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 戦争は終わった。正確には、終わってから数ヶ月して、内乱、と言い換えられた。世を「乱した」のは、一部の過激思想を持った人間と、プログラムを書き換えられたアンドロイド。アンドロイドのほうは不幸な事故だから、念のためバラされてジャンク屋に売られることになった。いっぽう人間のほうはバラすわけにはいかず――というのも、「臨時政府」はひろくアンドロイドと人間に共通する人権を新しく拵えて、そこには殺生はなるべくしねえこと、っていう一条が含まれていた。だから、「兵士」たちは普通に捕まり、勾留され、裁判を待ち、おざなりな判決を経て、収まるべきとこに収まった。つまり刑務所だ。
 オレが捕まったのはおおかたの決着がついたころだった。人間とアンドロイドが結託して和平への道を歩みはじめ、オレたちはすでに潰される虫みたいに無力な残党勢力でしかなかった。取り換える手脚もなければ、引き裂かれた皮膚を満足に縫うこともできなかった。ぎゃあぎゃあ泣き叫ぶ腕の吹っ飛んだ「味方」をどうすることもできず、こんなのは二十世紀の戦争だと思いながら、オレはバーナーで炙った鉄板でそいつの傷口を焼いた。そうするのがいい、というのを、オレは「前回」学んでいた。そうだ、前に焼かれたのはオレのほうだった。そのあと義手をつけるためにウェルダンになった肉をもう一度引き裂かれ、生きてる神経にたどりつくまで筋肉繊維をほじくられた。それをオレは覚えてる。だけど「味方」は血を止めないことには、いずれ失血性ショックで死ぬに違いなかった。
 オレたちは山野を徘徊した。レーションを飽き飽きしながら食っていた自分が野鼠が食えるものとして上等だと思う日が来るとは思わなかったが、もともと無に等しい補給線を断たれた後は、オレたちは銃の熱戦や弾を、食い物を得るために使った。
 街が機能を回復するに従い、生体反応をつきとめるために飛ばされたハエたちがぶんぶん藪の周りをうろつきはじめ、オレたちの隠れる場所は減っていった。
 そして結局、オレは大昔の戦場跡の、着弾したところがウロみてえになってる、半人工の洞窟で仲間と一緒に捕まった。五体満足なのはオレだけで、といってもオレはとっくに腕はないが、とにかく歩けて喋れて名前が書けるのはオレだけだったから、オレはその集団のアタマとして捕虜名簿に全員の名前と市民IDを書きいれた。なんでそんな旧式な手段をとったかと言うと、目玉も、指紋も、声紋も、とにかく全員が満足に揃えているものがなかったからだ。
 オレはかすり傷の手当てを受けたのち、とりあえずどれかのアンドロイド殺しの罪で正式に逮捕された。義手ははずされて、戻ってこなかった。警察官のような顔をしたアンドロイドは今わかっているだけで数十を超える罪状を読み上げるか聞いてきて、オレはいらないと答えた。数が十や二十増えたり減ったりしたところで、オレが壊してきたアンドロイドの数は揺らいだりはしねえ。オレたちが使ってた護送車の、エンブレムの上には無理やり布で「新しい国旗」が貼られていた。オレは黙ってそこに乗り込んだ。ほかに客はいなかった。オレはとりあえず、二十四時間以内にはメシにありつけそうだということを考え、すききった腹を撫でた。あんなにトレーニングしてつけた筋肉は、逃亡生活の間にほとんど落ちていた。
 護送車は笑えることに前にKGDが使ってた養成学校の寮についた。たしかにそこは外からカギがかけられるジャミングもしっかりした個室だ。この分だと牢屋が空くまでここで贅沢に暮らせるかもしれねえ。オレはそう考えて、久しぶりに思いっきり背伸びをした。監視のアンドロイドが嫌そうな顔をしたが、それは嫌そうな顔をすると人間が態度を改めるという旧式の礼儀作法ハックで、別にあいつらが嫌な気分になってるわけじゃねえ。オレは部屋の真ん中に据え付けられた椅子に座り、五分だけ眠るつもりで目を閉じた。
 次に目を覚ました時、ほんの数秒しか経ってないような気持ちになった。視界に入る景色はさっきと同じ、壁とベッド、食事用の小さな机に便器。アンドロイドは顔色一つ変えず、たぶん微動だにせずにたちっぱなしだった。ただ、警備の人間のほうが交代していた。気づかなかったのだから相当深く寝入ったらしい。それもひさしぶりだった。トカゲが枯葉を踏む音にびくびくしなくていいというのは、そうか、それが平和ってやつか。死ね。
 しばらくしてどう見ても文系の眼鏡の男が現れて、メシを食うかと聞いてきた。オレは少し考えてから、ポリッジかなんかの、急に食っても腹を下さねえものを少しだけほしいと答えた。男は黙って居酒屋の店員のようにオーダーを端末に打ち込み、今日は何月何日かと尋ねてきた。知るもんか。オレが首を横に振ると、男は日付を言った。それはオレが想定していたよりだいぶ先の日付で、思ったよりオレは「善戦」してたらしい。男はファイルから言った日付と同じ日にちか印刷された反故みたいな紙を渡してきた。どうやらそれは新しい「新聞」らしい。そんなのはどうせ、「真実」とか「報道」とか冠したやつと大差ねえんだ。だいたいどうして今紙なんかに印刷しなきゃならねえ? データでいいはずのものを「持たせる」のは物体の所持は思想を示すからだ。安全のためのチケットを後生大事にケツのポケットに入れといて、身が危うくなったら見せる。糞野郎が。
 男はオレが見出しも見やしないのでやがて諦めて、新聞をしまうと出ていった。入れ替わりにどう見てもアンドロイドの、外っかわを取り繕う気もねえ、からくり人形みたいなのが盆に皿をのせてやってきた。テーブルに置かれた皿の中にはかすかすのオートミールがあり、それはずいぶんまえに盛り付けられたと見えて表面にオブラートが張っていた。それから簡単なマニピュレーターがついた義手の赤ん坊みたいなのが右手分だけ支給された。オレの神経は山野暮らしでもちゃんと接続できる状態を維持していて、ピンセットみたいな先端はちゃんとスプーンをつまめた。なにより出てきたのがちゃんとしたメシであることに変わりはなく、オレは用心しながらしっかり噛んで飲み込む。薄い塩味の粥は唾液を呼んで、そういえばそういう分泌もオレはちゃんとできない体だったらしい、今更どっと汗が出て、人体がまともに働き始める感覚がある。腹がぎゅるぎゅる鳴り、腸が蠕動して、土煙でやられた肺が痛みを訴えはじめる。ああ戦争は終わったんだと、オレはようやく思った。
 食事が済んでアンドロイドが皿をさげると、さっきの男があらわれて机の上に新聞を放ってまた消えた。オレはしかたなく新聞を手に取り、逃げてる間に断片的に手に入れていた情報と「臨時政府」の発表に食い違いがないかを確かめる。
 それによれば「汚染」されたアンドロイドにはパッチファイルが配付され、やつらは「理性」を取り戻し、もはや人間および同種の「仲間」に危害を加える心配はまったくなくなった。が、念のため「汚染」が危惧されるやつらはジャンクになった。ていのいい劣種の整理であることは目に見えてる。
 いっぽう人間のほうはというと、新聞の裏の、本当ならテレビの番組案内があるところにずらりと、今日の逮捕者、死亡者、手配中のやつ、そういう名前が並んでいる。オレの名前はまだないところを見るとこの紙に速報性は求められていない。オレは細かい字を追って仲間の名前がないか探す。何人か死んだ同僚の名前が見つかる。そうか死んだのか。オレも死ねばよかったな。そう思って新聞を折りたたんで机に放ってベッドに寝転んだ。オレは本当ならもっとギチギチに監視されて毛布の中に手を突っ込むなとかの基本的な牢屋のよく知った作法を徹底されるはずだが、ここでは誰も何も言わねえ。だからオレは毛布を頭までかぶって眠りに入った。視覚と聴覚と触覚を遮断しても死なない環境に移れたことに安堵と後悔を覚えながら。

 それから数日間オレはメシを食って寝て起きてまたメシを食う生活を続けた。寮には窓みたいな不必要な設備はねえから時間の経過はわからねえ。もうとっくに狂った体内時計はあてにせず、オレは起こされたら起き、邪魔が入らなければ眠り続けた。体はどんどんだるく重くなっていき脳味噌は判断を忘れていく。飢えてたときにはあんなに敏感だった神経は揺さぶられても目覚めないくらいに鈍くなった。それでよかった。だってもう戦争は終わったんだろう。オレはもう鋭敏である必要と理由をなくしていた。
 そのうちよその部屋のうわさが流れるようになった。といってもオレの部屋に誰かが来たわけではなく、聞こえよがしに人間が立ち話するのが耳に入るようになっただけだ。信頼性ゼロの情報をオレはすることがない夜のラジオみたいに聞いた。
 まず「残党」はほぼ壊滅した、という話が手に入った。オレはもう抵抗していないからこれが嘘である必要はまったくなかったし、実際オレたちが敷いていた戦線とも呼べない軟弱な防衛線はオレが戦場を離れた時点でとっくに崩壊していた。みんな捕まるか死んだかした。オレはそれを真実と処理した。
 つぎに聞こえてきたのは先につかまった、つまり比較的早めに降伏したか、あんまり数を壊してねえうちに無力化されたやつらの処遇だった。そいつらはキョウセイされると声が聞こえた。頭の中をいくつかの単語が巡って、最終的に院でやるやつだ、と思い当たった。人間を型にはめて規則正しくするやつだ、矯正だ。「正しい倫理」を、「臨時政府」の定めた「基本的人権の尊重」と「人間とアンドロイド双方が共存する世界」のお勉強をするらしかった。たぶんそれはうっかりアンドロイドを壊した程度か、あるいは「殺した」と思ってしまってる人間向けだろうとオレは思った。
 やがてもうちょっと近しい身分のやつらの話も聞こえてきた。殺人、と立ち話のやつらは言った。いくら「内乱」中とはいえ、複数人を殺してはねえ、と憐憫のような声が聞こえてきた。複数人。オレが壊したアンドロイドはいったいどれだけだったか? 数を数えるのは最初からしなかった。人殺しとはわけが違う。とにかくそういう「殺人犯」は、刑務所に行くらしかった。といっても戦争のあとの刑務所がまともに機能してるわけがねえ。そこまでで話が打ち切られたのでオレは新聞に戻った。
 そう、新聞をオレはちゃんと読むようになった。仲間の生き死にもそうだが、そこには新しい世界の秩序がわかりやすく書いてあり、オレ程度の脳味噌でも世界はがどうなりたいかが手に取るように見える。
 世界はオレたち抜きに立ち直りつつあった。道路が舗装され、水が出るようになり、食料は安定して工場から運ばれ、人とアンドロイドは机を並べて仕事に戻った。少なくとも表向きにそういう顔ができるくらいには、落ち着きつつあった。
 オレたちは切り取られた腫瘍みたいにぷかぷか浮いて行き場がなかった。「臨時政府」もまずその数に手を焼いてることはすぐにわかった。学校やこういう寮みたいな施設はすぐに接収されてオレたち未処理の人間がつめこまれた。オレはここしか知らないがそこには怪我人も病人もいるだろう。この「戦争」しか知らない奴らは悪夢に怯えているかもしれない。でもそういうことはもう新しい世界とは何の関係もない。悪い部分は切り取られた。それは本当は廃棄物になるはずだった。だけどあいつらは死を拒絶した。耳ざわりのいい言葉を使って。
 最初は三面記事だった。「戦争犯罪者」の扱いをどうするか、「臨時政府」が苦慮しているということが書かれていた。つぎに投書欄に「残酷だが即刻死刑を」という人間の投書が載った。オレはそれを当然だと思った。だが政府はそうしなかった。社説つまりはアジテートを担う欄で「人権への配慮」を訴えた。
「我々はすでに多くの死を経験しすぎた。これ以上無駄な死を重ねることに何の意味があるだろうか?」
 オレはそれを読んで鼻で笑い、アンドロイドと交代でやってくる人間のほうの看守にオレはいつ死刑になるのかを聞いた。看守は表情ひとつ変えずそういうことはないだろうと思います、と言いまた口をつぐんだ。どうやら戦犯には死すら与えられないようだった。毎日重なる新聞の記事がそれを裏付けた。「心ある」アンドロイドたちがオレたちのために署名を行ったと読んだ。遺族会が猛反発して「戦争以前」の犯罪者には穏やかな戦後の法を適用してはならないと主張したと読んだ。有識者が法的な解釈をするのを読んだ。未来を担う子供たちに死刑を見せるべきではないという意見を読み、制裁としての死刑を肯定する意見を読んだ。
 そのあいだオレたちは毎日無駄飯食らいを続け、部屋はきちんと空調がゆきとどき、シーツは三日に一度交換され、シャワーを浴びることができ、ちょっとした切り傷には絆創膏が支給された。すべて「以前」ならありえないことだった。オレは一日八時間眠り朝と晩に適度な運動を許され、まだ未決囚だから作業のようなこともしないでよく、最初は飯と新聞の時にだけ許されていた義手の装着もそのうちずっとしていていいことになった。
 オレの義手は二度と戻ってこないに違いなかった。あれは戦争のための道具で人を殺すための道具でアンドロイドを壊すための道具だった。そういうものはとっくに溶解炉に投げ込まれてビールの缶かなにかに生まれ変わっているはずだった。オレはひよわなピンセットみたいな義手で毎日ポリッジを食い新聞紙をめくった。それはちっとも「人間」らしくはなかったがオレにとってはもはやそれはどうでもいいことだった。
 そういう生活をしているとどうしても考え事をすることが増えた。
 オレがまず思うのはまだ生きているらしい仲間や「キョウセイ」を受けた仲間のことだ。新聞の抗議文によると、キョウセイというのは二十世紀どころかそれ以前のやり方で脳を物理的にいじくりつつきまわして攻撃性を消してしまう方法のことだった。されたやつは頭蓋骨に穴をあけたままにこにことほほえんで一生を終える。これはわりとはやく判決がおりたやつらにされた処置で、オレはそれでは許してもらえないことが風のうわさでわかった。
 同じ施設にはオレと同じくらいアンドロイドをぶっ壊した奴らが収監されていた。直接連絡を取ったことがあるやつこそいなかったものの、末期のゲリラ戦をやるあいだに名前か根城の場所を聞いたことがあるやつらは少なくなかった。そいつらはオレと同じく飽き飽きした生活を続けるか、あるいは「反省」して悔い改めるような手紙を書いて実はついているらしい弁護士にそれが渡り、新聞に載ったりした。自分がいかに「差別的」で「とりかえしのつかないこと」をしたかが感情山盛りで書いてあるその手紙の最初と最後だけをオレは読み、真ん中をだいたい想像してから読んで、やっぱりその通りだった。
 次に考えるのはオレ自身の処遇のことだった。死ぬ以外にいったいどうなるのか見当もつかない。殺すならさっさとするのがアンドロイド流の合理的な判断のはずだったがそうではないところを見るとオレは生き延びてあるいは動物園のパンダみたいにショーケースに入れられる可能性もあった。オレはその想像にうんざりしながら今の「臨時政府」ならそれをやりかねないことも理解して、頭を振って伸びてきた前髪を払った。ここに入ってから週に二回床屋が来て刃物を持たせられないオレのひげを剃るのが続いていたが肝心の鋏は一度も髪に入っていない。
 それからオレは「戦争」の反省をした。もっと有効に効率的に戦う方法はあったはずだった。オレは自分がどこで間違えたのか、引き際を誤ったのかあるいは手を緩めすぎたのか、そういうことをつらつらと考えた。訓練所でやったストラテジーゲームの応用編のようなものだったが、残念ながら正解はなく、オレはどう考えても長くて一ヶ月「戦争」を引き延ばすのがやっとだった。
 そうして考え事が尽きてしまうと、オレはどうしても相棒のことを考えざるをえなくなった。家族や同期や友達のことを考えようとしても最後にいたるのはいつもそこだった。オレの目の前で死んでいったあいつの敵討ちを結局オレはちっとも果たせないままここでのうのうと生きて寝て食って生かされているのだった。そう思うたび首の付け根のところがきしんで脳に回る血液が一気に増え、心臓のあたりが燃え上がる。息が上がって苦しくなりかっぴらいた目から涙がぼろぼろこぼれる。床を叩くと樹脂の下のコンクリと金属の義手がぶつかる雑な音がして、それが続くと看守が呆れたようにやってきて水と薬を差し出してくる。それが古びた鎮静剤であることをオレはわかって飲みくだす。十五分もそのまま震えているとやっと手足のこわばりがとれて体温がふつうに戻りひゅうひゅう鳴っていた喉も開いてくる。そのままオレはベッドに倒れこんで眠る、うまくいけば朝まで、そうでなければ夜半にもう一度同じ薬を飲んで眠る。朝になると全身にだるさだけが残っているが、刑務所には規律があるからオレは正しい時間に体を起こしてまた粥を食う。

 ついているらしい弁護士はいっさいやってこなかった。オレの裁判は始まってすらいないらしい、よくよく考えれば調書もないし刑事か検事かしらねえが取り調べも受けていない。オレたちのことはあとまわしでいいということになったらしかった。新聞には新しいビルや空港の完成や貿易の再開、映画の封切、チャリティーライブの知らせが並んだ。それはすべて「臨時政府」が世の中がうまくまわっていることをコマーシャルするための記事だったが、そうわかっているオレでもたしかに世界が順調に回り始めていることは認めざるをえなかった。「市民」はおぞましい戦争のことを忘れ、輝かしいまばゆい未来について考え、行動することが推奨された。警察が整備され事務方のトップに人間が、実動隊のトップにアンドロイドがおさまった。機械のやつらは話が早いからすべての「不良品」の交換が終わったことがじきにアナウンスされた。人間のほうも「交換」は進み、かつての権力者たちが終身の禁固刑を言い渡され、新しい思想を持った三十そこらのやつらが空いた椅子に座った。
 そのあいだオレたちはずっと間に合わせの刑務所にいて、毎日毎日毎日気が狂うほど同じことをした。オレは脱走を考えることを忘れていたことに半年くらいして気が付いたが、そのころにはもう人間ひとりが脱走したってどうにもならないくらい世界は均されていた。国営のスーパーやコンビニがオレの知らない看板を出して民間企業が再起するまでのあいだをつなぎ、壊滅した市街地には新しい都市計画が敷かれてオレの育った街並みは消え失せ、そもそもオレは両手をなくしたまま人ひとり殴れないような格好で生きていた。
 生きていた? そうか、死ねばよかったか、オレは死にぞこないか。オレは相棒の幻覚に襲われるたびにそう思ってときに頭を壁にぶつけ、指先代わりのまるみのついたピンセットで腕をほじくり、かかとの骨を砕けるくらい床にたたきつけた。そのたび看守が飛んできて薬を見せた。オレは最初はおとなしく飲んでいた。それを飲めば逃げられると思っていた。だがそれは間違いで、夢もみない化学的な深い眠りのあとにはいつだって後悔が待っていた。オレは相棒にすら向き合えない弱い男だということが心臓を締め付けた。発作のように襲い来る絶望感、希死の思い、痛みを求める感情はオレを自傷にはしらせ、かといってこの部屋にあるもの一切はオレを死にいたらしめず、生傷と投薬ばかりが増えた。
 そのうち体のだるさが当たり前になって、オレはこれはまずいのではないかと気が付いた。義手は三度ほど付け替えられて今ではものをつまめるスポンジの洗濯ばさみみたいな機能しかないものになっていた。薬を飲んで眠って起きては荒れてまた薬を飲むから、日付の感覚もあいまいになっていたし、足回りの筋肉が一気に落ちた。鏡をくれと看守に頼んで見た顔は寝続けているのにくまがひどく、前よりも頬骨が目立っていた。それは情けない弱者の顔で、戦争に負けて萎えさせられた生き物の顔だった。だが生き延びてしまったからには生きるしかなく、なによりまだなんの裁判も始まっていない状態でくじけるわけにはいかなかった。
 毎日襲われる死を望む気持ちに対してオレは自傷をやめた。かきむしりたい喉をかく指はなく、オレはベッドに額をおしつけて獣のようにうなりながらひたすら耐えた。死ぬ方法はない、死ねない、生きるしかない、それならせめて恥じないように生きる。薬の回数は激減して、オレは調子のいいときを見つけては部屋を歩き回り、ベッドを上り下りして落ちた体力の回復につとめた。
 相棒のことを思い出したときはその死ではなくそれ以前の楽しかった時間を考えるようにした。例えば一緒に食いに行ったラーメン屋のことや飲んだ酒、くだらない会話のことをなるべく細かく思い出し、生きていた相棒のことをせめてオレだけは忘れないようにしようとした。当然それはその大事な大事な相棒を殺したやつらへの恨みと怒りにつながるが、オレはそれをいつやってくるかわからない法廷にぶつけようと決めた。だがそれはいっこうにやってこなかった。
 毎日餌が差し入れられ、それを食ってから自分で決めた運動をして、新聞を読んで世界が順調になめらかに動いていることを知り、あとの時間は考えたり逃げたり負けたりして、たまに看守としゃべる。そしてたまに耐え切れなくなって、薬を飲む。そういう日々が続いた、どれくらい続いたかオレが取りこぼすくらいに続いた。そしてある日、ようやく弁護人がやってきた。
「国の依頼で弁護人になりました。私が不適当と思われた場合、あなたは二回まで弁護人を交代する権利があります」
 そいつはまだ大学を出たてなんじゃないかというくらいの若造で、首が細くて、たぶん誰のこともまだ殴ったことがない、そして生涯たぶん殴ることはないような男だった。事前に法律で取り決められたままにオレの権利が読み上げられ、オレはそれを聞いたという旨の書類にサインをし、弁護人はさて、と言って鞄から分厚いファイルを取り出した。
「では、どの罪からやりましょうか」
 それでオレも今度は心底、こいつがオレのためにやってきたのではないことを悟り、だが交代させてもたいして変化があるはずもなく、どうせ仕事を押し付けられた頭のそんなに良くないやつが来るのは確実なのだから、オレは独りで闘うしかないと思った。
「一番上から頼む」
 オレはそれだけ言って、あとはそいつがとうとうと読み上げるオレの「罪」に対してそれをした、それはしていない、という確認に首を上下左右に振るだけにした。それが朝十時から夕方の六時まで、一時間の昼飯を挟んで五日続いた。五日目の夕方にそいつがファイルの最後の紙を読み終えたので、オレはようやく終わりかと思ってコップの水を飲んだ。そうしたら弁護人は鞄から新しいファイルを取り出して、また読み上げ始めた。オレの「罪」はいったいどれだけあるか知れなかった。アンドロイドひとつひとつにふられた機体番号と名前の数だけ「殺人」があり「傷害」があり、それ以外にオレは武器を集めたり人をまとめたり施設を破壊したりしたことで吊るし上げられているらしかった。
 結局「罪」の確認だけで二週間がかかった。弁護人というのは土日はきちんと休める仕事らしく、都合十日を要したことになる。オレはその間ほとんどしゃべらず、首でイエスとノーを示しただけだった。最後に弁護人は製本されたコピー用紙の束の一番最後のページを指さして、サインするように言った。
〈以上の罪状についての供述は確かに私がしたものであると確認しました〉
 そう書かれた下にオレは不格好なマニュピレーターでペンをつまんで名前を書き、市民IDを書こうとしたところで止められた。そいつが言うには「そっち」はもう廃止されて、新たに人間とアンドロイドに共通して振られる番号が発行されたらしかった。ご存じなかったのですねとそいつは同情的に言い、ただし収監されている容疑者に対しては住所がないため新IDは発行されておらずオレはこの肉体と名前だけを仮登録されているだけだということを伝えてきた。オレはもう面倒になって、ああそうか、じゃあオレの仕事はこれで終わりだな、と言い捨てて席を立った。歩いて五歩のところにあるベッドに腰かけると、弁護人はそれではまた次回、来週の月曜日にお会いしましょう。と言って部屋を出た。出た瞬間に弁護人のIDを感知した檻がロックの準備をして、扉が閉まったらすぐにガチャガチャとうるさい音がしてすべての鍵がかかる。
 オレはぼうっとどうして新IDのことを読み落としていたのだろうと考えながら、二週間で読み上げられたアンドロイドの数を途中から数え落としてしまって結局どれだけ自分があいつらを壊せたのかを把握できなかったことを悔いた。だがそれが五十だろうと百だろうと千だろうとオレにとってはたったひとりの相棒を亡くしたことに匹敵するわけもなかった。またぞろオレの頭の中を相棒の面影がかすめて、訓練中に組んだ少し高い位置にある肩の筋肉の動きや、与太話をしている間にあいつが立てた笑い声の余韻や、そういうものがもうない手の中や耳の穴の空間に蘇るのを感じて身震いした。オレはかぶりを振り、ベッドの上に横になり半分の腕をピッタリ体の脇につけて腹筋をすることにした。十、二十と数える間に腹から息を吐くことに集中して相棒のことを頭から追い出そうとした。すればするほど相棒の影は色濃くなり、代わりに入力してもらった勤怠表のことや夜の見回り中にこっそり食った肉饅頭やなにより相棒が目の前で物理的にいなくなってしまったあの瞬間の頭が失血でガンガンして何も考えられないのにその事実だけはわかってしまったときの気持ちが湧き出てくる。オレはがんがんと扉を鳴らして看守に薬を頼んだ。すぐにいつものやつがぽいと投げ込まれて、オレはそのプラスチックの包装を潰して開けて中の青い錠剤を口に放り込んで蛇口から直接水を飲んで腹ん中に落とした。しばらくしてじんわり眠気のような怠さのようなものが胸の奥からにじみ出てオレはそれになるべく引きずられるように意識を動かし、瞬きをやめて目を閉じてまだ考えたがる脳をオフにするために、むかしむかしあるところにから始まる子供のためのおとぎ話を思い出した。お姫様が悪い竜にさらわれたあたりでようやく溺れるような遊眠感がやってきて、そこでその日は終わった。
 翌朝はやいだろう時間に目覚めると昨日の夕飯のかぴかぴになった粥がテーブルの上に出ていた。常夜灯は部屋を薄暗く照らして頭の角度を変えるたびスプーンの曲面がぎらっと光った。オレは立ち上がってドアの覗き窓から廊下の時計を確認し、深夜か明け方の三時半であることを見て、もう一度ベッドに戻った。いまから廊下の端の椅子に座っているだろう看守にもういちど薬をもらうのは嫌だったし、それに薬を使った後の常でいろいろなことを細かく思い出そうとするたびにその輪郭線はぼやけ、言葉は文字を失ってあいまいなぶよぶよしたものに堕し、体の発する腹が減った、まだ眠い、というプリミティブな欲求だけがようやく感じられる。だからオレはもう今日は相棒のことは考えなくて済むと思い、相棒の顔を思い出そうとして出てきたのは二週間顔を突き合わせた例の弁護人で、それで薬というやつがただの鎮静剤ではなくて、ある志向を持ってオレの記憶をマスキングしていることを察し、だからといってそれは悪ではなく百パーセント善意で「オレのため」にそうなってるしその事実を覆す理屈をオレは持っていない。寝転んだ体の脇のタオルケットを肘でかき集めて腹に乗せた。猫のように暖かかった。

 弁護人はその言葉通り翌週の朝にまたやってきた。オレは粥を食い終わって新聞を読んでいるところで慌ててたたもうとすると、ああいいです続けてくださいと言う。なので三面記事のどうでもいいコラムまでじっくり読んで今へんな民間療法が流行っていることを知ってから新聞をベッドに放り投げて机の上を空けた。
「先日罪状についてはご確認いただきましたので」
 弁護人は続けて公判の手続きに入るためにこれから聴取があります、と言った。オレがうなずくと扉が開いて今度は頭の切れそうな男と女が一人ずつ部屋に入ってきた。これからの聴取はすべて録画録音されてどうのこうのという能書きを弁護人が言い、オレはまたなんらかの書類にサインをして、それで弁護人は出ていき聴取を担当するらしい警官だか検事だか知らないがふたりが残った。
「供述は拝見しました。我々の調べと齟齬がある部分のみ聴取を行います」
 女がそう言って、オレはまたいちから機体番号と名前を聞かされ、オレがやったと言った「殺人」について違う人間がやったという証拠が出てきたが本当にやったのか、武器はどう集めたのか、爆薬はどこから入手したのか、そういうことを聞かれた。今度の聴取は基本的人権とは無関係のようで、オレは三時間寝ては五時間聴取を受けるというサイクルをひたすら繰り返した。むこうはふたりだからいいがこっちはオレだけなのでそのうち薬を飲まなくても脳が霞がかってよくわからなくなってくる。録画録音してるって言ったってオレがこのザマじゃあ何の意味もねえ。そう思いながらオレは眠気を振り払ってなるべく向こうの言うことを聞き、反論できるところは反論した。たとえば武器弾薬についてはオレの頭はまだしっかりしていて、それは訓練学校の倉庫からかっぱらってきただとか、オレの義手はもともと支給品だから記録が残っているだろうとかそういうことを言えた。「殺人」についてはそもそもオレはアレを人殺しだと認める立場をとらないし、行きずりのぶっ壊れたアンドロイドにとどめを刺すときに住所氏名を聞くようなバカはいない。だからそっちは位置情報なんかを持ってるはずの向こうの言うことが本当なんだろうと思ってたいしたことは言わなかった。
 聴取の最中にオレの罪状はさらに増えたらしい。いったん男と女が退出した後、弁護人が現れて最初にやった確認を追加でやらされた。それについてもう一度聴取が発生するということを聞いてオレはうんざりし、いったい法廷にたどりつくまでにあと何年かかるのかと絶望した。そしてまた弁護人は帰ってふたり組が現れ、聴取が始まった。八時間のルーティンが絶え間なく繰り返され、合間合間にオレはかろうじてメシを食い、寝て、風呂に入って、人間としての代謝を維持した。相手はずっと正気だったが、それが人間特有の神経質さからくるのか、アンドロイドが単に最適化されたままに動いているのか、もう判断は難しいくらいにオレは疲れていた。
 オレたちがしたことの意味を、オレがなんでおまえらを壊して、オレの世界を無茶苦茶にしたおまえらの世界を無茶苦茶にしようとしたのか、それを言う、主張する、記録に残す、それだけがオレの望みで生きる綱で正気を保つよすがだ。オレの両腕がなんでなくなったのか、オレの相棒がどうして目の前から文字通り忽然と骨も残さず消えてしまったのか、オレはどうしてもこの新しくなった世界と国とそこで生きているやつらに知らしめてやりたかった。
 二時間半の睡眠と十分ちょいのシャワー、同じくらいの食事時間、余ったら髭を剃ってもらい、爪を切って、部屋をむやみに歩き回ることが減ったせいで柔らかくなった足の裏をもむ、そういうことをしなくていいあいつらとそれに与したオレと同じ人間ども、そいつらには「大事な人」が設定されてたり、生まれつき存在していたりするが、今世界は「戦争」が終わって奪われることが極めて少なくなっていて、進化した人工知能が制御する街には事故も事件もほとんどない。いつのまにか臨時がとれた「政府」の発表ではそうなっていて、オレの知っている世の中はどんどんかき消されて、新しいビルが建って人が入れ替わりその半分はアンドロイドになっていく。なぜならやつらには意思があり感情があり「政府」が人権を新しい法律できちんと定めてやったから。ふざけんな、糞食らえ。そう思っている数少ない人間たちはきちんとクレンジングされていった。思想犯ってやつだ。オレがいた世界にもなかった物騒な言葉は柔らかくアレンジされて、脳の特定の野の活動を衰えさせる薬が投与される刑が新しく生まれた。その薬をやると人間は攻撃性が萎えて非常に穏やかで優しくなる。そういうふうにすることで「我々は人々の権利を侵すことなく治安の維持を実現することができた」と「政府」は言い、新聞の調査によれば世論の九十八パーセントはそれに賛成しているという。オレはそれを読んで、いよいよオレがこうしてここに収監されて生かされているのが見せしめと本当の意味での戦争の終わりを作るためでしかないことを理解する。オレが、あるいはオレと同格の人間たち全員が正しく裁かれて死んだら、ようやく戦争は終わって新しい時代が訪れるのだ。オレは新聞をゴミ箱に叩き込んで次の五時間の始まりを待った。

 聴取はある日突然終わった。これで終わりですと男が言い、女が次にお会いするのは法廷ですと続けた。その捨て台詞みたいなやつをオレは大昔ドラマで見たことがあったがまさか自分が言われる側になるとは思っていなかった。オレはまだくらくらしてる頭をスポンジ洗濯ばさみの先端で叩いてからお疲れさまでしたと言い、相手がふたりとも怪訝そうな顔をするのを見てああどうやらこいつらは人間だと思った。ふたりは広げていた資料やらなにやらを片付け、オレのサインが必要な数揃っていることをダブルチェックで確認し、部屋を出ていった。代わりに看守が入ってきて粥と、それから寒天みたいな半透明の甘い食い物をくれた。それがねぎらいの意味を持っていたかはオレにはわからないがありがたくいただいた。そういえばオレはもうしばらく本当に粥しか食っていなくて、ふつうそういう偏った食生活を送っていれば十九世紀に絶滅したような病気になるものだが、いっこうに健康なままでいるところを見ると粥は粥でふつうの粥ではないらしい。あるいはそこになにか薬かを入れられている可能性も考えられたが、そこまで考えるほどオレは暇でもなければ自分の思考を精緻に追うこともできなかった。とにかくまとまって眠りたかった。オレはベッドに横になるとすぐに眠りに落ちた。
 次に目が覚めたのは昼過ぎだった。起きてから机に朝飯が置いてあるのを見て慌てて時計を確認し、起こされなかったことに不審を抱いた。死刑囚が惰眠をむさぼることを、最後の晩餐に好物を食うことを許されるように、オレもそちら側に行ったのかと思ったが、それならあの聴取も弁護人とのやりとりも必要ないはずだった。オレは戸惑ったままとにかく粥をたいらげ、配られた新聞を読んだ。そこにはでかでかと「裁判遂に始まる」と書かれていた。そうか、それはオレのことか。オレもずいぶん偉くなったんだなと思ってから記事の本文を読むと、まとめて十五人ほどが並行して裁判を受け、オレはそのうちの後ろから三番目に名前があるだけだった。やっぱりたいしたことはなかった。オレはそれから再開されたサッカーのリーグにアンドロイドと人間の数をそれぞれ制限する新しいルールが導入された記事を読み、旧制度下で発行されていた貨幣の交換期限がもう半年後に迫っていることを知り、アンドロイドの間で死ぬ動物をペットとして飼うことが流行り始めているというニュースを見た。どれもこれもどうでもいい、世界がきちんとまともに動いているという国家レベルの広告だ。そう思ってからいや待て、オレだけが取り残されてあとの全員はこのきちんとまともな世界に順応しちまったんじゃねえかと言う考えがよぎった。それはぞっとしない想像で、オレと名前が並んだ十四人も「キョウセイ」を受けたやつらや反省文を書いたやつらみたいに「心から」反省して悔い改めている可能性はゼロではなかった。オレだけがひとり腹の底に熾火を抱えてこんなところでじりじりと復讐を考えているのだとしたら、オレはいったいどれだけの人間とアンドロイドを相手にひとりで立ち回らなければならないのか。
 オレは新聞を机の上で畳んで、ベッドに戻った。オレの頭がまだいかれてなければ今日は風呂がある日だ。ストレッチ素材の下着(ゴム紐は自殺に使われるからこういう場所にはない)を一日分の替えしか入っていない棚から取り出して枕の脇に置き、まだ後頭部に残るだるさをもてあましながら、オレは看守を待った。
 しばらくしてたぶんカメラを確認してから来たのだろう男がオレをシャワールームに連れていくために鍵を開けてくれた。下着を義手に挟んでオレはぶらぶらと廊下を歩き、さすがに聴取前と比べると平衡感覚やら基礎体力やらが落ちていることを確認し、突き当りにあるシャワールームまで行った。下着を放って服を下着ごと脱ぎ、看守に腕を差し出すと男はオレの腕から義手をはずしてくれる。前のやつと違って物理的に神経とつなげるための装置みたいなものはなくてよく、そこにはオレの腕の中身をほじくって伸ばした皮膚で無理やり綴じた縫い目だけが現れる。そのままシャワールームに入れば暴風雨みたいな細かい水滴が一斉に襲い掛かってくる。エアカーテンで仕切られた向こうで看守がオレが変なそぶりをしないか見ているが、そもそもここには何の道具もないしオレには腕がない。どうしようもないのだ。そのうち人体洗浄に特化した不格好なロボットが現れて、オレの頭を洗い、全身をボディーソープで清めてくれる。オレはその間ずっと立ってるだけだ。「足の裏を出してください」とか指示がとぶときだけその通りにする。もともとはたぶん介護用だったんだろうロボットは丁寧にオレを洗う。こいつも機械だ。たまたまアンドロイドほどの知能を与えられなかっただけで機械だ、アンドロイドと何ら変わりがない。オレは違う。オレは生きている。人間だ。泡まみれになったオレを残してロボットが退出すると、またスコールみたいにシャワーがぶっかけられる。下からも吹き上げるから台風か。泡が重力に従って床に流れておちて部屋の隅にうまいこと傾斜のついた排水溝に流れていく。オレは目をすがめながらそれを見ている。三日に一度のこれが風呂だ、オレを清潔に保つ、人権をちゃんと尊重している新しい社会の、これが正しい待遇だ。
「篠突く雨って知ってるか」
 ふいに相棒の声がよみがえって、まだやまないシャワーのなかでオレの背筋がぞわっと粟立つ。いつだ? いつだろうか。どしゃぶりの日にした無駄話のはずだ。こういう雨粒がひっきりなしに天の上から落ちてきてオレと相棒は足元をグシャグシャに濡らしながら道を駆けていた。オレはああ?と聞き返したと思う。言葉も知らなかったしそもそも音がまともに聞こえなかった。相棒はしのつくあめ、と繰り返して、しのつく、あめ、と区切ってもう一度言った。
「こういう空から槍が降るような雨のことをそう言った、昔々、まだ世界に自然物がたくさんあって人間が言葉を草木に託していたときに」
 相棒はそう言って目を細めて、篠、があらわすものがもうこの国にはほとんどねえんだと言った。オレはここ育ちだからあの山野でのゲリラ戦以外で今まで目にした緑はほとんどがオフィスにあるフェイクグリーンだ。そいつらは電気で動いて空気を清める機能があるから雨には打たれない。へえ、そうか。オレはそう返して、どれだけ発展しても雨傘から逃げられない都市の造りのほうに文句を言ったと思う。
 じんと切り口が、縫い目がはちきれそうに痛む。オレの膝は勝手に震えて、また悪い風邪の発作みたいにぶりかえしそうになる。オレはかぶりをふってエアカーテンの向こうの看守にもういいから温風に切り替えてくれと合図をした。男が手元でトグルスイッチを切り替えるといっきに雨粒は消えて代わりに生ぬるい風が全身を包む。体中をしたたっていた水滴が吹き飛ばされて乾き、じっとりと湿るのは頭と股間の毛が密集してる部分だけになる。風がやむとまた介護用のロボットがやってきて髪にドライヤーをかける。オレはそのあいだようやく消えてくれた幻影のことを思いながら両腕で体を抱え込んでがたがた震えていた。ほんとうはしゃがみこんでしまいたかったがそういう不用意な動きをここですると面倒なことになるのがわかっていた。
 ようやくシャワーのいっさいの手続きが終わって、オレは義手を取り付けてもらうと持ってきた下着と用意された囚人服を着る。労働をするわけではないし空調は完備されているからからごくごく簡素なパジャマとも言えない薄っぺらい布だ。それを着て囚人用の雑に縫われた布の靴を履いて、また廊下を歩いて部屋に戻る。そのあいだじゅうオレはいつまた相棒の影がさすかわからないことに怯えている。
 部屋に戻ったオレは食事が新しいものと取り換えられていることを知り、おとなしく机に座っていつものポリッジを食った。今日はデザートはなしでやっぱりあれは聴取に耐えた褒美だったんだろうなと思う。あらかた食い終わったところでさっきのとは違う男がやってきて、小脇に抱えた端末に表示されてるらしい文書を読み上げた。
「明日法廷に出廷のこと。拘束時間は午前三時間午後五時間の八時間。弁護人は変更なし」
 それでいいかと聞いてくるがべつだん不服もないので了承して、表示された画面にサインをした。とうとう戦える日がやってきた。オレとオレの仲間たちとなにより相棒とが世界に復讐をする日だ。ちぎられた腕の残りは炭化して粉々になりとっくに雨に洗い流されてるが、オレの中にいる死んでいった仲間たちと相棒は消え去りはしねえ。たとえそれがオレを苛んで苦しめる幻影だったとしても、オレはやつらがいるから逆説的に正気でいられる。弁の立つほうじゃねえのはもとから承知の上だ、オレは与えられた喋る機会すべてを生かしてどうしてあいつらが死ななきゃいけなかったのか、オレが腕と相棒を失くさなきゃいけなかったのかを問い詰めなきゃいけない。
 それでその日オレはおとなしく残りの時間をストレッチと運動をして過ごし、取り換えられた毛布にくるまって寝た。翌日からはひたすら考えた。オレがやるべきことは死刑を回避することでも自分の罪を弁明することでもなく、ただなんであいつらが死んでおまえらが生き残ったのか、その理不尽さ、不順当さ、そういうことをつつきまわすことだった。どうして相棒は死んだんだ。どうして仲間たちは死んだ、路地裏で、倉庫の中で、生まれて初めて触った泥の中で死んだんだ。アンドロイドだけじゃねえ、のうのうと生き残って素知らぬ顔をしてる人間どもも同罪だ。どうしてオレたちを殺した。どうして殺した、屑みてえに、ゴミカスみてえに。

 ようやくやってきたその日に、オレは早朝から理容師の手によってていねいに髭を剃られ、伸びきった髪を整えられた。それからずっと着せられていたパジャマみたいな服を脱いで、襟のついたシャツとそこそこまともな生地のスラックスを穿かされた。はだしのまま革靴を渡されたので靴下を要求したが用意がないのでかかとを踏んで履いた。そうして出来上がったこぎれいなオレにはやっぱり腕はなく、今日はとくに書くものもないらしいので何の機能もついてない見た目だけ人の腕にそっくりな樹脂の手が取りつけられた。
「九時に開廷します、三十分前には裁判所についている必要がありますので、あと十五分でここを出ます。準備を整えてください」
 急に敬語になりやがった看守をオレは鼻で笑って、というのもオレには準備するべき手荷物はなにひとつなく、そもそも棒っきれのほうがまだマシなこの腕でどうしたらいい。そういえば今朝は新聞は読んでないがめくるために腕を付け替えるのも面倒だ。オレは十五分間黙って座っていた。看守が時計を見てオレを立たせ、どれくらいぶりだろう、オレは慣れ親しんだ建物を出て一瞬外の世界に触れた。
 建物はあらかた建て直されており、オレたちの「戦争」でぶっ壊れたあとはもうどこにもなかった。整った街を歩くひとは人間だかアンドロイドだかさっぱり区別がつかず、それは以前以上に度が増していて、でもよく考えりゃあケインさんのことだってオレはなにひとつわかっちゃあいなかったんだから、もとより区別なんかついてなかったんだ。
 ケツを押されてオレは護送車に乗り込んだ。客はオレひとりだった。オレは長椅子に座って天井のガラス窓から差し込んでくる太陽の光を眺めた。それはとっ捕まる前よりずっと鮮やかで美しく見えたが、どうせガラスを加工する技術がより発達しただけのことで、オレの心情のせいではなかった。
 車はきわめてなめらかに、というのも多分もう道路をきちんと整備するくらいには「政府」様は落ち着いていて、だからオレは途中で居眠りするくらいにゆっくりできた。扉が開いて裁判所の人間かアンドロイドかわからねえが、女が入ってきてオレに手錠をかけた。手錠も何もオレのそれは偽物だから何の意味もないのだが、とにかくオレは罪びとでそういう扱いをされるらしかった。地面に据え付けられた二段の階段に足を落とした瞬間いっせいに電子音が鳴った。それは報道のカメラのシャッター、シャッターという機能はもうないが慣用的にそう呼ばれるものが切られる音で、つまりオレは衆人環視のもと、静止画と動画を撮られていた。親が見るかもしれない、と一瞬思い、それからオレはひさしく親のことを忘れていた自分に気づいた。捕まってからの長い時間あれだけいろいろなことを考えたのに、オレは親のことなんて一秒たりとも思い出したりはしなかった。まだ生きているんだろうか。「戦争」に巻き込まれたりしたんだろうか。オレが逮捕されたのを見てどう思ったんだろうか。そういうことを考えながらオレはうつむかず裁判所の正門をくぐり、大仰な扉を通って、控え室の中に入った。光彩でオレがオレであることを確かめられたあと、オレには予定通り三十分の猶予が与えられた。そのあいだに弁護人が来てオレになにか減刑のための理屈はあるかと聞いてきたがオレは答えなかった。そんなことを望んで今日連れて来られたんじゃねえ。
 やがて時間が過ぎて弁護人は退出し、先導されてオレは法廷の中に入った。生まれて初めて入るそこはやたらと光る木製の設えが古臭い場所だった。オレが座る椅子の真横にオレが立って受け答えをするためらしい手すりのついた一段高い台があった。向かって右側にオレの取り調べを担当した男と女が、左側にさっきの弁護人がいた。真正面には裁判官が座るはずだった。
 全部がどうでもよかった。オレは裁かれに来たんじゃねえ。理由を知りに来たんだ。
 やがて時間になったらしくベル(ベル!)が鳴り、黒い装束を着た裁判官が三人入ってきた。ぼそぼそもごもごと開廷の言葉をしゃべったあとそいつらは席に着き、代わって右側の検事らしいやつらがこの間の聴取の時に聞いたような罪状を述べ始めた。殺人が五百いくつ、障害が千とすこし、家屋や公共施設の破壊がどうこう、オレの「戦争」での大活躍っぷりをそいつらは並べ立てた。それから検事たちはオレのやったことがいかに極悪非道で残虐で偏見に満ちていて暴力的で救いがないかをさかんにわめいた。アンドロイドというだけでひとを殺し、抵抗する意思のなかったものにたいしてきわめて冷酷に息の根を止め、あるいは怪我を負わせ、……まあとにかくそういうことを言った。それは新しい法律の下で完全に人間とアンドロイドが平等になった世界での物言いだった。アンドロイドが損傷することをやつらは「怪我」と言った。壊れて動かなくなることを「死亡」といい、人がそうすることを「殺害」と言った。オレには全く馴染みのない文法でそいつらはオレの「罪」を語った。その全部をオレは鼻で笑いながら聞いていた。どれもこれも胸のひとつも痛みやしなかった。なぜってオレが壊したのはアンドロイドだけだからだ。唯一オレが建物を爆破したりしたせいで暮らしに困った人間には悪いと思ったが、それだって「あちら側」についてアンドロイドと仲良くやることに決めたほうがより悪いのだと思った。
 長い長い検事の話が終わった。裁判官はオレを見て「以上の告発に対して異議申し立てはありますか」と聞いた。
「あるね、おおありだ」
 うながされてオレは証言台に立った。一段高いそこからは検事と弁護士と裁判官が見渡せた。後ろを振り返るとたくさんの傍聴人――なかには例の絵を描いているんだろう、ペンを動かしているやつもいた。こいつらのすべてがアンドロイドと「融和」「協調」を選んだ腰抜け野郎どもだった。オレたちが「戦争」の前とさなかに何を失くしたかをすっかり忘れて、ともに手を取り合って良い世界を作ろうとしている共犯者だった。
 オレは裁判官に視線を戻して、証言台の手すりの柱をがんと蹴るとしゃべりはじめた。
「いいか、まずオレは人を殺したりなんかしてねえ。オレが壊したのは全部アンドロイドだ。人は、一人っきり、殺してねえ。それがまずおまえらと考えてることがまるっきり違うとこだ。おまえらは勝手に、オレたちのいた世界をなかったことにして、臨時政府だったか? あいつらの言いなりになってるけどな、オレは違う。アンドロイドは機械だ。オレたちは人間だ。人間には機械を作った責任がある、これは小学校でみんなが勉強する基本の考えだ。だからそいつらのネジが狂ってバカになったときには、オレたちが責任もってスクラップにしてやらなきゃいけなかった。ましてやあいつらは、なあおまえら、あいつらがなにしたかもう忘れたのか? 人を何人も何万人も殺しただろ。そいつらは機械のプログラムが狂わなきゃ死ななくてよかったんだ。そいつらの弔い合戦をオレはした。それで……まあ負けたからな、負けたから今オレはここにいる。だけどな、見た感じ半分くらいは人間だろ、おまえらはどうせ平等が好きだからな、そういうふうにしてるんだろ。人間ども、おまえら、自分の家族とかダチが何されたのか覚えてねえわけねえだろ」
 振り返って傍聴席を見回す。みんな馬鹿みてえにこっちを見て、睨みつけてやるとたまに目をそらす奴がいて、そいつは確実に人間だ。そうだ、恥ずかしいだろう。おまえらが急いで作りあげたハリボテのこんな世の中で、死んだやつらのことを忘れたような顔をして生きていることは恥ずかしいだろう。
「オレの話をしようか。オレにはたくさん仲間がいた。そんでみんな死んだ。『戦争』の前にも真っ最中にもたくさん死んだんだ。それに――オレの相棒。相棒は、『戦争』になる前だ、前に殺された。おまえらのうちで頭がおかしくなったアンドロイドのテロだ。オレたちはあの日ほとんど有効な武器なんか持ってなかった。治安はまだよかったんだ。パトロールの最中、あいつが先におまえらの仲間を見つけた。うずくまって、具合悪そうにしてるやつをだ。オレたちは無警戒だったから、そりゃ近づいたよ。当たり前だろ、故障かなにかだったらしかるべきところに連れて行ってやらなきゃならねえ。ところがそいつが下向いてた顔をあげたときには、遅かった。体中に巻き付けた爆薬だ。オレの目の前にいたあいつは吹っ飛ばされて、オレの腕も吹っ飛んだ。それがこの腕だ。おまえらコレが本物だとでも思うか? 見てろよ」
 作り物の腕を手すりにがんがんとたたきつける。皮膚がちぎれる感覚があって、留め具がはずれて、がたんと音を立てて右腕が落ちた。じりじりと焦がされるように痛い部分を無視してオレは言い募る。
「オレは腕持ってかれただけで済んだ。命はあったし、怪我も重くなかった。相棒は……オレの目の前にいて、オレの命を救う『壁』になったあいつは、ずたずたの破片になった。おまえら機械の組み立てなおせるパーツじゃねえぞ、肉だ、生の、ちぎれたらくっつかねえ、血まみれの肉だ。オレはそれを全身に浴びたんだ。相棒のかけらが体中にくっついた、血も浴びた、濡れるくらいに浴びたよ。それでもう相棒の一生は終わりだ。オレが失血で気を失って入院してるあいだにあいつの葬式も埋葬も全部終わった。だけど墓に入れるもんなんかなにひとつねえんだぜ? オレが退院してから行った墓はからっぽで、軍票だけはいってんだ。相棒の肉はオレの血まみれの体を洗うときに全部流れちまったんだからよ。いいか、死ぬってのはそういうことで、殺すってのはそういうことだ。おまえらがぶっ壊れてリペアに出せばいいのとは話が違う。取り返しがつかねえ……相棒はもう二度と生き返らねえんだ」
 たまりかねた検察側のやつが挙手して叫ぶ。
「裁判長、被告の発言は度が過ぎています」
「うるせえな。度が過ぎてるかどうか決めるのはおまえじゃねえ。だいたいなんの度が過ぎてるってんだ? オレの目の前で相棒が死んだときの話をもっともっと真に迫ってゲロが出るまで話してやろうか? オレが浴びた血の匂いと、肉が焦げる、おなじみのにおいと。人間も牛も豚も肉が焦げるときのにおいは同じだよ。サイコロステーキみたいに相棒のかけらはそりゃよく焼けたぜ。ウェルダンだ。オレの仲間だって何人もそうなった。おまえらが安全な場所でブルブル震えて『味方』が勝つのを待ってる間にだよ! おまえらがひよってアンドロイドなんかと手ぇ組んでこんなクソみてえな仕組みを作っちまうまえに、そういうことがあったんだよ! たくさん人が死んだんだ! そいつらには家族とか仲間とか大事なひとがいて、そいつらが死んでみんな悲しんだ! なのに今おまえらはそういう死んだやつのことも死んだやつの大事なひとのことも全部忘れて綺麗になった世界で平気なツラして暮らしてやがる! 人間のやつら、おまえらだよ、おまえらはどうしてオレらを裏切って楽しく生きてんだ。アンドロイドのクソ野郎どもと机並べて平気でいられんだ! ふざけんな……」
 腕をがっとつかまれて、オレの頭はぐっと押し下げられる。やばい、と思った瞬間に首の後ろにほんの少しだけ何かが触れる感触があった。

 目を覚ますと元の牢にいた。首をかすめたのはそういう薬だった。オレはゆっくり起き上がると看守に声をかけた。
「夜の六時です」
 看守は機械的に言って――それは前よりずっと不愛想だった。オレの義手は右手は皮膚が裂けているから取り付けられなかったようで、左手にだけいつものスポンジのやつがついていた。オレはそれで届けられた夕刊を読んだ。オレのことは三面記事にもなっていなかった。代わりにオレと同じ時間に裁判をやっていたらしい「戦犯」が「罪」を受け入れ、償う決心をしたということがでかでかとプロパガンダされていた。そいつの名前には見覚えがあり、一緒に戦線を張ったこともあった。そいつが屈したらしいことにオレはたいそう落胆した。ひょっとしてこの世の中でまだ「戦争」にたいして怒ってるのはオレだけなんじゃないかという気までした。だがオレは決してひとりではなく――というのもオレにはたくさんの亡霊たちがついていてくれるからで、そこにはあの時腕を焼いてやったやつもいれば、オレが十の打ち方から教えたガキもいれば、もちろん相棒もいて、それはオレの力になってくれるはずだった。
 しばらくしてこんこんとドアがノックされて、さっきの看守が夕飯を運んできた。メニューは変わり映えのしない粥で、デザートもなかった。オレは慣れない左手でスプーンを使って粥を平らげ、また新聞に戻った。大きな鉄道が新しく開通したという記事があった。三ヶ月の景気予測が前期の二割増しでよくなっているという記事があった。いくつかの法案が、オレの記憶の限りでは議論をろくに経ないまま成立し、なかにはアンドロイドの人権をより補強する、たとえばメンテナンスにかかる費用を「貧困アンドロイド」からはとりたてないとか――そういう記事があった。もちろん人間も同じく国家に助けられるような仕組みが生まれて、学校に行けるようになった親のない子供が増えたという報道もあった。その全部は臨時政府の世論操作で、世界をだまくらかす嘘で、あと三年もすればすべて真実の歴史として記録されることだった。
 オレは夕刊を投げ捨てると、看守に今日はシャワーがないことを確認して、薬をもらった。次の公判日までにオレは言いたいことを整えてリロセイゼンとしゃべれるようになっておくべきだったが、その言いたいことというのはどうせこの新しい国では封じられる類のもので、オレはしゃべればしゃべるほど悪人になり、話したことは記録にこそ残っても公開はされず、報道にも無視される。それは今日裁判所に行く前からとっくにわかっていたことで、オレはなのにどうしてしゃべったのかというと、それはオレがオレひとりとしてあそこに立っているのではないから、でしかなかった。
 薬を飲んですぐにくる効き目が訪れるまで、オレは亡霊たちの顔を思い出した。元気なときの顔もあればむくろになってしまったあとの顔もあった。相棒は……相棒だけは死に顔も見られなかったから、いつも隣にいたときの顔だった。
 そうして数日が過ぎ、オレはルーティン通りの生活を送りながら、日々報道される「戦犯」たちのニュースを見た。公判が行われたことだけが報道される場合は、オレと同じくそいつらはまだ正気を保っているケースで、ながながしい悔悟の言葉が報じられるときは、そいつは「転んだ」のがわかった。オレはひたすらそれを読み、腹の底に怒りと憎しみを溜めた。清浄でまともな世界はどんどん完成に近づいていた。オレを含めて十数人のわずかな「人間」だけがそれに反対している。いやほかにも内心でおかしいと思っているやつはいるかもしれないが、たぶんその態度はもう許されなくなっている。人間は同じ権利をもつものとしてアンドロイドを尊重し、アンドロイドはひ弱な人間に決して手をあげることはなく、両者は協調し、ともに歩んで、この国をもっともっと発展させて良くしていこう――。そういう言葉ばかりが並ぶなかで、またそういう態度を実際にとらなければならないなかで、どうしてオレみたいに怒りつづけることができるだろうか?
 また日が経って、第二回の公判日になった。オレがせっかくのハリボテの義手をぶっ壊したせいで、今度はオレは両腕のない姿のまま法廷に立つことになった。弁護人はひどく渋い顔でそういった「刺激的」で「過去を思い出させる」格好はほんとうは望ましくないのだと言った。オレは死ねと思いながらじゃあオレと同じく手や脚や顔の一部や内臓を吹っ飛ばされた人間はどう生きているのかと聞いた。弁護人は「彼らは十全に治療を受け、その部分を補われて生きています」と答えた。百点満点のクソ回答にオレは返事をせず、何も入っていない袖をぶらぶら振り回してもう会話を続ける気がないことを伝えた。
 ドアが開いて法廷に入る。そこらじゅうの視線が全部オレに集まる。かまわず被告の席に座る。それから睨み返してやるけれど四分の一も目を背けない。オレが檻の中の牙を抜かれた子犬くらい無力であることをみんな知っている。なんだおまえら、「戦争」中はあんなに逃げまどったり隠れたりしていたくせに。オレが無力化されたとたんに見世物を見にくるのか。あるいは傍聴しているやつは真実オレに憤って一目ツラを拝んでやろうという魂胆なのかもしれなかったが、オレにはそういう目をしたやつを見つけることはできなかった。
 今日は弁護人の長い弁護の日だった。弁護人はもうどうしようもなかったのだろう、オレが正気を失っているということをひたすら述べた。責任能力がなくいまも心神喪失状態で前回のように突然衝動的な行動をとり、聴取の証拠としての力には疑問がある。まあそういう路線だった。それはあまりに無理筋で素人のオレが聞いても弁護にはなっていなかったが、そもそもこの法廷はオレを量刑するために開かれているわけではなく、あくまで「戦争」の本当の終わりを見せつけるためだけに存在しているのだから、弁護が弁護になっていない程度のことはどうでもよかった。検事も弁護人も裁判官も手続きがそうなっているからオレをこんなところにわざわざ風呂に入れてから引っ張り出しているだけで、仕組みがすぐに死刑にできるものならそうしていたはずだ。オレは弁護人の弁護を聞き流しながらそう思った。
「被告人に質問します。あなたは長い戦いの中で消耗し、自分の殺人の数も覚えていないと言っていましたね。それは本当ですか?」
 弁護人がけなげな目でこちらに訴えかけてくる。オレは最初無視していたがオレが黙ったままだと永久に話が進まないことを理解する。
「……だからオレは殺人はしてねえって言ってんだろ。何度言わすんだ」
「裁判長、今証言したように、被告の精神状態は」
「オレは正気だ」
「裁判長、心神喪失状態の人間はそう言うものです。この状態の被告に責任能力を問えるでしょうか? 裁判長」
 真ん中に座った裁判長は黙ってオレを見るのでオレも睨み返す。しばらく間があってから裁判長は口を開いた。
「被告の鑑定結果は責任能力ありとなっています。弁護人の弁護は根拠がありません」
 それで弁護人は言うことがなくなって、オレも口をはさむタイミングを失い、その日は早めに閉廷になった。裁判長は次回は判決を述べると言い、オレはそれにもべつだん反対せず、弁護人はもう建っているだけで終わった。
 オレは恋しい我が家に戻って夕方の時間を軽い運動をして過ごし、粥を食って、相変わらずオレのことはちっとも報道されていない新聞を読み、眠った。判決までは一週間あり、そのあいだに宗教の偉いやつが一度来てオレは会わなかった。神様がいるならオレはそいつを絞め殺すべきだし、いないなら宗教はニセモノだ。それから本の差し入れがいくつかあった。どれも新しい倫理のもとで書かれた簡単なパンフレットみたいな本だった。オレはそれには一応目を通し、オレたちの残り香がもう世の中にほとんどないことを感じ取った。
 たまに夕刊に判決がいくつか載った。どいつもこいつも重くて終身刑だった。それをオレは知っていた。なぜなら死刑はひとのかけがえのない命を奪う絶対にしてはいけない行為だからだ。もう「戦争」中のようなことは繰り返さないようにしよう、我々はひとの命、アンドロイドの命を共に大切にし、育んでいく社会をつくりあげよう。そういう世の中でオレみたいなやつは生涯こういう窓もない部屋にぶち込まれて死ぬまで生きるのだ。だが「悔い改めて」元いたはずの、もう何もかもが変わってしまったあとの場所に戻るのは嫌だった。オレは絶対に窒息してしまうし、なにより怒りがそれを許すはずもなかった。オレはわかりきった判決を待った。
 当日、オレはいつもより少しだけましな格好をさせられて、というのは上着を着せられて、裁判所に向かった。ひげも剃られ、髪もくしけずられて、爪の手入れまでされた。死刑になる日ならまだしもわかりきったこれからも続く塞ぎきった日々のためにそんな恰好をするのは心底馬鹿らしかったが、義手を奪われたオレにできる抵抗は多くなく、結局黙って被告人席に腰かけた。やがて裁判官たちが入ってきて、裁判長がタブレットを取り出すとそこに書いてあるらしいことを読み上げた。
「主文。被告を終身刑に処す」
 やっぱりオレの命は奪われなかった。それはオレがしたことが軽いからではなく殺人が罪だからだ。あとのくだりを、つまりオレがいかに世の中を震撼させ、恐怖に陥れ、罪のないひとびと(そこにはアンドロイドが含まれていた)の未来を奪い、幸福を壊したかというお説教をオレは聞かなかった。頭の中でなぜか昔習った童謡を延々繰り返して、オレは裁判長の口が泊まるのを待った。
「最後に被告、述べておきたいことはありますか」
 弁護人が怯えた顔をしてこっちを見るのが一瞬目に入ったが、どうでもよかった。オレは立ち上がると腕の断面を手すりに押し当て、身を乗り出した。
「おまえら、裁判ごっこしてオレを閉じ込めきってそれで安心して今夜からすやすや眠れるんだろうな。オレは違う。オレは今日も明日も明後日もおんなじだ。おまえらに閉じ込められた外の天気も分からねえ部屋で、おまえたちが切り上げたつもりでいる『戦争』をオレはあしたからも続けるぞ。だいたいおまえらは何ひとつ答えちゃいねえ、オレがいくつアンドロイドをぶっ壊したかなんてのはほんとはどうでもいいことだ! オレが知りてえのは、おまえらに言っておきたいのは、どうしてオレの仲間と相棒は死ななきゃならなかったんだってことだ! 相棒はなんにも悪いことひとつしちゃいねえ、ただおまえらの仲間が具合悪そうにしてたのを心配して近寄っただけだ、それをおまえらは台無しにした! なにが人権だ、先に仕掛けてきたのはおまえらだ、あれはテロだ。相棒はおまえらに殺されて、仲間もお前らに殺されて、それでおまえらはそのことに見向きもしねえで立派な社会を作りやがったな。それで誰が相棒の死んだ責任をとるんだ。オレか? オレがこのあと何十年かおまえらのいうところの『償い』をしてそれで相棒が死んだことはなしになるのか? 確かにあいつには誰もいなかった、オレの知る限り身寄りなんかひとりもいなかった、だからっておまえら、あいつを殺して知らんぷりして終わりにできるとでも思ってんのか? 相棒じゃなくたって、オレの仲間、部下、みんな殺したのはおまえらだろう。おまえらはそのことを隠して血なんか一滴も垂れなかったみたいな清潔な顔してこれから生きてくのか。アンドロイドと人間は『過去に大きな過ちを犯して』、でも仲良くやってくなんて、人の顔を剥ぎとって名前をなくしてそれで全部なかったことにしたつもりでやってくのか。ふざけんな。オレは絶対に許さねえ。おまえらが殺した人間のこと、おまえらがなかったことにした人間のことをオレだけはずっと覚えててやる。おまえらがどれだけ世界を綺麗にしてもオレだけは泥だらけで血だらけのきったねえ塹壕戦のことを覚えててやる。それでオレの目の前で弾けて死んだ相棒のことも脚を吹っ飛ばされたり頭が砕けたりおまえらに首をねじ切られたりしたやつらのことも、終わらせねえでやる。人間の肉が焼けるときにどんな匂いがするのか、飢えたやつの下痢がどれだけ汚ねえか、棒っ切れみたいになった人間の体を穴に投げ入れるときにどんな心地がするか、おまえらが思い出すわけねえことをオレは絶対に忘れないでやる。いいか、おまえらがオレを死ぬまで閉じ込めてオレの仲間も死ぬまで閉じ込めてそれで見えるとこから『戦争』を全部なくしてもな、オレは死ぬまで『戦争』をやる。終わらせてなんかやらねえよ。オレの相棒はまだそこらへんをふらふらしてオレが仇とるのを待ってんだからよ、仲間だってそうだ、みんなオレがこんなゴミみてえに綺麗になった世界で火薬の匂いがする弔い合戦やんのを待ってんだ。オレが生きてる限りおまえらはそういうのにビビりながら暮らすんだ。オレを生き残らせたのはおまえらだ。おまえらがオレを殺さねえからオレは、『戦争』は終わらねえぞ。絶対に『戦争』は終わらねえ、オレが生きてる限り、オレが」
 また首の後ろをとんと叩かれた。

 いつもの部屋で目を覚ました。夜間警備の明かりがついていて、深夜であることが知れた。オレはここでどうやらこのまま死ぬ日まで暮らすらしかった。毎日出された粥を食って、適度な運動をして、悪夢にうなされるときには薬を飲んで、それで社会が満足するために老衰か心臓発作か脳卒中かとにかくそういう手の尽くしようのないことで死ぬまで飼われる。
 オレは裸足を床に落として、その足の裏がきちんと冷たさを感じ取っていることを確認した。左手につけられた義手がオレの意思でぱくぱく動くことも確認した。軽いストレッチをして全身の筋肉が随意に伸び縮みし、目が見えて耳が聞こえて鼻が利くことを確認した。でもそれは全部意味のないことだった。これからオレはその生存には不都合のない体を抱えて世界から消された存在として生きていくのだった。
 がらんどうの部屋にオレは立っていた。相棒の影がふっとよぎり、そいつは笑いも泣きも怒りもせずオレを見ていた。あるいはこの幽霊をオレは安らかに眠らせてやるべきなのかもしれなかった。オレの怒りの燃料にするためだけに起こし続けているのは酷なことなのかもしれなかった。だけどオレの鼻の粘膜に染み付いた血と火薬の匂い、オレの体中に浴びた、爆発で熱された血液の温度、体中にこびりついていたらしい焼け焦げた肉、あいつはそこにだけ、そこにこそ息づいていた。あいつの人生を「戦争」が終わらせたことで、あいつは「戦争」に縫いとめられた。それは他の仲間も同じだった。大きな「戦争」の端っこにはあいつらの体があり、心があった。もう今の世界では誰も思い出したくはないから思い出さない「戦争」の、それは丁寧に刺された刺繍だった。ひとりひとりの顔と名前と人生があった。オレだけはそれをたどり、たぐりよせ、抱きしめて思い出しつづけねばならなかった。なぜならあいつらが死んだことにはまだ理由がないから。「戦争」が悪いなんて言い方で終わらせられるような人生ではなかった。オレの知るだけでも、あいつらは、相棒は、まだ生きて、いのちを繋げねばならないはずだった。
 やがて看守がやってきて、朝が来たことを告げ、粥を持ってきた。オレはそれを食い、一粒残らず皿をさらって、盆を返した。それから持ってこられた新聞を読んだが、オレのことはただ一言「無期懲役が決定」とだけ書かれていた。それでオレのことはもう二度と世の中に――せいぜい死亡記事をのぞいて、出なくなるはずだった。オレという人間が生きて「戦争」でやったことは「あまりに凄惨なので」数字だけ残って匂いと温度と味を消され、いずれその数字も「戦没者」とかいう便利な言葉に回収されてなくなる。オレひとりの「戦争」は、いずれ忘却というかたちで殺される、そうだ、オレはそんなこととっくにわかっている。世界はオレの怒りと恨みをこの部屋に閉じ込めて、どんどん「良くなって」いくだろう。そのなかにオレの記憶はなく、オレの名前も相棒の名前も仲間の名前も、いずれ「戦争」――いや、「戦争」ですらない、耳ざわりのいい言葉にくるまれて枝葉を失ってしまう。四半世紀も過ぎればそれはただなにか悪夢か疫病のような悪いなにか、思い出したくもないなにかに風化して、二度とかたちを取り戻さないだろう。
 だけどオレは生きている。あいつらがどれだけ身勝手に「戦争」を終わらせようと、消し去ろうと、その概念すら世界から手の届かないところに打ち捨ててしまおうと、オレは生きている。生きてあのときの感覚を五感いっぱいに覚えて生きている。そのうち何の建物だかも明らかにされなくなるだろうオレのこの部屋は、タタリか呪いのように存在しつづけるだろう。看守だってオレが生きていることを知っている。国の予算にはオレの粥代が計上される。オレが生きているかぎりオレの生の証拠はあちこちに散らばって、誰かを不安に突き落とすだろう。そいつらは相棒のことを知らないまま死ぬかもしれない。「戦争」があったことも知らされないままこの世の中で生きていくのかもしれない。だからなんだ。オレが生きているかぎり「戦争」は終わらないのだ。オレに付き添う亡霊たちが「戦争」を終わらせないのだ。オレを殺さなかった馬鹿な世界め。唯一「戦争」を終わらせる手段を建前のために捨てた新しい世界め。オレと亡霊たちは死ぬまでおまえらにつきまとって安寧をおびやかしてやる。おまえらが記憶の奥底にまで閉じ込めてなかったことにした地獄をよみがえらせてやる。どれだけ世界が浄化されて燻蒸されて脱臭されようと、オレはおまえらの敵で、おまえらはオレの敵で、「戦争」は終わらない。おまえらの作ったすばらしい世界が、おまえらを苦しめ、呪い続ける。オレが死ぬまでおまえらは「戦争」と一緒に暮らすんだ。
 ざまあみろ、オレと「戦争」の息の根を止めなかった「優しい」やつら。相棒と仲間の亡霊と徒党を組んでおまえらの安らかな夢をぐちゃぐちゃにしてやるよ。オレが「戦争」だ。オレが死ぬまでが「戦争」だ。最後の一匹になるまで生き汚く生き抜いてやる。おまえらより先に死ぬもんか。オレは見続けてやる、おまえらが怯えて震えて疑いあってまた殺しあうようになる日まで、この新しい「平和」を壊すまで。
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