後部座席の女は派手にデコレーションされたアイマスクをつけて寝こけている。バックミラーにちらちらと映る白い太腿が緩く開いていることを朱雀は苛立たしく思い、視線を逸らす。携帯をつないであるインカムがずれた気がして耳に手をやるが、イヤホンはきちんと耳介の中に収まっている。そこからは次の仕事の連絡が来るはずだが、今日は何も聞こえてこない。待つばかりの時間は無駄に疲労感を蓄積させる。もっとも女はその間惚れてもいない男相手に朱雀の知らないことをし続けているわけだから、誰よりも疲れている。さっきも早々に店の取り分の金を渡してきて、雑に化粧を落とすと後部座席で靴を脱ぎ捨てて寝に入った。だからだらしない寝相でも仕方ない――そう思いながら、先月女に手を出そうとして、店長にしこたま殴られてクビになった男の顔を思い出す。決して女が悪いとは思わないが、男を信頼しすぎる女が多いとも思う。それともいっそそうなってしまって店から追い出されないと、辞めることができないだけなのだろうか。朱雀はハンドルを握る手に少しだけ力を込める。前を走る車は車高を下げてウィングをつけ、極め付けにリヤガラスにぬいぐるみをミッチリ這わせた、絵に描いたようなヤン車だ。煽りたい気持ちを堪えて、適当に車間距離を空けてダラダラと走る。戻りの時間は指定されていないから、多少遅くなったところで誰も怒りはしない。早く帰る理由も――今日は玄武も外に出ているから、ない。
あの日から玄武との距離が少し変わった。無機質に見える男は朱雀の出勤日には決まって米を炊いて、ちょっとした惣菜を買ってくるようになった。食うかと言われれば断る理由もなく、ふたりは狭い台所で夜食を共にする。朱雀が外に出て買い物をする暇があるときは、コロッケや何やらを買って添えた。玄武が持ち寄るものは煮物や肉の入ったサラダが多かった。テーブルは相変わらずキッチンカウンターで、椅子もなかったし、会話はまるで存在せずに、お互いが咀嚼し終えたものを飲み込む音がやけに大きく聞こえるばかりだ。朱雀はこの同僚が人並みに飯を食うことや、嚥下の際に喉仏が動くことを確認して内心で驚いた。ふたりの箸が同じタイミングで鏡写しのようにメンチカツをつまんだことで、玄武の利き手が左で、いつも時間を見る腕時計も左手首につけられていることを知った。それから朱雀は少しだけ同僚の仕草や身の回りを観察するようになった。質のいい生地に丁寧にブラシをかけたスーツ、高価そうな時計、手入れが行き届いた艶のある黒い革靴。それにいつだか飯を食べている最中にたまたま視線を床に落として目に入った、まるでサラリーマンが履くような黒の薄手の靴下。同僚のことをカタギではないと感じた理由のひとつが身綺麗さであることを、朱雀はなんとなく理解し始めている。玄武はその気になればオフィス街に放り込んでも違和感がない。毎日スーツを着て商談をするような会社の社員に見える。玄武がヤクザに見えたのは、裏稼業をやるようなやつららは自分みたいな純然たる落ちこぼれと違ってそういう擬態が得意だからだ。袖が照りかけた自分のスーツは――精々就職活動をしはじめたフリーターだろうか。
その袖のボタンが取れかけているのを見て、朱雀は顔をしかめる。下道をあと一五分も走ればシマの街に着く。この時間はまだ繁華街帰りの酔っ払いが目当てのタクシーも多くないから、着いてしまえばスムーズに事務所まで帰れるだろう。法定速度を遵守する程度にアクセルを踏みながら、バックミラーの女の様子を見る。たまに悪い客がいて酒を飲ませたり、あるいは想像したくもないが粘膜で摂取させたりすることがある。だから仕事が終わった女の様子をきちんと見ること――朱雀のほとんど存在しない私生活ではまずありえないことは、業務のひとつだ。女は全身から力を抜いて眠りに落ちているが、それは過度のアルコールのせいではなさそうだ。胸元が開いたワンピースの上に無理やり丸首のカーディガンを着て前を閉めているから、生地が引きつれている。寒いのかもしれないと、切っていた暖房のスイッチに手をかける。暇があると金のかからない趣味として筋トレをしている自分と、客を喜ばせるために適度な脂肪を蓄える女では体感温度が違う。脂肪は筋肉と違って熱を生まないから、概論で言えば女の方が寒がりだ。少し空気を暖めてやらなければならない。いつの間にかそういう気遣いができるようになった。自嘲しながら風量をごく弱くに調整する。
この仕事をやっていて店の女に興味を抱かないと言うと、大抵の男はすでにいい女を囲っているか、それともホモなのかと問いかけてくる。朱雀はどちらでもない。女は生まれてこのかたいないし、男に性欲を覚えたこともない。抜くときは適当なエロ本を事務所から持って帰るか、動画をダウンロードする。道を歩く女が美人だと思うこともある。ただ店の女は商品で、例えるならバイト先のレジに入っている札束に似ている。自分が手を出すものではないというこの感覚が、諦めなのか、顔を変えた謙虚さなのか朱雀には判別がつかない。女たちのほうは鋭敏にそれを嗅ぎ取って、朱雀に対してはかなり気安く接してくる。今後ろで寝ている女だって、他のドライバーの前ではもっと身を固くしていて、あんな風に寝たりはしないかもしれない。心を許されることは嫌なことではないからそのままにしているが、自分がもう少し親切なら女たちに警告のひとつでもしている、と思う。
前を走っていた車が脇道に逸れて、深夜帯に属する時間の道路はタクシーとトラックが目につくようになる。この時間にもなると長距離の客を拾いたいタクシーばかりだから、おおよそ街までは同じ道を行くことになる。ドリンクホルダーに挿しっぱなしのダイエットペプシを一口飲んでまたハンドルに手をかける。少しスピードを上げると、揺られたのか女がむうと寝言か寝息かどちらともつかない声をあげた。
女をどうにか声だけで起こして、金庫とゴミと女の仕事中に買った唐揚げの串をぶら下げて階段を上る。エレベーターの扉を開けて待つと、足元のふらついた女は階段の手すりに体重を預けながら、のろのろとこちらへ踊るように歩いてくる。狭いエレベーターの壁に体をピタリとつけてなるべく触れないように立つ。女は長い髪をかきあげて「まだ緊張してんの?」と笑う。緊張じゃねえ、と思いながら〈4〉のボタンを押して扉を閉めた。女は壁にもたれかかってああ疲れた、と呟いて「紅井、飲むものない?」と聞いてきた。朱雀が空のペットボトルを振ると、ばか、と腰のあたりを叩いてくる。「帰ったらなんかあるだろ」「あんた買ってきてよ、お酒がいい」「酒はダメだ、仕事入るかもしれねえだろ」「あたしがそんなに忙しいわけないじゃん、ばーかばーか」チンとチャイムが鳴って扉が開き女は事務所へ駆け出す。大きすぎるパンプスのかかとがかぱかぱと音を立てるのを聞きながら朱雀もエレベーターを出て、女が開け放したドアをくぐって扉を閉める。女は荒れているように見えて、きちんと靴を持って奥の部屋へ消えている。チェーンをかけたところで玄武の靴がないことに気づいてまた開けた。玄武がついている女が何時間の仕事だったか、自分はすっかり忘れている。
待機部屋で荷物を降ろして店長に金庫を渡す。中身をあらためた店長は頷いて携帯をいじり始めた。援助待ちの掲示板に店の女のプロフィールを載せて、少しでも稼ごうとしているのだろう。最近はそういう経緯の仕事が多くて、店にしてみれば稼ぎが少ないと愚痴られたのを思い出す。朱雀も充電器にスマートフォンを挿して通知を確認する。相変わらずゲームアプリの回復通知だけが記録されている。朱雀は携帯を放り投げ、唐揚げ串とゴミを持って部屋を出た。埃が溜まった廊下を歩いて台所に向かう。隅のゴミの山にペプシのペットボトルを放り投げ、流し台で手を洗う。キレイキレイのラベルはカビて黒ずんで、その中から詰め替えた洗浄液が出てきてもまるで手を洗った気にはならない。指の股、爪の隙間、立てた泡が滑って水垢が残るシンクに落ちていく。カランを捻って両手をすすぎ、シンクに落ちていたキッチンスポンジで大まかに水垢をこすり落とした。水を止めて、スポンジを蛇口の上にバランスよく載せる。それから自分がしようとしていたことを思い出して、蛇口の脇に設え直した。
炊飯器を開けて釜を取り出し、米櫃の前にしゃがみこむ。半分埋まった一合の計量カップに三杯、米をすりきりで入れては釜に流す。カップを戻して米櫃の蓋を念入りに閉めて、流しに向かう。さっき拭ったシンクに釜を置き、水を注ぐ。ひたひたの位置で止めて、手のひらで米をぎゅっと押す。指の隙間から白い糠が溢れて水の中で白く渦を巻く。
米研ぎを誰に習ったか朱雀には記憶がない。母親だったか家に出入りしていた大人だったか、とにかく物心ついた頃に米だけは炊けるようにと仕込まれた。実際高校生の頃は白飯とフリカケさえあれば間食には十分だったから、あれは正しい教えだった。家を出てからは炊飯器を持たない生活をしていたので、こうして米を研ぐのは久しぶりになる。玄武が買った炊飯器は名のあるメーカーの最高級ラインのもので、あの男が着ているスーツと同じようにこの場所にはひどく不釣り合いだ。炊飯器の脇には説明書が添えてあるが、朱雀は読んだことがない。米が流れないように水をこぼしてはまた蛇口から注ぐ。親指の付け根で力を込めて研ぐと水の濁りが少しずつ淡くなる。頃合いを見て水を捨てて、最後に三合の目盛りにあわせて水を注ぎ、手のひらに残った米粒を釜の中へ落とす。炊飯器に釜をセットして炊飯のスイッチを押すと、真空釜だとかいう小さな機械は唸りを上げ始めた。デジタル時計は残り一〇五分の表示を浮かばせている。
どちらが米を炊くという約束はしていない。たまたま今日は朱雀が早く戻ったから米を炊いた。玄武にはこだわりがあるようでいろいろと炊飯モードを試しているらしいが、朱雀にはその違いはよくわからない。カウンターに置きっぱなしの唐揚げ串を、背伸びして取り出した紙皿の上に紙袋ごと置く。玄武がいつ帰ってくるかわからないし、自分もいつ次の仕事が入るかわからない。ただ玄武が帰ってきて、あのそつのない顔で売り上げを店長に渡したあと、台所で米を研ぐ手間がかからないならそれでいいと思った。考えるのを止めた頭で台所を見回すと、ゴミの山に食べかけの弁当があった。生ゴミはまとめなければ、と立ち上がったところで背後から声がかかる。
「紅井」
振り返ると同僚の男が立っていた。女に手を出してクビになった男の代わりに先々週から入った若い男だ。何を問うわけでもなくニヤニヤと笑っているので朱雀は少し不機嫌になる。
「んだよ」
「お前、黒野と仲いいんだってな」
「仲いいとかじゃねえ」
そう言ってから自分で口にしたことを反芻して朱雀の胸になにかが沈殿する。仲がいいとかじゃねえ。じゃあなんだ? ダチでもねえツレでもねえ、同僚。その他に。朱雀の逡巡を男はどう受け取ったのか一歩こちらに歩みを寄せる。口元が下卑て歪むのを見た朱雀は眼を逸らそうとするが、一瞬遅い。
「やったのか」
問いの意味がわからず、ただなにかひどい侮辱を受けたことだけは理解した。こめかみの血管がどくどくと音を立てるのを鼓膜と骨の両方で感じる。朱雀がなにも答えないのを言葉の不足とみた男は重ねて口にする。
「ホモ野郎とやったのかつってんだよ。俺も男は」
がつん、と音がして気がつくと男が床に倒れていた。その頬がみるみるうちに赤く染まり、右拳がやけに熱い。中指の第一関節がピリピリと神経系の痛みを訴える。遅れて自分がなにをしたかがおぼろげに朱雀にもわかり始める。男は頬を抑えながらてめえ、ホモが、と唸るように口走る。まだ言うかと振りかぶって二撃を加えようとした朱雀の後ろから声が飛ぶ。
「何してんだ!」
振り向くとビーズのカーテンの向こうで店長が苦々しい顔をして仁王立ちをしている。クビになる。朱雀はそう直感したが、やってしまったことは取り返しがつかない。店長はカーテンをかき分けて台所に立ち入り、男は足元に転がったままわざとらしくこいつが急に、と訴えている。目線をやるとその瞳が少しだけ細められ、朱雀はその中に侮蔑と快感と恐怖のすべてを見て取った。
「紅井テメエか」
店長の言葉に朱雀は黙って下を向いた。確かに手を下したのは自分だ。やりました、と吐いた声が自分のものとは思えないように冷えていて、玄武が口にするいくつかの決まった言葉が急に脳の中に蘇る。店長は男と朱雀を交互に眺めてから携帯をいじり、眉間を指でこすってから朱雀に顔を向けた。
「……注文が入ったが、その顔じゃ出せねえ、紅井お前が行け。今日の給料はナシだ。ヨシイにやる。わかったらすぐ行け。女は下で待ってる」
朱雀は頷いてから男の名前がヨシイだと思い出す。どうやらクビにもなりそうにない。だがそんなことはどうでもよかった。右手の節々はまだ痺れるように熱い。男の頬は腫れあがりはじめている。だがとにかく、玄武が帰ってくる前にこの場所を綺麗にしなければならない。殴った勢いで散らかったゴミを拾って山に放り投げる。店長が何してんだテメエ、と怒号を飛ばしてくるが無視した。床にはまだストローの袋やホットスナックの紙袋、それに朱雀が飲み干したペットボトルが落ちている。カウンターの上の炊飯器はモーターが回るような低音を立てながら米を白飯へと炊きあげようとしている。
結局朱雀の暴力は大した罪には問われはしなかった。ヨシイという男は朱雀の三日分の給料を慰謝料として貰うことで怒りを収め、店長もそれ以上の懲戒を科さなかった。手取りがそこまで減らないこともありがたかったが、朱雀はそれ以上に殴った理由を聞かれないことにホッとしていた。玄武の事で気を悪くしたと認めるのが自分でも嫌だった。より正確に言うならば、玄武を抱いたと揶揄されたことよりも、玄武がそのような悪口のタネにされたことが嫌だと、そう感じた自分をなぜだか恥じた。玄武との関係は同僚の域を一歩も出ない。友達ではないし親愛の情もない。ただたまに飯を共に食っているだけだ。あの男がホモだと言う噂は最初からあって、近寄れば自分も口さがない同僚たちの餌食になることはわかっていたはずだ。それをどうして自分は。
爆発音と共に操作していたキャラクターが虚空に消える。夜半をすぎて新たな注文が望めない中、朱雀はひたすら待機している。店長は騒動をどう説明したのか、朱雀に詳細を尋ねてくる女はいなかった。代わりに今まで暴力沙汰を辛抱強く回避していたのはまったくの無駄になって、DV被害者だったことがある――いまも時折太ももに青アザを作ってくるような女は、朱雀に気軽には近寄らなくなった。中にはあんたも男だったんだねと言ってくるような女もいて、朱雀は内心ゾッとしつつ、もうやらねえと答えるのが精一杯だった。
今日もシフトが被ったヨシイは朱雀が今まで受け持っていた女と外に出ていて、玄武もどこかへ女を送り届けに行っている。狭い部屋の対角線上で、朱雀もう一人の同僚とうずくまってスマートフォンをいじっている。充電が満タンになったという表示にケーブルを引っこ抜き、天気予報のアプリを立ち上げる。明日は十日ぶりのオフだった。溜まった洗濯やらゴミ出しやらをして、部屋を少しでも綺麗にしなければならない。曇りのち雨の予報に舌打ちをする。
朱雀のヤサは事務所の近くのターミナル駅から一本の学生街にある。薄い壁の向こうに住む飲んだくれの学生が騒ぐ以外には取り立ててケチをつけるところもない、六畳一間のワンルームアパートだ。集合のゴミ捨て場があって家賃が五万円を切っているというだけの理由で契約した。衣類は制服じみたスーツを除けば、高校生の頃のジャージとスウェットと外出用の服が上下で二着ずつ。鞄がサイズ違いで三つあり、キッチンには多少の調理器具と冷蔵庫、床に直置きしたマットレスには年中同じシーツをかけている。洗濯機とエアコンは備え付けだが、古くて電気代がかさむからほとんど使わない。つまり朱雀は、今の所予定はないがいつでも夜逃げできるようにして暮らしている。
手持ち無沙汰を紛らわすべく財布を取り出す。どこかの店の初任給で、ドンキで買った合皮の二つ折りの財布だ。コンビニのレシート、弁当屋のレシート、事務所に来る前にATMで晩飯代を引き出した明細書も出てきた。残高は二八万七五三一円。朱雀の今の全財産だ。昔は金を貯めて車でも買おうと思っていたが、修理工場を飛び出して整備工を諦めた時に自分の車を持つ夢も諦めた。だからこの金は本当に何の意味もなく、朱雀の逃げ道を生かすためだけに印字されている。くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てる。いっぱしにプライバシーを気取る奴は店のゴミ箱には決して物を捨てないが、朱雀はそういう健康さとは随分前に喧嘩別れしている。だいたいゴミ溜めのような部屋の中で、ゴミ箱に物を放るだけきちんとしているのだ。弁当についてくるソースの蓋や、ティッシュ、爪楊枝、切りとるのに失敗した袋とじの破片――そういったものはまるで無限に部屋に落ちていて、この事務所には箒のひとつもない。朱雀も拾えるゴミは拾うが、塵芥の類まではやる気が起きない。同時に偏執的に洗面所を拭いていた同僚の横顔が浮かぶ。
レシートを分別してはゴミ箱に捨てながら、頭は同僚の冷めた唇がきれいに弧を描いて笑みをかたちどった場面を思い出している。オレが玄武を抱く? 冗談じゃない。オレは男で勃起なんかしない。そう思いながら、自分の排尿を気にもせずに掃除を続けていた男の正体が朱雀にはさっぱりわからなくなる。そもそも朱雀の周りにゲイを公言していた人間はいなかった。そういう志向の持ち主がどう振る舞うかなんてことはレパートリーにはない。だから玄武が本当にホモなのか、それは誰かが玄武に抱けと、あるいは抱かれろと迫るまでわからないと思う。そこまで考えてから朱雀は片手落ちに気づく。どうしてオレはあの男が自分に触れようと襲ってくるシーンを想像しないのか。たかだか掃除をしていたあの時の接触一度で、安全だと思い込んではいないか。レシートをめくる手が止まる。黒野玄武は果たして安全か。あの男と飯を食うだけの間柄がいつか崩れて恐ろしいことになるのではないか。朱雀の臍の下のあたりがぎゅっと冷える。想像を振り払うように頭を振って左手で掴んだ紙くずを全部ゴミ箱に捨てた。それから立ち上がって、同僚の男に晩飯買ってくるから、と断ると財布と携帯を持って部屋を出る。台所で携帯をいじっている店長にも同じことを告げると、つまらなそうな顔で頷かれた。そのまま玄関に向かって靴を履く。靴箱の上で埃を被った靴べらが干物のように乾いている。とんとんと爪先を靴の中に押し込んで、踵を革が擦れて薄くなった靴の中に入れ込む。
チェーンロックを外して鍵を開け、ドアに体重をかけると生臭い都会の空気が鼻をつく。水草が腐ったような新鮮でない魚売り場のような、人の神経に馴染まない匂いだ。最初はこれを悪臭だと感じていたのに、いつからか当たり前のものだと思い始めている。鼻の下を指で拭って手の甲でエレベーターのボタンを押す。しばらくして開いた扉の中には誰もいない。誰かと乗るエレベーターは息苦しいはずが、自分は小さな箱の中に人生にさざ波を立てるような変化を望んでいる。反吐が出そうな胸のムカつきを抑えながら〈1〉のボタンを手の甲で連打する。エレベーターはウィンチを軋ませて下降していく。重力に引きずられてどこまでも落ちていくような錯覚に身を任せ、朱雀は壁に体をもたれさせる。俯けば足元はどこまでも深く、立っている床は心もとなく割れていきそうだ。目眩に似た頭痛を覚えたところでエレベーターは底を突く。チャイムが鳴って開いたエントランスの先には身に馴染んだ雑然とした街がある。
風俗店のチラシを蹴飛ばして最寄りのコンビニに向かう。客引きの男と薄手のコートを羽織ったキャバクラの女たちがちらちらとこちらを向く。その視線を目で威圧して、自動ドアをくぐる。実際のところ腹は減ってはいない。ひたすら待機するだけでは腹は減らない程度に朱雀の体も成熟している。まっすぐに飲料エリアへ向かい、ペプシを手に取る。ボトルが手のひらに食い入るように冷たい。そのまま踵を返して菓子の棚の前に立つ。女たちになにか差し入れなければならないと半ば強迫的に思って、自分は誰の機嫌をとるつもりなのだろうと我にかえる。アレが間違った行動だとは一ミリも思っていない。あの場面で、男は殴られるべきで、朱雀と――玄武のプライドは守られるべきだった。そうだ。朱雀は無闇に菓子を手に取りながら思う。玄武がホモだろうとそうでなかろうと、ふたりの間にはとにかくそういうことは起きていない。友情では決してないが、朱雀と玄武の紐帯のことをあの男は謂れのない侮辱で汚した。だから手が勝手に動いてあいつは殴られたのだ。胸に充満していた鬱屈がすとんと腑に落ちて、朱雀は改めて女に差し入れるチョコレートを手に取った。
事務所に戻っても玄関の靴は増えも減りもしていなかった。スナックとチョコレートで膨らんだビニール袋を下足箱の上に置いて朱雀は靴を脱ぐ。踵に引っ掛けた片方が跳ねて壁を叩いたのを手に取って、上がり框に揃えて置く。それくらいの余裕が戻っていた。チェーンロックをかける音で女のひとりが顔を覗かせて、お土産はと直截にねだってきた。朱雀は自分のペプシとフライドチキンを取り出して残りの袋ごと渡す。女は喜びより驚きが先に立ったような顔で「紅井どうしたん?」とつけ睫毛をつけすぎた瞼をぱちくりさせた。朱雀は「食えよ」と手短に答えて台所に向かう。
灯りをつけるとビーズのカーテンの端のほうに埃が積もり始めているのが見えた。玄武のいないこの場所はやけに広くてがらんどうに感じられる。朱雀はカウンターに買ったペプシを置くとフライドチキンにかぶりついた。コンビニの使い古された油の香りが鼻腔に広がる。湿気り始めた衣を前歯でちまちま齧り塩気を補いながら朱雀はスマートフォンで時間を確認する。一時前。タクシー乗り場が徐々に空きはじめて、歩く人々は朝まで腰を据える店の目星をつけるころだ。この時間からの注文はほぼないか、あっても酔っ払いやタチの悪い客のことが多い。だからこそ今の朱雀には出勤の可能性があった。倦んだ胸の中を炭酸で濯いで、フライドチキンの空袋を台所のゴミ袋に投げる。かさかさと袋が自分の場所に落ち着く音がして、そのあと部屋はしんと静まる。奥の待機部屋の女の声もどこか遠く、隣では開け放したペプシのボトルの中から泡が立っては消える音が聞こえ、身体のなかではささやかな脈拍と血流が鳴る。繁華街がこんなに静かでは仕事は上がったりだ。そう思いながら朱雀はこの静寂を心地よく消化し、体を丸めながら床に座り込んだ。関節のそこかしこで圧迫された脈が強く響く。指に食い入る指輪だけが冷たい。赤ん坊のように丸くなりながら朱雀は自分の体が立てる音を聞いた。頼まなくても動く心臓と血を身体中に送る仕組みが無事に働いている。俯くと首元で脈動が確かな刻みを伝えてくる。生きていると思った。絶え間無くすれ違う同僚たちや、すぐにいなくなって二度と顔を合わせない女たちの体の中にも同じものが振動している。思って朱雀はスーツの袖を強く握り締める。それから玄武の顔が浮かんだ。あの薄い身体の中にも同じ心臓がどくどくと動いている。朱雀のトイメンで肉を小さく噛みちぎった口の、その中にある舌も同じように脈打っている。そのはずだ。唇は脂でしっとりと艶めいている。ときおり小さく鳴る鼻は線対称の美しい形をしている。想像の中の瞼がゆっくり持ち上がり冷えた双眸がこちらを見る。
がちゃん、と鍵が開く音がして朱雀は我にかえる。急いで立ち上がり尻についた埃を払った。カウンターの上に置きっぱなしだったペプシを飲み干し、ラベルを剥いで捨てる。ボトルは新設されたペットボトル専用のゴミ袋に捨てる。中にまだラベルが付いているものがあるのでそれも剥いで他のゴミとまとめる。背後で女二人が話す賑やかな声がして、注文主が3P希望の常連だったことを思い出す。送って行ったのは玄武だ。振り返るとビーズののれんの向こうに痩躯が見える。生白い手がプラスチックをかき分けて、俯いた頭が現れてこちらを向く。その瞼の上げ方がさっきの妄想と重なって朱雀は軽く身震いをする。玄武はいつものように作り物のような顔で辺りを見回すと血の気の引いた唇を開く。
「いたのか」
「おう」
「今日もこれじゃあ、上もろくに稼げやしねえな」
玄武はそう言ってから少しだけ躊躇う様子を見せ、口が滑ったと付け加える。
「買ってきたが飲むか」
差し出してきたのはコーラだった。さっき飲んだばかりとも言えずに受け取ると玄武は少しだけ険を緩めて、ぶら下げていたビニール袋からローストビーフのパックを取り出す。
「豪勢じゃねえか」
「チップが出た」
「は?」
玄武はひょいと手を伸ばして紙皿をとると、ラップを破きながら答える。
「客が随分弾んでくれたらしい、その分け前をもらった」
割り箸でローストビーフを薔薇の花びらのように丁寧に並べていく、その手つきを見ながら朱雀は今日玄武が送った女が以前車の中で言っていたことを思い出す。
――黒野はさ、余計なこと言わないし欲しいものがわかってるからいいよね。あんた? あんたは……紅井は安全だけどバカじゃん。絶対やろうとか言わないし。やってあげてもいいけど。ほらそうやって嫌がる。てか嫌がりすぎでしょ。傷つくんだけど。黒野はそういうとこちゃんとしてるよ。……どうって、ちゃんとしてるんだよ。あんた、あたしらのこと、マトモに女だと思ってる?
強すぎる光線を受けたように脳が灼ける。大したことではなかった、そう思っていた。ちゃんとしている。それは玄武を表すのに適切な言葉だ。神経質で得体が知れない凄みがあって人を圧するような雰囲気を持つ一方で、その立ち居振る舞いはマナー通りに涼やかで美しい。だが女は。ちゃんとしていると言う。女として扱うと言う。女をちゃんと、朱雀が思っていたように商品ではなく?
「食うだろう?」
柔らかな低音が耳に入り、ズレていた焦点が玄武の眉間にピタリと合う。玄武は素知らぬ顔で――当たり前だ、何も知らない、こちらを見て、二枚の紙皿を手にしている。朱雀が黙って頷くと玄武はこちらに背を向けて炊飯器から白飯をよそう。後ろに丁寧に撫で付けた髪は嫌味がなく清潔で、伸びた襟足はスーツの肩の線に沿うように流れている。ジャケットは身体のしなやかさを損なうことなく品を付け加えて、よく動く腕はジャストサイズの袖に包まれている。
黒野玄武。朱雀は口の中で名前を反芻しては噛みしめる。玄武はこの事務所の中で唯一朱雀とだけ食事を共にしている、と今まで信じ込んでいた。その選択肢に女を想像しなかったのはあの噂の毒気にやられていたからなのだろうか。朱雀は被りを振る。同僚が隠れて女と遊んでいる、そんなのは他の――朱雀以外の誰もがやっていることで、それに玄武が加わったからと言ってなんだというのだ。掃除が好きだからと言って女に対しても潔癖でいる義務はないし、自分のようなクソ童貞野郎ではないのはこの年の男なら当たり前のことだ。ましてやホモの噂がある男が〝ちゃんと〟女を抱いているのなら、自分との噂だって消えるだろう。朱雀ひとりが黒野玄武に対する認識を誤っていただけで喜ばしいことしかない。喜ぶべきだ。喜ぶべきだ。
気づくと玄武はカウンターに皿を並べて自分のぶんの飯の上にローストビーフを一切れ載せようとしている。朱雀も慌てて箸を割ると適当に肉を挟んで山のように盛られた白飯に乗せる。ローストビーフは適度に火が入っていて、肉も筋張らずに簡単に嚙み切れる。間違っても安売りスーパーの品ではない。仕事中にその立ち居振る舞いにふさわしいどこかに立ち寄って買ったのだろう。朱雀の胸はざわめいてやまない。かき消すように飯を書き込んで口いっぱいに頬張ったところで、玄武が手元の携帯を見てぼそりという。
「明日、雨らしいな」
「ん」
「休みだろう」
こちらを見据えて言うので、朱雀は懸命に口の中のものを噛んでは飲み込む。玄武は眉の角度を緩めて急がずに食え、と言う。どうにか食い切った朱雀はまだ口腔内に米粒が残っているのを感じながらようやく返事をする。
「ちかくのコインランドリー、乾燥機あっからよ」
「そうか」
玄武は短く返して摘まんだ肉に歯を立てる。薄い肉と真っ白な歯のあいだに肉汁が滲んで呑み込まれる。薄暗い台所の中でそれだけが鮮やかに見えて、朱雀はまた白飯をかっこむ羽目になる。飯だけを順調に消化する姿を見て思うところがあったのか、玄武が朱雀の皿に肉を盛ってくれた。ローストビーフでできた薔薇の花はちょうど半分が失われて、紙皿の上は赤い肉汁で満ちている。どこに視線をやるのも躊躇われて朱雀はひたすら自分の皿の肉と米を見つめる。視界の隅では白い手が慎ましやかな量の米を掬い、皿に伸びては一枚ずつローストビーフを摘まんで消える。きっちり四つ並んだカフスボタンが灯りを鈍く反射させてときおり朱雀の視神経に刺さる。はっとして顔を上げると玄武はまた目を伏せてもくもくと肉を噛んでいる。まつげが落とす影と生え際の産毛の光、濡れた唇に削げたような頬の線、誰も理由を知らない額の傷、黒野玄武。朱雀の腹の中で何かが蠢いては理性がそれを殺す。お前はホモなのか。それとも店の女と――いや店の女でなくてもいい、だれか女と〝ちゃんと〟やったのか。オレはどうしたらいいんだ。朱雀は叫びたいのをこらえて口の中に肉を放り込む。