灰の城

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 これは、暇つぶしだ。生温い風を受けて朱雀のスーツの裾が煽られる。路地裏を歩くのは実家に置いてきた猫と昔よくしていた遊びだ。互いに居場所がバレないように歩く道を考えて、こっそり相手の後ろに回る。うまくいけば朱雀は猫を掴み上げたし、猫は朱雀の背に跳び乗った。そういうのどかな光景から離れて数年になる。猫にもしばらく会っていない。
 一二〇分コースの注文を受けた女は、車を降りる前にバックミラーをこちらに向けろと言ってきた。黙って傾けてやると、目元のゴミをささっと払って自分でドアを開けた。まつ毛になすりつけたその黒いものをマスカラと呼ぶのを朱雀はこの仕事に就いてから知った。女はドアを開け放して歩いてホテルのほうへ向かったので、朱雀は運転席から降りてドアを閉める。ロードサイドのコンビニの駐車場は一台きりしか埋まらず、遠目に見る店内では年老いた男がゆっくりと品出しをしている。店を利用しない客が車を停めることにケチをつけられそうにはない。朱雀は暗澹とした気分で五〇〇メートルほど先にあるチェーンの弁当屋までを、看板の灯りを頼りにのろのろ歩く。日が暮れてしばらく経つので歩道の脇にあるのは畑なのか空き地なのかはもうわからない。たまに通るトラックのヘッドライトが朱雀の風景に不似合いなスーツを浮かび上がらせる。


 この稼業について三年が経った。最初の店は三ヶ月で潰れた。そこから店を七件変えた。今の店はふしぎと続いていて、どうにか一年が経とうとしている。このあたりのホテルの場所もだいぶ頭に入った。自分がそこに立ち入らないのはもはや意地だ。最初の店で童貞を隠し立てしていたのを同僚や店長に散々からかわれてから、朱雀は未経験をオープンにしている。理屈は至極シンプルだ。女は抱かない、だから店の女にも手は出さない。この手の店でそう言い切れる男がそう多くないことを、ぼんやり感じている。同僚は大体女を渡り歩いていて、場合によってはツレが入店したからとドライバーになる。そうでない場合は、履歴書に書けない何かをしたか、どうしても稼ぎのいいシノギが必要な事情があるかだ。朱雀はどれでもない。女もいないし、高校を出てからはちゃんとした――雇用主がきちんと届け出をしているようなアルバイトしかしていない。借金も散財の予定もない。
 じゃあなぜこの仕事をしているかというと、どうにも理由がない。あの頃は無性に家を出たかった。だからそれまでやっていた家の近所での仕事を全部辞めて、親に黙って荷造りをした。そのあと住み込みで車の修理工場で働いたり、柄にもなくアパレルの仕事に就いたりして、どれも長続きしなかった。やたらに募る鬱憤を覚えた酒で逃そうとして三杯で潰れ、タバコは煙にむせてから吸っていない。つまり朱雀には世の中で男がやるようなストレス発散は向いていなかった。もちろん女での、もだ。あるいはそれではまずいと思ってこの仕事に就いたのかもしれない。人の吸う煙にも酒臭い息にも慣れた。それでも女慣れは人並み以下にしかしていない。
 弁当屋で唐揚げ弁当を買って同じ道をトボトボ戻る。相変わらず車も人も通らない。静かな闇に、立ち木の葉がさらさら鳴る音だけが響いている。ミニバンの助手席の扉を開けて弁当を運転席のシートに投げる。中でセットの茶のペットボトルがちゃぽんと音を立てた。腰掛けて扉を閉めると木々のざわめきも遠ざかる。ボヤッとした印象の弁当屋の店員はそれでもこんなところにいるスーツ姿の男が大体何をしているか――――あるいはカタギではないと踏んだのか、要りますかとも聞かずにむやみにオシボリをビニール袋に突っ込んできた。ぬるまったそれで両手を拭うと、朱雀は割り箸を割って唐揚げを摘む。一口目はいつも味が濃い。実家を離れて随分たつのにまだそう思う。


 繁華街の雑居ビルの四階にある事務所からここまでの間、一二〇分コースで女が何をサービスするのか愚痴のように聞かされた。尻がいいなら男とやればいいのにと女は苛立ちながら吐き捨てた。オッサンの尻なんか誰もやりたくねえから頼むんだろと返してから、あの時、なぜか同僚の冷めたツラが思い浮かんだのだ。同僚のことは詳しくは知らない。人目を惹く長躯に病を疑うような細い手足をしている。いつもシャツを一番上のボタンまで閉めて、シワのない地がしっかりしたスーツをきちんと着ている。実質作業着と割り切って、安いスーツをくたびれるまで着倒す朱雀には信じられない話だ。眼鏡の奥の目玉がびっくりするほど冷たいので、最初はケツ持ちの手駒じゃねえのかと話題になった。その話をした相手は三ヶ月ほど前に女と逃げてそれからは誰も知らない。店長は同僚をいたく買っていて、高い女のことは大体任せている。穴埋めのように使われる他の男たちの不平不満を卒のない身振りでかわして、同僚は今日もナンバーのついた女を送りに行った。
 実際のところ、朱雀は同僚のことを絶対にカタギではないと思っている。この職に就いてから何人もの店長を見てきたが、情を完璧にコントロールした人間は腹の座り方でわかる。ケツを持ってもらってるだけの男と本職の男はどうしたってまとう空気が違うのだ。同僚の雰囲気は完璧に後者だ。なぜドライバーなんかやっているのかといえば――朱雀にはそんなことはわからない。わかるようなら引き抜かれているか殺されているかのどちらかだ。聡ければ死ぬ。鈍すぎても死ぬ。朱雀は幸い愛想と本音の区別が本能的についていたし、何より商品に興味がなかったから今のところ死んでいない。同僚もおそらくそのクチだ。あの人間は商品のことを商品だと思っている。完璧に正しい心がけだ。
 腕時計を見るとようやく四十分がすぎている。女は話の通りなら今頃バスルームで男の腹の中を掃除してやっている。そうだ、なんで女の話で同僚を思い出したか。あの男にはゲイの噂がある。女を抱かないからみんなそう言っている。朱雀は自分にその噂が立たないことを不思議に思ってはいるが、同僚については男で興奮しかねないとも考える。あの男はきっと仕事ならなんでもする。男を抱けと言われる、あるいは男に抱かれろと言われる、どちらにせよ淡々と、それが当たり前という顔で頷くに違いない。  いつの間にか朱雀の足元に落ちた弁当の空箱がクシャクシャに踏み潰されている。靴についた脂に朱雀は顔をしかめて、ゴミを一通りビニール袋に入れて口をきちんと縛る。割り箸がはみ出しているのを折って袋に押し込み、余ったオシボリで手を拭いてそのゴミも中身に加える。茶とは別に持ってきたダイエットペプシを飲むと靴を脱いでダッシュボードに足をあげる。エコノミークラス症候群に気をつけろ――使い捨てのドライバーにそんなことを忠告する店長は滑稽だ。
 朱雀はもう一口だけ気の抜けたペプシを飲んで、広げた足の指を運動させながら、女のしていることに思いを馳せる。かわいそうなオッサンは一生懸命働いた金で女の侮蔑を買っている。規定料金の一万五千円と本番代金一万五千円、三万円を稼ぐのに朱雀は二日かかる。ナンバーの女を指名すればさらに一万円だ。この環境にいなくても女を一人一晩手に入れるのに対する支払いとしては高価すぎる。オッサンは本当に誰も触れ合う相手がいないのか、あるいは女が我慢ならないといった口調で話していたプレイを共有する相手がいないだけなのか。考えて走った寒気に朱雀は思考を中断して、まだ余っているオシボリで顔を拭く。それから思考を巻き戻す。考えたくないこと――実家のこと、これからのこと、これまでのことをさっ引いた後に残ったのは、同僚の冷めたツラだった。


 女は結局追加の三十分までをこなして疲れ切った顔でバンに戻ってきた。そのころには朱雀の足元のゴミ袋は当初の倍程度に膨らんでいた。乗り込んだ女に封を切ったビスコを差し出すと苦笑いとともに突き返されたので、朱雀は気まずくポケットに戻す。
 切っていた空調をオンにして車を出すと、バックミラーの中の女はメイク落としのシートで顔じゅうを拭った。最後に気持ち悪そうに首の後ろを拭いて黄ばんだそれを足元に投げ捨てる。朱雀は拾うのはオレだよと思いながら、混んだ幹線道路を避けてナビの言う通りに裏道に入る。このあたりの住宅街は寝込む時間だからもう誰も通らない。時折猫が道を横切り、そのたび朱雀は実家の猫を思い出す。女は後部座席で寝息を立てはじめている。このまま逐電すれば、そうした他の男たちのように、半ば賞賛の思いがこもった、あいつやりやがった、という言葉をもらえるのにと思うが、自分の男気の見せ方は女絡みのこととは関わりがないとも思う。なにか大きなことがこの先に待っている。そんな思い込みは十代の頃に、もっと言えば家を出たときに捨てたと思っていたのに、自分はまだ人生に華々しい場面があると信じている。現実のところはどうせケツ持ちのヤクザの弾除けがいいところなはずだ。女は頭を傾げて、塗り直した唇の端から唾液を鎖骨まで滴らせている。十連勤だとか言っていた。無様な格好でも眠れないよりはマシなのだろうかと思うが、女の心は測りようがない。


 ふたつのゴミ袋をぶら下げて事務所とは名ばかりの雑居ビルの一室に戻ると、女は店長に二万円を渡して待機部屋へと足を向ける。これからは客の質が下がるいっぽうの深夜営業だ。なるべくなら呼ばれたくないだろうと思いながら、朱雀もドライバーがたむろするべき屑篭のような部屋に戻る。ダイエットペプシの最後の一口を干して、ペットボトルをシンクに投げた。ポカンと間抜けな音が響いて、仮眠を取っていた別のドライバーがまぶたを開ける。構わず朱雀は合皮のカバーが破けたソファに座って、電池の切れかけたスマートフォンを誰のものだかわからない充電器に挿す。表示された天気は明け方まで曇り続きで、傘を使わなくていいのはありがたい。道が混んでいたかと聞かれたのでまあまあ、と雲を掴むような返事をする。相手だって別にそんなことが知りたいわけではない。ただ人間の吐いた息の淀みだけが溜まったようなこの部屋で、せめて誰かの声が聞きたいだけだ。アプリの通知を消しながら朱雀はソファにより深く座ってもう外に出たくないと思う。そのうち誰かに指名が入ったのか男が呼ばれて朱雀は一人取り残される。いってきますともいってらっしゃいとも誰も言わない。みんな出ていくときは死ぬような顔をしている。
 しばらくしてがしゃがしゃと外で音がして「ただいま」という女の声が響く。ナンバーのついた女はやたら陽気に愛想を振りまくことが多い。きっとそうして生きてきてその方法しか知らないのだ。続いて静かに扉を閉まる音が聞こえてチェーンロックが擦れてシャリシャリと鳴る。あいつが帰ってきたと朱雀は重い瞼を持ち上げて部屋の入り口を見る。
 玄武はコンビニ袋を下げてなにか店長と話していた。横顔は何を考えているか判然としない程度に眠たげで、その割に眼光は鋭いまま、玄武は黙々と頷いて口を開く。
「大丈夫な客だった、何もなかった」言葉少なにそう話を打ち切り玄武はこちらへ向かってきた。朱雀は慌ててスマートフォンの画面に目を落とす。貧弱なバッテリーがのろのろと充電を進めるのを見ながらそっと視線をあげると、玄武は着込んだスーツのジャケットを脱いでいるところだった。締まった背筋にぴったりとシャツがくっついてアンダーの黒いTシャツを透かしている。なぜだかそれから目を背けて、朱雀は読み捨てられた週刊誌に手を伸ばした。ビリビリに破かれた袋とじに触れないようにページをめくる。気が惹かれる記事などひとつもないことを知っていて、めくる作業だけを求めてページのあちらこちらに目線を飛ばす。結局は女のことと政治のことと金のことしか書いていない。世の中の男は大体どれかが好きで、朱雀はひとつも好きではない。
 ギシと椅子が軋む音がして玄武がその居場所を変えたのがわかる。くろのげんぶ。黒は色の黒、玄武は四神の玄武。初対面でそう名乗ってこの男はにこりともせずに握手を求めてきた。触れた肌はびっくりするほどなめらかで、反射的に荒い仕事をしていない、と思ったのを覚えている。その直感を朱雀はのちに訂正することになるが。顔を上げると玄武は惣菜の根菜サラダを少量ずつ行儀よく食べている。女かよ、と内心ケチをつけるが朱雀もその手の申し訳程度の健康への配慮をするほうだ。試しにレシートで膨れた財布を取り出して中身をぶちまけると、所々にヨーグルトやらビタミンやらの印字がある。悪くなりきれない、いや一度だって悪くなったことのないガキのようで、悪ぶることがカッコいいことだとはもはや思えないくせに気恥ずかしい。ATMの証明書もコンビニのレシートも何もかもをまとめてゴミ箱に投げ捨ててから、精算していないガソリンの領収書のことを思い出して慌てて箱を漁る。と、笑い声がひとつ上から転がってきて、玄武が箸を持っていない右手でごまかすように口元を拭うのが目に入った。少し緩んでいた目元がまた冷えていくのを朱雀は見る。見てからこの同僚に何かを楽しむような心があったことに驚く。玄武は口元の手を喉元から薄い胸に滑らせ、ボタンが閉まっているかを確認するように二、三度撫でると、また一切に興味をなくしたかの顔で野菜の咀嚼に戻る。手入れの行き届いている歯がぱりぱりと野菜を噛む音が、女の歓談の声がわずかに聞こえる部屋に響く。けらけらと笑う声に毒気を感じ、朱雀は面白くもない記事に目を落とす。





 客がいない夜だった。ふたりでも息苦しい沈黙を三人でわかち合っても変わらない。朱雀とふたりの同僚は弁当のゴミとともに待機部屋の三隅で小さくなっている。いつ敷いたのだか誰もわからないカーペットは床と同化して、断熱効果がまったくない。腰骨にじわりと冷気がしみて朱雀は身震いする。
 シューティングゲームで暇を潰しながら温くなったミルクティーをちびちび口にする。ゲームのハイスコアはいつだか貸した同僚にやらせたもので、朱雀はその半分にも及ばない。暇を潰すだけでは腕は上がらないのだ。そう思いつつ、何かに懸命になることに倦んで画面を規則的に叩く。キャラクターが奇声をあげて消えて行くのを見届けて、画面の上に表示された時計に目をやる。二〇時三〇分。夜はまだ長い。朱雀はこの中ではベテランに分類されるから、注文さえあれば外に出られるはずだが、隣の部屋にあるはずの携帯電話の着信音はとんと鳴らない。
 店長は鳴らない電話に飽きて女たちをドヤしにいった。そうしたところで週末のコアタイムに茶を挽いている証明のようなブログを更新できるわけもなし、彼女たちにできることはない。呼び声がかかるのをせいぜい身綺麗にして待つだけだ。人の出入りがない部屋は金魚鉢の底の水に似ている。粘り気があって生臭くて、長居すれば酸欠で死ぬ。脚を伸ばすとその先にあった弁当屑がカリカリと音を立てる。朱雀は無料ぶんの残機が全部死んだのを確認して腰をあげる。同僚たちの淀んだ目がこちらを向くのに構わず、部屋の隅を漂っていたコンビニ袋を手に取ると目に付いたゴミを片端からしまいこんで、部屋を出る。
 この部屋から出るゴミは誰も料理しない台所にまとめてある。行きしなに、薄暗い廊下に落ちたティッシュやら化粧落としのシートやらを拾って袋に放り込む。通り過ぎた部屋の扉の向こうでは、店長の馬鹿笑いと女の愛想笑いが充溢している。隙間から漏れ出る光と軽い声に朱雀は今日何度目かにうんざりして、のそのそと台所に向かう。
 昔のドラマに出てくるようなプラスチックのビーズの暖簾をかきわけ、暗くシルエットで見えるゴミの山の上にゴミを放り投げる。袋は山頂に当たってそのまま転がり落ち、朱雀のつま先のほんの少し前で止まった。誰かが気を利かせなければこの山も減ることはないが、回収日の夜にはきちんと消えている。朱雀がゴミ出しまで気力を残していたことは数度しかない。
 部屋に戻る前に用でも足すかと朱雀はバスルームに足を向ける。電気もつけずに扉を開けると、洗面台の前に真っ黒な塊がいたので驚く。よく見ると同僚だった。かがみこんで何をしているかと思えば、蛇口の周りに溜まった水垢をメラミンスポンジで丁寧に拭いている。朱雀は三歩戻って部屋の壁についている灯りのスイッチを入れた。質の落ちた蛍光灯が長く瞬いて、部屋が照らし出される。玄武は環境の変化に構わず洗面台をこすっている。
「何してんだおまえ」
 声をかけてようやく鏡の中の玄武が顔を上げ、朱雀の目を見据えた。そこで朱雀は玄武の目が澄んだ灰の色をしていることに気づく。目玉は少し瞬いて、朱雀の顔を舐めるようにわずかに上下した。
「掃除だ」
 それだけ言うと玄武はまた視線を下げて、今度はトイレ用のペーパークリーナーを片手に蛇口の曇りを拭いはじめた。朱雀はまたこの同僚に対してモヤモヤした思いが湧くのを感じながら、洗面台のすぐ隣にある洋式便器に目をやる。遮るものはなにもない。
「そりゃあわかるけどよ、あのよお、オレ便所行きてえんだ」
 玄武は頭もあげないまましばらく考えていた様子で、それからああ、と独りごちる。エスコートするようにさっと腕を伸ばした。
「どうぞ」
 朱雀は面食らう。
「いや、そのよお」
「隣で掃除してちゃ小便も出ねえか?」
 玄武が皮肉げに言うので朱雀は思わずそんなことねえ、と吐き捨ててから、そんなこともあるかもしれねえ、と思う。この同僚はてんで人間味がないから隣で小便なんかすると故障するんじゃねえか。思いながらのそのそ便器の前に立ってベルトを緩める。スーツのファスナーを下ろしてトランクスの中からちんこを出して、位置を調整する。その間玄武は淡々と水栓の周りを指に巻きつけたペーパークリーナーで拭いている。
 朱雀は意を決して、バレないように小さく息を吐くと尿意を解放した。軌道は緩やかに弧を描いて音を立てて水面に落ちる。その音は当然耳に入っているだろうに、同僚はぴくりとも動揺せずに掃除を続けている。
 やっぱりこいつはどこかおかしいんだ。思ってから朱雀は例の噂に思い当たって、横目で整った顔を見る。視線は真っ直ぐに洗面台の曇りを見ていて、こちらを盗み見る様子はない。ホモだってのは嘘なんだろうか。それとも小便してるちんこには興味がねえだけなんだろうか。
 そんなことを考えているうちに膀胱は空になった。仕事を終えたものを二、三度振ってスラックスの中にしまい込む。ファスナーを上げてベルトを締めて、それから水洗のハンドルに手をやる。ぼうっとした頭の中に、家の中でこのトイレのハンドルが一番汚い、という話を読んだのを思い出す。手前に引くと勢いよく水が流れて小便は下水に消えた。上部の蛇口から出る頼りない水で手を洗う。と横からハンドソープのボトルが突き出された。
「使え」
 玄武はそれだけ言うと今度は鏡に散った飛沫の後を丁寧に拭きはじめた。神経質だ。その一言を頭に浮かばせながら朱雀は大人しく液体石鹸を手に出して揉み洗いする。水が途切れないうちに濯いでぱっぱっと手を払う。ハンカチがないのを思い出して尻で手を拭こうとした瞬間、今度はタオルが投げられた。
「おいおまえ」
「なんだ」
 玄武は視線もよこさないまま小さく口元を動かして応える。その唇に青白い灯りでわずかな艶が浮いているのを見て、朱雀は無性にもどかしい気持ちにかられる。こんな洗面所を掃除したところで女が化粧でもすれば一発でダメになる。水飛沫だって今夜のうちから何百と飛び散るだろう。朱雀だってあと一時間もすればこんなやり取りのことは忘れて荒々しく顔でも洗うに違いない。それを。
 玄武はまだ鏡を拭いている。指先が丁寧に小さな白さを消していくのを見て朱雀は毒気を抜かれた。憤りの正体は勢いだけを残して消えて、口をついたのは意外な言葉だった。
「おふくろかよテメーは」
 言ってから難癖だと気づく。意外に玄武はぱちりと一つ大きなまばたきをして、ゆっくりこちらを向いた。
「世話焼きだな」
「何がだよ」
「お前のおふくろさんがだ」
 そう言って玄武はさっきの艶がどこかに消え失せた唇にまた笑みを浮かべた。





 事務所から車で三〇分、ダラダラと一般道を走ると、郊外らしいだだ広い駅前広場を持つ街にたどり着く。改札口を出て少し行ったところには繁華街と名乗るにはおこがましいような飲食店が並び、そのすぐ奥はもう住宅街だ。指定のホテルはその反対側にある。
 ロータリーに車を停める。女は改札前を横切って駅の出口を抜けて行くという。朱雀も見送りの義務があるから後をついて行く。改札には人気はない。電光掲示板には駅を通り過ぎる特快の表示だけが並んでいる。唯一駅員だけが手持ち無沙汰な時間を潰していた。駅舎を出るとふっと冷たい風が通って身震いする。植木に隠れたホテルのネオンがちらちら光り始めて、朱雀は無意識に眉をしかめた。
 この道をこのぐらいの時間に通る女が何してるか、地元の人間はみんな知ってんだと女は笑う。「あたしがウリやってんのもあんたが黒服っていうの? そういう役なのも全部バレてるよ。だから誰もいないし来ない。だいたいこんなとこにそんな細身のスーツ着た男なんかいないよ。私服にすりゃいいのに店長もバカだよね」窓口でぼうっと突っ立っていた駅員はそんな嘲笑を浮かべていたか。記憶を探っていると、女は朱雀の向こうずねを蹴って言う。「あんたは商売道具じゃないんだからいいよね。笑われたって値も下がんないでしょ、気にしたって無駄なのにさ、バカ」
 女は売約通りなんとかコンチネンタルとかいう名前がついた休憩三六〇〇円のホテルに入った。入り口でバイバイと手を振るので朱雀もバイバイと手を振って答えた。女は作ったような笑みを浮かべてから扉の奥に消える。そこからは朱雀は自由だ。品のいいサービスでは女が出てくるまでホテルの出入り口を見守っているらしいが、朱雀の勤めている店は始まりと終わりだけを確認すればいい。一八〇分コースだから一度事務所に戻ることもできる、そうすれば待機している女たちは喜ぶ。彼女たちは注文がない限り一晩ずっと部屋の中だ。外の空気が入るとか、差し入れの菓子が贈られるとか、そんな程度の変化が暇を潰す。朱雀はいまだに女に絡まれると泡を食うから、それも慰みになっているのだろう。
 ひとまず女のスタートを報せる電話を入れる。受けたのは案の定暇な女たちで、オッケー、戻ってくんの? 近くに女いないの? 行ったげよっか? と親切な誘いが容赦なく投げかけられる。振り切って時間と場所に間違いがなかったことをしっかり伝えて、通話を打ち切った。スマホを耳から話すと静寂が訪れる。仕事前半の完全な終了だ。
 しばらくその場に佇んで、朱雀はぼんやりと今日は戻ろうと思って駅へと足を向ける。この辺りがあまりに殺風景なせいか、事務所で待っている誰かが気になったせいか、自分でも定かではない。ロータリーから少し離れた焼き鳥屋を見つけて、モモとネギマと鶏皮とつくねをタレで二本ずつ買った。換気が悪いのか天井のあたりに煙が溜まっていて少し煙い。親父は馴染まない顔の朱雀をジロリと見て、串を積んだ山から注文通りの品を揃えて九六〇円。と吐いた。思ったより安い。ビニール袋を持ち上げた途端、匂いが車につく、と思い当たったが金は払った後だった。事務所まで行けばリセッシュがあるから、また車を出すときに吹けばいい。そう思って釣りの四〇円をスラックスのポケットに放り込む。帰りしなコンビニでダイエットペプシと季節限定のチョコレートを買った。差し入れはこれでいいだろう。
 車に戻って助手席にビニール袋を放り、朱雀は締めっぱなしだったネクタイを緩めて息を吐く。その拍子にポケットから小銭が滑りだして足元に転がる感触がした。舌打ちしてからこれも帰りでいい、と思う。急いたところで二時間と少しすればまたここに戻るのだ。エンジンをかけるとヘッドライトが点灯して、誰もいないバス停を浮かび上がらせた。


 雑居ビルは不揃いに灯りが点っている。事務所のひとつ下は昼の稼業だからカーテンのない窓は暗い。ひとつ上の灯りがついた部屋はなんの仕事をしていたか。駐車場に車を入れて時計を見る。戻るまで四〇分ほど時間があるから、焼き鳥を食ってスマホを充電できる。メーターによればガソリンもまだ入れなくていい。少しだけ気分が楽になった。ビニール袋と売り上げをしまう手提げ金庫を持って車を降りる。鍵は自動ロックだ。ひび割れた階段を三段上がって集合ポストを念のため覗いて、ボロボロのエレベーターに乗る。床のカーペットがズタズタに裂けているのを見下ろしながら〈4〉と〈閉〉を連打した。機械が噛み合う気の抜けた音がして扉が閉まり、エレベーターはのろのろと動きだす。朱雀はふと気づいてスーツの袖を嗅ぐ。タレの匂いは多分染みついていない。
 チンとベルが鳴り、開いた扉の向こう、積み上げられた段ボールや誰かが持ち込んだ古着の袋に埋もれて事務所のドアが見える。足元に転がるゴミを蹴散らしてノブを引く。廊下の灯りは落ちていて、女たちの待機部屋と朱雀が戻るべき部屋のドアの下から、昼光色の光が床に溢れている。朱雀は誰に言うでもなくただいまと呟いた。それから靴を玄関に脱ぎ捨てる。女たちは盗られないように自分の靴を部屋に持ち込むから、三和土に転がっているのは男物だけだ。自分も入れて三人ぶん。今日も客は多くない。
 女の部屋の扉をノックすると部屋の中は一旦しんと静まって、恐る恐るといったていで隙間が開く。この間近くでガサ入れがあったからみんな一応ビクビクしているのだ。相手が朱雀だと知るや女たちはなんだ、びっくりさせんな、お土産は、と口やかましくなる。コンビニで買っておいたチョコを放ると捕まえた女がこれもう食べた!と無粋に言う。「食べてないやつらで食えよ」朱雀の声に何人かがけたたましく笑い「ありがとう!」の弾けるようなセリフが飛んだ。まるで桟敷の芸人だ。朱雀は早々に頭を引っ込めて扉を閉める。ふうと息を吐いて今日何度目のため息かを指折り数えようとしてやめた。視界の左端に部屋から出てきた玄武が映る。
「早かったな」
「空いてた。飯食ったら戻る」
 焼き鳥の袋をぶらぶら揺らすと玄武は合点した顔を見せた。それから左手首の時計を確かめて「白飯なら炊いた、食うか」と問うてきた。
「炊飯器なんかあんのかここ」
「俺が買った」
 玄武はナンバーの女の名前を口にする。「実家から米が送られてきたって持ってきたんだ。誰も持って帰らねえ癖、炊けば減る。不思議なもんだな」そう言ってすっと身を返して勝手に台所に向かうので、朱雀も仕方なく後を追う。廊下は相変わらず灯りがほとんどなくて、女の着るけばだったニットのかけらがふよふよと隅を漂っている。
「オレ自炊すっけど、米があるなんて聞いてねえよ」
「持って帰るか」
 プラスチックののれんをかき上げながらこちらを向いた玄武に、朱雀は少し考えてから首を横に振った。「いい、せっかく炊飯器買ったんだろ。ここで食う」
 玄武はそうかと口にすると、少し片付いた台所のカウンターの上に腰を据えているピカピカの炊飯器に手をかけた。蓋を開けると十分に蒸らされた白米の香りが朱雀の鼻腔をくすぐる。腹が減った。そう単純に思って、朱雀は右手にかかるビニール袋の重みを量る。八本九八〇円。
「おまえ、焼き鳥食うか?」
 勢いでかけた声に玄武は少し頭を傾げて、もう一度時計の文字盤を見てから頷いた。朱雀は電子レンジに焼き鳥のパックを突っ込んで六〇〇ワットで三分を設定してスイッチを押す。玄武はシンクの上の誰も触らない棚から紙皿を四枚取り出して、うちの二枚に炊飯器から白米をてんこ盛りによそった。米はしゃもじで圧されてすこし平べったくなる。それを受け取ってひとまずキッチンカウンターの上に載せると、玄武がその脇に残りの紙皿を据える。ほかほかの飯は粒立って艶やかで、米を送った実家の人間は、まさか女の職場にいる得体の知れない男が食うなんて想像もしていないだろうと思う。そうこうしているうちに電子レンジがチンと時代がかった音を立てた。扉を開けると湯気のたった焼き鳥が温まっている。玄武の側にモモとネギマと鶏皮とつくねを一本ずつわけてやって、焼き鳥屋がつけてくれた割り箸を置いてやり、朱雀は床に転がっていた未使用らしき割り箸を拾って真二つに割る。玄武はその様子に少し眉をひそめてから、諦めたように箸を手に取る。
「いただきます」
 律儀に手を合わせてそう言う同僚に向かって朱雀も何年かぶりに食前の挨拶をした。心もとない紙皿を持ち上げて白飯を頬張ると新米のデンプンが舌に甘く溶ける。
「うめえ」
 朱雀がそうこぼし、玄武はモモ肉を整った前歯で串から抜き取ってうまい、と呟いた。朱雀も自分のぶんのネギマにかぶりつく。温め直した鶏肉の肉汁がタレと混ざりながら口の中に広がって、唾液が無限に出てくるような気がする。その味が残っているうちに白飯を掻き込む。繰り返すたび目眩に似た快感が全身に通り、食事がうまいと思ったのも久しぶりだと気づく。脂としっかり炊けたコメの味は単純に食欲を加速させる。朱雀は書き込むように白飯を貪って、肉を食った。串に残る僅かな鶏の筋繊維をしごきとり、持ち手をべとつかせるタレをなめとった。体中の細胞が血糖の上昇に沸き立つような感覚に身震いする。ふと皿を見つめていた視線を上げて玄武の顔を見ると、まんざらでもないようで数度まばたきをして、もぐもぐと飯を食っている。そのまま玄武がうつむいて今度はつくねに噛み付く、その串を持った手の時計を見て朱雀はあと二〇分、と曖昧な区切りを意識に上らせる。二〇分経てばまた夜の息苦しいさなかに車を走らせて疲れきった女を受け取りに行かなければならない。飲み込む白米の喉越しと自分の義務はびっくりするほどかけ離れている。目の前には玄武がかじったつくねの半分が残っていて、同僚は正面で不思議に静かに自分で炊いた米を食っている。
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