プログラムは静かに実行された。すべてのネットワークにつながった人体の中に染み入り、大動脈の近くに巣食った巣はすみやかに分解された。アンプルを抱え込んだ朱雀の客たちはその効果が消えてしまったことにうろたえ、何度も新しい素材を注ぎ入れ、それでももはや何事も起こらなくなってしまったことに憤り、しかし娯楽を提供していた企業にクレームを入れることすらできず、朱雀の端末にどうなっているんだと怒りの連絡がいくつも入った。朱雀はそれを全部無視して、一度だけ「親」に電話を入れたが、この回線はただいま使われておりません、という機械音声だけが流れて終わった。そう、すべては終わった。玄武はあらかじめ仕掛けていたというプログラムでどこかにおいてあるマシンの中身を吹っ飛ばして再現不可能にした。それからスマートフォンを金槌で叩き壊し、基盤を粉々になるまで割り、破片をプーアル茶のティーバッグと一緒に三角コーナーに投げ捨てた。それで玄武の仕事はほんとうに終わりだった。眠い、寝る、と言って玄武はベッドに丸くなり、じきに寝息が聞こえ始めた。
朱雀は玄武の使っていた椅子をベッドの脇に引き寄せて、その寝顔を眺めた。整った顔立ちは最後に会った時より少しだけ痩せていたが、肌艶は悪くなく、それなりの暮らしを送っていたらしいことがうかがえた。上げたままの前髪に手櫛を入れてやると玄武は少し眉根を寄せ、うん、と鼻を鳴らした。子猫みてえだ。そう思って朱雀は玄武の頭を撫でつづけた。
あのとき流れ込んできた記憶はいくつもあった。暗い部屋で細かい字の本を読む、ページをめくるその手はほんの幼い子供のものだった。求めるものは誰にも奪われない知識で、ちいさい玄武はいずれそれだけで世界と闘わなければならないことをよく知っていた。ひとりで電車に揺られる景色もあった。玄武は周囲に目を配りながらたったひとつのトランクケースの取っ手を握りしめていた。心は不安でどうしようもなく、ただもうあそこにはいられないのだという焼きついた感情と、ひとより大きく育った体にまだ残る痛みだけがあった。履き古したスニーカーの中で縮こまった指で床を踏みしめながら、玄武はスマートフォンを操作して、あのホームの連絡先を消した。どこかの会社にエンジニアとして勤めていたころの思い出もあった。日が暮れて数時間たったあとに、誰も残っていないサーバールームに持ち込んだ端末で簡単なコードを書いていた。内容は朱雀にはわからなかったけれど、それが玄武の心に小さな火を灯したことはわかった。スライドショーのように流れるその会社での日々で、玄武はあっというまに何人もの人間の仕事を奪い、疎まれて、やっとありついた就職口を辞めざるをえなかったことが知れた。
そしてそれからずっと後の記憶。何かを待っていて、灰色のコンクリ打ちっぱなしの部屋でモニタの前に座っている。マシンがうなってファンが回る中で玄武はだらだらとコードを書きながら待っている。するとインターフォンが鳴って、キャップをかぶった男が現れたことがわかる。ドアのロックを解除するとどたどたと階段を下りてくる音がする。そして現れた男は、あのーすいません、と声をかけてきた、その男の顔を見た、それが朱雀だった。
記憶はそこでぶつりと途切れたから、朱雀を見た玄武が何を思ったのかはわからない。そこで自分がむりやり玄武を外につれだして、景色を見せたことも、同居を切り出したことも、どう玄武がとらえていたのかはわからない。あるいは玄武はわざと朱雀にその記憶を見せたのかもしれなかったが、朱雀はそれを偶然だと思っていた。
「……オレ、やっぱおまえのことなんも知らねえよ。なあ玄武。ああいうズルみてえなやりかたで知っちまって悪かったな」
語りかけても玄武は起きない。割とちょっとした物音で目覚めるタイプなのに珍しいと思いながら、朱雀は髪から指を抜くと体温が上がった頬を手の甲で撫でる。
「起きたらいっぱい話そうぜ。な。玄武」
言うと朱雀は椅子の上で伸びをして、それからソファに戻った。ふと気が向いて薬の支払い履歴に飛ぶと、くだんの専用回線はもう使えなくなっていた。朱雀はいろいろが終わる、変わる、と思い、画面を消すと自分も毛布にくるまってさっきの眠りの続きに沈んだ。
まどろみから覚めると三十分ほどしか経っていなかった。反射的に起き上がって確かめると、玄武は変わらずベッドの上にいて、さっきとは違う脚を抱えて寝いっている。
朱雀はキッチンに向かうと冷めたプーアル茶のやかんを空にして洗い、炊飯器にコメを四合入れてスイッチを押し、残った野菜と肉を適当に刻んで炒めた。部屋中がたんぱく質の焦げはじめのいい香りになったところで火を止めて、また玄武の隣に座る。今頃玄武の言っていた出資者とかビジネスパートナーとかは、烈火のごとく怒って玄武を探しているのだろう。だけどもうGPSと無縁になった玄武を探すのには手間がかかる。マシンのほうに先に当たりをつけていったとしても、そこにあるのは無駄に高性能な白紙のコンピュータだけだ。あいつらの欲しいものはもうどこにもなくて、強いて言うなら玄武の頭の中にだけにある。
「そいつはよお、オレが守ってやるからな、玄武。だからゆっくり寝てていいし、起きたらメシも食っていいし、なんなら服でも歯ブラシでもなんでも買いに行こうぜ」
そう話しかけても玄武はまだ起きない。朱雀は炊飯器の残り時間を確認すると、布巾を濡らして絞ってテーブルを拭き、浴室に入るとジャージの裾をまくって浴槽を掃除し始めた。スプレーの洗剤を吹き付けてスポンジでこすると、プラスチックの浴槽はすぐつやつやになる。ゴムパッキンのところに食い入っているカビはあとでそれ専用の洗剤を買いに行こう。そう思いながら壁もスポンジで拭いて、壁に備え付けになっている棚も拭く。シャンプーが垂れて干からびた痕をこすっていると、がたんとリビングのほうから音がした。
「朱雀!」
叫ぶような悲鳴のような声とともに玄武が姿を現した。朱雀がきょとんとしていると、玄武は弾かれたように我にかえり、若干の照れの混じった顔で詫びてきた。
「いねえかと、……騒いで悪い」
「あー、わりい、ちょっと掃除してただけだ」
「いや……その、度を失った」
「いやいいぜ、これ流したらメシにすっから、先座ってろよ」
しかし朱雀がシャワーを手に泡を流しているあいだ、玄武はずっと脱衣所の入り口で待っていた。さっきは猫かと思ったけど犬っぽいな、と思いながら朱雀は昨日使ったバスタオルで足を拭き、手の水気を取ると野菜炒めに火を入れて、炊飯器のコメを一対三の割合で自分と玄武の茶碗に盛って席に置く。
「汁もんなくて悪いな」
「……久しぶりだ、お前の料理を食べるのは」
「そりゃおまえがいなかったからだろ」
いただきます、と声を揃えて、朱雀はまずコメから、玄武は野菜から口に運ぶ。目の前で玄武が自分の作ったメシに箸をつけていることがむず痒いくらいに内心嬉しい。朱雀は喜びを押し隠すようにしながら顎を動かし、それからいや、隠すことねえんじゃねえか、と思い至る。
「うめえか」
「うまい」
「『キマってなくても』か?」
「……その話はよせ」
玄武は視界の隅を払うように箸を持ったままの左手を動かし、ほんとうにうまい、と言ってコメを口に運んだ。
短い食事が終わるといつものように――あのころのように玄武が皿と炊飯器まわりを洗い、朱雀は玄武の椅子に座ってその様子を眺める。何かの違和感があることに気づき、そのあとで玄武が曲がりなりにも外に出られる格好をしていること、つまりあの杢グレーのスウェットではないことに思い至る。
「服、買いに行くかあ」
「ここで暮らすなら、要るだろうな」
「おまえいつもどこで買ってんだ」
「駅の反対側にデカいサイズの店があってそこでまとめ買いしてる」
「へえ。知らなかった」
「言ってねえからな」
「……玄武、オレらさあ、言ってねえことがたくさんあんだよ。おまえの知らないことも、オレが知らないこともさあ」
「そうだな」
「あとでその話しようぜ。昔話でいいから、……未来のことはよくわかんねえからよ。玄武の話聞かせろよ」
言うと玄武は横顔を見せて、頷いた。
玄武が水仕事を終えてベッドに腰かける。朱雀はそのまま、玄武にいくつか質問をした。見てしまった子供のころの記憶と以前の玄武の発言を繋ぎあわせたそれに玄武は簡潔に答えた。親がいなく、施設で育ったこと、子供が増えすぎて外に出されたこと、そのあとは職を転々としたこと。そして玄武は見た朱雀の記憶、思い出のうち、この部屋の景色についてきた感情が一番大きく物悲しかったと言った。
「俺が出ていった後のことだろう。この部屋の……ちょうど入り口から見た風景だった。窓が開いていて、俺の荷物がなくて、あとはそのままで……お前がなんだか物凄く大きなショックを受けて、分類できないくらい複雑な感情を味わったのがわかった。それがどうにも俺にもわからねえが、正直なところ、……涙が出そうになった。いや、わからねえんじゃねえな、俺は知ってる」
玄武ははあと息を吐くと続けた。
「あれは、施設を出たときの気持ちと同じだ。世界中に仲間が誰一人いなくなって、ひとりぼっちになったときの、気持ちだ。だけど朱雀。お前には両親もいるだろう。どうして――」
「おまえだからだよ」
言って、朱雀は玄武の目を見つめた。穏やかな灰色の、光彩の色味の薄い瞳は、同じように自分を見つめ返す。
「おまえがいなくなったからそう思ったんだ。おまえなしで、オレは生きてくってのは考えらんなかった。今だってそうだ。オレは……オレは、玄武、おまえがいる人生がいい。おまえと一緒に」
なあ、と朱雀はもう一度玄武の手を取った。指先はさっきと同じようにかじかんでいたが、朱雀の手をそっと握り返してくる。
「玄武、ずっといっしょにいようぜ、オレとおまえは。おまえがオレを守るときもあるし、オレがおまえを守るときもある。別に毎日オレがメシ作るわけじゃねえし、おまえばっかり掃除しなくたっていい。ここじゃなくたってどこだっていい。いっしょにいよう、玄武」
朱雀の言葉に玄武はふっと視線を切ってから、今度は挑むようにこちらを見据える。
「てめえそれがどれだけ重い台詞かわかってるか?」
「おう。一生の約束だからな。おまえとしかしねえよ」
「……平気な顔をして、お前はそういうことを言う」
「平気じゃねえよ。ぜんぜん、ぜーんぜん平気じゃねえ! マジで言ってんだぜ。オレはよお、死ぬまでおまえといっしょにいてやるよ、おまえが嫌だって言わねえ限りはよ」
「嫌だって言ったらどうするんだ」
「言わねえよおまえは」
「どうして」
「言わねえんだよ。だっておまえ、帰ってきただろう。ここに。おまえが嫌だって言うんなら、最初っから――繋がったときだって、おまえは帰ってこなかったはずだ」
言い切った朱雀がそうだろ? と問いかけると、玄武はやや間をおいてから、渋々と言った様子で頷いた。
「なんだよ。嫌かよ」
「馬鹿言え。全部当たってるから――嫌になるんだ」
「嫌なのかよ」
「だから……ああ、もう、嫌じゃねえ。めんどくせえな。言葉遊びしてる場合じゃねえだろ」
玄武は怒ったように言い、空いた手でごそごそとポケットを漁るとスマートフォンを取り出した。
「あれ? おまえさっき壊しただろ」
「これはそこらのジャンク屋で買ったやつだ。フリーの回線拾って遊ぶだけの、誰にも感知されてねえ、しょぼいおもちゃだ」
「それでどうすんだよ」
「……俺は今からお前を怒らせる」
「はあ?」
「いいか、俺とお前の体の中にだけ、『薬はまだある』」
玄武はそう言って朱雀の首の付け根、胸の上を指さした。
「さっきの一斉デリートからお前と俺のIDだけ抜いてある。この端末にはもう一度だけプログラムを起動して、それから自壊するようなほんのちょっとしたコードが入ってる。時間は起動してから二時間だ」
「ちょっと、待てって、意味が」
「俺とお前だけはまだ効いてるんだ。一度使ったら終わる。そのロッカーの中の在庫を一度だけ使える。さっきみたいに――俺とお前は『繋がれる』」
そこでようやく朱雀にも事の次第が飲み込める。
「……二時間、さっきみたいに、おまえと」
「そうだ。実行するかしないかはお前に任せる。アンプルさえ摂取しなきゃただ単に薬が分解されて終わる。だから……好きにしろ、朱雀。お前の倫理と正義に基づいて、そのまま消しちまっても構わねえ。俺はもうさんざ楽しんだから、それだっていい。お前の好きにしろ」
そう言って玄武は端末を朱雀に押し付けた。朱雀はしょうがなくそれを受け取り、画面を見るとでかでかと「START!」と書かれたボタンが映し出されている。
「……アンプルがなけりゃ、ただたんに分解されて終わる」
「そうだ。お前がロッカーさえ開けなけりゃ、俺たちも晴れてシロになれる」
「使ったら、さっきみたいに頭がぶっとんで、それで、おまえと繋がる」
玄武は黙って頷いた。朱雀はしばし逡巡してから、のろのろと立ち上がり、ロッカーの前に立った。鍵を開けて、中からビニール袋を取り出す。そこにはアンプルが百を下らない数で入っている。それを持ったままベッドの脇に戻り、シーツの上に袋を置いた。
「……玄武、オレたち、もっとちゃんと話して、いっしょに暮らして、それでおまえのことわかれたら、ほんとうは一番いいと思うんだ」
「そうだな。俺もそう思う」
「だけどよ、……どうしてこんなことすんだよ、さっきみてえになれたら……オレはおまえのこと、全部知りてえんだ。おまえが隠してることだって、オレに知らせたくないことだって全部」
朱雀はごくりと唾を飲み込む。
「……最後の一回だ、玄武。おまえはそれでもう二度と薬はやらねえ、オレももちろんやらねえ。その代わり、あとおまえとオレが一生いっしょにいるって代わりに、……おまえ、オレのこと全部知れよ。知っちまえ。オレがまだわかってねえオレの考えてることとか、オレの気持ちとか、そういうの全部……」
言いながら朱雀は小さなアンプルを二つだけ取り出して、袋の口を縛ると床に投げ捨てた。
「おまえがオレに、オレがおまえに、打つ」
「そうか」
「……いいよな」
「異存はねえよ」
朱雀はカートリッジにアンプルを差し込んで、ひとつを玄武に渡した。それから腕をまくると青黒い静脈が浮かんだところをとんと指で叩く。玄武も同じ場所をさらけだして、朱雀に差し出す。
「最後の一回だ。おまえと……おまえとだけの」
朱雀は差し出された腕にアンプルを押し付けた。中身はじりじりと吸収される。遅れて朱雀の腕にも無針注射が当たる。お互いの中身がすっかり空になってから、朱雀は玄武に渡されたスマートフォンのボタンをタップした。「OK! RUN!」と陽気なロゴが現れる。玄武はベッドの端にずれて、隣に寝るように朱雀に促した。朱雀は黙ってそこに横たわる。大きくないベッドだから自然と腕が重なる、その手首を朱雀はぎゅっと握って、待った。
やがて視界がぐらりと揺れて、握った玄武の腕の脈動がやたら大きく感じられるようになる。きた、と思って顔を横に向けると、玄武が同じくこちらを向いていて、少し早い、とささやくように言う。朱雀がそっと握った手首を放すと、玄武はそれだけでうめいた。
「くそ、久しぶりにやると効くな」
「……玄武、そっち側、いっていいか」
「ああ? ……ああ、来い」
朱雀はそっと瞼を閉じて、もう一度玄武の手首を握る。そこからどくどくと伝わる鼓動に肌をくすぐられながら、繋がったはずの脳に流れ込むように祈る。玄武が身じろぎする音が聞こえ、そのたびに上がり始めた呼吸を整えようと必死な浅い息がする。その隙間からふっと光景が漏れてくる。ソファで寝こけている自分を見下ろす視線。自分の寝顔を見るってのは変なもんだと思っているうち、玄武の手は毛布をかけて、朱雀の頬を撫でてまたマシンの前に戻る。中断。ぐるりと世界が回転するような酩酊感があり、なにかで動いた空気に肌がくすぐられてぞくりと粟立つ。触れ合った玄武の肩が熱い。今度はキッチンに自分がいる後姿がある、中華鍋を振る腕を玄武はモニタ越しにぼんやり見ている。じわりと胸元がぬくもり、同時に締め付けられるように呼吸が浅くなる。こみ上げる衝動に似た何かをなだめながら玄武は視線をモニタに戻しながら朱雀のことを気にしている。びく、と握っている玄武の腕が震えて、その表皮の細胞ひとつひとつを朱雀は如実に感じてしまい、同時にさっきと同じように体が勝手に興奮して下半身に血が集まりはじめているのがわかる。恥ずかしい? だけど隠したって、無駄だ、繋がっている、脳は、わかる。それに玄武。
「玄武」
一音ずつ呼んだ名前に玄武はうなるように答えて、ふいと向こうを向いてしまう。同じ景色は見ていない、玄武は朱雀の記憶を見ている。朱雀が押し隠していた、気づかなかった、今芽吹いた種を、玄武は見ている。
「玄武、おまえ、……玄武、なあ、こっち見ろよ」
「うるせえ……」
「同じだろ、オレら、なあ」
「……知らねえ、違うかもしれねえだろ、ああ畜生……朱雀、お前薬のせいだぞ、こんなの全部……」
「違えよ、薬……そうかもしれねえけど、違うところは違うだろ、なあ玄武。おまえが、見ててくれたの、オレ知らなかった」
言いながら朱雀がそっと腕をたたんで肩に触れると、玄武はびくっと身を震わせて、馬鹿、と口走る。
「何見てるんだ、お前、よりによって」
聞こえるはしから、玄武の記憶があふれてくる。子供のころのことももちろんある、ひとりで働いていたころのことだってある、だけどこの数年、朱雀と暮らしはじめてからのことが、こんなにも多い。そしてそのたびに再現される感情が、情景が、玄武の目から見た世界が、美しい。
「玄武、何見えてる」
「……俺が見える」
「そうだろ、ほかには?」
促すと玄武はか細い声で言う。
「お前……お前が、俺が出て行ってから、ずっと、こんな気持ちで」
「ああ、そりゃあ……だっておまえがいないんだぜ。そりゃあさ、寂しいしよ、つまんねえし……なあ玄武」
朱雀はごろりと体を横に向けて、玄武の横顔に向き合った。高い鼻梁は窓から射す人工の光をうけて輪郭を浮き上がらせ、その向こうにまつげがちらちらと輝いている。その光は常よりも強く、たぶん薬のせいで増幅して朱雀の視覚を刺激する。
「こっち向けよ」
「……野郎ふたりで向き合ってどうすんだ」
「照れ隠しすんなよ、ダセえ」
「照れてねえ」
「照れてる」
「照れてねえ! ……気恥ずかしいだけだ」
「今更だろ。おまえがしたんだぜ、こういう風に、根こそぎわかるように」
朱雀は空いた手を伸ばして玄武の頬を甲で撫でた。うぶ毛のやわらかな気配が朱雀の神経の一本一本を痺れさせ、甘やかな快感を生む。玄武もむずかるように声をあげ、やっとこちらに視線を投げかけてきた。その目がいつか見たときのように蕩けているのを朱雀は見とめる。
「……触ると、変な感じがしねえか」
「いや? まあなんか、普段よりはザワザワすっけどよ、さっきひとりで使ってた時より……なんつうか安心するな、おまえがいっから」
「安心……そうか、そう表現してもいいのか。俺も普段より気分がいい」
玄武はうっすら笑みを浮かべて言い、おまえの子供のころの、笑い話みたいな思い出がいま流れてきた、とささやく。
「お前はまだちっこいガキで、そうだな、四歳にはなってないくらいだ。小さなすいかを抱えて持ち上げて、よたよた歩く、世界が揺れて、すいかの重みがだんだん肘にきて、それでも親父さんとお袋さんが励ましてくれるから一生懸命歩くんだ。だけど結局落としちまって、すいかは真っ二つに割れて……」
そういう思い出は自分にないから、妙な気分になったと玄武は言った。朱雀は黙って玄武の側頭部を撫でる。グルーミングされた動物みたいに玄武は目を閉じて、お前にはそういう思い出がたくさんあって、幸せだったはずなのに、最後はここまでたどりつかせちまって悪い、と言った。
「馬鹿言え、オレが好きでやったんだぜ、全部。おまえと暮らしはじめたんだってオレが誘ったんだ、覚えてんだろ」
「そうだが、俺が雲隠れしなきゃあお前とこうはならなかった」
「いいじゃねえか、いい気分なんだろ、いま」
「……そういうもんか」
「そうだろ」
朱雀がそっと頭を撫でるたびに、玄武は弱く体を震えさせる。自分と同じように快感を得ている、と朱雀は思い、それが自分の手から生まれていることに密やかな喜びをおぼえた。
「玄武、なあ、もうちょっと触っていいか」
「……今更断らねえよ」
そっか、と朱雀は呟いて、片手をシーツに突くとぐいと上体を起こした。手のひらに感じるシーツの織り目に身震いしながら、見下ろした玄武はいつか酩酊状態のマグロみたいな体を組み敷いたときよりも頼りなく、けれど確かに感じられる。
「……オレよお、これ使うと、変な話、ちんこ勃つんだよ。さっきもそうだったんだけどよ」
「ああ、そういうやつもいるらしいな」
「おまえ違うのか」
「俺はあんまり……そういう方面にはいかねえ。ただ満たされて、眠たくて、あったけえ泥みてえなところに浸かってるみたいな心持ちだ」
「ふうん、体質とかか」
「そうなのかもな。朱雀、お前、わりと性欲のほうに来るんだな。知らなかったぜ」
そう言う玄武の手がすっと伸びて、朱雀の膝のあたりを優しく撫でた。ぞわりと肌が粟立って玄武の五本の指が不揃いにすねのところにとどまっているのがもどかしい。
朱雀は小刻みに息を吐き出しながら玄武の指に触れる。熱を持った肉がとくとくと脈を刻み、玄武の手に走る血管がいつもよりふくらんで青い。その中を流れる真っ赤な血を想像すると目の奥で光が弾けて酔いが深まる。朱雀は指を撫でながらその先へ、より玄武の奥深くへ潜り込もうとする。フラッシュバックのようにいくつかの記憶が走り、玄武の味わってきた孤独と羨望と嫉妬と――それから朱雀と暮らしはじめてからの淡いぬくもり。その景色の中には怒っている自分もいればあきれている自分もいて、だけど圧倒的に笑顔が多い。しょうもないことで苦笑いして、小難しい話を理解した瞬間ぱっと花開いて、自分のそんな顔を玄武の視線から見るのは正直なところこっぱずかしくはあるのだが、伴う感情の温度が離れがたくさせる。
「玄武よお」
「なんだ」
「……おまえオレのこと結構好きだな」
言いながらシーツに投げ出された玄武の右腕に触れると、玄武は小さく息を吐き出して、そうかもしれねえな、と意外に素直に肯定する。
「あのよお、オレがどーなのか、その、どんだけ伝わってっかわかんねえけどよ」
朱雀がつっかえながら言うのを玄武は静かに聞く。
「おまえが、オレのことこんくらい好きだってのとおんなじくらい、オレもおまえのこと好きだぜ。もうバレてんのかもしれねえし、そうじゃねえのかもしれねえし、わかんねえけど」
「……俺がお前を好きなのと同じくらいなら、それは相当だぞ」
「そ、そっか?」
「ああ、お前のために仕事全部ドブにぶちこんで帰ってきて、それでもう二度と離れねえくらいには、好きだ」
顔色一つ変えずに言う玄武の声音が、いくつもの色を伴って朱雀の鼓膜を揺らす。不安と、喜びと、それから先への希望の色。それが玄武の感じているものなのか自分の感じているものなのかもうよくわからなくなっていて、だけどそれはどっちでもよかった。
「二度と離れねえ、ってのは本気だな?」
「男に二言はねえよ。誠心誠意、心底言ってる」
玄武の薄灰色の瞳が朱雀を射抜き、ゆらゆらと揺れる視界の中でそれだけが確固たる存在感を持っている。綺麗な目だ。ずっとそう思っていた、そうだ、自分は。
「玄武、どこにいきたい?」
「これからってことか?」
「そうだ。おまえ逃げるんだろ。オレといっしょに。そしたらよ、ここは足がつくから、どっか違うところにいったほうがいいだろ」
「そうだな。お前といっしょなのがバレなきゃあお前の田舎でもいいんだが、ご両親に迷惑がかかるといけねえからな。北がいいか南がいいか……下手人は北に逃げるって昔からよく言うが、それなら南に行くか」
玄武は言いながらまだるっこしそうに唇を舐め、まだ抜けてねえな、とつぶやいてから朱雀のすねに乗せた手をまた膝頭に戻し、子猫の頭を撫でるように丸くさする。
「南の、もう少し冬が厳しくないところで俺とお前で、ジャガイモだったか? お前が言うとおり自分の食うもんを作りながら、俺は小遣い稼ぎの仕事をして、お前は……もう売人はあがったりだから、また配達屋に戻るか。それとも小料理屋でも開くか。お前が厨房に立つのは悪くない」
聞きながら朱雀は脚から全身に広がるさざなみのような愉楽に背筋を震わせる。玄武の声音とあいまったその感覚は濃密な粒度で脳を刺激して朱雀の欲の毛並みを逆立てる。
「今更調理師免許も開業許可もあったもんじゃねえから、店ならすぐに始められる。ひとの流れてくる街道沿いかどっかで、お前みたいな自転車乗りやバイカーに食事を出す食堂だ。お前の記憶にあったみたいに二十人も入らない店で、カウンターとテーブルがいくつかあって、水は手酌でおかわりしてもらう。揃ってねえ箸とかきあつめた皿と、寸胴鍋とフライパンと中華鍋に雪平がいくつか揃えばいい。お前が――」
「……玄武、話し中悪いんだけどよ、あんま触んな」
「ん?」
「……だからよ、オレ、ちんこ勃つって言ってるだろ。なあ。おまえが触ると、その、余計に……」
言うと玄武はふんと鼻で笑う。
「抜いてやろうか?」
「あ!? いや、いや、おまえ、なに言って」
「それくらい構わねえよ。お前なら。というか焦りすぎだお前、いまこっちにどんどん流れ込んできてる、お前の……困ってるのと、ちょっと喜んでる気持ちが」
「げ、昔のことだけじゃねえのかよ」
「俺も知らなかったがそうらしいな。面白いぜこれは」
「馬鹿、最後の一回つっただろ」
「しねえよ、しねえけどな、こういう使い方もできるってのは、……最後の一度だから、この際試しつくすか」
玄武はそっと身を起こすと座りなおして朱雀と向き合った。少し上から見下ろしてくる視線はあたたかくたゆたっている。朱雀はそれを真正面に受けながら、脚を組み替えて股間を隠そうとする。
「何してんだ」
「いや、……いや、頼めねえって!」
「頼まれてねえ、俺がやるって言ってるんだ」
「だから! そういう……おまえ、自分が何言ってんのかほんとわかってっか?」
「心外だな、わかってるつもりだ」
玄武は至極真面目な顔でそう言い、俺はそうしたいくらいだ、と付け加える。顔にかっと血がのぼるのを自覚しながら、朱雀は首の後ろを掻き、その触感が下手にまた自分を煽るのを感じて慌てて手を離す。
「するなら効いてるうちだぜ」
「そう言われてもよ! おまえと……そういうことしちまったら、おまえだって」
「だからしてえって言ってるだろ、俺は」
「……ソトボリっつうのか、埋めるのうめえな、おまえはよ!」
「まあな、それも仕事だった」
「知らねえよお……」
朱雀が顔を覆ってうつむくと、玄武がははっと声を立てて笑う声が聞こえる。その音が鼓膜を揺らしたのと同時に、ふっと自分の体の感覚が途切れて、代わりに景色のない感情があふれてくる。戸惑い、喜び、不安、ためらい、胸を揺さぶるいくつもの言葉におさまりきらない途方もない熱。はっと顔を上げると、さっき見たばかりのはずの玄武の笑顔の端に、今度は確かに見える。玄武は煽ってきている、その理由は、この賭けが失敗に終わった時に笑い話にするためだ。賭け? それは朱雀が乗らなければ終わる一度きりの勝負だ。
「……玄武。おまえ」
「ん?」
「おまえ、オレとそういうこと、していいのか。オレは、……してえ。おまえとなら、そういうことしてえよ。だけどおまえはいま薬キマってるよな、そういうののせいの勢いなら、オレはトイレ行ってひとりでしてくる。おまえが、薬が抜けても、オレもキマってなくても、それでもしてえなら、その、頼んでいいか」
玄武は一瞬ぽかんと間の抜けた顔をして、それから眉を寄せてくしゃっとした笑顔を浮かべる。
「まったく、お前は雑なくせに用心深いし、無茶苦茶な割に筋だけは通すやつだな」
「筋は大事だろ! 雑なのは……雑だけどよ」
「あー、じゃあ改まるがな、俺も」
玄武は言いながらなぜか正座して、ゆるく握った手を両膝に置き、かしこまった顔を作って――それが照れ隠しであることに朱雀は思い至る。
「俺は正気で、薬のせいじゃなく、お前とそういうことがしたい。薬が抜けても、例えば明日でも明後日でもこの気持ちは変わらねえ。俺はお前が好きだし、おまえとならどうにだってなりてえ。……これでいいか?」
滔々と述べた玄武は視線をふっとシーツに落とし、お前には断る権利がある、と言った。
「お前のほうこそ流されてるなら、しなくたっていい。薬にも慣れてねえし、あとで醒めて後悔する気配が一ミリだってあるんなら、断れ。朱雀」
静かに口を閉じて、玄武は朱雀の言葉を待つ。かすかな呼吸音がして、もうマシンの音のしない部屋にそれだけが響く。いつのまにか切れた暖房のせいで部屋は徐々に冷えはじめて、なのに体の芯だけは熱い。これに惑わされているか? 朱雀は自問して、そうではないと思う。目の前でまだ足を崩さないままでいる男の大づくりで細い体と、その中にある彩りゆたかな心、それを生むまだ薬の抜けていない脳、そういうものをすべて、好きだと思った。
「……してえよ、玄武。間違いじゃねえ。オレは、おまえとしてえ」
言い切ってきゅっと唇を結ぶ。今度は朱雀が玄武を待つ番だった。玄武はそうか、と低い声で言い、正座していた脚を崩してあぐらをかく。薬指で乾いた下唇を拭い、数回まばたきをしてふうと息を吐いた。
「お前のその覚悟、本物だと信じるぜ。……まあ醒めてからゴネられても俺は悪くねえっていう開き直りだが」
玄武は苦笑しながら自分の右肩を持ち上げて頬をこすり、変な汗かいちまった、と言いながらにじりよってきた。
「じゃあ、お許しが出たっていうことで、触るぞ、朱雀」
「お、おう。あの、あのよ、悪いけど、オレいまかなり、きてっから……その、ビビんなよ」
「誰がビビるか馬鹿」
言って玄武はおもむろに手を朱雀の股座に伸ばして、熱を持ったそれに触れ、ほう、と感嘆に近い声を上げた。
「なんだよ」
「いや、立派だなと思ってな」
「からかってんのか」
「本心だ。そういや俺はお前の裸は見たことなかったなとも思ってな。数年同居して、まさか風呂には一緒に入らないが、銭湯にも泳ぎにもいかなかった」
「そりゃおまえが一日中家でぱちぱちパソコンやってたからだろ」
朱雀が額をはたくと、玄武は股間に手を伸ばしたままいてえと呻く。
「さっきのビンタより気合入ってんじゃねえか」
「そうか? って、お、う、マジか」
玄武の手はジャージのウエストからすっと中に入り込み、下着越しに朱雀のものをかたちどるようにたどる。その刺激は普段の数倍どころではなく、パンチドランカーになったように頭がぐらつき、背骨は始終びりびりと痺れ、痒みにも似た急く気持ちが生まれる。
「キマってねえときもこんなもんか」
「し、らねえよ、何の話だよ!」
「そりゃあ大きさとか、硬度とか、持久力とか」
「あのな、変なCMじゃねえんだぞ」
「変なCMな、そういうのお前にも表示されるのか、バブルシューターばっかりやってる癖に」
言いながら玄武は竿の付け根をまさぐり、どうだと問いかけながら中膨らみしている部分に指を滑らせる。朱雀はこぼれる息をなるべくバレないように吐き出しながら、素直にいい、と告げた。なるべく視線を股座から逸らそうとすると、目の前を陣取る玄武の姿が飛び込んでくる。興味深そうに、あるいは興味本位で朱雀のものをいじくる玄武の表情はさっきより幾分醒めはじめたようにも見えるが、まだ芯の部分では薬に浸っていて、目元にわずかな赤らみがあり、涙が普段より多く分泌されるのか目尻が潤んでいる。
「変な気分だな、男のをやるってのは」
「気分悪りいならやめていいぜ」
「悪いとは言ってない、変だって言ってるだけだ。……ミラーリングじゃねえが、俺も煽られるな、こういうのは」
そう言う玄武の唇から漏れる息がふっと熱くなるのを朱雀は見る、それは幻覚かもしれないが確かに感じられて、朱雀の耳裏のあたりが一気に汗ばむ。
「……なあ玄武、そしたらオレも触ったらおかしいか」
言うと玄武が落としていた視線をふいっと上げてこちらを見る。
「お前が、俺を?」
「そうだ。おまえが……その、嫌じゃねえなら」
「……悪くねえな」
玄武はにやりと笑みを浮かべて朱雀の手を取るとそっと自分に導く。
「できるか?」
「あー、いつもどおり、でいいなら」
「いつもお前がどうしてるかなんざ知らねえ」
「……なんかこすればいいんだろ! 知らねえよオレだって、何が正しくてどれが間違いでおまえのやり方と違うからどーかなんて知らねえよ! あー、めんどくせえ、めんどくさいなおまえ、玄武!」
「知らなかったのか?」
「知ってるよ」
朱雀ははあとため息をついて、まだ硬くなっていない玄武のそこを撫でる。
「気分悪くねえか」
「まさか」
「オレが触って嫌じゃねえな」
玄武が頷くので朱雀はボタンを外すとファスナーを下ろし、ボクサーパンツに包まれたそこを下から支えるように触れた。
「あんまりここは気持ちよくなんねえっつってたな」
「ん……いや、今は気持ちいい。お前が触ってるからな」
「っ、そうかよ、そりゃあよかったな! なんなんだよ一体……」
「嘘は何一つついちゃあいねえぞ。……ふわふわするな」
玄武は朱雀の股間をまさぐる手はそのままに目を瞑ると、何かを味わうようにうつむいた。玄武の手は雁首をたどり、先端に触れる。濡れ始めた鈴口をふっくらした指の腹が撫でるたび、朱雀の腰にとろけた金属のような重みがわだかまる。眠気にも似た沈むような心地と、神経を走り抜ける鋭敏な刺激に揺らされながら、朱雀は玄武の下着の中にそっと手を入れた。なめらかな腹の肌のあとに下生えがあり、そこを掻きわけるとわずかに硬くなりはじめた性器がある。玄武みたいなそつのない男にも、そういう器官があることを少し不思議に思いながら朱雀は竿に触れ、ゆっくり上下にさする、力を入れないように気をつけながら。だがすぐにそれは看破されて、玄武は目を開いて片眉を持ち上げるとこちらに問いかけてくる。
「なんだ、遠慮か?」
「違えよ、……人様の、そういうとこ触んの初めてだからよ、オレなりに気をつかってんだよ」
「別に壊れもんじゃねえし、痛えときは痛えって言うぞ」
「それ言わせてる時点でダメだろ」
「……デキる男じゃねえか」
「だからからかうんじゃねえって」
言いながら朱雀はゆっくり玄武のものをこすりあげる。それはだんだん芯を持ちはじめてどくどくと脈打つようになり、朱雀の速まる鼓動とあいまって不思議なリズムを生み出す。まだ薬が尾を引いているのか、玄武が触っているせいなのかはわからないが、耳元でうるさくなる自分の脈動と指に伝わる玄武の血の流れは、からまり、融け合って体液の分泌を活発化させる。朱雀は口の中にたまった唾液を飲み込み、なぜかぼやけ始めた視界をぎゅっと目を瞑ることで元に戻し、汗が滲み始めた首や背中に意識を逸らすことで、追い詰めてくる玄武の手からすり抜けようとする。
一方朱雀の手の中で着実に育ちはじめた玄武は容積と質量を増して、いつのまにかぬめりを帯び、それと同時に玄武の唇からは時折うめくような声と、押し殺すような吐息がこぼれる。
「……気持ちいーか」
「ああ……」
「んじゃ、続けるぜ」
言うと玄武はこくりと頷いて、お前も気持ちいいか、と訊き返してくる。朱雀が頷くと玄武はよかった、とこぼして、また口を結ぶとその器用な左手で朱雀のものを擦り上げる。
「っ、あ、玄武、ゆっくり」
「なにがゆっくりだ、出したいなら出せ……」
「まだ、早え、だろ……おまえが、まだ」
「俺?」
「おまえも、いくんだよ、玄武」
「……っ、お前より先にいけるか」
「なんでそこで、意地張るんだよ」
「なんでもだ」
玄武は怒ったように眉を逆立てて、鋭い視線でこちらを睨んでくる。朱雀は間を置かずに隠そうとされている真意に気づいて、しょうがねえやつだ、と思いながら親指に少しだけ力を入れて、玄武の亀頭を捏ねまわす。う、と玄武が呻いて朱雀を弄ぶ手が少しだけ力をなくす。
「……朱雀!」
「なんだよ」
「調子に乗るな」
「乗ってねえよ。おまえが気持ちよくなんねえとしょうがねえだろ」
「……俺はいい、お前だ、お前が」
「よくねえって。おまえも気持ちよくなんなきゃ意味ねえ」
「意味……意味なんかあんのか」
玄武が顔をしかめながら、そして手は止めないままに言う。
「……あるだろ。あるからしてんだろ、たぶん」
「なんだってんだ」
「いや、そういうのコトバにすんのは、おまえの役目じゃねえか。オレの頭にそんなもん入ってねえよ」
「丸投げか、ふざけんな」
「……丸投げっつうかよお、じゃあ言うけどよ、こっぱずかしいこと言うから途中で止めんのなしだぜ」
朱雀がそう言うと、玄武はぐ、と一発くらわされたような顔を作って、それでもわかったと答えた。
「じゃあ言うぜ、いいか、玄武。オレたちがいまこういうことしてんのはなあ、オレとお前が好き同士で、オレはおまえを気持ちよくさせたいし、おまえもたぶんオレにそうしたいからだよ。そういうの、愛って言うんじゃねえのか、その、世の中的には」
「愛」
「……愛だよ。なんだよ悪いかよオレがそういうマジメなこと言ってちゃ悪りいかよ! だいたい最初にそう言ったのはおまえだろ!」
玄武が一言復唱して黙り込んでしまうので朱雀は内心おおいに焦りながら口ばかりを動かす。玄武のものをいじくる手は止まってしまっているがそれは玄武だって同様で、ぴたりと手を添えたまま動かない。
「だからよ! 好き同士で、こういうことして、オレはおまえが大事で大切にしたいしこういうことすんなら気持ちよくしたいから、やってるっつうのは愛じゃねえのかよ! オレだってわかんねえけどそういうふうに言うんじゃねえのかよ、あーもう言わなきゃよかったぜ、なんだよ、おい、玄武、なんか言えって」
相変わらず玄武はそのままで、視線も外れたまま、ちょうど朱雀の臍のあたりに投げかけられてびくともしない。朱雀はちょっと心配になって下から覗き込むように表情をうかがった。
「玄武?」
「……愛、か」
「んだよ、まだなんか」
「考えてなかった、それは」
玄武は静かな声音でそう言い、顔を上げるとすっと朱雀をまなざした。
「お前の言うとおりかもしれねえ。この……ふわふわして、心地よくて、少し不安で……お前がいねえと寂しいと思うのは、愛なのかもしれねえ。俺にも自信はねえが、たぶん」
「お、おう、そうかよ」
「わからねえ、愛情ってもんにはとんと縁がねえからもしかしたら間違えてるかもしれねえし、勘違いかもしれねえ。だけどお前がそう言うんなら、……ひとの愛ってやつをちゃんとわかってるお前が言うんなら」
「待て、その、オレも別に愛なんて」
「俺よりは詳しいだろ」
「わかんねえよ! 初めてだし……おまえだけだし、そういう名前でいいのかなんて、誰も教えてくれねえし、ただそう思っただけだ」
「お前がそう思うなら、きっとそうだ」
玄武はやっとやわらかな笑みを浮かべて、歌うようにそう言った。朱雀は急に照れくさくなって、首をぐいっと横に向けるがそこにはカーテンのかかった窓しかないから、仕方なくまた視線を玄武に戻す。玄武は変わらずこちらを見つめている。
「……玄武」
「なんだ」
「薬、抜けたかな、オレら」
ああ、と玄武は今気づいたように言い、首をかしげて、まだ少しぐらぐらするが、もうおおよそ抜けてる頃合いだな、と続けた。
「……じゃあよ、やっぱり愛だぜ」
「そうか」
「変わんねえよ。おまえが好きなのも、おまえを気持ちよくしてえのも、薬が抜ける前となんにも変わんねえ。だからこれは、愛だ」
朱雀は言い切って、それでもうなにも言うことがなくなり、脱力していた手を構えなおすと、玄武の竿をゆっくりとしごきはじめる。玄武も気づいたように、乾きかけた先端にまだ湿度を保っている指を宛がってさする。
「……なあ、玄武。気持ちよくなってくれよ」
「お前こそ」
「オレぁちゃんと気持ちいいぜ」
「……俺もだ」
また息が乱れはじめる。朱雀の脳はさきほどよりは弱く、けれど確実に玄武の指の動きを感知して快楽に結びつけ、同じものを玄武に贈りたいと願う。それを受け取った手のひらと指は玄武の勃起しきった部分を優しく刺激する。玄武の口からはっきりしない音がこぼれ、目の前にある喉仏がごくりと上下し、肩がかすかに震えるたびに朱雀の体温は上がり、もっと先へ、と思う。それは玄武がいつか言ったように脳がそうさせているだけなのかもしれないけれど、人間には脳しかなくて、そこに心があって、それが朱雀を駆り立てるなら、間違いではないと思った。
玄武は今度こそ目を開けて、朱雀と自分の一部始終を見ていた。指を巧みに操って朱雀を追い立て、その反応を瞳に映しこんで時折満足そうに目を細め、また没頭するように手を動かした。そのたび朱雀はなるべくきちんと、玄武にわかるように声を出して鼻を鳴らした。もうたぶん繋がってはいない脳味噌の中で悪さをしていた薬は分解されはじめたころだろう、いずれ体の外に無害な形で排出される。二度かぎり、玄武と繋がった経験はもう二度と訪れない。だからその代わりに朱雀は言葉としぐさで玄武に伝える必要があった。あふれる先走りもびくびくと跳ねる竿も十二分に自分の快感を物語ってはいたが、それは反応であって、朱雀の思いではなかった。
「玄武、なあ、オレ、そろそろ」
「ん……そう、だな、俺も」
快感に震える体をどうにか制御して、二人して手の動きを速める。玄武が唾を呑み、ティッシュ、と口走る。朱雀は空いていた左手を伸ばして紙箱を引き寄せると、そこから乱雑に数枚を引き抜いて玄武の右手に押し付けた。それから自分も同じ分だけやわらかい紙を握りしめる。
「朱雀」
「うん」
「……いきそう、だ、なあ、……朱雀」
「いいぜ、玄武、いけって」
「ん……嫌だ、俺が先は」
「意地っ張り」
「お前だって」
そこで二人して顔を見合わせて、おかしくなって笑った。こわばっていた体の筋肉が弛緩した瞬間により強い刺激が神経網を駆け抜けて、玄武がうめいて精液を吐き出したのと、朱雀がぐっと息を飲み込んで射精したのと、わずかに朱雀の方が早かったが玄武はそれ以上何も言わなかった。
脱力した二人はおざなりに手と性器をぬぐって、朱雀が丸めたティッシュを床に放り落としたことを玄武はとがめるどころか、あとに続いて同じように放り投げた。それから二人はじっとりと汗で湿ったシーツの上に横になり、まだ身につけていた衣服を全部脱いで、素裸になってひとつの毛布にくるまった。玄武の長すぎる脚が朱雀の脚にからみついて二人はおおよそひとつになり、お互いに大きく息を吐いて、今終えた一連のできごとを示し合わせるでなしに思い返した。
朱雀が気持ちよかった、と口走ると、玄武は頷いて、俺もよかった、と答えた。
「……薬のせいじゃねえと思うんだよ、やっぱり。最初はそりゃあ効いてたからよ、変な……いつもみたいじゃねえ感じがしたけど、最後は、おまえが気持ちよくしてくれた」
「キメてる最中にしたことはねえから比較対照はできねえけど、俺もそう思ってる。お前が、くれたもんだ、全部」
「全部っつうのは言い過ぎじゃねえか」
「言い過ぎなもんか。お前がいなきゃ……お互いがいるから、だろう。俺もお前も」
「そうか……そっか。そうだな」
朱雀は両の手のひらを検めて何の液体もついていないことを確認してから、念のため触っていなかった左手で玄武の顔を包むように触れた。熱の引きかけたするどい頬の輪郭をやわやわと撫でると、玄武はささやきかける。
「愛か?」
「ちゃかすんじゃねえよ」
「嬉しいぜ、俺は。心底な」
玄武は生まれて初めてもらったかもしれねえ、と言い、朱雀の手のひらに頬をすりつけた。その姿に一瞬家においてきた猫の幼いころの様子がかぶって、胸にあふれるあたたかい奔流のことをやはり愛と呼ぼうと朱雀は決め、黙って玄武を撫で続けた。
二人はそのまま毛布にくるまって、玄武はもうすべての用を終えた安物のスマートフォンで適当なニュースサイトとSNSを見て回った。ニュースサイトは更新されておらず、SNSにもほとんど書き込みがなかった。朱雀の端末にはまだいくつか連絡が入ってきていて、いずれもアンプルが何の役にも立たなくなったこと、薬がどうやっても効かないことを責め立ててきた。朱雀は端末の電源を落とすと、オレのもいっそすり潰してゴミにしちまうか、とボヤき、玄武はそれも悪くはないが代わりを見つけてからにしろよ、と至極冷静に言った。
玄武が探し当てたごく短い投稿や写真、動画、もう拡散すらされないそれらの中には、混乱と混沌があった。窓の外で人たちが押し合い、渦のようになってやがて誰かがくずおれて、そこに人が折り重なり、潰し合う動画があった、血の海のなかにまだ生まれて間もない赤ん坊が放り出されている写真があった。地獄という言葉がトレンドに入り、同じように薬が、例のアレが効かないという嘆きの声がハイライトされた。
変わり映えしないインターネットに飽きた朱雀がテレビをつけても、もうニュースはやっていなかった。天気予報の前に流れる定点カメラの映像だけがスイッチされることなく映しだされて、そこにはやっぱり争い合う人間たちがいた。大きなビルに灯っていた電気が何度かの爆発的な明滅のあとにぶつりと途切れて、そこの入り口からわっと人の群れが流れ出して、また次の獲物を探しにいった。それは確かに玄武が無茶苦茶にしてしまった世界だった。朱雀はなにげないふうを装って、玄武にこれを想像していたのか、訊いた。玄武は頷いて言った。
「もうダメだったんだ、とっくに。俺が引き金を引いたのは確かだが、その前からこうなる素地はとっくにできてた。金持ちと悪巧みしてるやつらだけが逃げられると思ってたのが、そうじゃなくなったんだろうな。いずれ電気も水も止まるし、俺たちがこの部屋にいられるのもあとちょっとだぜ、朱雀」
その回顧じみた告白を朱雀は素直に受け取った。世界を蝕んでいたのは自分も同じだった。割れたガラスを拾わなかったこともジャンキーを止めなかったことも客を殴ったことも自分だけ安全な場所で玄武を待っていたこともあのスイッチを押すように玄武をけしかけたことも、全部この光景に繋がっていた。
「同罪ってやつだろ、オレとおまえは」
「そうか? お前はまだ逃げられるが」
「馬鹿野郎、いっしょだって言っただろうが」
脳髄まで薬に浸かりきったジャンキーも誰かに虐げられて部屋の隅で震えているあのころの玄武みたいな子供たちも仕掛けがすっかりダメになって怒り狂っているだろうやつらも、二人と同じ機構をもった器官で動いているはずなのに、二人だけが静かな部屋でひとつの毛布にくるまって世界を見下ろしていた。もちろん世界は街だけではないしまだ薬の広がっていない場所が――もしまだそんなところがあるなら、玄武の語っていた夢物語、たとえば朱雀が食堂をはじめて、来るかわからない客を待つようなことだってできるかもしれなかった、が、それはすべて仮定で、二人は渦中にいて、窓の外では人々が荒れ狂う音もしていた。
がんがんと急に扉が叩かれた。二人して入り口を見ると、誰かが扉を蹴っているか殴っているのか、繰り返し繰り返し音がする。灯りがついてるからか、と玄武は言い、朱雀から脚をほどくと下着だけ身に着けてそちらに歩み寄ろうとした。
「おい、待てよ。あぶねえって」
「そうか? ここの鍵は頑丈だぜ。鉄パイプで殴ったくらいじゃ壊れねえ。それよりお前、窓に気をつけろ。この分だと石くらい飛んでくるぞ」
言われて朱雀は薄い窓ガラス一枚とその手前のカーテンだけで外界と仕切られたベッドから離れる。同じく下着を身に着けて、放り出したジャージを着て、ロッカーからいつか玄武が綺麗にしてくれたコートを取り出すと袖を通す。
「玄武、服着ろ」
「正論だ」
言って玄武は落ちていた服を拾って身に着けた。そのあいだ朱雀は窓のほうを向いて仁王立ちになって、あるいは不躾な侵入者の可能性に備えたが、幸い誰も低い二階の窓からまだ灯りがついている部屋に入ろうとはしないようだった。
「上着……はねえな。おい朱雀、お前が配達に使ってた鞄、どっちか寄越せ」
「あ?」
「逃げるぞ、ここから」
「何、なんだよ、どうやって」
「車も電車もねえ、走るか自転車か選べよ」
玄武はそう言いながらキッチンに向かい、保存の効く容積の控えめな品々を取り出すと、鞄、と繰り返した。朱雀は仕方なくロッカーからメッセンジャーバッグを取り出すと、中に閉まってあった宅配屋のロゴが入ったリュックサックを玄武に放る。
「そっち使え。あと何がいるんだ」
「さあな。どこまでいけるかわからねえし、どこにいくかもわからねえ。お前がシャンプーとか、皿とかフォークとかタオルとか……そういうもんがいると思うならもってこい」
玄武が並べ立てた品々はいつか自分が言った台詞で、朱雀はあきれながら、そんなころの言葉ですら覚えているのか、と思う。この調子なら全部覚えているのかもしれない、朱雀との思い出を、この男の頭の中に入っている脳味噌は、全部。
「……いらねえよ、なんだっけ、おまえさっき鍋とかフライパンとか言ってたよな」
「ああ、言ったな」
「武器にするか」
「それで世界でも救うのか」
「悪かねえだろ」
「……そうだな」
玄武はもうすっかり楽しそうに、まるで学校でキャンプの予定を立てる子供のように笑いながら、リュックサックに必要な食料を詰める。朱雀もカップ麺やら飴玉やら、それから空のペットボトルに水を入れてメッセンジャーバッグに入れ、言った通り小鍋を無理くり詰め込み、最後に冷蔵庫からフセンを剥ぎとるとコートのポケットに入れた。部屋の前で騒いでいた群れはいつのまにか去っていて、今はアパートの前は静かで、遠くで群衆のおたけびが聞こえる程度だ。
「いいぜ、玄武。出発の準備はできた」
「リュックの紐が短けえな」
「オレのサイズなんだからしょうがねえだろ、おまえの椅子だってあれすげえ使いにくかったんだぜ」
「待て、調整する……、よし、これでいい。じゃあ行くか、朱雀」
「おう」
二人はそれぞれ鞄を抱きかかえると、鍵を開け、顔を見合わせてから外に飛び出した。階段を駆け下りて路肩に放り投げられた自転車の中からスポークが曲がっていないものを選んで、玄武だけサドルを一番上まであげて、またがった。
「南にいくんだっけか」
「アテはねえぞ」
「いいよ、んなもん必要ねえ、オレらには」
ペダルに足を据えて、二人はぐっと漕ぎ出した。がたがたに荒れた路面に体を突き上げられながら、並走する二台の自転車は街の細い路地を駆けた。途中人の群れに出会ったときはUターンして逃げ、その呼吸はぴたりと合っていたから二人は必ず同じ道を選び、はぐれなかった。
やがて建物がまばらになりはじめ、人の声と灯りが遠のき、街灯が半分もついていない街道に出た。隣にはもう枕木しか残っていない線路が走っていた。朱雀が自転車を停めると、玄武は少しいったところで同じく止まって、こちらを振り返った。
「こっからまっすぐでいいか?」
「ああ、いけるところまで」
「わかった。いけるとこまで、オレとおまえでいく」
朱雀はペダルを空回りさせてから、ぐっとひとあし踏み込んでチェーンがきっちりギアとかみ合っていることを確かめた。それからふっと後ろを振り返った。もうなんの声も聞こえなかったが、さっきテレビで見た光景はもっと悪化して広がっているはずだった。高層ビルのまだ灯っている電気、夜景、ちりばめられた星屑のような光が目を刺した。もう二度と見ることはない。さよならだ、玄武と出会った、玄武と出ていくこの街。
「どうした、行くぞ」
「おう」
朱雀はハンドルを握りしめて、蹴りだした玄武のあとに続いた。迷うことは何もない。二人でいけばいい、いけるところまで、ずっとずっと、先の先まで。