと腰が屈曲して、玄武の鈴口から精子がほとばしる。一層きつい締め付けのなか、朱雀も射精した。膨れ上がったものから薄い皮膜の中に精液が二度三度、どくどくと脈打ってあふれ出す。
 焼きついて真っ白な頭の中に言葉だけが浮かぶ。愛しい。愛しい。好きだ。


 


「できてよかった」
 ぐったりと脱力した玄武を風呂場に運んで洗って、ことを終えた朱雀はとりあえずトランクスだけを身に着けてスツールに座っている。玄武はマットレスの上でタオルケットにくるまって横になっていた。
 腰回りの筋肉を無理やりに使ったからからか身体がひどく重い。筋トレ、増やさなきゃなあと余計なことを考えながら、朱雀は率直な感想を口にした。初めてのセックスで、ちゃんと玄武をいかせることができた。その事実にとにかくほっとして、それから思い出す快感に身震いする。もう一度したい。できることならすぐ。猿だ。と自分を評して朱雀はまだ汗が噴き出る肩を手のひらで拭った。ぼうっと天井を見ていた玄武が視線を朱雀に戻す。
「俺も男は初めてだから、できねえかと思ってたんだが」
 しれっと口にする玄武に朱雀は絶句した。
「……言えよそれ!」
 ようやく口にできた一言に玄武はにやっと笑って、言うほどのことじゃなかった、と言う。
「言ってくれたらよお、なんだ、もーちょっと優しくとか……」
「できたか?」
 いたずらな笑顔を浮かべる玄武に何も言い返せず、朱雀は口をつぐむ。その手のひらの中にはスマートフォンがある。先ほどから朱雀はそれをこねくり回しては放り、また手にとってまったく落ち着きがない。玄武もそれに気づいたようで視線を落として、どうした、と聞いてくる。
「……いや、家によ、連絡しようかって」
 ぽつりとこぼした言葉に玄武の目が見開かれる。朱雀は頭をかきながら胸の内を打ち明ける。
「おまえのこと、ちゃんと言いてえんだよ。もちろん今じゃねえけどよ」
 胸の中はもやもやしていてきちんとした文章にはならない。自分の現状を表す言葉も、今日生まれたこの関係を表す言葉もまだよくわからない。母親のメールアドレスを電話帳から引っ張り出して、画面を開いては消している。真っ白な編集画面で自分はまだ立ちすくんだままだ。だけどきちんと伝えたいと思っている。そう朱雀は説明した。
「なんつーかよ、コイビトとふたりで一応頑張ってやってるから、心配すんなって、言いてえんだ」
「いいと思うぜ」
 玄武はそう言って相好を崩した。その笑みに朱雀の胸はまた締めつけられる。これからふたりで積み上げていくはずのものには、まだ知らないことがたくさんある。明日、自分と玄武はまたあの事務所に働きに行き、女を乗せてどこかのホテルまで車を運転する。その女たちに自分は少しでも優しくできるだろうか。考えてから、脱童貞してすぐ態度を変えるのもダサいのではないかと朱雀は反省する。まあいずれバレるだろう、あの場所にいる人間はみんな勘が鋭い。思いながら指はおふくろ、とメールの文面を作り始める。
「紹介していいか、いつか。おふくろと、親父と、あと猫が一匹いるんだ」
「猫……」
 玄武が繰り返す。その眉は今まで見たことのない形に歪められていて、朱雀は少し驚く。
「だめか?」
「アレルギーがある……まあ、近寄らなきゃ平気だと思うが。大事な猫なんだろう」
「おう」
 猫も含めて、いつか会いたい、と玄武は言う。お前を産んでくれたご両親だから、受け入れてもらえるかはわからないが、大事にしたい。朱雀はその言葉を聞いて、スマートフォンを置くとマットレスに戻る。ほてりが引いた玄武の身体を抱きしめて、ゆっくりやろうぜ、と囁いた。玄武が頷いて、頭を朱雀に預ける。朱雀は玄武の髪を梳きながら思う。この男でよかった。
「玄武、明日、店長まだ怒ってるよな」
「ああ、どっちかはクビかもな」
「たぶんオレだろ。まあいいぜ、どっかまた、違う店に行く」
「そうだな。それで俺の家に帰ってこい」
「オレんちじゃダメかあ?」
「どっちでもいい……引っ越しも簡単だろ」
 そう言って玄武は笑う。朱雀も笑いながら答える。気が重いことはひとつもない、ふたりなら。
 朱雀は目を閉じる。静かな窓の外で夜を誰かが走る音が聞こえる、今日も、きっと明日もまた。
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