目覚めると昼になっていた。太陽はほとんど差し込まないから時計で知る。太陽だけは地上がどうなろうとぐるぐる二十四時間天球を回り続けて、朱雀の不摂生を咎める。眩しくはない目を無理やり開けて目玉だけでベッドのほうをうかがうとそこには誰の姿もなかった。起きている? 朱雀は勢いをつけて起き上がり、ソファの上に乗ったまま狭い部屋を見回す。ぎし、ときしんだ安い家具の音に気づいたのか、玄武が浴室から顔をのぞかせた。
「起きたか。おはよう。二件くらい連絡着てたぞ」
その顔があまりにも平静のままで何もなかったようなので、朱雀はソファから跳ね降りると大股で近寄って胸ぐらを掴んだ。
「何だ急に、悪い夢でも見たか」
「ああ見たぜ、とびきり悪いやつをな」
朱雀が下からねめつけても玄武はとりたてて気にする様子もなく、片手に持っていた浴槽用の持ち手つきスポンジをぽいと床に放った。
「ああそうだ、薬な、薬、できたぞ。完成だ」
「完成って……」
「ローンチできるってやつだ。人体実験もオールグリーン。何の問題もない、それに使い心地は最高だ」
玄武は目をすがめて、人によってはうっとりしたようにも見えるような表情を浮かべる。
「前のとは段違いでいい、バッドトリップの報告もないし、とろけるみてえな心地だ。いい刺激は何倍にもなって、悪いものは世界から消えちまう。身動きするたびにシーツと体が擦れるだけで最高に気持ちがいい」
「……オレ、使うのやめろって何度も言ってるよな」
「俺が使わねえわけにはいかねえだろう。これは売れるぞ、朱雀」
「売れる、じゃねえんだよ。やめろって言ってんだろ。おまえが薬で死んだら、オレはどうしたらいいんだよ! どこの誰に連絡しておまえが死んだなんて話しなきゃいけねえんだよ!」
襟首をぐいと引いて玄武の頭を揺らす。玄武はおっと、といなすような目線を送ってきて笑う。
「誰に? 俺が死んだ話なんてする相手はいねえぞ。俺には誰もいねえからな」
「誰もいねえって」
「親兄弟血族姻族誰一人いねえってことさ。お前は俺が薬で死んだら大人しく公の葬祭場にでも連絡して、カスも残らないように焼却処理してもらえばいい」
玄武はまるで何でもないことのようにそう言って、それから葬祭場ってのはまだやってるのか? と脇見をしながら軽口を叩く。
「そうだ、仕掛けも最高だった。相手が自分よりいい思いをしてる気がすると、トリックがわかってても欲しくなる。さすがに追わなかったが、ジャンキーどもにはたまらねえだろうな。脳ってのはほんとうに単純で愚かで楽に流れる器官だ。ちょっとつつくだけで……なあ朱雀。お前の稼ぎは増えるぞ。客も増えるし、もっと決定的にこの世界はダメになる。これはなあ、人と人の脳を繋いじまうんだ。メンツもなにもない、無抵抗なかわいそうな脳ミソはそそのかされたとおりに薬を欲しがる……競う相手がいりゃあなおさらだ」
「……おまえは、世界をダメにするために、これやってんのかよ」
「まさか。言ってねえか? 俺のこれは全部興味本位のお遊びだ」
「それで人の人生無茶苦茶にして楽しいかよ」
「それは副産物だ。俺の目当てじゃねえ。だいたいお前が言えたクチか? なあ、売人風情の紅井朱雀」
玄武はそう言って口元を歪めて、笑いに似た表情を作る。それはどうみてもわざとらしく露骨に朱雀を煽るためだけの顔だが、朱雀はそれに返す言葉がない。
「……っるせえな! ああ、じゃあやめる、やめてやるよ、こんな仕事やめてやる。元の運び屋に戻って、おまえらの仕事と関係ねえことして……ダメならのたれ死ぬ」
「今から稼業を変えるのは勧めないぜ、朱雀。そういう仕事はもうほとんどなくなる……まともな仕事も、まともな人間もなくなるんだ。アレさえ始まっちまえば、全部」
玄武はそう笑うと、朱雀の握りしめた手を掴み、指を一本ずつほどいた。解放された襟を整えるとさっき投げ捨てたスポンジの柄を握って、浴室に戻る。朱雀は立ち尽くしたままその背中を見つめる。
玄武は言った。世界はもっとダメになる。取り返しのつかないことになる、いや、するのだ、玄武が、世界を。
「おい玄武」
振り返った玄武の目はいつも通りの薄灰色で、そこに電灯とまつげが作る影が落ちて深い青みを帯びたグレーになる。口ぶりとは逆にちっとも面白くなさそうな、この世になんの思い残しもないような冷えた眼差しで、玄武はこっちを見る。
「……オレにも、その薬よこせよ」
とたん、さっと目が気色ばむ。
「運び屋がもうダメで、おまえの言うとおり売人フゼイがグダグダ言うのがダメならよお、オレもそっち側に行きてえなあ。なあ玄武。オレにもその、できたての薬ってやつをよこせよ。おまえだけずりいじゃねえか」
「ダメだ。お前は」
怒鳴るような声をさえぎって朱雀は続ける。
「おまえだけいい思いして、楽しんで、そりゃあないんじゃねえか? アンプルはあるんだからオレにもその『本体』の薬をよお、インストールしてくれたっていいだろ? おまえはダメだダメだって言うけどよ、オレだって興味ねえわけじゃねえんだぜ」
「お前は使うな。何度も言ってるだろ!」
「オレだっておまえに使うなって何度も言ってるけど聞きゃしねえじゃねえか」
「ダメだ、お前は……お前は使うな。こんなもの」
「へえ? ご自慢の商品をこんなものってか。玄武。おまえの言ってること無茶苦茶だぜ。わかってんだろ、頭いいんだからよ」
言いながら歩み寄ると玄武はじり、と踵を後ろににじらせて後退する。
「理屈が通らねえんだよ、なあ玄武。おまえは全然楽しそうじゃねえしオレがやるのはダメだって言う。おまえ、本当は――」
急にビープ音がマシンから鳴る。玄武は顔色を変えて、スポンジを投げ捨てると朱雀を突き飛ばしマシンに駆け寄る。後を追うと画面をものすごい勢いでログが流れて――それは映画で見たワンシーンみたいに決定的なものに見えた。
「……遅かったみたいだぜ、朱雀」
「なにがだよ」
「始まったってことだ、全部が」
変化はすぐに訪れた。ランダムで選ばれた相手の快楽を量った脳はすぐに追加の快楽物質を求めるように指令を出した。朱雀のスマートフォンにはメッセージだけではなく着信が並び、出てみると相手は口早に、たぶん涎を吐き散らしながらアンプルを求めてきた。
「二ダース? そんなに一度は無理だ。あんたの取引履歴じゃそんなに渡せねえ。はあ? 無茶言うなよ。半ダースがせいぜいだ。それでもいい? おい、話が無茶苦茶だぜ。だいたいすぐは無理だ……」
朱雀が応対に追われる片方で、玄武はここらへんの地図を天井に投射して、椅子の背もたれを思い切りリクライニングさせるとその図を注視する。つられて朱雀も上を見ると、ぽつりぽつりと紫色の灯りが夜景みたいに点り始めて次第にその量が増えていく。
「ああ、わかった、わかった、あと二時間後な。じゃあ切るぜ。――おい、玄武これ」
「『感染』の様子を送ってきやがった」
「誰が」
「出資者がだ。俺が前に違う仕事で送ったリアルタイムマッピングの悪用だよ。誰がネットワークにつながって、新しいバージョンのを使い始めたかがわかる」
その間にも紫の明かりはぽつぽつと増えていく。これが人の数? 薬を使い始めたやつの数? それが全部本当のことなら――朱雀のスマートフォンが震えて、見ると「親」から着信が入っている。
「あー、おっさん、今ちょっと」
〈デカい仕入れがあった。お前、今の異常事態はわかってるな? どこも在庫が干上がりかけてる。次があるかなんてわからねえ、お前にはとっときの量をやるから、早く来い。五十万でいいぞ〉
「あ、おい」
ぶつりと電話は切れて会話はそれで終わる、二時間後の約束と「親」の根城を考えるともう家を出ないとならない。いや、プッシャーはやめるのではなかったか? 切った啖呵の責任を取らないわけにはいかないが、約束は約束でしてしまったし「親」は朱雀が現れなければ違う誰かにアンプルを渡すだけだ。なら自分が「回収」したほうがまだマシじゃないか? いやそれはいいわけだ。わかっている、わかっているけれど、今はもう考えている余裕がない。この間にもSMSはひっきりなしに入ってくるし、くるたびに切っている客からの着信も十をゆうに超えた。もう一度天井を見ると紫の光はさっきの倍くらいに増えている。
「――玄武、オレでかけてくっから」
荷物を整えてコンタクトを入れ、マスクをしてから振り向いた。玄武はこちらを見ずにひらひらと手をゆらした。朱雀は三十秒ほど玄武の丸まった背中を眺めていたが、それきり変化がないので諦めて扉を開けた。いつもどおり鍵を閉めて階段を下りて、停めておいたチャリが盗られているのを確認して、そこらへんにある鍵のついてないチャリを拝借する。サドルの高さだけ自分の股下に合わせて漕ぎ始める。
大通りに出たところで、異変は明らかになる。怒鳴り声、ガラスの割れる音、悲鳴、投石だろうか石が道路に叩きつけられるような鈍い音、通りを横切った男がぎらりとこちらを睨んで駆け寄ってくるので慌てて逃げる。朱雀が駆け抜けるあいだにも殴り合いがあり、誰かの泣き声が聞こえてきて、そうかと思うと完全にキマった顔の女がショーウィンドウにもたれかかってぐったりしている。始まっている、玄武の言ったとおり、そう思いながら重い腿を持ち上げてペダルを踏む。スマホがメッセンジャーバッグの中で震え続けているのを尾てい骨のあたりで感じながら朱雀は冷えた空気の中を走り続ける。露出している目元のあたりが寒くて寒くてしかたない。はやくも干からびかけたコンタクトを潤すために二、三度まばたきをして、片目をつぶりながら誰もいない車も通らない道を走る。飛び去って行く景色の中に間違いなく異質なものが増えている。またガラスの割れる音、ぐいとハンドルを回して曲がるとその先に窓ガラスが割れたマンションがあり、中から明らかに子供が泣き叫ぶ声がしている。それを知らないふりをして通り過ぎて「親」の根城まではもうすぐだ。朱雀はぐるぐるとブロックを回ってから少し離れた交通標識にチャリを繋いで足早に地下階に降りる。ダイヤル式の鍵の数字五桁をきちりと合わせてノブを捻るとドアが開く。「親」はその奥でふかふかの椅子に腰かけていて、声をかけるとこちらを向き、待ってたぜと笑う。
「特需だぜ紅井、なあ、次があるか、どこまで行くか知らねえが、俺たちにとっちゃあそんなこと関係ねえよな。ほら、これでお前の取り分は全部だ。五十万とちょいとまけてある。これで好き勝手にやって、次がもしあったらまた連絡してやるから、それまではここに来るんじゃねえぞ」
そう言って「親」は黒いビニール袋にぱんぱんに詰まったアンプルを朱雀に渡した。朱雀は黙って五十万ぶんのチケットを渡す。「親」はすぐに端末にそのコードを打ち込んで頷き、繰り返して知らせるまで来るんじゃねえぞと言った。それで朱雀もここで手打ちなのだということがわかり、短くない付き合いだった「親」に頭を下げると部屋を出た。そう遠くないうちに「親」はここから消えてどこかに行くし、アンプルの仕入れ先を朱雀は探さなければならなくなるはずだった。
自転車にまたがると朱雀は約束の場所を目指す。途中ゴミ箱の中身が散乱しているところに集まったカラスを散らし、手を伸ばすジャンキーのそばを通り抜けてひたすら駆ける。倦むほどに繰り返された毎日は終わる、そういう確信があり、しかしそれがどれくらいの範囲に及ぶのか朱雀にはまだ見当がついていない。さっき見た天井の光は今はもうどれくらいに広がっているだろうか。それにしたって早すぎやしないか? なあ玄武、これは、この世界はお前が想像したままに狂い始めているか?
約束の場所は長距離トラックの停車場で、もう長いこと動いていない廃車に近いデカい八輪のトラックのそばに朱雀はチャリを停めるとバッグから半ダースのアンプルが入った袋を取り出す。
取引相手はまだ来ていないようだが、このあいだの例もあるから気は抜けない。朱雀はメッセンジャーバッグを体の前に抱えてぐるりと周囲を見渡す。といってもトラックがいくつも停まっているから誰かが潜んでいても気づけないだろう。殴られていまや全財産にも等しくなったアンプルを盗られて終わる、それはダサすぎるから願い下げだ。朱雀はピリついている自分を自覚しながら怯えた小動物のようにあたりを見回し続ける。正々堂々の殴り合いになれば勝てる自信はあるが相手が群れだったり武器を持ってきたりしたらさすがにどうなるかわからない。こっちにある優位は唯一、品物を持っているってことだけだ。
「おい、兄ちゃん」
視線を切った左側から声をかけられて朱雀は体ごとそちらを向く。客はそこにいて、もうチケットをこちらに差し出している。
「約束の金だ。なあ、早くそれを」
「ちょっと待て。先に金だ」
朱雀がチケットを奪い取ってそれを検めているあいだ、相手は小便を我慢している子供のように身を震わせている。なんだこいつ、まるっきりの無能だ。チケットが通用するものであることを確かめた朱雀は手の中にあったビニール袋を放ってやった。
「おう、ありがとな、なあ次はいつになる? 半ダース、ほしいんだ、できるだけ早く」
「わかんねえよ。オレらだって仕入れが無茶苦茶になってんだ。また連絡よこせよな」
朱雀はそれだけ言い捨てると縋るような目でこっちを見てくる客をそこにおいてけぼりにして自転車に乗り、停車場を離れた。あの客はもう残念だが生き残りやしねえだろう、もしかしたらあのアンプルだって誰かに奪われるかもしれない、キマってる最中なら辛くないだろうからせめてそうだといいな。朱雀は思ってペダルを踏み込む。ぐんと加速した自転車はゆるい坂道を下って街の中心部に向かう。朱雀はいつもの取引のあとの癖で家から離れようとして、ふと思いなおして帰路についた。アンプルをこれだけ持っている状態でうろつくのは正解とは言えなかった、早く家に戻って――異変の状態を玄武に聞かなければ。朱雀はいったんチャリを停めると目玉からコンタクトレンズを剥ぎ取って道端に捨てる。それからマスクをかけなおして冷えた指でハンドルを握った。
アパートまで三十分ほどを疾走して、いつものポールに自転車を結わえ付けると朱雀は鉄の外階段をかんかんと上がっていく。6ホールの踵はもうずいぶんリペアしていないが靴屋もとんと見かけない。修理キットが出回っていれば自分でやるかと、思いながら部屋の前について、鍵を差し込んで回した。機構がかちりと回る手ごたえがありドアノブを引くと、冷気がぶわっと顔に襲い掛かってきた。
冷気? 窓が開いている?
まず思ったのはそこだった。玄武が心を入れ替えて換気をしている可能性もゼロではなかったが、どうしたって違和感があった。靴を急いで脱ぎ捨てて入ったリビングの真ん中が、がらんと空いていた。
マシンがない。モニタもない。椅子は部屋の隅に寄せてあった。箪笥の引き出しの上二つが乱暴に開けられたままになっている。駆け寄るとそこに入っているはずの七日分のスウェットが、なかった。
トイレを見て浴室を見てもう一度リビングに戻ってベッドの上もキッチンも食卓も見て、そこになんの書置きもなく、もぬけの殻になっていることを確かめて、朱雀はぐらりと視界が揺れるような感覚に襲われて、モニタが置かれていたはずのテーブルに手をついた。
玄武。お前。
行ってしまった。脳はそれを正確に理解していたが感情が追いつかない。玄武はこの部屋に来たときどうしていた? あのマシンとモニタとほんの小さな鞄ひとつで現れた。それ以外のものは買えばいいと言っていた。それはそういう意味だったのだと、何も変わっていなかったのだと、今思い知った。
ばたばたとカーテンが寒風に煽られてはためく。誰もいない部屋。玄武の存在だけが根こそぎ失われた部屋。朱雀はしばらくそこに立ち尽くしたあと、ようやく寒さにきしむ体を動かして窓だけを閉めた。そしてベッドに崩れ落ちて、もはや何も映し出さない天井をぼうっと見つめた。
捨てられた。
まっさきに思ったのはそれだった。玄武はオレを捨てて出ていった。もう用が済んだのか? いやオレに元から用なんてない。たまたま玄武はオレの誘いに乗ってこの部屋に来ただけだった。じゃあ口論が悪かったのか? 煽るようなことを言ったから? でもそれだって前からしていた。オレと玄武は決して仲がいいわけじゃなかった。ただ――ただ何だった? 友達でも仲間でも同僚でもましてや家族でもない、ただの同居人――たまたまオレのメシを疑いなく食ってくれるだけの。
――玄武はどこに行ったのか。朱雀はそれを考えようとして、その行く先に何ひとつ心当たりがないことを思い知る。玄武の仕事相手のことを知らない。玄武があの地下室の前にどこに住んでいたのかも知らない。どこで生まれてどこで育ったのかもわからない。土地勘があるのがどのあたりなのか、行きそうな場所も思いつかない。どこに、どこに行くのだあの男は。黒野玄武という男は、いやきっとどこか都合のいい電源がある部屋を探して、あの豊かな口座からさっさと手付金を払ってしまってまだ機能している運び屋――そうだオレみたいな、金さえ積めばなんでもすぐに動かしてしまうようなやつらに頼んで必要なものだけ持って、雲隠れだ。オレに断る義理もない、情があれば手紙の一つも書くだろうが、それは到底望めない話だ。
朱雀は呆然と天井を眺める。しみのついた壁紙の端が剥がれかけているのを見とめて、部屋の更新のときに大家に何か言われるかもしれないと思いながら、そういえばもう大家にはしばらく会っていなくて、生きているか死んでいるかも怪しいことを思い出す。
そうか、オレもどこにでも行けるのか。
もう玄武がいないから、この家に帰る必要もなくなった。三度三度食事を作ってやる必要も脱水が足りない洗濯物をもう一回回してやる必要もなくなった。そもそも一人で暮らすには広すぎる部屋だ。夜逃げしてもっと手狭で身の丈に合った部屋に鞍替えすればいい。それはひどく簡単で現実味のある決断だった。
だけどそれで、玄武がオレに会いたくなった時にはあいつはどうしたらいいんだ?
朱雀までこの部屋から消えてしまっては、玄武はもう二度と自分には辿りついてくれない気がした。正確に言えばたぶんあいつのことだからたどり着くことはできたとしても、諦めてしまう。そこでやめてしまう。絶対にそうだ、玄武は諦めがいいし割り切れるから。かたやオレはどうだ、割り切ることも諦めることもできやしねえ。
朱雀は起き上がるとベッドから降りてキッチンに向かった。とりあえず腹に何か入れたかった。カップ麺でも食べるかとやかんを火にかけて、在庫の前にしゃがんだとき、小さなフセンが貼られていることに気がついた。
〈ひとつもらっていく 玄武〉
走り書きのようなそれは、初めて見た玄武の字だった。とめとはねとはらいがはっきりした、小学生が見本のとおりに一生懸命書いたような文字。震える手で――そう、手は震えていた、フセンを剥がして左の手のひらに貼りつける。玄武。署名とも言えない文字の羅列を親指で撫でる。ボールペンで書かれたらしいそれは線の部分が少しへこんでいる。玄武。玄武なあ、オレはおまえのこと、やっぱりなんにも知らねえ。だからもっと知りてえんだ。だから、オレは、この部屋で待つよ。朱雀はスマートフォンでフセンの写真を撮って、冷蔵庫の扉にそいつを貼りつけた。ひとつもらっていく。それには別にここに戻ってくるという意味はなかったが、玄武が何も言わずに去ったわけではないことが朱雀の心を温めた。やかんがしゅうしゅう言い出して、朱雀はカップ麺をひとつ、選ばずにとると蓋を開けた。
朱雀は仕事を選ぶようになった。なるたけ非力で危険のない払いのいい相手だけにアンプルをごく少量渡すようにした。それでも十分にいい稼ぎになった。街はどんどん悪くなっていき、朱雀は食料を探すためにより遠いマーケットまで行くはめになった。そこで一週間前の倍になった米や保存のきく商品を買い込んで、また自転車で家に戻る。あとは部屋にこもって、スマートフォンで薬のことを調べた。行き帰りの途中にごくわずかな知り合いの同業者を見つけては「本体」のほうの情報を聞き出した。
その薬はいつのまにか他のTHCやら合成麻薬やらを駆逐して、ここで流通するほぼ唯一の薬になっていた。小さなカプセルに入ったそれは飲み込むと首元のあたりに巣をつくり、脳をランダムに選んだ誰かと繋げてくれる。相手の興奮は電気信号になって自分の脳に流れ込む。脳はそれを羨ましがって猛烈な飢餓感をよぶ。解決する手段はアンプルの中身をぶち込むことだけ。それで脳は一時的に相手よりマシな状態にあるのだと満足してたっぷりシャブに浸る。成分を全部消化したあと、現れるのはさっきの飢えだ。相手も飢えていればそれより先に満たされたいと思うし、相手が満ちていれば負けじと欲しがる。その繰り返しだ。繋がる相手は一定時間で切り替わって、ずっと同じ相手と競い続けることはない。それはハックされないためなんじゃないかと同業者の男は言い、ここだけの話、悪乗りするやつがいればもっと悲惨なことにできるような程度の仕組みらしい、とささやいた。
わかったのはそこまでで、どこの誰が元締めだとか、どの企業が噛んでるとか、そういったことはわからなかった。どだいわかったところで朱雀にアクセスする能力はないから別に構わなかったが。玄武の名前も一度も出てこなかった。この悪だくみが、壮大な遊びが一人の脳をおもちゃにするエンジニアによるものだということがバレていないということは、玄武はまだおそらく生きていてどこかで薬のアップデートに勤しんでいるのだと想像できた。それは朱雀を少しだけほっとさせたし、糸はまだ切れていないのだと思うこともできた。ただ、部屋に玄武が戻ってくることはなかったし、朱雀のスマートフォンに玄武から連絡が入ることもなかった。朱雀の端末には毎日ジャンキーからの連絡が入るだけだった。その大半を朱雀は無視して、まだ供給されている電気とネットワークで薬のことを調べて、飽きたら玄武の代わりに部屋の掃除をし、食事を作った。なるべく夜寝て朝起きるように心がけた。部屋はマシンとモニタがないだけで、玄武がまるで出かけているだけかのように思えるように維持した。いつ玄武が返ってきてもいいように二人分の食料も用意した。
そうして三週間ほどが過ぎた。あっというまに冷え込むようになり朝晩は割れたアスファルトの間から霜柱が立つようになった。朱雀は毛布を出そうとしてから去年の春に虫食いを見つけて捨てたことを思い出し、リサイクルショップでセコハン程度のわりあい状態のいいものを二枚手に入れて家に帰った。今は誰も眠らないベッドに一枚かけてやり、ソファにも一枚置いた。相変わらず玄武の足取りはようとも知れなかったが、薬の「本体」のアップデートの情報はちょこちょこ入ってきて、それに従うなら玄武は生きていた。生きてこの世界を滅茶苦茶にしていた。三週間の間に朱雀の客はほぼ三倍に膨らみ、知らない番号からSMSが矢継ぎ早に飛んできては、アンプルをいい値で買う、という文面ばかりが散見された。朱雀はそれらをほとんど見もしないで削除して、いままでどおり払いのいい大人しい客にだけ品物を渡した。あの時「親」からもらった商品はこのままの出具合ならまだ数ヶ月はもつ量があった。
朱雀は焦らなかった。玄武は姿を隠すなら完全にやってのける男だし、フセンのことと言い、アップデートのことと言い、朱雀にその生存を知らせるつもりはある――少なくとも朱雀はそう思っている。だから朱雀はこの家で玄武を待って、帰ってきたらぶん殴ってそれでチャラにしてやると、本気でそう考えていた。だからまた日が経って寒さがいよいよ本格的になり、普段裸足で家の中をうろついていた朱雀が靴下を履くようになって、上客が二人姿を消し、もう一人が力づくでアンプルを奪いにきたのをのしてやって、帰りのチャリの上でふと、在庫の数を日割りにしたときの具体的な数十日、それに気が付いたとき、初めて朱雀は終わりのことを考えた。手元になにひとつなくなるまで、インフレが恐ろしい勢いで進むなかでかろうじてまだ資産と言える金が口座にあって、親たちに少しばかりの仕送りをできる間というのはもう限りがあるのだと。手持ちがなくなれば朱雀は街を出ていくことになるのだと、つまり玄武を待てるのはもうほんのわずかな時間しかないのだと。
状況はますます悪くなっていた。街中で低温をものともせずにボロ布だけをまとったジャンキーたちがわずかなアンプルをめぐって殴り合い、まともな格好をしているのは売り手かそれ以前からの金持ちだけ、薬をやってないごくわずかな人間はひたすら商売を続け、生活必需品や食料の値段は跳ね上がる。朱雀が飲まない酒は密造のどぶろくみたいなやつがひと瓶一万はくだらない。煙草一本が米一袋と取引されて、アンプルにいたっては五つで十万二十万を平気で出すやつらがいる。いまや何の価値もなくなった宝石ひとつかみじゃ何も買えやしない。時折小規模な暴動が起きて、まだ生きている店がひとつずつ荒らされて潰れていく。薬を流通させてたやつらの倉庫が狙われてその場でアンプルが濫用され、誰かのスマートフォンから場に似合わない陽気な音楽が流れて、まるでレイヴパーティみたいになることもあった。
そんな中で、朱雀はしのげるだけの稼ぎがあったし、生鮮食品は無理でも無人工場で材料がある限り生産されるレトルトやカップ麺を買うこともできた。あったかいねぐらと温水の出るシャワーもあった。部屋はまだつきとめられていなかったし、念のため分散させておいたアンプルの隠し場所――たとえば積まれた廃材のぱっくり割れた隙間なんかも、見つかった気配はなかった。だから自分のことだけ考えるなら今のままでもよかったし、この街を見捨てて田舎に戻ってもよかった。いま故郷がどうなっているかなんて朱雀にはちっともわからなかったが、同じように薬が蔓延しているならまたプッシャーを続ければよかったし、そこまで汚染が進んでいないなら大人しく両親と畑でも耕して自分の食い扶持を稼いでもよかった。
そう、それはすべて玄武がいないなら、だった。もう玄武が二度と返ってこないという確信を得たら、朱雀は本当に自由にこの街の外にでも行ける、ただ玄武にもう一度会えたら――また一緒に暮らせたら、そう思うたびに朱雀は部屋中を見回して、もう塵の一つまで入れ替わってしまっただろう空気の中に、玄武の姿を見た。それは風呂場からひょいと出てきたり、待った苛なベッドから起き上がったりして、朱雀が我にかえるだけで消えてしまった。朱雀は考える、もしかしたら玄武はとっくにこの街も捨てて出て行ったのかもしれない。地球の反対側のいまは真夏のどこかの国に引っ越して、そこから悠々とこの世界がぶっ壊れていく様を見ているのかもしれない。あるいは暴徒に殴り殺されてこの世にいないかもしれないし、薬のやりすぎであいつのいうところの「ダメ」になって、使い物にならなくなって、運が良くてどこかの病院で日がな天井を眺めているかもしれなかった。朱雀が待つのは愚かで間抜けで馬鹿正直な行為で、玄武はそんなこと鼻で笑っているかもう朱雀のことなんかとっくに忘れていてもおかしくはなかった。
だけどおまえ、まだ生きてて、この街にバラ撒いた薬をこつこつ「改善」してるんだろう。オレがアンプル売ってることだって、どうせ知ってるんだろう。オレが這いつくばって地面をうろうろして生き延びてることを知ってて、――だからある日、帰ってくるかもしれないじゃないか。
だけど玄武、オレだっていつまでもここにいられるわけじゃねえ。
迷った挙句、朱雀は電話をかけた。コール音が十回響いて、切ろうかと思ったところで相手が出た。
〈おう、連絡してくるな、つったろう〉
相手は「親」だった。
「頼みがある。商材の仕入れのことじゃねえ、薬が欲しい」
しばらく沈黙があり、「親」が応答する。
〈宗旨替えしたか。大本のアレのほうなら、余ってるぜ。もうたいがいのやつがインストール済みだし、今回のやつは自動でアップデートしてくれるから追加で打ちたいやつもほとんどいねえ。それで何人分欲しい〉
「一人分。一人に効くぶんだけでいい。最新のやつを、くれよ」
朱雀が静かに言ったのに「親」はまた押し黙り、しばらくしてから、代金はいらねえから××の駅のロッカー、俺の部屋番の下二ケタの番号のもう誰も開けやしねえところにいれとくから、勝手に持っていけ。と言って通話を切った。
カプセルは小さく、朱雀が最後に見たときの色と形とは違って、青白くほのかに光り輝くような色味をしていた。朱雀は机の上にその小指の先ほどもない諸悪の根源を置いて、玄武の置いていったサイズの合わない椅子に座って向き合う。
小さい。指で弾き飛ばしたらどっかに消えてしまうくらいに小さい。これが人間の脳を蝕んで狂わせてダメにさせる。昔みたいに感染症の心配がある注射針もいらない、少しの水で胃に流し込むだけで、あとは勝手にプログラムされた分子たちが動き回って巣をつくり、脳にまやかしの情報を送り込んでくれる。あとはアンプル、アンプルだ。それならいくらでもある。朱雀は例の隠し場所から引き上げたアンプル十個を、カプセルに向かい合わせるように並べる。それぞれ違う表情の刻印されたエモジはどれもばかみたいに陽気で、その中に入った液体――それも別に今の朱雀が摂取しても何も起こらないような代物が、そんなに危険だなんてちっとも思えない。
「玄武、おまえよ、オレにやるな、って言ったよな」
暖房器具を全部切った部屋は朱雀の吐いた独り言が白くなるほど寒い。
「悪いけどよ、おまえの言うことはちっとも聞いてやんねえ。オレはよ、おまえが見てる世界のほうにいくぜ。そんでよ……」
前に誰かが言っていた、プッシャー仲間だったか、繋がった脳と「混ざる」不具合があるんだよなあ、記憶とか、今見てる景色とか、そういうのが混線しちまうらしいんだ。そこらへんやっぱり作りが甘いんだよなあ。誰もいじくってねえのが不思議なくらい穴があるんだ。それってどういう程度でなんだ? 聞いた朱雀に相手は笑って、頻度は結構あるらしいからよ、男と女で一緒に試して「繋がれ」ないか試すやつらもいるらしいんだよ。だけどよ、これだけ蔓延してるんだぜ、そこらのオッサンとか、もうぼうっきれみたいになっちまったジャンキーとか、そんなのとばっか繋がっちまうらしいぜ。それは売り文句にならねえよなあ。そう言うと朱雀が情報の礼に出したアンプルをもぎ取って、相手は消えた。
朱雀はテーブルの上にグラスを置くと、カプセルを手に取った。
「玄武、オレは運命信じてるしよお、オレは運のいい男で、いままでだって生き延びてきたし、これからも生き延びる……だからおまえを『引ける』って信じてるぜ」
といっても「巣」が出来上がるまで十二時間はかかる。そこからアンプルを入れるから、繋がれるのは最短でも半日後だ。意気込んだって仕方ない。そう思いながら朱雀は手のひらの上でその青白いカプセルを転がした。昔神社にあったおみくじみたいに振って振って、大吉を引けるように祈る。
そうして口にカプセルを放り込んで、コップに唇をつけ、水を口に含む。一呼吸おいて、口の中のものを全部飲み下した。
食道を転がり落ちるものの感触は当然わからない。ただ冷えた感覚だけが胸元に広がる。朱雀はカーテンを閉めて、電気毛布だけつけるとソファに横になった。薬を飲み込んだことを承知したネットワークが端末に決済画面を表示させ、朱雀はおとなしく玄武が挙げていた企業の一つを選ぶと登録と支払いを済ませて画面を消す。。じわじわとぬくもる感覚が足先から広がり、次第に眠気が込みあがってくる。朱雀はぼやけはじめる頭の中で玄武と同じ場所に足を踏み入れたことをぼんやり考え、親父、怒るだろうか、と一瞬思った。だがそれもすぐに掻き消え、泥まみれの手のような眠りが朱雀を深い水底に引きずり込んだ。
次に目を覚ましたのはちょうど八時間ほど経ったころだった。健康な青少年の眠りだ、と思いながら無意識に首元の――つまりは「巣」ができはじめているであろうあたりをこする。それはごくごく小さな塊でしかも大動脈のあたり、胸の奥深くにあるのだから当然触ったってしこりが指に触れることなんかない。朱雀はソファから降りて電気毛布のプラグを抜くと、うんと伸びをしてからキッチンに向かった。大きなとれたてのキャベツの外側の固い葉を細かく刻んで鶏ガラスープの素を入れた熱湯で茹で、冷凍ご飯をチンする間にレトルトの八宝菜を湯がいた。化学調味料でキャベツのスープに味付けをして、コメに八宝菜をかければそれで中華丼になる。慣れたひとりのダイニングテーブルで手を合わせていただきますを言い、大きく口を開けて中華丼をほおばる。これがキマっていない最後の食事になるかもしれなかった。それにしちゃあ間に合わせだと思いながらひたすら食う。とろみに浸った米粒の一粒までを全部胃に収めてスープを飲み干し、どんぶりとスープ皿を洗って伏せて、それでまだ薬が体に完全になじむまで三時間弱はある。
端末を見ると上客から一ダースの注文が入っていた。朱雀はしばらく迷ってから仕入れが悪い、と返して断った。それからロッカーからアンプルの袋を引きずり出してダイニングテーブルにぶちまけた。ひとつひとつ勘定しながら袋に戻す。一、五、十、二十、二十五、五十。百を数えたあたりで腑に落ちてあとは数えずに手のひらでこそげ落とすように袋に戻した。
アンプルの効きはそう長くはないが、自分の意志が薬よりずっと弱くてチェーンジャンキー(そんな言い方があるのかは知らない)になったとしても、しばらくの間はもつ。朱雀はその時間内に絶対に玄武を「引き当てる」気でいる。自分は今まで生きてこられただけの悪運あるいは豪運の持ち主だし、玄武と自分の間には運命がある、としか思えない。待つ気でこの部屋に残り続けていたけれどひたすら受け身でいるのは性に合わない。朱雀はロッカーに袋を戻して鍵をかけ、部屋着から動きやすいジャージに着替えるとマスクをして外に出た。売りに行くわけじゃないからコンタクトはいらない。今日もおとなしくそこに停められているチャリに乗り、あと三時間、アンプルを投与できるようになるまで外を走りまわることにした。
街がすさむというのは言葉としてはおかしいかもしれないが、朱雀の実感としてはそう表現するしかない。空気はどんどん悪くなっていて、半年前まではどうにか維持されていた治安は崩壊している。朱雀が自転車を漕ぎまくって繁華街を抜けるわずかな間に、小競り合いがいくつかあり、キマったジャンキーたちを何人も見て、からっぽになった交番と、なんにも売り物のない店で呆然と店番が座っているのを見る。この間まで時間つぶしに通っていたチェーン店にはひと気がなく、ただ電源の前にスマートフォンを充電している若いやつらが水を飲む猫のように集まっている。そんな景色に嫌気がさして郊外に出ても、昨日か一昨日までは動いていた無人工場の灯りが消えているのがわかり、一応敷かれていたレールが持ち去られ、朱雀がせんだってまでアンプルを隠していた廃材置き場が荒らされて裂け目だけがなまなましく白い木材が乱杭のように天を向いている。
「おい玄武、これがてめえの望んだことかよ」
口走りながら朱雀はひたすら自転車を飛ばす。ちぎれた電線から火花が散り、片方ではついに錆びきって穴の開いた水道管から水が噴き出し、もう誰も剪定しない植木は伸び放題に伸びて小さな桃色の花を咲かせている。朱雀が食い詰めようとそうでなかろうと、もう街は息絶えかけているように思われた。時間を見て街に戻る道路を走っても、健康そうな人間はほとんどおらず、ふらふらと歩いてはしゃがんで休憩する老人や異常に肥えた子供、薬のやりすぎでモデル体重を通り越した女、そういうごくわずかな通行人が朱雀のことを羨望なのかうらみがましいのかわからない目で見てくるだけだ。そいつらに追いつかれないうちに朱雀は自転車で走り抜ける。
「終わりだ終わり、玄武、全部終わりだ。でもその前に、オレはおまえに会う」
上がりはじめた息を押さえながら朱雀は街に戻る。薬が効ききるまであと一時間、都市はごくわずかなビルの光ともっと下の方にあるネオンの猥雑で温かい色味を撒き散らしてそこにある。朱雀は家に戻る。玄武を引きずり戻すための場所に、帰る。
アパートの近くの電柱に自転車を結わえていると、足取りのおぼつかない男が一人近寄ってきた。身構えると男は笑いながらいつものやつよこせよ、と手を突き出してきた。よく見るとそれはいつか切った客の見知った顔で、数ヶ月合わなかっただけなのに頬はこけ、身なりは汚くみすぼらしくなっており、薬に食いつくされたことが伝わってくる。朱雀はぞっとしねえ、と思いながら、あんたに渡すもんはひとつっきりねえ、と物理的に相手を突き放した。それが悪かった。
「渡すもんはねえ? ふざけんな、俺は、お前のせいで、俺は!」
男がそのやつれた体に見合わないスピードで殴り掛かってきたとき、朱雀は完全に油断していた。だから左頬に手痛い一発を食らった。ぐわんと視界が揺れて足がたたらを踏む、まずい、と思った時にはもう一発が飛んできて、今度はこめかみにきた。朱雀は反動を殺しながら踏みとどまって姿勢を整えると、まだ殴り掛かってくる男の腹にまっすぐに拳を突き入れた。うえ、と嫌な声が聞こえて男が吐き出した胃液だか唾液だか、いやな臭いのする液体が朱雀の肩口にかかる。げっと思いながらもう一度腹にパンチを入れ、あしばらいをかけ、すっ転んだ相手の胸元に踵を落として踏みつける。
「おまえに渡すもんなんかねえんだよ」
言いながら乗せた右足に体重をかけると相手はひっくり返したカエルみたいにもがいてわかった、わかった、と呻いた。朱雀は肩についた液体を払い落として、男が立ち上がり足を引きずりながらその場を去るまで背中を見ていた。その合間に左右に走らせた目には路地の隙間からいくつもこちらを射る視線が見える。アンプルがあることがバレた? それは最悪な想像だ。朱雀が健康で十分に飯が食えていることをこの近辺の住人はみんな知っている。そういうやつの仕事が薬に関係してないってことはもうほとんどない、だから――だからなんだ。朱雀は周囲にガンを飛ばすとアパートの階段を上り始めた。がんがんと音を鳴らして上がってくる後ろには誰もついてこない。ビビりどもが、と思いながら鍵を開けて部屋に入りチェーンロックまでかけてから、押し入ってくる奴らはチェーンを切る道具くらい持ってくるだろ うことに思い当たり、オレの用心もアップデートできてねえ、と思う。
朱雀は相手のゲロのついたジャージを洗濯機にぶちこむと贅沢に一枚だけでスタートボタンを押した。ぐるぐる回り始める機械が止まるろには自分はヤク中に仕上がっているはずだ。リビングに戻って時計を見るともう時間は過ぎていた。完成した。薬の巣食った自分になった。朱雀は思ったよりのろのろとロッカーの鍵を開けてアンプルを一つと無針注射のためのカートリッジを取り出し、そいつを握りしめたままベッドに腰かけた。アンプルに刻印されたエモジはウィンクしているやつだった。当たりかはずれかちっともわからねえ。カートリッジにアンプルの蓋を開けてはめこんで、それで準備は整う。あとは左か右の肘の裏側のやわらかいところ、静脈の近辺にそいつを押し付ければ終わりで始まりだ。朱雀はベッドに横たわり、玄武が数年の間見続けていた天井を眺めた。おい玄武。そっち側に行くぜ、オレは。
朱雀はゆっくりとアンプルを肌に押し付けた。痛みには程遠い感触があり、じわじわとアンプルの中の液体が肌に吸い込まれていく。
最初に襲ってきたのはさっき殴られたときと似た感覚だった。脳が揺れる。揺さぶられる。吐き気こそないが車に酔ったような感じに似ている。おい、バッドトリップはねえんじゃねえのかよ。そう思って身じろぎをした、瞬間に世界が変わった。肌がリネンの織り目をこする、その触感を伝える電気信号が何倍にも膨らんでスパークした。口の中で無意識に動かした舌が口蓋に触れる、それだけで快感が生まれる。呼吸をするだけで鼻の穴の中が痺れるように気持ちがいい。脳は強すぎる刺激にオーバーフローしかけて、それでもギリギリ踏みとどまって朱雀の感覚器官に訴え続ける。気持ちがいい、気持ちがいい、気持ちがいい。――もっと欲しい。これか、と朱雀は思い当たるが、まだ初めての体はただ快楽を追ってベッドの上で芋虫のようにうねり、唾液を飲み込みつづけ、指先をこすり合わせ、ふうふうと浅い呼吸を繰り返す。
そのうち朱雀は自分が勃起していることに気付く。今まで感じたどんな性感より強い快楽が、下着がわずかにずれるたび股間に響く。う、と呻きながら朱雀の手は自然と下着の中に伸びて直接そこに触れる。びりっと走る悦楽はとたんに吐精しかねない強さで、朱雀は気が付けば瞑っていたまぶたを開いて快楽を逃す。と、見慣れた天井がぐにゃぐにゃに歪んでいるのが目に入る。蛍光ピンクやら黄緑やらの目に痛い色――そういうものは絶対に塗られていない物寂しい天井なのに、マーブル模様にハイライトが入って、ぐるぐると回る。朱雀は竿をしごきながら口の中にあふれる唾液を飲み込んで、やばいところに来ちまった、と思う。思う矢先に喉の奥に落ち込む自分の細胞の味しかしないはずの唾液がひどく甘くとろとろと感じられてまた体が震え、シーツの織り目が劣情を煽り、衣擦れの些細な音が甘美な音楽のように感じられる。それが絶え間ない。
違う、そうじゃねえ、オレのすることは……繋がった相手を。朱雀は股間から手を抜くといつか玄武が見せてくれた脳がいくつも繋がったネットワークをイメージする。そっち側にいけ、いけ、オレの思考、届け。ざりざりとノイズのように流れる快感をいなして息を吐きながら朱雀はペアリングされているはずの誰かの脳に押し入ろうとする。瞑った目の先には一つの関門がある。その扉はパスワードかなにかを渡せば簡単に開くはずだけれど朱雀は何も知らないから、取っ手に指をかけて強引にこじ開ける、重くて蝶番に油も差していない人間の愚かな器官に愚直な手段でアクセスしようとする。扉は開かない、重くてびくともしない、だけど待ち続けるなんて間抜けなことはしたくない、朱雀がやるべきことは正面突破ただ一つそれだけだ。繋がれ、オレの脳と、誰かの――いや違う、玄武の、頭がよくて誰よりも早く回って薬漬けでしょうもなくて……世界で一番、会いたい相手に、届いてくれ。
まぶたの裏に浮かび上がる脳のホログラムがかすかに揺れた気がした。と同時にある景色が飛び込んでくる。自分が見たことがない公園の、今はもうとっくに撤去された遊具がぐるぐる回るなかに、ブランコに乗っているらしい自分――いや自分ではない、記憶の持ち主がいつまでも揺れている視界。
繋がった。
次に見えたのは大勢の子供がいる場所、ばらばらにほどけた絵本のページが散らばっていて、誰かの泣き声が聞こえる。そのなかで視界に現れた小さな手が一枚一枚紙を拾って集めて、ちょうど現れた大人の手にそれを押し付ける。大人は困った表情を浮かべながらそれを受け取って、はやくいってあげなさいと言う。記憶の持ち主はおとなしくそれに従って顔を真っ赤にゆがめて泣いている子供、三歳より小さい子供のそばにいってやり、いないいないばあをしてなだめてやる。見える手の持ち主だってそんなに大きくはない、たぶん学校には行っていないくらいの小さな手と指と爪だ、爪切りで三回くらいで乱暴に切られた爪。泣いていた子供はこっちを見てきょとんとした顔をして唇を動かす。かたちづくられる三音。
げんぶ。
当たった!
朱雀がかっと目を見開いたのと、スマートフォンが震えたのが同時だった。朱雀は震える手で――端末を握るだけでそのわずかな彫り込みに歓喜する指で着信ボタンをタップする。画面に表示された馴染みのある名前がもつ、低く滑らかな声が飛び込んでくる。
〈お前か〉
「おう、おう、連絡が遅えぜ」
〈馬鹿野郎! どうして使った、どうして、お前が〉
「文句は帰ってから言えよ。なあ、それでこの……ぐちゃぐちゃの滅茶苦茶をどうにかしてくれよ。おまえならできんだろ、なあ、」
朱雀は薄笑いを浮かべながら言う。
「玄武、帰ってこい」
それから薬が抜けるまで、まだ痺れて動作のすべてに伴う五感が莫大な快楽をもって襲いかかってくるのに耐えながら窓を開け、換気をして、さっきのジャージをのったりとした動きで干した。それからシーツを替えて窓を閉め、ソファに戻ってだんだん引いた薬の効き目と闘った。薬はいくつかの玄武の記憶を運んできて、ほとんど初めて知るそれに朱雀は静かに意識を傾けながら薬が抜けるのを待った。脳は意外にも新しいアンプルを欲しがるのをやめて、それはきっと玄武が自分の薬にだけ細工をしたからだと朱雀は察してにやにやと笑う自分に気づいた。そういうことをする男だった、黒野玄武は。しかしオレも運が強い、一発で引いた。朱雀はややまどろみながらそう思い、疲れ切った脳はそのうち休息を求めて眠気で世界を覆った。朱雀はおとなしくそれに従って毛布をひっかぶると意識を消した。
ぐらぐらと揺り起こされる感覚で目が覚めた。さっと毛布が剥がされてこもっていた暖気が逃げる。身震いをしながら内側にこもろうと腕を動かすとそれも剥がされた。目を開けると、キレきった顔の玄武がいた。
「……おう、おはよう」
「おはようじゃねえ、お前、……なにしやがってくれたんだ、使うなってあれほど」
「ハナから説教かよ。なんか茶でも淹れるから、そこらへん座ってろ」
朱雀が立ち上がると、かがんでいた玄武もすっと立ち、一歩踏み出すたびに平衡感覚はおかしくないか、吐き気はないか、視界が欠けていたりしないかと訊いてくる。
「テストしてあんだろ」
「万が一がある」
「今更だろ」
「……お前の体質に合ってる証拠はねえ」
はいはい、といなしてやかんをコンロにかけ、乾物をまとめている棚からずいぶん使っていないパックのプーアル茶の塊を取り出して、面倒になったのでまだ沸いていないやかんにそのまま入れた。ふっと視線を横にずらすと、糊がからからに乾いて、それでもまだ冷蔵庫にくっついているくだんのフセンが目に入る。
「持ってったカップ麺、食ったのかよ」
「ああ?」
「おめーの書き置きだよ。カップ麺持ってったって、ほら、これ」
「……んなもん取っとくんじゃねえよ、捨てろ」
「写真撮ってあんぜ、捨てたって無駄だ」
朱雀がけらけら笑うと玄武は苦虫を噛みつぶしたような顔をして、お前は余計なことしかしねえ、と吐き捨てた。
やかんの中身が十分に茶色くなったので朱雀はふたつのマグカップに茶を注いでダイニングテーブルに置いた。玄武は眉間に皺を寄せたまま椅子に座り、カップに口をつける。
「そんでなんだ、何言いにきたんだ」
朱雀が水を向けると玄武はきっとこちらを睨んで言う。
「俺は使うなって何度も何度も腐るほど言ったはずだ。どうして使った」
「そりゃあおまえ、おまえを探すために決まってんだろ」
「馬鹿か。博打にも程があるだろう、何万人がインストールしてると思ってるんだ、万が一どころじゃねえんだぞ。それを……お前の、綺麗な脳を」
「知らねえよ。おまえが勝手に出てくからオレだって勝手に使ったんだ。それよりよお玄武、もう気ぃ済んだか?」
玄武はふっと動きを止めてこちらを射るように見る。
「気ぃ済んだか? なあ、おまえが遊んでたたくさんの脳みそはよお、――そいつにくっついてる人間の人生はよ、ぼろぼろだぜ、ほとんど全部ダメになってんだ。それでおまえの気が済んだら、もうやめようぜ」
「……気が済んだってのは、どういう意味だ。俺は別に何か意趣返しがしたくてこれをやってるわけじゃねえ」
「わーってるよ、んなこた。だけどよ、おまえが作ってオレが売った薬でこの街がこんなにダメになって、たぶんその外もダメになってるの、おまえがどこにいたか知らねえけど、見ただろ今。もう終わりにしようぜ。……オレ見たよ、おまえの思い出みてえなやつを。おまえがひとりで全部やってきたこととか、ちょっとだけだけど見た。あと、おまえがここ出てってからひとりでどっかの地下室で、はじめて会った時みてえにまた薬作ってんのも見た。おまえが見せてくれた紫色の光みたいなやつ、あれすげえ数になってたな。おまえがそれぼーっと見てたのオレも見たよ。見ながらおまえが、全然いい気分じゃなかったことも、わかった」
渋い顔をしたまま玄武は、勝手に見やがって、と悪態をつく。
「そう言うなら俺だって見たさ。お前がご両親と幸せに暮らしてた頃の、ちっこいお前の記憶を。……なおさら、薬なんかやるべきじゃなかったんだお前は! お前が、お前だけは、絶対にこんなもんに染まるべきじゃねえんだ。俺が……どれだけ、守ってきたと思ってるんだ。お前のことだけは汚したくなかった。お前が、自由に……こんなクソみたいな世界に縛られてないで、いつでもどこにでもいける、お前にはそうあってほしかったんだ、俺は」
玄武は血を吐くように言う。
「お前が……お前が俺を見捨てねえから、こんなことして『遊んで』る俺を見捨てねえから、だから俺は出てったんだ。俺の近くにいたらお前がダメになると思った。だから……なのにお前は、よりによってあんな賭けまでして、お前の」
「……大事に思ってくれてんのはありがたいけどよ」
うつむいた玄武に朱雀は声をかける。
「だけどそうじゃなきゃおまえ帰ってこなかったじゃねえか。……なあ、オレはおまえに会いたかったんだよ。もう一回。だからって何言っていいかわかってるわけじゃねえけどよ、おまえに会って横っ面ひっぱたくためなら、なんだってすんだよオレは」
「殴るつもりかてめえ」
「おう。殴る。殴ってやめさせる。こういう全部をやめて、オレとおまえはカタギに戻って、……なあそうだろ玄武。この遊びはもう終わりだろ。だってもうみんなダメになってんだからよ。オレもおまえも」
朱雀は立ち上がって玄武の脇に立った。玄武は下から朱雀を睨みつけて、それから静かに立ち上がって、両腕を体の脇にだらんと垂らした。
「んじゃあ殴るから、そしたらおまえは薬を止めろ」
「てめえの稼業はダメになる」
「おまえもだよ」
「……それでどうするんだ、俺たちは」
「おう、いいこと言うじゃねえか。オレたちは、だな。オレたちふたりは……芋でも作るか」
「なんで芋なんだ」
「知らねえよ。作りやすいだろ」
「……さっさと殴れ」
ばちん、と軽い音がした。平手で打った手のひらは普段の喧嘩の半分も痛くなく、そのわりに玄武の白い頬はじわじわと赤く染まった。
「殴ったうちに入らねえだろ」
「いいんだよ。おまえのこと痣になるまで殴るの、オレが嫌だ」
「どんなわがままだ」
「知るかよ。おまえのわがままよりマシだ」
「……まあそうか」
玄武はポケットからスマートフォンを取り出すと、朱雀に見えるように画面を操作する。ディレクトリの奥深くに進み、いくつかのファイルを実行すると、フォルダの中のアイコンが一つを残して全部消えた。
「これが最後のスイッチだ」
「……どっち向きに」
「お前が望んだほうに、だよ。ネットワーク依存にしたのはこれを実行したらいつでもやつらの体の中から薬を消せるようにだ。後遺症と離脱症状で苦しむには苦しむだろうが、大元のやつのアミノ酸は綺麗に分解されて小便と一緒に体の外に出ちまう。それで、終わりだ。お前のアンプルはゴミになるし、俺は追われる身になる。契約不履行ってやつだ」
「おまえがヤバくなんのかよ」
「一日百億、黙ってても生んでくれるシステムを全部なかったことにするんだ。そりゃあ俺を殺したいやつらは出てくるだろうな。出資者だってブチキレるだろうし、ましてやビジネスパートナー様はもっと怒るだろうな」
玄武はそう言って薄く笑い、それでもお前は俺と来るのか、と聞いた。
「どうしてオレがおまえの腕離すんだよ。んなわけねえだろ。オレがなんのために薬やったと思ってんだ。おまえがいなきゃダメだからだろうが」
そう言うと玄武は目をぱちくりさせる。
「なんだよ」
「いや、壮大な愛の告白だな、と思っただけだ」
「愛ぃ!?」
「嫌いか?」
玄武がそう挑戦的に尋ねてくるのに対し、朱雀はしどろもどろになる舌をなだめながら深呼吸して考える。愛。愛。世界平和と愛、ラブアンドピース。そういうのは嫌いじゃない。玄武のことだって好きだ。それを愛と呼んでいいのか、それは――。
「あー、よくわかんねえけど、愛なら愛でいいぜ。いいから、オレがおまえのこと、何からでも守ってやっから――つうかさっきおまえ、オレのこと守ってたとか言ってたけど、おまえのお守りして三度メシ食わせてたのオレのほうだろ」
「お前に来る怪しげなメッセージの類を全部シャットアウトしてたのは俺だ」
「だいたいオレがお前のこと養ってたじゃねえか」
「馬鹿野郎、この値段で家が借り続けられたのは――、あ」
「あじゃねーよ。なんだおまえ、そんなことしてたのか」
玄武はああと髪をかきまぜ、顔をしかめて口早に言う。
「じゃねえとお前と住めねえだろうが。この部屋があるからお前と俺は一緒に暮らしてたんだし、お前には田舎があるし、……稼業が嫌になって帰ったってよかったんだ、ほんとうは」
「……だからオレだって河岸変えずにここ住んでたんだろ。おまえが出てってから、広くて寒いこんな部屋、出てかなかったのは、おまえが帰る場所がなくなるからだ」
朱雀はごく自然に手を伸ばして、玄武の手を取った。かじかむくらいに冷えた指先をぎゅっと握って、血を通わせてやる。
「オレが守る。なにがあっても守る。安心して、そのスイッチってやつを押しちまえ」