キッチンを同僚が掃除している。壁に貼られたタイルの目地をクレンザーをつけた歯ブラシで擦り、軽く水を流すと仕上げにメラミンスポンジで磨き上げる。続いてコンロに向かうと五徳を外して、べたついた周囲を濡らしたキッチンペーパーで丁寧に拭き取る。五徳を金タワシで洗って壁に立てかけて干す。それを自分は後ろから見ている。痩躯が屈み、薄い背中の線がゆるやかにアーチを描いて、シャツの裾がスラックスから抜け出そうになるのをベルトが留める。声をかけたくてもなにを言っていいかわからずに、朱雀はただ全身を震わせる。足の裏はじっとりと汗をかいていて、床と皮膚が溶けて一体化したように蒸して熱い。同僚は腕をまくると、今度はシンクの中を台布巾でぬぐって、わずかな曇りもなく磨き上げようと取りかかる。残った水滴を辿るように手を動かし、ステンレスの地肌を愛おしむように撫でる。蛇口を下から見上げる玄武の目はこちらからは見えないはずなのに、なぜか克明に朱雀の脳裏に浮かぶ。汚れを睨めつける目がそのまま朱雀を見る。レンズが何かの光に反射して虹色に見える。眦の粘膜が光って青白い白目が不自然に動き、灰色の瞳の中の瞳孔がぎらぎらと開く。薄い唇を舌が這う。朱雀。よく通る声が小さく細く囁く。朱雀、お前は俺と。
目覚まし時計代わりのアラームで目が覚める。夜の間にマットレスが体温を吸い取り、布団からはみ出た両手足は冷え切っている。朱雀は左手を伸ばすとスマートフォンの画面を適当にタップした。電子音が止まった六畳一間には、外のざわめきが波立って聞こえてくる。朱雀は頭をかきながら重い身体を起こす。
夢だ。玄武の夢を見た。朱雀は記憶を手繰り寄せてその像を形取ろうとする。なにか化け物じみた気配を持ったその輪郭は、確かに黒野玄武のものだった。頭をかきながら、カーテンから漏れる光で十分に明るい室内を見回す。四隅に埃の溜まった部屋には掃除機はないから、今日は箒をかけなければならない。朱雀は起き上がると寝具からシーツやら枕カバーやらを剥ぎ取って、湿気避けにマットレスを立てかける。クロゼットにしまっていた箒と塵取りを持ち出し、床のゴミを一切合切取り去った。それから着古したスウェットに着替えると、シーツと枕カバーと洗濯物をクリーニング屋でもらった不織布の馬鹿でかい袋に突っ込んで、その袋を背負い込んで部屋を出た。鍵をかけてアパートの郵便受けを見て、水道料金の通知をポケットにねじ込み、コインランドリーへ足を向かわせる。真昼の街は死んだように動きがなく、どこかの家から漏れ聞こえるワイドショーと鳥の鳴き声が奇妙に調和している。数本隣の道で学生らしき若い声が弾けるのを聞いてから、ふと朱雀は自分と彼らがそう年が変わらないことに思い当たる。
コインランドリーには先客はなく、日の射さない室内は湿気てカビ臭い。朱雀は一番奥のドラム式の洗濯機に持ち込んだ洗濯物をぶち込むと、財布から七〇〇円をほじくり出して投入する。ごんごんと大きな音を立てて回り始めた洗濯機をしばらく眺めてから、落ちていたマガジンを拾ってぱらぱらとめくる。ずいぶん長く読んでいなかったらしく、見知った漫画の半分が終わっている。朱雀はマガジンを備え付けの棚の上に置くと、コインランドリーを出てコンビニに移動した。ペプシとオニギリを二個とハンバーグスパゲティを買って、スパゲティは温めてもらいランドリーに戻る。麺を音を立てて啜りながらマガジンの続きを読む。野球とサッカー以外の漫画きは前後の話がわからないとどうにも筋が通らない。噛みしめたハンバーグは屑肉を固めた味がする。
洗濯機が唸りを止めたので中身を取り出して乾燥機に移す。一〇分二〇〇円。財布の中身が心もとなくなりはじめるが帰りに銀行によればいい。マガジンを読み終えてしばらくすると、シーツと洗濯物はフカフカに仕上がった。袋に詰めた洗濯物をまた背負って家に戻る途中で、店長から着信がある。
『紅井、悪いな。お前いま暇か? 鍵持ってるだろ。店行って開けてやってくんねえか』
「鍵だけっすか」
『開けるだけでいい』
「いま家なんで、四時くらいだったら」
『それでいい』
了解です、と告げて朱雀は通話を打ち切った。とりわけすることがない身で、店まで行くことは手間ではないし、恩を売っておけば来月の給料に少し色をつけてくれるはずだ。そこらへんの機微の細やかさはこの業界はしっかりしている。通りがかりのコンビニに昼飯のゴミを捨て、朱雀は失われた三日間ぶんの金のことを思い出して舌打ちする。
家に戻ると、少し傾き始めた日に照らされたマットレスも温まっている。足で蹴倒して取り出したシーツをふわりとかけて、枕をカバーの中に押し込む。袋のままの洗濯物を床に放り出す。服塚こそ作らないが、この暮らしをしていると、シャツ以外の洗濯物にはどうしても適当になる。スウェットを脱ぎ捨て、スーツに着替え、洗面所まで移動してネクタイを締める。鏡がないとどうにも格好がつかない。
事務所まではJRで一本だ。と言っても朱雀の家から駅までと、駅から事務所まではそれなりにある。通勤用の合皮のバッグに財布と携帯とティッシュと鍵が入っているのを確かめて、朱雀は革靴に足を突っ込んだ。
事務所の周りは繁華街だから、この時間には出勤する女たちが存外地味な格好でうろついている。朱雀はその間を縫うように走って事務所に向かう。鞄の中でペプシが揺れる音がして、しまったと思うが後の祭りだ。事務所のビルは人気がなくしんと静まり、昼の仕事のはずの三階のテナントももうカーテンが閉まっている。朱雀はエレベーターに駆け込み、四階のボタンを押してスマートフォンで時間を見る。四時十五分。店長との約束に少し遅れたがこれくらいなら問題はない。ドアが開いて雑然とした短い廊下を小走りで進む。鍵穴に鍵を入れて捻り、ノブに手をかける。がちん、と引っかかる感触があり、扉は朱雀の行動を拒んだ。もう一度鍵を差し込んで反対側に捻ると今度は開いた。誰かの締め忘れか。朱雀はそっとノブを握った手を引く。行きがかり上、部屋の中を見ないわけにはいかない。三和土に誰かの靴がある。見つけて一瞬悪寒が走る。泥棒もしくはガサ入れ。二択が脳裏をよぎる。足音を立てないようにそっと上がって廊下を進む。奥の女の部屋の扉が半開きになっている。朱雀はそっと扉を開く。
明白な精液の匂いが鼻を突いた。遅れて部屋の中の橙色の塊――窓からの夕日を受けて輝くブランケットの中から青褪めた肌が覗く。
「おまえ」
視界が明滅して喉が詰まる。目の前にいる男以外のすべてが霞んで網膜に像が結べない。何をしていた。何を、ここは店だ、事務所だ。玄武。
ブランケットの塊からなお白い肌が覗く。玄武のものではないしなやかな腕が、玄武の細い身体に巻きついて、ねだるようにしなだれる。見張った目の目頭が痛い。頭の冷静な部分が唇を噛み締めすぎているとシグナルを出す。それが痛みであることを朱雀は遅れて自覚する。素裸の上半身を晒した玄武は眉をしかめて、それからこちらが誰だか気づいたのか、伏し目がちの瞼をわずかに見開いた。レンズ越しではなく玄武の目を見るのは初めてだった。陽で鬢の毛がふわりとボケて、頬に柔らかく光が落ち、鋭い頬がつくる冷徹な印象が和らいでいる。一瞬迷子の子供のように戸惑った顔をした男は、しかしすぐにいつもの顔に戻り、慣れた手つきで女の肌を押しやるとベッドから降りる。その下半身がボクサーパンツに覆われているのを見て、朱雀はどこかで安堵しながら同時に憤る。玄武の身体は程よく引き締まって、着衣の時より余程しっかりして見え、潤った肌は夕日を受けてようやく血色よく映る。近寄った玄武が顔を寄せてきた瞬間、甘ったるい女の体臭と嗅ぎ慣れた精液の匂いがまた香って、朱雀は一歩後ろへよろめいた。その腕を掴んだ玄武の唇がごくかすかに動く。
「後で話す」
そう告げた灰色の双眸は夢の中のように濡れて光っていた。朱雀はとっさに掴まれた腕を跳ね除ける。玄武は宙ぶらりんになった手をわずかに開いてから握り「とにかく出て行け」と急かした。朱雀は大人しく身を引く。それしかできることがなかった。濃密に香る部屋から後ずさりして、震える手で精一杯静かに扉を閉めた。そのままフラフラと玄関へと向かう。フローリングの軋みがやけに大きく響いて、朱雀の脳の敏感な部分を刺激する。陽の光とシーツ、玄武のキメの整った皮膚が荒く見えるような女の柔い肌。そうだ、このシーンをどこかで見た。夢か。朱雀の胸郭の中で心臓が跳ねる。あの夢で、玄武は繊細な指で冷えた金属をなぞっては清めていた。その指が今は女の肌を慈んでいた。朱雀の知らないやり方で。一部始終を想像するのは簡単だ。見飽きたAVのように、玄武は女を愛撫して穴を潤ませてそこに突き入れて揺さぶっていかせた。動物じみた男優の動きに無理にあの澄ましたような顔をつけようとして、朱雀の頭がエラーを吐く。三和土で靴をつっかけてドアを開ける。あんなに生臭かった街の空気は今はやけに澄んだように感じられ、朱雀は段ボールを押しのけて階段にへたり込むと頭痛に圧されるように俯いた。
見たものが信じられなかった。想像したくなかったものがすべて雁首を揃えて眼前にあり、玄武は朱雀をすぐに認識すらせずに女を守って自分を追い出した。玄武の素肌に絡んでいた女の腕が思考を混乱させて、千切れた言葉が肺の中で渦を巻く。朱雀の頭の中では玄武が何度も女に口付けて優しくその身体を弄っていく。その先は想像もしたくなく、朱雀は地団駄を踏んでは髪をかき回した。
どれだけ時間が経ったかわからない。スマートフォンが着信で震え、朱雀は画面を狙いが定まらない指でタップした。発信者には店長の名前が表示されている。
『紅井かあ? もうすぐつきそうなんだけどよ、鍵開けたか?』
能天気な声が神経を逆だてる。あんたが頼まなきゃ、と怒鳴りつけそうになって踏みとどまる。逆恨みにすぎない。だいたい見たことをそのまま話すのは密告だ。自分が玄武にそんなことをしていいのか――最初に裏切ったのは玄武か。いや、そもそも裏切られたと相手を非難できるような関係性は二人の間にはなかった。だが。
「玄武が」
結局口をついて出たのはその一言だけだった。
『ああ、黒野が? ……ああ』意外に店長は落ち着いて言う。『悪い、すぐ行く。待ってろ。誰にも言うな』
「悪い、黒野のこと忘れててよ。お前に頼まなくたってよかったんだ、変なもの見せた、悪いな」
駆けつけた店長はそう言って、入るか、と朱雀を促した。まだ中にふたりがいる。抵抗はあったが、立ち話をして出勤途中のほかの女に聞かれるのも問題がある。朱雀はおとなしく後をついていく。店長はあの部屋をわざとらしく素通りすると、待機部屋に入って腰を下ろし、朱雀にソファを勧めた。
「ありゃあなあ、黒野に岡惚れしてんだ、マジなやつだ。黒野がいねえと働かねえ。ホスト狂いでコッチ来たのが、黒野にやるから二〇〇万貯めたってんだ。や、それはいいんだよ、とにかくウチは辞められちゃ困るんだ。だから黒野に頼んだ。ムリヤリじゃねえぜ、ムリヤリでチンコが勃つわけねえだろ。合意だよ合意、なあ?」
店長は焦りを隠すように饒舌で、朱雀はどう反応していいかもわからず、ぼんやりと頷いては自分の回らない頭を殴りつけたくなるのを堪える。
「一度店を辞めるっていうんで、黒野に一発やってくんねえかって頼んだらうまくいって、黒野のいる間はここにいてくれるって約束したんだよ。とにかくケチをつけてくれるなよ、黒野をやっとけばあの女はちゃんと稼いでナンバーに入るんだ。サービスだって悪くねえしリピート率も多い、わかるだろ」
なあ、と店長は言うだけ言って話を切り上げようとする。朱雀としてもこの場で何か言うべきとは思わないし、とにかくこの部屋から出ていきたかった。奥には玄武と女がいて、まだ何かをしているかもしれない、そう想像する自分が嫌でたまらない。
「……今日は、オレは休みなんで、帰ります」
「おう、おう、ゆっくり休めよ! 女なんかいくらでもいるんだからよ」
朱雀はそこで店長が何を勘違いしていたか気がつくが指摘する余裕はひとつもない。軽く頭を下げて部屋を出るとまっすぐ玄関に向かう。朱雀自身が蹴散らした靴が散乱している。なかでも一番大きなものが玄武の靴だ。拾って揃えようとして、脳裏にベッドから降り立った薄っぺらい日に焼けない足が浮かんだ。叩きつけるように靴を並べて朱雀は部屋を出る。夕方の空は茜色から濃い藍色に傾いて、その上を雲が明るく流れている。朱雀はちらりと宙に視線をやってからすぐに足元に落とす。砂利と埃と千切れた段ボールのかけらが、床を砂絵のように飾っている。さっき自分が座っていた階段だけが丸くコンクリートの素肌を晒していた。朱雀は遅ればせながら尻をはたいて、つかつかと大股でエレベーターまで数歩歩いた。そしてボタンを連打する。店長が乗りつけたままだったらしいエレベーターは、すぐに扉を開けて朱雀を迎え入れた。壁に貼られた絨毯のような毛織物はどのエレベーターでも同じ臭いがする。朱雀はそれすらも悪臭に感じながら、パネルの〈1〉を叩いてしゃがみこむ。目の前でガタガタと盛大に音がして扉が閉まった。乗った箱が一階につくまで、朱雀はずっとそうしてうずくまっていた。
慣れた街の不慣れな細い道を覚束ない足取りで歩く。もやのかかる頭はすべての思考を拒絶し、ただひたすら歩を進めろと体に命令する。右手の鞄の持ち手を強く握りしめた。切り損ねた爪が手のひらに食い込み、そこだけが正常に痛かった。パチパチと瞬いたネオンが点灯し、街が少しずつ人工の光に包まれていく。朱雀が歩くすぐ隣にしゃがみこんだ男が看板の明かりをつける。一時間三千円、指名料別、朱雀がぼうっとそれを見ているのに気づいたのか男は可愛いこばっかりだよ、と形ばかりに声をかけてきた。それを無視してまた歩く。どうしようもなく胃を突き上げるような吐き気と、それが生まれていること自体にショックを受けている自分がいた。
「ねー、お兄さん」
かけられた声に足を止めて振り向くと、薄手のドレスの上にウィンドブレーカーを着た女が立っている。すらりとした脚の綺麗な女だ。朱雀はそう思ってから値踏みするような自分の目線を恥じて俯く。
「お兄さんこれから仕事? 少しお話してかない?」
女はそう言って笑う。首に絡みつく黒髪の襟足に朱雀は何かを思い出しかけて、思考の深追いを止めるためだけに頷いた。財布に金がないと言うと、女は二時間五〇〇〇円でいいから下ろしてきてよと返してきた。朱雀は言いなりに頷いて手近のコンビニに向かう。一人で時間と感情を潰すことだけが嫌だった。二十八万の預金が二十七万になった。それにコンビニの時間外手数料が一〇八円。親とも友達とも連絡を絶った人間は、仕事と関わりのない人と話すのに金が要る。だが古い友達と連絡がついていたところで、玄武のことは打ち明けもしなかっただろうと思う。何を話していいかなんて朱雀にはわかっていないのだ。ただ玄武が女といたあの光景だけが視神経を冒して、朱雀の平衡感覚を狂わせている。
店には誰も客がいなかった。早い時間だから当たり前と言えば当たり前だが、朱雀にはこの手の店の常識がてんでわからなかった。朱雀を連れてきた女はウィンドブレーカーを脱いで黒服に手渡すと、朱雀の手を取って席に案内しようとした。わずかに脂の乗った手が指先に触れた瞬間、好ましくない記憶が頭をよぎって朱雀は反射的に腕ごとを引っ込めた。女はびっくりした表で朱雀の顔を眺めてから、あは、と気を切り替えるように笑い、おにーさんおいで、と手招きして店の一番奥のソファに腰掛けた。黒服がジロジロと眺めてくるなか、朱雀は後悔以外のすべての気持ちが消え失せたまま、その後をついていき、女の隣に座る。こんな距離に女がいるのは未だに慣れない。そう思いながら、朱雀は女に何を飲むか聞いた。それくらいの心得はあった。女はまた笑う。「お兄さん何飲むの」「ウーロン茶」「飲めないんだ。じゃああたしもジュースでいいや。伝票はお酒になるけど許してよ、五〇〇〇円は本当だから」そう言って女はボーイにグレープフルーツジュースとお茶ちょうだい。ヘルプの子はいらないから、と頼んで、わざとらしく脚を組み替えた。ドレスのスリットから太もも丈のストッキングを留めているガーターが覗いて朱雀は顔を背ける。また悪い目眩がして、うっすら頭痛がしはじめた額を手のひらで覆った。冷えた指輪がきんと差し込んでこめかみに響く。頭を上げて女を見ると、作り笑いを貼り付けた隙のない目でこちらを凝視してくる。見栄えの悪くない顔だった。店に入れば指名の入る顔だ。朱雀はこの女と夜を走る自分を想像する。どこかのホテルか安アパートに女を放り込んで、そこで身体を使って働かせた後に金を受け取ってまた事務所まで戻る自分を。そこまでは想像できてもその先は無理だった。女の体はどこまでもドレスで覆われていてあの――いや、思い出したくない。朱雀はセットした後頭部をまたかき回して女に言う。
「あんた好きにしろよ。オレは茶ぁ飲んで帰るからよ、疲れてんだろうから寝てろよ」
「お金もらってるんだからできるわけないじゃん。話聞くよ。自殺しようとしてたんでしょ?」
は。と朱雀が気の抜けた声を出すと、女はにやついた、それでいていやらしくはない笑顔を浮かべた。
「なんか死にそうな顔してたから、そのまま歩かせたら電車飛び込みそうでさ。あたし昼職もあるからそういうの許せないんだよね。人身事故はめっちゃ迷惑だからやめて、他のやり方にしてよ」
女が運ばれてきたグレープフルーツジュースを飲みながら自分の人を見る目の確かさについて語るのを、朱雀はいい加減うんざりした気持ちで眺める。ストローを噛み潰して啜るウーロン茶は市販のものよりさらに薄い。ついで運ばれてきたポッキーは湿気っていて、五〇〇〇円は完璧にドブだ。朱雀はやけになって、ポッキーに添えられていたカルパスを無闇に口に放り込む。うちの事務所だってもっとマシなものを揃えてる。そう口走ると女はこんなもん食べたくないから、あたしたちメチャメチャお酒飲んじゃうんだよね、とけらけら笑う。傾げた首から流れる黒髪に朱雀はまた嫌な気分がこみあげる。それが顔に出たのか、女は急に真摯な面持ちになって朱雀に向き合った。
「で、なんで死のうとしてたの?」
否定する気が失せた朱雀はなぜ死のうとしていたか思い出そうとする。確かに自分は今までにないくらいショックを受けて、死ぬという選択肢が考えられるなら選んでいたかもしれないくらいには落ち込んでいた。そうだ玄武だ。玄武が女といた。
「ダチ……が女とやってた」
「乱交?」
「バカ、違ぇ。そんなんしねえ奴だ。その……店の女だよ。あんただってそこのヤローとはやんねえし、店のやつにやんなって言われてんだろ」ボーイを指さすと女が頷くので朱雀は続ける。「オレはよ、そこのヤローみてえな……なんかそんな仕事してんだよ。ダチっつうか、そいつもその仕事だよ。だから店の女とはやっちゃいけねえんだ。それが決まりだし、決まりだから守るんだよ、フツーの大人は守るんだ。それがあいつ女とやってて、オレは見ちまった。しかも店でやりやがった。やった後を見たんだ。バカみてー、あいつパンツ一丁でオレのこと追い返しやがって、しかも店長がそれでいいって言いやがった。ルール違反だよ。女とやっちゃいけねーんだオレらは。でもあいつ、女に惚れられてて、それで仕事辞めさせねーためにあいつにやれって店長言いやがった。それをあの野郎、そんなことオレにはなんにも言わねえで、ひとりでよ。オレだって相談とかされたらなんかしたんだ、あいつはなんにも言わねえ」
言いながら違うと思う。自分は女とやることがルール違反だから女とやらないわけではないし、玄武だって店長にやれと言われたからやったわけではない。自分たちはもっとちゃんと意思がある生き物だ。だいたいケツ持ちがいなければ何もできない店長が、玄武に強制的に命令できるわけがない。せいぜいが言葉のとおり頼んだ程度なのだろう。それを受けて、あいつは女とやることが一番店のために、あるいは自分のためになるからと自分の頭で考えて、あくまで自主的に女と番った。だからなんのイイワケもなく、そうだ、玄武は後で話すと言った。その後とかいうやつは――一体いつくるのだ。朱雀が視線を持ち上げて虚空を見つめるのを女はつまらなさそうに眺めてから、そばに置いたポーチからグロスを取り出す。
「それさー、女の子もわかってるよね。仕事だって」
きっちりより少し多めに唇を塗り終えた女はそう口を開いてふてくされたような顔をした。
「だってやればわかるじゃん。嘘つきとエッチしてるときすごい寂しいじゃん。そんなのわかるよ、こういう仕事してるんでしょ、その子」こういう、のアクセントを強めに発音して、女は朱雀を正面から見据える。「わかんなかったらこういう仕事デキないからね。寂しくてもエッチしたかったんでしょ。あたしはそういうのわかるし、わかってて仕事でする野郎は最低だと思うけど、大事な友達なんだろーね。わかんねーな。わかんねーけど、でもあたしも最低な友達いるからなー」
わかんねー、とブツブツ言って、女はジュースのお代わりをボーイに頼む。朱雀も黙ってウーロン茶を手にして一口含む。喋りすぎた喉はいつまでも渇いていて、どうしたらあの扉を開ける前に戻れるのかわからない。
「あんたはそういうのしたことあんのか」
「仕事で? あるよ。あるに決まってるじゃん。ああでもそっか、仕事でするほうも、そりゃ少しは寂しいよね。やっぱりそういうのでやるの良くないよ。ちゃんと友達にも言いなよそれ」
女は朱雀から少し距離をとって座り直すと「フルーツ食べていい?」と聞いてきた。朱雀は追加でもう二〇〇〇円ほどを覚悟して頷く。女はやったと形だけ喜んでボーイにくだものー、と投げやりな声をかけた。しばらくしてりんごとキウイとオレンジが、灰皿のような分厚いガラスの器に盛られて運ばれてくる。食べなよと言われて朱雀はりんごをつまんだ。風邪をひいたときに食べたような、甘みの遠いざらついた味がした。
結局会計は五〇〇〇円ポッキリで済んだ。店を出る朱雀に女は死ぬなよー、と声をかけてさっさと中に引っ込んだ。黒服が扉を閉めて朱雀は店の前に取り残される。後ろでは誰かがはしゃぐ声と案内所から流れる古いJポップが流れている。朱雀は踵を返すと駅に向かった。この場所に残っていても何もいいことはなかったし、店の車と出くわすのはもっと嫌だった。そこに玄武とあの女が乗っていたらこんどこそ何をしてしまうかわからなかった。いまの自分の暴力性に自覚が持てるくらいには、頭が冷えていた。
やかましい歓楽街を抜けて駅前のパチンコ屋とそば屋を通り過ぎ、空になりかけた財布を改札に叩きつけると、ちょうどホームに滑り込んできた電車に乗る。夜が浅い電車は帰宅途中のサラリーマンで混み合っていた。朱雀の安いスーツと赤毛の取り合わせは悪目立ちするのか、周囲が隙間をとるように少しずつ身を引いて、おかげで誰かの背中に圧されることなく最寄り駅までたどりつけた。勤めている駅と同じようなチェーンのハンバーガー屋や蕎麦屋、パチンコ屋にスーパーを通り過ぎて、住宅街に入ったところで朱雀はやっと詰めていた息を吐いた。
いつから肺がこんなに苦しいかわからない。玄武のことを吐き出してもちっとも楽にはならなかった。胸のムカつきはいや増して、体の末端で血管がどくどくと音を立てて脈打っていた。晩飯を食う気にもならず朱雀はそのまま歩いていく。家まではまだだいぶあった。一歩歩くたびに夕陽にさらされていた玄武の体の端々が目にちらついて、夜の闇に白く浮かんだ。身の内から溢れる凶暴な気持ちはその印象を引き裂いてグシャグシャにしてやりたいと叫んでいた。仕立てのいいスーツに包まれた黒野玄武と今日出会った肌を晒した男がどうしても同一の存在だと思えず、だが自分を見つめた灰色の目は間違いなく黒野玄武以外の何者でもない。あんな目玉抉り出してやればよかった、そうしたら自分はこんなに苦しまなかった。朱雀は思いながらダラダラと道を歩いた。木の葉の擦れる音とどこかの家庭が話す賑やかな声、野良猫が争う叫び声、そういったものが鼓膜を揺らしては消えていった。はやく疲れ果てた体をシャワーで清めて、記憶ごと流してしまいたい。そう思いながら夜の街をひたすら家に向かった。
翌日、朱雀はごく機械的に起きて身支度を整えると、玄関に放り出したままだった鞄を拾って家を出た。駅に向かう途中で鞄に入れっぱなしだったスマートフォンが震える。画面を見ると店長からの着信だった。画面を叩いてからスマートフォンを耳に寄せる。はい、と驚くくらい乾いた声が出た。
『おう紅井、バックレねーな。偉いぞ。あのよ、三日ぶん戻しておいてやるからよ』
その言葉の続きがだいたい察せられて、朱雀ははいと遮るように返事をして、五時半までには着きます、と告げて一方的に通話を打ち切った。
昨日の夜、シャワーを浴びて布団に入って、自分は思ったより簡単に眠りについた。あるいは部屋のシーツや毛布があの光景を呼び起こすのではと恐れていたが、幸いにそんなことはなかった。思考を放棄した頭は睡眠を求め、身体が訴える運動不足の欲求の矛盾をどうにか収めて布団に潜り込んだ。あの不愉快な香りがシャンプーの清涼剤で打ち消され、懐かしさすら覚える自分の匂いにだけ包まれて、それから眠りに入るまではあっという間だった。
昨日と同じくらいの時間に昨日と同じ道を歩く。学生の声とテレビの音。鳥のさえずる声。今日は時折突風が吹いてそのたびに葉擦れが激しくざわめいた。昨日と同じスーツに違うシャツを着て同じネクタイを締めている。それなのにもう何もかもが違ってしまったように朱雀は感じている。望んでいたはずの変化は不意打ちで思わぬ方角から朱雀を殴打して、ささやかな玄武との時間を台無しにした。これから玄武と向き合うたびにあの瞬間が蘇るのかと思い、朱雀は待機部屋の狭さを考えて舌打ちをした。同僚を視界に入れないというのはどうやっても不可能だ。ましてやあの男は事務所をどうしたいのか、ことあるごとに部屋を抜け出しては台所や洗面所を磨いている。――そうだあの夢。朱雀は昨日の朝に手の中からすり抜けた夢をまた思い出す。玄武はこちらを見ずに掃除を続けていたが、確かに何か言っていた。それがなんだったのか思い出せず、朱雀はスラックスのポケットの中で手を強く握った。今更思い出しても不快になるだけかもしれないが、自分の頭があの男に何を喋らせたのか忘れてしまったのも癪だった。
むしゃくしゃした気持ちのまま朱雀は電車に乗る。この時間は座れるくらいにすいている。空いた席に腰を下ろすと、隣のオッサンが嫌そうな顔で開いていた脚を少しだけ狭めた。朱雀は構わずに鞄からペプシを取り出してそれから少し考えてまた戻した。昨日散々走ったり歩いたりして揺さぶったことを思い出したからだ。電車は反動をつけて動き出し、窓の外からは傾き始めた陽が差し込む。完全回復の通知がきていたシューティングゲームを起動すると、画面でキャラクターがふよふよ上下しはじめる。朱雀は手元で操作を繰り返しながら、頭ではぼんやり店長からの連絡を思い出す。バックレる。そんな発想すらなく、自分は店に向かおうとした。玄武に必ず会うとわかっていた。そこまで嫌ではないのかもしれない。そう思い込もうとして、またあの男の素肌が頭に浮かんで夕陽にハレーションを起こす。止まった指の先でキャラクターが撃墜されるのを、朱雀は焦点の合わない目で見る。あの品良く着込んだスーツの下の体が、女に触れられてねだられていった。こめかみからジンジンと頭痛が広がる。眉間に熱が溜まり口元がわななくのを朱雀は手のひらで覆って隠した。思考が玄武のことに傾くのを理性が必死に止める。忘れなくてはならない。思う合間にも、見ていないふたりの光景が立ち上がっては電車の床に溶け込むように霧散する。よほど凶暴な顔をしていたのか、隣のオッサンは慌てたように立ち上がってどこかへ消えていった。朱雀は俯いて荒れ始めた呼吸を整える。勝手に貧乏ゆすりを始めた膝を掴んで、苛立ちを身体の外に逃す。仕事だ。玄武も自分も、やっていることは同じだ。金をもらって働いている。そのやり方が少し違うだけでどうしてこんなに憤る。落ち着け。顔を上げると真正面の窓ガラスに、怒りを浮かべた表情が映っている。
感情をどう処理していいかわからないまま朱雀は電車を降りる。改札を通り過ぎる頃にはどうにかまともな顔が作れたのでそれを崩さないように、なるべく気を紛らして歩く。そば屋には季節の新商品が並び、パチンコの前ではポケットをひっくり返して小銭を探すオヤジがいる。裏路地を野良猫が走って女子高生の集団とすれ違う。いつも通りの道を朱雀は慎重に歩いていく。だから昨日行った店の前は通らなかった。あの女も今頃出勤して、暇な店で一日を過ごすはずだ。
事務所のビルの前で朱雀は深呼吸をした。肩の力を抜き、片手を何度か振って冷えていた指先に血を巡らせた。心の始末はついていなかったが仕事となれば自分は切り替えられる。そう思ってコンクリートの階段を上り、グシャグシャの足拭きマットを跨いでエレベーターのボタンを押した。昨日より立て付けが悪くなったような音がして扉が開いて、朱雀は一歩足を踏み入れる。身体を反転させると昨日もたれかかった壁に手をついて、大丈夫だと手を握りしめて〈4〉のボタンを親指で圧した。また音が立てて扉が閉まり、小さな箱は垂直に建物の中を上っていく。明るさと暗さが交互に覗き窓から射し込んだあと、エレベーターは四階に着く。朱雀は鞄を持ち替えると肩にかけて、ドアが開くのを待った。開いた先にはいつも通りにダンボールの山と、明日朝に出すのだろうゴミ袋がいくつか並んでいた。ゴミをまとめる殊勝なやつなどひとりしかいない。道を塞ぎかけていた袋を足で廊下の端に寄せた。そしてドアノブに手をかける。昨日と同じ感触で、扉はゆっくりと開く。
「朱雀」
目の前にいたのは一番会いたくない、予想通りの男だった。身体のどこかで感情が煮えたぎるのを感じながら、朱雀は今までになく丁寧に後ろ手で扉を閉めて、靴を脱ぎにかかる。革靴のかかとをかかとでズラして後ろに蹴ると靴が脱げる。それを繰り返して、扉の方へ振り向いて、靴を拾って三和土に揃える。いたく丁寧に靴を整えて上がりかまちに寄せ、それからゆっくり立ち上がる。その間、利発なはずの男は戸惑ったように廊下に立ちつくしていた。振り向くと玄武の丁寧に結われたネクタイのノットが目の前にある。その近さにまた苛立ち、朱雀は玄関に吐き捨てる。
「中入るからどけよ」
「……昨日の」
「どけよ」
玄武は唇をきゅっと引き結んで、それから朱雀に一歩近寄った。そのぶん朱雀は後ずさり、廊下の端からかかとを下ろして三和土に靴下で降りた。また玄武が近寄る。後ずさる。そうして朱雀の背中が扉にはりつき、玄武の足も三和土に降りた。靴下に包まれた平たい足が土埃にまみれて白くなる。それを見た朱雀の胸の内はなおぐらつく。視線を上げると目の前の男のいつものように平然としていない顔が視界に入り、琴線に触れては感情をかき乱した。頭の冷えたところだけが二度目の暴力はいけないと言う。だから間合いをこれ以上許したくはなかった。その嫌悪にも似た震えを出来うる限り顔に出して「寄るな」と言った瞬間、玄武は見たことがないような寂しそうな顔をした。それから眉間に力がこもり、きつく結ばれていた唇がうっすら開いた。
「朱雀」
聞いた瞬間、もう我慢ができなかった。朱雀は玄武の襟首を引っ掴むと、扉を開けて細い身体を引っ張り出し、インターホンのすぐそばの外壁に叩きつけた。
「言うなっつってんだよ」
吐き捨ててから自分はそんなことを一言も言わなかった、と気づく。だから目の前の男は戸惑った顔でこちらを見下ろしてくる。それが燗に触る。沸々とたぎる胸を落ち着かせたくて、朱雀は噛み締めた歯を緩め、その隙間から息を吐く。下から睨みあげると玄武の目が少しだけ見開かれ、またまぶたが伏せられて目元に影を落とす。それでも自わから外れない視線が、朱雀の言葉通りに口をつぐむ意思を伝えてくる。何もかもが癇に障る。とにかく傷つけてやりたいと朱雀の脳のどこかが喚き、自分の口が意思と別の器官のように動き出す。
「聞いたよ、店長から、オメーがなにしてっかよぉ」喋りながら、朱雀はとにかくこの男を黙らせたままにしておかなければならないと思う。口はその間も勝手に言葉を紡ぐ。「仕事だろ、別にいい、オレの知ったことじゃねえよ、おまえはそういうことも仕事にしてんだろ、オレがどうこういう話じゃねえ。ただよ」
人を罵るような言葉は知らない。なにかを糺すための言葉も随分前に捨ててしまった。朱雀は昨日からのことを思い出す。どうして自分はこんなにも怒っているのか答えが見つからない。ただ明滅するのは玄武の生白い身体で、それをとにかく脳裏から消し去りたかった。目の前の男は判決を待つように朱雀の瞳を見据えている。その灰色の双眸を歪めたくて仕方ない。
「二度とオレにあんなもん見せんじゃねえ、ヤローがやってるとこなんか見たくねえんだよ」
そう半ば叫ぶように告げて、掴みっぱなしだった玄武の襟首をつきはなしてやった。勢いで壁に叩きつけられた男は、身体を少しかがめて咽せて、朱雀の望んだように眉をしかめた。その姿を見てなお自分の怒りが消えていないことを知った朱雀は大きく舌打ちをする。その音に一瞬反応した玄武はすぐに落ち着いた顔に戻り、喉元に手をやる。乱れた襟を撫で付けてネクタイを整える、その指先は青褪めたように白かった。
「悪かった。気をつける」
玄武の唇はゆっくり動いてそう告げた。
玄武は朱雀が言葉を継げないのを見て、謝るように少し頭を下げると部屋の中へ入っていった。朱雀はしばらくドアの前で立ち尽くして動かなかった。ねじり上げたシャツの下の玄武の身体は、心もとないくらいに細かった。手の甲で触れたその感触からは毎日向き合って食ったコメは玄武の体に何ももたらなさなかったのではという漠然とした不安すら感じられた。右手を振って感覚を逃がそうとしたが、鎖骨の硬さと肋骨の間の薄い皮膚の触感は、離れてはくれなかった。
顔を上げるといつもの通りの薄汚い事務所の扉が、朱雀を拒むように閉じられている、慣れないキャバクラにまで行って喚いたのに、結局自分は言いたいことはなにも形にできず、玄武にも告げられなかった気がしてならない。そしてあの男もなにも言わなかった。いや、反論か説明か、なにか言おうとしていたことを自分が封じたのだ。胸の中の言葉を手懐けられない自分と違って玄武は頭がいいから、昨日から今日までの間にきっと反駁を用意していたに違いなかった。でもそんなことは自分の知りたいことではない、そうに違いないと朱雀は己を納得させる。中身がどうであれ、聞いてしまえばさらに怒りが激化するだけということは確信していた。だから自分のとった方法を正当化するしかない。その態度を玄武にどう思われようと、仮に嫌われようと、あの声でことの一部始終を聞いてしまうより幾わかマシだった。聞いてしまえばすべてが固定されて永遠にそのままのような気がした。
そうして朱雀ははたと営業時間の始まりが近いだろうことに気づく。玄武を壁に叩きつけたときに手から離れた鞄を拾って、中身を確かめる。スマートフォンの画面はさいわい無事で、そろそろ店長が出勤してくる時間が表示されている。仕方なくドアノブに手をかける。あの狭い部屋には確実に玄武がいる。よくできた男だからきっと素知らぬ顔をして、本でも読んで時間を殺しているはずだ。朱雀は靴を脱ぎながら玄関をくぐる。背中でがちゃんと扉が閉まる音がして、視界が一気に暗くなった。
案の定玄武は待機部屋の入口のすぐ脇に椅子を据えて文庫本を読んでいた。駅前のレディコミと週刊誌だけが充実している本屋の紙カバーがかかっている。朱雀はその脇をごく慎重に、かつ他の誰かにその素振りを気づかれないように通り過ぎて、いつも陣取っているコンセント脇に腰を下ろす。スマートフォンに充電プラグを突き刺して、マルチタスクから電車の中でやっていたゲームを呼び戻す。起動画面ごしにそっと玄武を見ると、なにごともなかったかのような顔で紙面に目を落としている。その横顔を夕焼けが杏色に照らし出していた。視線は一定のスピードで上下に動き、たまにまばたきをしてはその間に時間を惜しむようにページをめくる。朱雀は覗き見をしているような気分になってそっと目を伏せた。
頭が冷えてみれば玄武を怒鳴りつけたのは明らかに八つ当たりでしかなかった。玄武が何をしていようと、朱雀の言葉通りに玄武の勝手でしかなく、たまたま目撃したことについても、不用意にノックもせずにドアを開けた自分に瑕疵がないとは言えない。ましてや店の主に許可を取っていたらしいから、これは朱雀が一〇〇パーセントとは言わないまでも七〇パーセントくらいは悪かったのかもしれない。思いながらまた視線を上げると、玄武は先ほどと寸分変わらない姿勢でいる。横顔でいてくれてありがたい、と朱雀は押し殺すように呼吸する。真正面からあの顔を見ると、どうしてもあの部屋で見てしまった途方にくれた子供のような表情を思い出す。それからさっき見たやたら悲しげな顔も。
しばらくして店長が部屋に顔を出し、玄武を指名して女を送りに行かせて、実質的な今日の営業が始まった。玄武が今日送る女はあの日の女とは別で、朱雀は内心ホッとする。一人の同僚から遅れると連絡があり、部屋には朱雀とヨシイだけが残る。玄武がいなくなったことで少しだけ心が軽くなる一方で、この男と二人きりになるのもそれなりに嫌だった。朱雀は誰かが部屋の真ん中に放り投げた週プレを拾ってページをめくる。また女と金と政治の話だ。グラビアの女は嬉しそうに肌を晒している。笑顔を作る女のどの肌も昨日見た玄武のものより艶がなく見えて、朱雀は頭を振る。比べるべきでないものを比べている自覚があった。一方で玄武の身体は風呂付のアパートに住んでいる朱雀にとって、あるいは高校の体育ぶりに見た他人の生の素肌だった。そうだそのせいだ。朱雀はグラビアのページをめくりながら、プロがつくる笑顔を漠然と眺める。そんなものより店の女が笑う方がまだ価値がある。そして。朱雀はその考えを追うことを自分に禁じる。ヨシイは朱雀に殴られたのが堪えたのかこちらに背を向けてスマートフォンをいじくっている。その背中が、まだ自分に正義を実行する気があったころに伸していたやつらの姿勢によく似ていて、朱雀は眉間のシワを深めた。
やがて常連客から指名が入り、店長はしばらく迷ってから朱雀を運転させることにした。いつものケツを弄られたいオッサンといつもの女の一二〇分コースだ。店長が女に持ち物を確認させている間に、朱雀は駐車場からミニバンを出して事務所の前につける。この時間はまだ取り締まりもほとんどいないので一度車から降りてもいいが、今日は車で女を待つことにした。朱雀は運転席に座ったまま、クラクションを鳴らさないように気をつけながらハンドルにもたれる。いつものバンの座り心地はいつも通りでそれが朱雀をやけに安心させる。バックミラーに映るシートには、女たちが身繕いをするための鏡や誰かが置き残した化粧品、仮眠を促す小さなクッション、それに朱雀には全く用途がわからないフワフワしたファーが無造作に並んでいて、どれも今日の女が気に食わなければ足元に捨て去られる運命にあった。
朱雀はついとそれらから目を逸らして玄関を伺うが、女はまだ降りてこない。指定のホテルまではどれだけダラダラ運転しても間に合う時間だからまあいい。途中でコンビニに寄って飯が買えたらなおいいが、そうでなければ現地の弁当屋でほとんど衣でできたフライを食う羽目になる。頭の中でいくつかのルートを組み立てながら、朱雀は先程玄武が一八〇分コースの送迎に行ったことをぼんやり思い出す。帰りがぶつからないだろうか。ただでさえ女同士が仕事帰りにぶつかると、どっちが先にエレベーターに乗るだ、店長に金を渡すだ、そういう順位づけめいた面倒が待っている。ましてや朱雀はなるたけ玄武とは――女と一緒の玄武とは、顔を合わせたくない。あの光景を見てから、どの女と玄武がやっているのか疑心暗鬼で心は苛まれるばかりだ。今日送る女だってどうだかしれなかった。なにせ、それは仕事なのだから。
「お待たせ」気だるげな声とともに後部座席の扉が開いて女が乗り込んでくる。どかりと腰掛けてやたらと白いストッキングの脚を組むと、尻に敷きかけた鏡を拾って化粧を確かめる。その様子を朱雀はバックミラーで確認してからエンジンをかける。型落ちのミニバンはわずかに震えて、アクセルを踏むとのろのろと動き出した。女は振動に負けずに小さな鞄から小さなアイシャドウのパッケージを取り出して、目元にラメの入った粉を重ねてその指を座席で拭う。
「あのよ」言ってから朱雀は何故自分が言葉を発したのかふしぎに思った。自わから女に話しかけることなどほとんどなかったからだ。「あのよぉ、指、そこで拭くなよ」とりあえず気がついたことを言うと女はごめんねーと心のこもらない返事をして、ドアポケットに突っ込まれているティッシュで指をこすりつけたあたりを拭いた。
「おまえ、玄武の車乗ったことあるか」
「げんぶ? げんぶって黒野? あるよ、あるに決まってんじゃん。ていうかうちの店運転手少なすぎくない? デリなんだからピザ屋くらいいてもいいのにさー」
「ピザは知らねえけどよ、玄武、どうなんだ」
「は? どうってなにが?」
女が聞き返してきたことを朱雀も自分に問いたかった。なにが聞きたいのだ自分は。
「その、サービスっつうか、送ってるときよお、どんなふうに……、いや、なんつうかコーガクのためだよ、そんな顔すんな」バックミラーの中で女はマンガみたいにはっきりと、驚愕の表情で口を開けている。「あいつが一番店長に呼ばれてっからよお、歩合じゃねえけど、気になるじゃねえか」
朱雀の適当な方便に女は合点したような顔をして唇を尖らせながら記憶をたどろうとする。束の間の静寂のなかで朱雀は自分の心臓がどくどくと大きな音を立てて脈打つのを聞く。道は街を離れて広い国道になり、周りの車は制限速度など気にせずに飛ばしている。朱雀もアクセルを踏んで流れに乗る。まだヘッドライトをつけずに走る車がいる頃だ。気をつけないとならない。そう思いながら、朱雀の意識は女の言葉に向いている。
「黒野は丁寧だよねー、なんかみんなそう言ってる。几帳面っていうの? 金とかも紅井は店で渡せばいいけど黒野は毎回確認するし、あとさっきみたいに指拭くと怒る」
「指は俺も怒っただろ」
「いやあいつマジで綺麗好きでしょ、見たことあるっしょ掃除してんの。あたしよその店もいくつかいたけどさ、トイレこんなに綺麗なのここくらいだって。きたねーんだから女ばっかだと」
おおよその推測がついた朱雀が露骨に顔をしかめると女は笑って小さな鞄からスマートフォンと飴を取り出し、その包装を破ってヌメヌメしたグロスに覆われた唇の間に放り込む。
「紅井はこーやって適当に話せるけど黒野は無理だよね、なんか全部店長にバラしそうだし冗談とか通じない感じする。ヤバイやつだって話あんのあれマジなの?」
「カタギっぽくはねえわな」
「消えた子とかマジで黒野のせいだって話あんだけど、ぶっちゃけどうなん? アッチだったらめっちゃ嫌じゃん」
女は子供がやるようにぷうと両頬を膨らませた。
「……人は殺さねえんじゃねーか、あいつは」朱雀は玄武に対して思っていたぼんやりした印象をしゃべりながらかたちどる。「わかんねえけどよ、カタギじゃねーけどよ、ヤクザでもねえよ多分」
そうだ、あの男はカタギではない。それは明らかだ。朱雀の直観は間違っていない。でもここにいる人間のだれもがもはやカタギと言い切れるような身綺麗な身分ではない。陽の当たる場所を歩くのに躊躇いと衒いがある。日が暮れるとホッとして巣から這い出し、夜を時間を殺すように耐えて過ごしてまた朝に眠る。玄武も同じようにあの仕事をしているとしたら――と考えてから、それが非常に好意的な解釈だと脳の冷静な部分がアラートを出すのを他所に退ける。話は玄武がヤクザかどうかだ。玄武は――朱雀の触れた玄武は、ただの腹の据わった野郎だった。判断するには材料が足りない。ただ理屈ではない部分が、あんな寂しそうな顔をするヤクザがいてたまるかと言っていた。ハンドルを回して幹線道路から横道にそれながら、朱雀は女に向けて必死に言葉をつなぐ。自分の喋る言葉が黒野玄武にたどりつく唯一の手がかりのような気がしてならなかった。
「オレらと変わんねーよ、たぶん。あいつは飯、炊くのうめえし」
「なにそれ。ごはん一緒してんの?」
「何回か食った。速炊きモードが嫌いだっつってた」
「へー、黒野、メシとか食べるんだ」
「食うよ。焼き鳥も食うしローストビーフも食うし、唐揚げも食う。あとこないだごぼうサラダ食ってた」
なにそれウケる、と女は本気で笑い出して、朱雀も苦笑いに近い顔で笑った。笑うしかなかった。いま、朱雀は知っている黒野玄武のことをほとんど全部話した。黙っているのは女とのことだけだ。それ以外の、玄武の私生活も目的も過去も朱雀はなにも知らない。あの女の他にちゃんとした彼女がいて子供のひとりやふたりいたとしても知る由もない。それでどうして自分がこんなに怒るのか、わけがわからなくて、情けなかった。夜は浅く、これから二時間、女は働いて朱雀は待つ。その間にまた自分は玄武のことを考えるのだろうと思って、朱雀は笑い続けながら少しだけブレーキを踏んで速度を落とした。
道路は空いていて時間の三〇分前にホテルの近場に着いた。女がツタヤに寄ってDVDを借りたいと言い出す。グーグルマップで探すと幸いすぐ近くにあった。チェーン店はだいたいなんでも街道沿いにあるものだ。車を回して駐車場にバンを停めると、女はさっと降りて店内に駆け込む。朱雀はその背中を見ながら、こうやってどこかに消える女もいるのだろうと考える。あるいは女が店から出てきたときに自分が失踪していてもいい。
周りは空き地か畑かしれないだだ広い平面で、ツタヤの看板の電飾だけが街と変わらない顔をして立っている。朱雀は昨日から十分に揺らされたペプシのペットボトルを持って車を降りた。駐車場の隅のくらがりにしゃがみこんで、ボトルから十分に距離を取り、そっと蓋を捻る。案の定甘い香りの泡が勢いよく吹き出して革靴のつま先を濡らした。しゅわしゅわと炭酸がはじけて雑草を潤しては消えていく。朱雀は泡が収まるまでしばらくそのままの体勢でいて、ボトルを伝う雫の勢いがなくなったところで立ち上がった。その下には犬が小便をしたような大きさの水たまりができていた。斜め上から見るペプシはもう半分しか残っておらず、べとべとのボトルを回収する気もしない。朱雀はもう一度しゃがんでボトルの蓋を申し訳程度に閉めると、車止めのすぐ脇にペプシをずらして据えた。誰かが花でも添えてくれればいいと思った。
ことを終えた朱雀が運転席に戻るのと、女が店から出てきたのがほぼ同時だった。女はふわふわの上着を肩肌脱ぎにしてツタヤの不織布のバッグを座席に抛る。何を借りたか聞くと、女は『天使にラブソングを』だと答えた。
「見たことねえ」
「見なくていいよ。あたしも一〇回目くらいだけど、毎回見なくてよかったなーって思うし」
それでどうして金を払って借りるのか朱雀にはわからなかったが、見ていない映画を批判する気も女と論戦を繰り広げる気も起きずにエンジンをかける。待ち合わせの時間まで一〇分と少しあり、ツタヤからホテルまでは五分もかからない。出発するか悩んだが時間をつぶすために女と会話を続ける気も起きず、結局アクセルを緩慢に踏んで、歩くようなスピードで車を転がした。女は最後の仕上げにまつげの調子を整えると、ホテルの目の前でぽいと手鏡を足元に放り投げた。朱雀は振り向いてそれを拾って後部座席に戻しておく。
ホテルで女を見送って、いつものコンビニの駐車場に車を停めて、送り届けた証拠に事務所に電話を入れる。店長が出て、一二〇分の予定が一八〇分になったことを告げてきた。女には別にメールを入れたという。あいつメール見てなかったっすよと返すが、延長はあの客の常だから女の方も承知しているとは思う。店長も同じようなことをぼそぼそと不明瞭に告げて電話は切れた。都合三時間の暇ができたが事務所に帰るつもりはなかった。朱雀はホテルの駐車場で車を降りると街道に向かって歩き出す。
今日は風もなくあたりはしんとしずまっていて、藍色の夕暮れにまだうっすらと建物の影が見えた。どれだけ歩みを進めても景色は変化のないままで、事務所の周りの繁雑な風景とはまるで逆だ。街道の向こうにポツンと弁当屋の灯りが見える。朱雀はいつだかのようにその光を目指して、羽虫のようにふらふらと歩く。自分の呼吸のペースが少しずつ上がるのを他人事のように思いながら、朱雀は前に向かった。足元のアスファルトは何度も何度も敷き直したのだろう、がたがたに食い違って微妙な色調階差を夜の中に演出する。たまに段差に爪先が引っかかり転びかける。立ち直っては遠くを見る。闇は徐々に夕暮れを侵食して、周囲の景色に朱雀の黒いスーツを溶け込ませていく。空には月もなく街灯が無作法にところどころを照らしていた。朱雀はひたすらに歩いて、歩き続けて弁当屋の前を通り過ぎた。店員が不思議そうにこちらを見るが、腹は減っていなかったし、今更義務のように何かを胃に収める気もなかった。今度こそ何の目印もなくなった街道を朱雀は、のろのろと歩き進めた。
そのうち歩道のアスファルトはますます荒れはじめて、ひび割れからは雑草が伸び放題に生えはじめる。かまわず踏みにじると、ふわりと夜露が降りたような匂いがした。街のものとは違う清潔な夜の匂いだ。一台の車が朱雀の脇を通り過ぎて脇道に逸れ、テールライトが彼方へ消えていった。朱雀は歩くのに疲れて振り返る。さっきは気づかなかった家々が四角い窓の灯りとなって朱雀の視界に広がった。その光が暗闇に慣れた網膜に染みつきそうで、ぎゅっと目を閉じる。今度こそ真っ暗になった世界のどこか遠くで、テレビのバラエティの音が漏れ聞こえた。それから聞こえるはずのない子供の声と食器がガチャガチャと鳴る音、そのうえで料理がじゅうじゅういいながら湯気を立てる。いまもこの狭い街道沿いのどこかの家では誰かが夕餉をとり、誰かが風呂に入って、誰かは明日のために眠っている。ひとが毎日を建設的につくりあげている。朱雀の暮らしはそのどこにも属していない。
俯いて足を止めた。無性に胸がむかついて、朱雀は路肩にうずくまって何度か咳き込んだ。勢いで膝をつくと小石が布越しにいくつも膝に食い込んだ。その刺激が合図だったかのように胃液がこみあがり、食道を焼いて舌を伝い滴り落ちる。郷愁に似た切なさに喉元が痛んで、また胃が痙攣する。ろくに食っていなかったから固形物は何もなかった。胃液と唾液が混ざった液体だけがコンクリートのブロックにぼたぼたと落ちて丸くしみになった。朱雀はげえげえと音を立てて、胸と腹の奥にあるものを全部吐いた。吐きながら出した涙と鼻水で、地に落ちる水分はもうどれがどれだか区別がつかなくなっていた。朱雀は声を出して咽び泣いていた。何も悲しくはなかったし痛いところもなかった。ただ懐かしく、無性に愛しく、苦しいくらいに離れてしまった時間を思った。自分は、いつか失ってしまったものを、あの男と一緒にたしかに取り戻していた。そして今また自分は同じように捨てかけている。生活だ。生きている日々を積み重ねてどこかへ行けると思う、ぼんやりとでも考えられる明日のことだ。まだ拾い直せるのか、ぼろぼろと目玉からこぼれ落ちる涙を袖で拭って朱雀は考える。口からはまだしゃくりあげるような嗚咽が溢れて止まらない。ガキのようだと思う。いやガキなのだ、まだ自分は、大人になんかひとつもなっていない。
気がつくと立ち上がり走り出していた。弁当屋の前を通り過ぎてまた暗い道を駆ける。濡れた顔面に風が当たってひやりとするその感覚に、まだ保育園にも通っていなかったころに、坂道かなにかですっ転んで、号泣しながら家に帰った記憶がよみがえった。朱雀はそのまま車を停めたコンビニに駆け込んで、ギャツビーのデオドラントシートとハンカチとティッシュとペプシとあんパンを買った。店員のじいさんは朱雀のぐしょ濡れの顔に少し驚いていたようだが、黙って釣銭と、それからレジ脇にあったオシボリを渡してくれた。車に戻ってオシボリで顔の下半分を拭き、あんパンをかじりながら顔の上半分を拭いて、飲み込んでから鼻をかんだ。デオドラントシートを取り出して今度は口元を入念に拭いた。顎の下から首元、襟足とぐるりとシートで拭うと清涼感がいきわたる。座席をリクライニングさせて程よい角度に固定して、寝そべると冷たいペプシのボトルを倒して目元に載せた。キンとした温度が目の神経から脳に届く。ああ、と溜息が唇から零れ落ちた。
はやく、帰らなければ。
街から流れてくるヘッドライトを対向車線に見ながら朱雀はとにかく飛ばした。後部座席に女がいない車は思った以上に軽いのに、気が急くわりに道はちっとも進まない。戻り着くまでに二〇分はかかる。追い越し車線でアクセルを踏みながら、朱雀は玄武に何を言えばいいのかを考える。今度は自分が時間を用意された側だった。沸き立った怒りの原因はまだなんなのかわからないが、とにかくあの男との時間をなくしてはならないと心が言っている。黒野玄武。名前と顔しか知らない。その男がもつ日向のような温もりとすこし湿った空気の匂い。暗い押入れの中から見た部屋の空気に舞う塵のきらめき。漂白された食器の塩素の香り。紙皿のざらついた感触とその上に艶々の白米をよそおうとする細い腕。白い指。記憶のはしばしに出てくる玄武の姿があのとき見た生白い身体にすり替わりそうになるのを押しとどめ、朱雀は垂れかけの鼻水をすする。ハンドルを握る手は離せない。意思のとおりにひたすらまっすぐに行かなければ、また道を間違えてしまうような予感があった。とにかくこの夜中にたどり着かなければならない。横目でぐしゃぐしゃに丸まったデオドラントシートを見て、目線を前の車輌に戻す。朱いテールランプがすこし遠ざかり、朱雀はまたアクセルを踏んだ。
ようやく街について、狭い道をぐるぐるとハンドルを回しながら進む。夜になると通れなくなる道を迂回して、たどりついた月極駐車場に車を停めて走り出す。疲弊した右足の小指が擦れて、じんじんと熱を持ち始める。歩き慣れた道を涙目で駆けると、店々の看板の光が帯のように見えることを朱雀は初めて知った。すれ違う夜職の人間たちが、全速力の朱雀を不思議そうに眺めてくるのを構わずに走る。朱雀だって、この街で泣いている女や怒鳴っている男を見ては知らないふりをしてきた。だからみんな、何を見ても今だけしか気にしやしないことをわかっている。そういう風に生きるようにしてきた。そうやって心をなまくらにして生きさえすれば、もうこれ以上嫌な大人になりはしないと信じていた。だがあの男は黙って朱雀の前に現れて、深く深く小さな傷をつけた。そこから顔を背けることこそ朱雀の一番嫌うことだったことを、思い出させた。
ビルの入り口の階段を三段飛ばしでのぼり、エレベーターのボタンを押してから、待ちきれずに階段を駆け上る。接触が怪しい蛍光灯の下で、靴が階段を叩くたびに土埃が舞って、視界の隅が白くぼける。二階と三階の間の踊り場にビールケースが積まれていたのを蹴散らしたので、背後でけたたましい音が鳴った。無視して三段飛ばしを続ける。走ることとご無沙汰だった胸が張り裂けるように痛んで酸素を求めた。口で思い切り息を吸って吐く。学校で習った正しいマラソンの走り方は、泣いた後では実行できない。
そうしてたどりついた事務所の扉に飛びついて、朱雀は鍵穴に鍵を突き刺してドアノブをひねった。あっけなく開いた扉の奥には誰もいない。上がった息を抑えて静かに扉を閉める。ひりひりと足の小指が痛むのを感じながら靴を脱ごうとして、うまく脱げずに後ろに蹴り上げると、すっぽ抜けた靴が扉にぶつかって廊下へと跳ねた。部屋の奥で女たちが息をひそめるのをなんとなく感じ取りながら、朱雀はのしのしと廊下を進んで待機部屋へと向かう。ばたんとドアを開けた向こうにはたして玄武はいた。朱雀が戻ったことには気づいているだろうに、口を引きむすんで、ページから視線を上げずにじっと本を読み進めている。鋭い横顔にメガネのテンプルが細い影を落とす。部屋の入り口で動かない朱雀を不審げに眺めるヨシイが視界の端にいる。
「おう、紅井じゃねえか、うるせえぞ」
背後で女の部屋から出てきた店長の陽気な声がする。ヨシイがそちらに体を向けるのが見えた。その動きに押されるように朱雀は口を開く。
「玄武」
男はちらりと視線をこちらに向ける。伏し目がちの灰色の瞳がきゅっと朱雀を捉えて、数秒間、建前のように集中してまた逸れた。その視線がページに戻る前にと朱雀は言葉を繋ぐ。
「悪かった」
去りかけた瞳がまた朱雀を見据える。口元が珍しく柔らかく緩んで、は、と吐息のような問いかけが聞こえた。
「八つ当たりだ、悪りぃ、その……」
道々考えてきた。なぜ自分があんなに不快に思って怒ったのか。同僚の濡れ場を見てしまったことに裏切られたと感じているのか。玄武だけは自分と同じく清廉だと思い込んでいた、だけではないと直感が叫んでいる。その正体を突き止めるまでにはまだ時間がかかるだろう。だがとにかく今繋いだ縁を切りたくはなかった。黒野玄武が今の自分の生活から失われると想像しただけで耳の中が痛んで息が浅くなる。前のような会話もしない同僚に戻れる気がしなかった。もっと一緒に――メシを食うでもいい、雑誌の回し読みでもいい、なんなら掃除を手伝ってもいい。そういうことをもっとずっと長く、積み重ねるようにしていたかった。
「嫌なことがあって、おまえに当たった。だからてめーはなんにも悪くねえ」
玄武は驚いたような腑抜けたような奇妙な顔つきで朱雀を見返してくる。絡みつくようなその視線に抗うべく朱雀は灰色の瞳をひとにらみすると、深々と頭を下げた。
「本当に悪かった、すまねえ」
ざっと耳元で血の流れる音がする。朱雀はきっかり五秒を腰を折ったまま数えて、それから頭を上げた。目の前の玄武はまだ腑抜けた顔をしていて、朱雀の視線に気づいてああ、と呻くように返事をした。朱雀はその身体を遠慮なしに眺める。後ろへ撫で付けた髪は清潔な艶があり、肉のない額から鼻梁へと鋭い線が流れる。わずかに開いた唇はかすかにひび割れていて、顎には剃り残しは一本もない。一番上まで閉じられたシャツと首元まで結びあげたネクタイはいつものように質の良いものだ。細い手首がシャツの袖から覗いていて、手元の文庫本は萎れたように下を向いている。朱雀は視線を灰色の瞳に戻す。灯りに照らされた虹彩は青にも緑にも見える。黒野玄武。朱雀は今日初めて同僚を正面から眺めて、その変わらない姿に安堵した。
「んじゃ、オレ戻っから。店長、騒いですんませんでした」
おう、と店長の慌てて正気に戻った声が聞こえる。朱雀はヨシイにも一応目で謝って、そのまま廊下に出ようとした。と背後から声がかかった。
「待て」
振り向くと玄武は本を片手に立ち上がって、さっきの表情はまるでなかったような顔つきをして立っている。シーリングライトの光が輪郭をぼんやり照らして玄武の細い首筋がよく映える。朱雀は小首を傾げて玄武の言葉を待った。
「……それだけ言いにきたのか、お前」
「あ? あー、そーなんなぁ」
朱雀が頷くと玄武は眉根を寄せて、何か言おうとして口元を動かした。言葉が探せなかったらしく、その瞳はくりくりとよく動いて最終的に朱雀の脇の壁に流れた。続く台詞がないことを確認した朱雀は、廊下に落っこちた靴の片方を拾って玄関に向かう。
「朱雀」
後ろからぱたぱたと靴下が床を叩く音がして、慣れた低い声が追ってくる。落ち着いた声色のどこかにまだ動揺が隠れていて、いつもと少しだけ響きが違う。それがわかるのが嬉しい。ん、と返すと玄武は少し言い淀んで、一呼吸おいた。
「その、気をつけて行ってこい」
「おー。あ」三和土に靴を落とすとばふ、と土煙が立った。この間の玄武の土埃にまみれた靴下が脳裏によみがえった。あれはどうしたのだろうと思いながら、帰ったら掃除するかと考えて肩ごしに振り返る。「なんか買ってくっから、飯、炊いといてくれよ。腹減ってんだ」
「……わかった」
玄武はようやくはっきりと、朱雀にもそれとわかるように微笑んだ。
また三〇分車を走らせて、コンビニの駐車場に突っ込むように車を停める。先ほどと同じじいさんが品出しをしていたので、朱雀は今度は意気揚々と唐揚げ棒とフライドチキンとレンコンサラダと十六茶を買った。老人はさっき涙と鼻水まみれでレジに並んだ男と同じ人間だと気づいたのかどうかしらないが、サラダとホットスナックを同じ袋に入れてよこした。
車に乗ると助手席にコンビニ袋を放り投げて、中からサラダを避難させる。ペプシのキャップをひねって半分ほどを一気に飲んだ。胸に溜まった空気をげふ、と吐いてホルダーにペットボトルを投げ入れる。それから携帯を見ると放っておいたゲームのスタミナ回復通知が来ていた。それを消しながら朱雀は今度玄武の連絡先を聞こう、と思い立つ。メールでもラインでもいい。沈鬱な空気に絞め殺されそうなときに、あの男になにか打ち明ける手段が欲しいと思った。それに応えてくれるだろうという妙な信頼が胸の中に生まれていた。
しばらくして女が車に戻ってきた。後部座席に乗り込んで窓際にカバンを投げると、はいと朱雀に取り分の万札を寄越した。形ばかり枚数を数えて手提げ金庫にしまう。茶を渡して出していいかと聞くと女は頷いてそれから不思議そうな顔をした。
「なんか紅井ゴキゲンじゃん?」
「おう。バカは悩んでもしゃーねえからよ」
「あーわかる、しゃーねえよな、うちらみたいなバカは」
「おう」
女は訳知り顔で頷いて、朱雀が車をバックさせてハンドルを切り、Uターンさせるあいだに、がまぐちのカバンをパチンと開けると中からクレンジングシートを取り出した。崩れた目元をぬぐいながら鼻をひくつかせる。
「ところでめっちゃいい匂いすんだけど」
「オレの晩飯だから食うなよ!」
女はなんだよ、と笑って真っ黒になったクレンジングシートを朱雀に投げつけた。