結局賛成とも反対とも言えなかった。アガリが増えるというのは玄武の言っているだけだがどうせ玄武の言うことなので正しい、それなら売人をやっている朱雀は喜ぶべきだ。客が増える、商品がよく流れる、流れ込む金も増える、多少ロンダに手間がかかることになったってたいしたことはない。しかも玄武は今出回っているアンプルはそのままに「本体」のほうをいじるだけでさっきの話を実現するという。プッシャーとしての朱雀にとっては満額回答だ、しかもその情報を「本体」のアップデート、いや新規リリースか? その前に手に入れられた。朱雀がやるべきは「親」からありったけのアンプルを仕入れて今後に備えることだ。
いっぽうで朱雀の萎れた正義感は玄武の行為を悪に分類する。それをすることでどれだけの人間が薬に狂って家族や友達や恋人が被害に遭うのか、そんなこと朱雀だって考えなくても想像がつく。だけど朱雀は玄武にやめろと言えなかった。それをしたら後戻りができなくなる、玄武の意図を外れた巨大なシステムの中に取り込まれるらしいのだから、また万が一世界がまともに戻って警察が強制力を発揮するようなことになれば、まっさきにアゲられる、詰め腹を切らされるのは薬をデザインした玄武だ。わかっていて、目の前のはした金につられて止めなかった? いや違う、そうではない、玄武をこうして自由にさせていることは朱雀の――朱雀の、楽しみ、なのかもしれない。
モニタに向かった眠たげな眼の玄武が何かをひらめいた瞬間に、表情に生気がみなぎって手指が魔法のように動く。玄武は自分で開発したらしい分子を設計するのにちょうどいい言語を、これまでの怠惰がフェイクだったかのように何万行も書く、書いてから削る、それは玄武の言うところのスマートで適切なサイズのプログラムに収まっていく。脳のいくつかのゲートを偽装して潜り抜け、報酬系の回路をつついて快感を体に覚え込ませる人間が人間の快楽のためだけに作り上げた不自然な糖とアミノ酸のようなもの。その姿なき正体を作り上げたのは玄武で、誰かがそれを買い上げて形にし、朱雀の「親」のようなブローカーに回し、木っ端のプッシャーがもういろいろなことに飽きたり倦んだりした人間に最後の娯楽として配る、朱雀はその手助けをしている。
朱雀は今玄武に背を向けたままソファに寝転がっている。仕事は入っていないからやることはない、ないなら内職をするなり部屋を片付けるなりすればいいのになにもしない。玄武はさっきからかたかた物理キーボードをたたいているが、このソファに寝転がる前に聞いたところではそれは副業のようなもので、「取引先」の仕事を効率化するシステムを組んでいるらしい。「毎日人体とか脳とかと向き合ってると嫌になるんでね」と玄武は皮肉気に笑って、またモニタのほうを向いてしまって、朱雀もそのあとのことは聞いていない。要は玄武は才気を持て余していて、世界がこんな風にぶっ壊れてしまう前までならちゃんとした企業に勤めるとか、一人で会社を立ち上げるとか、そういうことをして食えたはずだった。それがどうしてグレーな――いや、真黒だ、そういう仕事に手を染めたのか朱雀は知らない。
玄武に初めて会ってから二年半が経っている。あの日朱雀は荷物受取確認のサインをし終えた玄武の手を取った。いぶかしげにこちらを見てくる眼に、つい口をついて出たのは「おまえ、外出て運動してまともなもの食えよ」という言葉だった。玄武はますます眉根を寄せて、嗄れた声で「宅配サービスに健康コンサルを頼んだ覚えはねえ」と返してきた。朱雀は受取記録を端末から送信すると、玄武の肘のあたりを掴んでそのままエレベーターに乗せて、外に引きずり出した。おいとかやめろとか言いながら、玄武は派手に抵抗することなく、スウェットと便所サンダルのまま外気にさらされた。
「どうだよ、ここがお外だよ」
「どうもこうもそう前と変わっちゃいねえ、……ってわけじゃあなさそうだな」
「どう変わった」
「マンホールの蓋が外れてる、チャリの放置が増えた、道路のクラックがひでえ、そこのアパートの窓は前は割れてなかった――修理されてるだけマシか、まあそんなとこだ。……悪くなってるな、世界は」
「おまえ、どんくらいあそこにいた」
「さあ。三ヶ月くらいじゃねえか。栄養は摂ってるし、運動も一応してる。仕事が立て込んでただけだ」
「たまには外に出てよお、おまえがしてる仕事が何だか知らねえけど、メシ屋の店員とかとしゃべるんだよ。おまえそういうことしてねえだろ。オレと喋ったとき、久しぶりに声出したってかんじだったぜ」
「――まあ、否定はしねえ。久しぶりは久しぶりだ」
「人間は太陽とか浴びてたほうがいいんだよ」
「何世紀前の健康法だ。皮膚癌と公害病のリスクのほうが高い」
「じゃあなんでろくすっぽ抵抗しねえで出てきたんだよ」
「……さあな」
玄武はそこではじめてまともに朱雀の顔を見て、お前なんなんだ、と今更の質問をした。朱雀はただの配達屋だよ、と言い、端末で報酬の金が支払われたことを確認してから言った。
「おまえ、オレと一緒に来いよ。ちょっと広めの部屋が安く出てんだ。二階だから陽も当たる。引っ越し資金は今おまえが払ってくれたからよ」
玄武はぽかんとした顔でこちらを見てから、言った。
「お前、悪い薬でもやってんのか」
だが玄武はその話に乗った。なんの後ろ盾もない詐欺みたいな話にほいほいついてきた。朱雀はその顧みなさを若干不安に思いながら、名前と連絡先を交換した。そのあとすぐに朱雀は「親」が紹介してくれたその部屋の内覧を終えて玄武に撮りまくった写真を送った。玄武は「コンセントが十分にある」ことだけを確認してOKを出し、朱雀は件の報酬で二ヶ月ぶんの家賃を払い、今の寝床をすぐに引き払った。家具はほとんど備え付けてあったから、服やらこまごました小物やらを動かすだけでよかった。二週間ほどして玄武が四トントラック一台にやたら「精密機械」とラベルを貼った段ボール箱を積んで現れた。部屋に運び込まれたのはタワーマシンが数台にデカいモニタが一枚(そう、このころはまだ一枚しかなかった)、あとは玄武が小さなボストンバッグに詰めた荷物を持って助手席から降りてきただけだった。
「荷物は」
「これだけだ」
「……シャンプーとか、フォークとか、皿とか、タオルとか」
「買えばいいだろ。俺に必要なのはマシンと、あとはまあ、数日過ごせる服があればいい」
玄武はそう言うと引っ越し屋にチップを多めに渡して、さっさと帰らせた。それから一台しかなかったベッドをもうひとつ買うかソファベッドを入れて必要な人間が組み替えるかを朱雀に問い、朱雀はソファベッドを選んだ。それが今寝ているこれで、最初の数日は真面目にベッドにしていたが朱雀がすぐに面倒になってずっとソファのままになっている。
そのあとふたりは二年半、友人とも名付けられない同居関係を送ってきた。朱雀は傾いた運び屋稼業を諦めてプッシャーをメインにすると決めたとき、さすがに仕事を玄武に打ち明けた。玄武はまあそうだろうと思ったと答えて、実はお前の扱ってる薬は俺が作っていると返してきた。ぽかんとする朱雀に玄武は立て板に水の口調で資金提供を受けていること、マージンをいくらかもらっていること、もちろんそれ以外にも「仕事」はしているが、今一番実入りがいいのは人間の脳をどうにかいじくって「遊ぶ」ことだと言った。
「こういうのは嫌いか」
「……好きじゃねえけど、オレの仕事もそっちだから、別になんにも言わねえよ」
「まあ好きって顔じゃないな。やったことはあんのか」
「薬か? ねえよ。オレには贅沢品だし、……やっぱ好きじゃねえんだよ。そういうやつはよお」
「同感だな。俺もこういうのは好きじゃねえ」
「作ってるやつの言うことかよ」
「そうか? 作ってるやつも売ってるやつも、別に好き好んでやってるわけじゃねえ、もっと面白くて稼げることがあるならそっちにいくだろ。誰だってそんなに気分のいいもんじゃねえんだ」
玄武はそう言って自分の脳が入った頭をこんこんと叩き、これより興味深いものは残念ながら今ここにはありゃあしねえんだとうそぶいて笑った。唇は優雅に弧を描き、やけに白い歯がのぞいてつややかに光った。朱雀は数えていたアンプルを取り落とし、ため息をついてからもう一度イチから数えなおすことにした。それで薬についてはもう朱雀からは話すのをやめた。
あれから玄武はずっとプログラムをいじっている。本人曰くリリース以来の大規模改修だということで、イチから書き直すほうが早いかもしれねえとぶつぶつ呟きながら物理キーボードを叩いている。マシンのファンががたがた言いながら回ってるときはシミュレータが動いているときだ。その結果を見て違うだとかそうじゃねえだとか言いながらまたコードをいじる。そのすべては朱雀にはまったく理解できないことだから、日に三度食事を用意してやってあとは好きにさせている。玄武は風呂掃除は気晴らしになるから自分がやるといい、結局便器もシンクも水回りは全部磨いてしまって、それから朱雀が前にやったハンドクリームを塗り込むとそいつが手になじんでしまうまでしばらく考え込み、またキーボードをカチャカチャ鳴らして作業を続ける。
玄武はその合間に朱雀に対して講義のような自分の頭を整理するための時間を必ず設ける。朱雀はわけがわからないなりにちゃんと聞く、そのあいだはプッシュ通知があっても無視している。玄武にとっていいキャッチボール相手になるように――いやキャッチボールではなく狙撃の的かもしれないが、とにかく役立つように心がける。玄武の話ではネットワークはかなり恣意的に使えるように話がついていて、薬をちゃんとカイゼンできれば出走枠に入った競走馬みたいに勝気にはやらせることは可能らしい、その、インフラ的には。あとは玄武がひたすらこつこつとプログラムを書き換えればいいらしいのだが、常に体の中のドーパミンだかエンドルフィンだかをモニタし続けて、さらに違う脳のやつと比較するのを免疫とかそういうものに気づかれずにやるのはそれなりにタフな仕事らしい。玄武はあーとかうーとか呻きながら仕事を続け、合間に現行の「本体」の微調整もしているらしく、また朱雀に入る金は減った。
「親」はしきりに朱雀に「本体」を扱わせようとして、それはまさに「親心」に近いレベルで食えなくなっていることを心配しているからなのだが、朱雀は同居人がいることを渋々明かしてそいつの稼ぎでどうにかなってるから今のところはいいんだよと断った。「親」はどう解釈したのか、食わせてもらうのは癪じゃねえのか、と聞いてきて、朱雀は含みに気づかないふりをしていやまあ、これまではオレがずっと出してたし。と答えるにとどめた。
食わせてもらう。稼ぎがおそらく数倍だか数十倍だかあるはずの玄武のことを今までずっと養ってきたのはどうしてだろうと思う。玄武は確かにろくに生気もなく放っておけばモニタの前で干からびて死にそうなところもあるが、片方でしぶとく生き抜くだけのバイタリティは持っているし、たまにゴミ箱を覗くと勝手にピザを頼んで食っているようなところもあるから結局死にはしない。それを自分は気まぐれで連れ出して今の部屋に連れ込んで、言い出した口だから金も出すし洗剤や即席麺やゴミ袋を買ってくるし、頼まれればパイプ詰まりの薬だって乾電池だって買ってくる。そういう玄武と自分の関係はなんなのだろうと考えるたびに、友達ですらないシンプルな同居人という言葉だけがたぐりよせられて、他に朱雀の辞書に適切な言葉はないし玄武に確認を取るのは格好悪い。だいたい玄武が朱雀をどう思っているかなんて朱雀にはちっとも検討がつきやしない、年単位で一緒にいてもなにもわからない。朱雀が義侠心に殺されそうになりながらジャンキーにアンプルをさばいている間に、玄武はその薬のおおもとの悪さをするやつの設計図を作ってはどこかに送り、そのどこかの誰かさんは設計図通りに組み立てて配り、それは朱雀の「親」まで川をくだってきて、朱雀以外のプッシャーたちによりバラまかれる。とすると悪いのは玄武かというと玄武の設計図はあくまでただのお絵描きであって具体化して量産しているそいつが悪いことになるのではないかと考えたこともあったが、中毒者を増やすのをわかっていて画を描いている玄武が悪くないわけもなく、結局朱雀には弁護することはできない。脳をグラつかせるためにもてる知力のすべてを尽くしている玄武も、最後の一押しをする朱雀も、等しく悪い。
「……おい、メシ」
そうして今日も朱雀は冷凍シーフードと白菜とチンゲンサイとピーマンともやしとうずらの卵の入った五目焼きそばを作って玄武を呼ぶ。
「二時間したら行く」
「今日はあんかけなんだよ。すぐ来い」
「……麺が焼いてあるやつか」
玄武の頭がぐらりと傾いで視線だけがこちらに飛ぶ。皿の上で湯気を立てている焼きそばはちゃんと片栗粉を使って作ったあんがのっかっていて、これは玄武には内緒だが朱雀のうずらの卵のほうが二つ多い。
「グッチャグチャででろっでろの麺が好きなら二時間後でもいいぜ」
「……いや行く」
玄武はガチャガチャと乱暴に音を立てて「仕事」を保存し、椅子から立ち上がるとうんと背伸びをした。ばき、とこちらに聞こえるくらいデカい音が関節からする。
「整体行けよ」
「誰が行くか。この間チップ入れてた腕一本持ってかれたってニュースが出てただろ」
「そんなあぶねえとこばっかじゃねえだろ」
玄武は無視して椅子に座るとじっと皿を見て、魚介か、とつぶやくと箸を手に取った。
「イカ嫌いじゃねえだろ」
「嫌いじゃねえが」
「じゃ食えよ」
言いながら朱雀はさっとうずらの卵を口に運んで数をごまかす。ゆでたてのうずらの黄身は口の中の水分をさらっていく。茶を飲んでごまかして、目の前の玄武を見るとほぐした麺をうまく小さな塊にして、その上にエビをのせて白菜で巻いて口に運んでいる。
「おまえ、器用だよなあ」
「……、メシの食い方がか?」
「なんつうか、上品っつうのかさあ」
「上品、上品か、俺が。そいつぁいい褒め言葉だから他のやつにとっとけよ」
「いいだろべつに。上品じゃ嫌なのかよ」
「……俺はいい育ちはしてねえからな」
玄武はそう言って皮肉げに口の端をあげて笑う。それからまた麺をささっと小さく巻いて野菜をのせて口に運ぶ。食堂の片隅で早く汚さずに食って手伝いをすることがなによりも優先されていた朱雀は、それをまねて麺をほぐそうとして、思い切り箸を滑らせた挙句トロみのついたあんをテーブルにこぼした。
「慣れねえことすんじゃねえよ」
「おう、もうしねえ」
流し台から布巾を持ってきてあんを拭き、なるべくすすらないようにしながら麺を食う。味は悪くない、今日はレトルトには頼らなかったがあんかけ焼きそばは食堂で出していたし厨房をやっていた時にだって何度も作った。玄武に食わせるのだって二十回よりずっと多くやってきた。それでも玄武の食い方には今日はじめて気がついた。今まで興味がなかったのかそれどころじゃなく自分は何かに心を奪われていたのか玄武が珍しくちゃんとメシに向かい合っているのかどれだかわからなかったが、玄武は朱雀がそう考えている間にさっきのきれいな食い方で焼きそばを食べ終えて、箸を置き、腕を組んでこっちを見ている。
「んだよ」
「皿は俺が洗う」
「せかしてんのか」
「いや。ゆっくり食えよ。作ったやつの特権だ」
「……おまえが作ってもいいんだぞ、メシ」
茶をすすりながら言うと、玄武は眉根をふっと上げた。
「それは考えてなかったな」
「作れんだろ、おまえ」
「作れなくはねえが、……いや、お前に任せる」
「なんでだよ。たまには作ったっていいだろ」
「……二人分?」
「あたりめえだろ」
「……お前が極端に仕事で遅くなるがどうしても腹が減ってて帰ってすぐ白飯を丼二杯食わないと死ぬってんだったら作らないでもねえな」
「なんだそれ。やる気ねえってことか」
「そうだな」
玄武は珍しくにやにやと喜色を目に浮かべていて、そういえばこういうどうでもいい話も玄武がまじめに「仕事」をしているようになってからはほとんどしていなかったと朱雀は思い、せっかく同居しているんだからもう少し話をしようと考える。
「レパートリーは」
「和洋中はじめ一通り」
「はじめっつうのは」
「トルティーヤが焼ける」
「マジかよ」
「そこでお前は次の買い物に行くときにトルティーヤの粉を探すが、残念ながらこの街のトウモロコシ粉を扱ってるスーパーはとっくに潰れてるし、ネットスーパーは俺が禁止してる上、米粉の十五倍くらいの値段がするのでお前は諦める」
「オチまでつけんな」
「事実だ。中南米系のやつらはみんな米粉で代用するかバカ高い金を払ってる」
「それ、生春巻き焼いたやつになるんじゃねえのか」
「そうだな」
玄武は朱雀が文句を言いながら食い終わったのを見てとり、さっと皿を下げるとガスの給湯器をつけてねとねとに乾きはじめたあんを洗い流しにかかった。玄武はいつも皿を洗うときにゴム手袋をしないから指先が痛むと思うのだが玄武に言わせるとLサイズのゴム手袋は指の長さが足りないから使い勝手が悪いそうで、となると朱雀の手より玄武の手はひとまわりは大きいことになるが、あのうすっぺらい手とそこからのびる細長い指がそんなに面積をとるものだとはにわかに信じがたい。朱雀は自分の節のたった指とそれなりに肉のついたてのひらを眺めて、合成洗剤を洗い流す玄武の指を遠目に睨み、いややっぱり面倒くさいだけなんじゃねえかと思いなおす。布巾のあんのついてない部分で食卓を拭き、玄武に断って蛇口をちょっと借りて布巾を洗って干して、ついでに中華鍋も玄武に渡す。
「これは洗剤使っていいのか?」
「別に育ててねえから好きに洗えよ」
「わかった」
玄武はそう言ってたわしに合成洗剤をぴゅっと浴びせると思いっきりこすり始めた。力の入った腕に血管が浮いて出て、玄武の皮膚の薄さが露骨にわかる。なにもかも丈夫にできている自分と比べると玄武は簡単に折れたり曲がったりしそうで怖い。といってもこの男が普通よりはずっとたしかにできていることはわかっているのだが。
あらかたのものを洗い終えた玄武はついでにシンクを磨き始めて、そこまで付き合う筋合いもない朱雀はソファに戻ると口座の残高を確かめた。まだロンダリングしていない金はそれなりにあるが生活資金は正直ショートしかかっている。実家に送金する分を多少減らしても焼け石に水で、また玄武に泣きつくしかなさそうだ。玄武の金はその出所も含めて使いたくない金のベスト3に入るがそうも言ってはいられない。朱雀はまた台所に立ち戻ると、玄武の長い脚の間に頭をつっこんで米櫃の中身と即席麺の残りを確かめ、じゅうまん、と口走る。
「十万でいいのか」
「百万くれんのかよ」
「五十なら」
「……いやいらねーよ。十万とりあえずくれ。コメ買って肉買って冷凍食品買って洗剤とトイレットペーパーとティッシュとシャンプーと石鹸とあとなんだ」
「コロコロの替えがねえ」
「じゃあコロコロな、百均のやつおまえきらいだって言ってたよな」
「金をドブに捨てるのは嫌いだ」
「へえへえ、そしたらちゃんとドラッグストアで買ってきてやるよ、三本で一〇〇〇だか一五〇〇だかそこらするやつをよお」
玄武は返事の代わりにかかとで朱雀の体を押し、朱雀は脚の間から抜け出すとスマートフォンのメモ帳に自分が言ったものをかたっぱしからメモした。それからヨレはじめてるトランクスと吸湿性のアンダーウェアも買いたいがそれは玄武の金から出すのは筋違いな気がする。型落ちの掃除機のゴミパックはまだちゃんとした店で手に入るのか。なんならジャンク品をいくつか買って試すほうが確実性が高いかもしれない。
「コロコロ、あれなんていうんだ、ちゃんとした名前」
「知らねえ」
「おまえでも知らねえことあんのか」
「俺は検索エンジンじゃねえぞ」
シンクの水を拭き終えた玄武が振り向いて言う。その眉間のしわがそれなりに深いのを見てとった朱雀は、とりあえずオレ立て替えとっから、買い物行ってくるわ、と言い捨てて逃げ出す。
買い物に行くために化ける必要はさすがにないからマスクだけをして部屋を出る。ロックをかけて、まるで玄武を監禁してる悪いやつみたいな気分になりながら階段を降りる。もちろん玄武は内側からカギを開けられるしいくらでも外に出られるが、甘んじて軟禁されている。朱雀にではなく世の中に対してそういう態度をとっているし、もしかしたらあの「世界の缶詰」みたいに、玄武にとっては部屋が世界のすべてで、それ以外は玄武にとって開ける必要のないただのからっぽの空間なのかもしれなかった。が、朱雀はそれとは見解を異にしているのでとにかく食い物と日用品を買うために「外」に出る必要があった。
近所のスーパーとも呼べない食料品店は棚の半分くらいの明かりが消えていて、生鮮食品じゃない食べ物は暗がりに無造作に転がされている。朱雀はコメを五キロとそこにあるほとんどのレトルトと乾麺をカートの籠に放り込み、かろうじて青白い光を放っている野菜の棚から外葉がついたままのキャベツ、先っぽがしわしわの白菜、かちかちになりかけた根菜の類のなかからマシなものを選ぶ。それから望みの薄い精肉の棚に行くと、モツの細切れになったのと、ずいぶん立派なヒレ肉の塊の二択になっており、ヒレ肉のほうは当然手の出ない価格になっているのでモツを選んで香味野菜を追加する。それで支払いに行くと二万を超えているのでさすがに仰天して店番の老婆とスマホの電卓で数えなおすがレトルトと野菜の値段が跳ね上がっているのが原因で結局支払額には変わりはない。しかたなく支払って全然エコじゃない素材でできたエコバッグに物を放りこむ。一度部屋に戻って荷物を置きながら見ると、玄武はとっくにモニタの前に座ってまたカタカタやっていて気づいたそぶりも見せない。強盗だったらどうすんだと思いながら邪魔しないように静かに部屋を出て、今度は街中の「ありそうな場所」にかたっぱしから日用品を探して回る。マルチが昔売っていた質だけは悪くない衣類用の洗剤だとか、誰かの内職らしいアクリル毛糸でできた手編みのたわしだとか、そういうものをチマチマ買う。玄武に土産になるものがないかと思ってもこのしばらくのあいだあいつはキーボードをたたくか水回りを掃除するかしかしていないから特になにも思いつかない。これだから無趣味はよお、とひとりごちてから自分にさしたる趣味がないことに朱雀は気づくが、まあオレの場合はクッキーとかパンケーキとか上等なガムシロップがあればいいって玄武は知っている、知っているか? 案外知らねえかもな。今度教えてやろう。思いながら朱雀はやる気のない太っちょの店で最大限互換性を高めた掃除機のゴミパックを買う。これでハマらなかったらゴミパックのほうに掃除機を合わせるしかない。
最後にもはや概念としてしか存在しない「駅」前のドラッグストアで舶来品のコロコロの替えを買って、もう一度駅に戻り、一年はついてない電光掲示板の「つぎの電車」「そのつぎの電車」の欄をぼうっと見る。鉄道がまだ動いていたころこの電車に乗れば故郷に帰れた。少し金を払えば指定席にも乗れた。それがダメになって年単位の時が流れ、たぶんもうレールも枕木もダメになっているが誰も直さない。物理的な物流は誰か偉い奴が完全に掌握していてこの街に流れ込むすべての上前を撥ねて懐を温くしている。この間は近郊の都市でトラックが襲撃されて積み荷の「おむつ」が奪い合いになったと聞いた。それはまだこの街にまではきていないがすぐそこまではきている。自分はその日が来るまで玄武を自分の部屋に閉じ込めるつもりなのだろうか? そう思ってから玄武は閉じ込められてなんかいやしないと思う。いくらでも好きにあいつは出ていける。たまたまいまオレの部屋にいるだけで。いつかオレの部屋に来たあの日みたいにトラック一台にモニタとマシンを積んで手荷物ひとつぶら下げて出ていくのだ。そう思うと急に胸元に寒風が吹いたような心地になる。玄武のいない部屋に帰るのはいやだ。だったらあの部屋も引き払ってもっと狭い一人向けの部屋に越して生きていくのだろうか。それも想像がつかない。自分は自分のためだけに今みたいに一応なりとも野菜や肉のバランスを考えた食事を作ったりまめにシーツを洗ったり換気扇を回したりするだろうか?
もやもや考えながら朱雀は帰路につき、階段を上って不用心に鍵を開け、それから慌てて左右を見て、誰もいないことを確認してからノブを回して部屋に入り、上下の鍵とチェーンロックをかってため息をつく。
「コロコロあったか」
「おかえり、っていうんだよこういうときは」
「おかえりコロコロあったか」
「あーあー、ありましたよ、あった、ちゃんとしたやつだよ、国産じゃねえけどよ」
「そうか」
玄武はようやく椅子から立ち上がるとずり下がっているのにくるぶしまでしかないスウェットを引き上げて、こちらに近寄ってきた。
「野菜、こんなもんか」
「もうだいたいこんなもんだよ。野菜と肉がだめだ、魚は干したやつがまだ出回ってるし冷凍もあるけどよ。野菜はたぶん、こないだ工場がつぶれただろ」
「水耕栽培やってたとこか」
「あっこがここにキョウキュウしてたみてえでよ、こんな白菜でワンコインじゃ買えねえんだぜ、どうかしてるぜ」
「高ぇな、薬のほうが安いんじゃねえか」
「オレらが白菜ジャンキーみてえじゃねえか」
「ないと困るって点ではあんまり変わらねえぜ」
玄武はしゃがみこんで野菜を検め、ニンジンのヘロヘロになったしっぽを撫でてうそぶいた。朱雀は同じくらいの高さになった玄武の目玉を見つめる。白目は血走ってないしうすいまぶたやその周りの皮膚も不健康な色身にはなっていない。薄灰色の目玉は手元をじっと見つめていてそこにはコメの産地やらしおれたネギの葉先やらいびつな形のショウガなんかが映っていて自分はいない。いない。玄武。おい。
「……おい、おまえよお」
言ってから朱雀は何も考えていなかった自分に気がつくが遅い。玄武はさっと視線を投げてよこして、灰と青みがかった深い色に彩られた光彩とその真ん中の真っ黒な瞳孔がふたつ朱雀を見る。めったに見ない真正面から自分を見据える玄武の顔。手入れもしてないくせにきれいに整った眉、その下の目、荒れない頬、かすかに乾いて端がめくれかけている唇。もう一度上に戻る。瞳はわずかに開いて落ち着かない蛍光灯の下でどこまでも暗い。
「……おまえ、その」
「なんだ」
「……薬、いつできるんだよ」
逃げた。朱雀が胸に浮かんだ苦いものを飲み下した瞬間玄武は朱雀そのものに興味を失ったように視線をそらした。
「おおよそできてる。生体実験はまだしてねえがシミュレータとネズミでうまくいってるしたいした困難はねえよ。もうすこしいじくったら書き終わる、そうしたら提出してデータが戻ってくるのを待つ段になるからそうしたら俺も家事はすこしはできるし、お前にばっかり買い出しに行かせずに……そうさな少しは散歩するなりして日ごろの不養生を挽回するか」
玄武は一息に言うと朱雀に視線をやり、お前が聞きたかったのはそういうことじゃねえんだろうという顔をして立ち上がった。朱雀はその視線を追えず、エコバッグの中からコロコロの替えを取り出して上に差し出した。ややあって手の中からそれが消え、つまりは玄武が奪い取り、ぺたぺたと裸足が床と触れ合う音、ことんと、おそらくリビングの隅に置いてあるコロコロの脇にストックが置かれて、また裸足の音がして、玄武の椅子がぎいときしんだ。それですべてはいつも通りになり、上がり框にはぽつんと朱雀だけが取り残された。打つ手を間違えた、何を聞くべきだったのか、わからないが間違えた、玄武はなにか違う言葉を求めてオレを見ていた? わからない。正解がわからない。トライアンドエラーをしていいのはシミュレータの上だけだ、朱雀には実行環境しかない。この脳は薬に浸かってもいないのに玄武のことがわからない、浸かっていないからわからないのか? 朱雀は握ったこぶしをゆっくり床に押し付けてぐりっと捻る、人を殴り慣れて平らになった四指の皮膚がそれぞれにねじれる。わからない。ぽたっとあごから液体が垂れて気が付くと冷や汗まみれになっている。朱雀はエコバッグをそのままに立ち上がるとロッカーから着替えを出してシャワールームに向かった。
足元に渦巻くボディーソープの泡を蹴潰しながら朱雀は呪う、この世を呪う。こうまでして生きのびなければならないこの肉体を、そうまでさせる玄武の好奇心と能力を、呪って呪ってそれでも生きることをやめられない。体のうわべをスポンジでこすると今日の垢が落ちる、必要な角質までもしかしたらそぎ落とされる。これから朱雀は玄武の分まで食事を作ってそれからシーツと自分の分の洗濯物を洗いそのころにはどうせ通知が数件入っているから、また変装して街に出てジャンキーどもにアンプルを売りさばく。盛り場ではTHCもMDMAもひょっとしたらヘロインももうとっくにダサくなっていて、今は玄武の作ってるやつがいちばんクールでブッ飛べる。だから朱雀の商いはドン詰まりに落ちることはなく「親」から仕入れる金が途切れることもなく、ああでも朱雀の生活は玄武なしじゃあもう成り立たないから食えてるわけではないのか? いや成り立たないのは生活か? さっき捕まえかけた思考のしっぽはどこへ行った。自分は玄武の目を見ながら何を考えていた? それを理解してオレにどうしろってんだ? ああ?
朱雀はカランを閉めてシャワーをとめ、襟足をぎゅっと絞って水気を切る。風呂場を出て脱衣所のバスタオルで乱雑に頭を拭き、顔をごしごしこすり、首から下を大まかにぬぐって足の裏をバスマットにこすりつける。それから下着をつけてさっきまで着ていたデニムとロンTを身にまとう、玄武はきっとそういうことを嫌がるが別に朱雀の着衣のことを口出しされる筋合いはない、まだ生ぬるい生地は残ったわずかな水分で肌に吸い付いて離れない。朱雀はバスタオルを首にかけるとリビングに戻る。玄武はコロコロ掃除を終えたらしく珍しくソファの上に横たわってぼうっと何か考えている。
「おい、そこオレん場所」
「交換だ」
「馬鹿言え、オレがパソコンの前座ってどうなるってんだ」
「それはちゃんと人間工学をもとに作った椅子だから座りいいぞ」
「おめーの身長なら、だろ! オレが座ったって頭も肘置きもちっとも合わねえよ!」
「それはそうだ、考えてなかった」
玄武はちらりと朱雀を見て、まあそこらへんの床にでも座れ、掃除したから。と言う。朱雀はこれ以上言い争う気もなく、首筋に垂れた水気を拭いてリビングの入り口に腰を下ろした。ちょうどソファの座面と朱雀の視線が同じくらいの高さになり、玄武と視線がかち合う。さっきみたいなピリピリした感覚はどこかに消え失せていて、玄武はひどく緩慢に手を持ち上げる。
「ゴミ、出しといてくれるか」
「……おまえ、コロコロめっちゃ使っただろ」
「お前の使ってないコートにかけた。洋服ブラシがどっかいったみたいでな」
「そんなもんウチにあったかあ? まあいいけどよ。コート……そっか、そろそろ冬モンか」
「温暖化様のおかげで今年も暖冬らしいが……まあコートは便利だからな、マフラーさえ巻いちまえば着替えなくていい」
「おまえ去年の冬一回でも外出たかよ」
「さあな、覚えてねえ。冬はあんまり得意じゃねえから出てねえかもな」
「ったくよお、マジでさっき言ってた、なんだ、フヨージョーってやつだろ」
「そうだな」
玄武は両目を二、三度強めにつぶると目を開け、埃がすごい、と口にする。
「おまえが掃除したからだろ」
「掃除機……はまだ壊れてねえんだっけか?」
「さっきゴミパック買ったからまだつけてねえ。ダメだったら掃除機のほうとっかえるしかねえよ」
「じゃあそれは俺がやる」
玄武は腹筋だけで上体を起こすと朱雀が玄関に放りっぱなしのエコバッグの中からゴミパックを探しあてて、やけにしっかりした足取りで立てかけてある掃除機に向かい、ごそごそと作業を始めた。朱雀はベッドからシーツを引きはがすと自分のランドリーボックスから汚れた衣類を引っ張り出してドラム式の洗濯機にぶちこむ。
「ネット使えよ」
「いらねえよ、高級品着てるわけじゃねえし」
「ボタンが取れるぞ」
朱雀はそれを無視して表示された通りの液体洗剤を投入口に入れ、蓋を閉めてスイッチを押す。水音が響いてホースがびくびく震える。朱雀は立ち上がるとエコバッグの中のものをしまいにかかる。
「おい、シーツが先だろ」
「てめえでやれ」
「あとゴミパック、使えねえ」
レトルトの箱を棚にしまい込んで、朱雀は振り向く。玄武の生活能力は低くはないから本当に使えないのだろうが、どうして今日はこう障害が多いのだ。
「上と下間違えてねえのか」
「上下左右試した」
「全部かよ」
「全滅だ」
玄武は言い、その場でスマートフォンを操作する。朱雀のポケットの中で端末が震えた。
「掃除機代だ」
「……またスティック型?でいいのかよ」
「ゴミパック持っていけ、それが使えるやつなら何でもいい」
「あーあー、はいはい。わーったよ」
次外出るときでいいか、と言うと玄武は眉を顰めて、ついでに空気清浄機も買ってこい、と追加の振り込みをしてくれた。
数週間、また時が流れた。玄武は相変わらず椅子の上とベッドの上を往復してはだらだらとコードを書き続け、朱雀は買い物とプッシャーの仕事のほかに、気晴らしと自分に言い含めてチェーンの喫茶店で数時間を潰した。玄武の邪魔にはなりたくなかったし、玄武ともう一度向き合ってみる勇気もなかった。バブルシューターでピンクのボールを弾けさせながら、朱雀は氷の解けたココアをすすり、プッシュ通知を待った。メッセージアプリにオーダーが来るたびに朱雀は座りすぎて疲れた尻をさすりながら立ち上がり、メッセンジャーバッグの中身がまだ十分にあることを確かめて「現地」に向かった。そこは古い言い方でいう置き屋に近いようなカフェだったり、もう誰もかもが勉強することをやめてしまった大学の喫煙所だったり、あるいはまだメンテナンスはされているらしいサーバールームだったりした。朱雀はそこに運び屋だったころの「身のこなし」で忍び入り、待ち構えていた客にアンプルを渡して金あるいはそれに近しいものをもらった。
ひとつの通信会社が破綻しかけて、その企業に紐づいていたクレジット・チケットがゴミになりかけ、他の大手が救済の手を伸ばす事件があった。それで朱雀の口座の残高はいちど瀕死になりかけたがすぐに元に戻った。国がもはや用をなさなくなってから、情報のインフラ屋たちはまともになったかに見えた。ただ朱雀は知っていた、そいつらが玄武の作っている薬のほうのインフラもやる気でいるということを、本当に人々を骨の髄まで啜る気でいることを、そしてそいつらもどうせ啜りつくしたあとにどうするかなんてことはろくに考えちゃいないってことを。
相変わらず物流は不整脈のように好調と不調を繰り返し、新鮮な魚が手に入ることもあれば、今日はティッシュはもうないよと言われることもあった。朱雀はなるべく玄武の籠城に向いた品々を買い揃えて家に運び、また家を出た。
不在が増えたことを玄武は咎めも問いもしなかった。「仕事」が増えているわけではないことはわかっているだろうに、玄武は何も言わないで、新しくした掃除機で掃除をし、自分のぶんの洗濯をきちんと行い、朱雀の作ったメシを食べて、あとはコードと向き合い続けているらしかった。玄武に気晴らしが必要ないことはこの暮らしを始めてしばらくしてすぐにわかっていた、というより玄武にとってはコードを書く作業自体が面白みのあること、楽しいこと、いうなれば趣味であって、朱雀のようにいやいや仕事をしているわけではなかった。朱雀にできることはなにもなかった。食事だって作らなければ玄武なりに腹の空いた時間かあるいは自分で決めた時間に食べるに違いなかったし、その料理の腕がじつはそれなりに高いらしいことも朱雀は察していた。つまり玄武の生活に朱雀はほんとうの意味で必要ではなかった。出会ったときみたいにまともな仕事に飢えている運び屋に宅配をやらせれば、玄武は生きていける。じゃあオレは?
その問いにぶつかるたびに朱雀は衝動的に走り出したくなり、喫茶店を出て、だけど街でなにか目立つような真似をしたら稼業に障るから、次の喫茶店に入って注文したココアかミルクティーが運ばれるまで地団太に近い貧乏ゆすりをしながら待つ。玄武。その間も朱雀にはわけの分からないコードを書き続けている玄武。ひとつだけ安心なことといえば最近薬を自分で使わなくなった。それは書いているプログラムが限りなく実際的な――つまり本気で脳をいじくりまわすような領域に入っていることを示すが、朱雀にとっては玄武がどのような理由であれアッチ側にいってしまわないことが大事だ。コミュニケーションが取れて、寝て、起きて、メシを食って、シャワーを浴びて――そういうことしか、朱雀にはわからない。玄武がその瞳の奥、視神経でつながっている脳で何を考えているか、ブッ飛んでる間にどんな景色を見ているか、朱雀には知る方法がない。
「お待たせしましたー」
アルバイトらしい――まだアルバイトなんて仕事があるんだろうか?、そういう顔をした自分と同じくらいの年頃の男がココアとガムシロップを持ってきて乱暴にテーブルに置く。朱雀は睨むように相手を見て頭を下げ、環境に配慮された紙製のストローをさしこむとグラスを持ち上げずにココアを啜る。砂糖をケチってるのかそもそもの粉の質が悪いのかちっとも甘みを感じないからガムシロップを垂らしこむ、これだってナチュラルでオーガニックな砂糖なんてものはもはや産地でしか手に入らないから甘みを感じるように「プログラムされた」なにかを使っているに違いない。薬と何が違うんだ、何が違うって、そりゃああれだよ、俺の作ってる「本体」がねえんだよ。あれは取り返しがつかねえから絶対に手を出すな、お前はそういうことをするな、親御さんにも悪いし、俺がやめろって言ってるんだからそれは正しいんだ、やめろ。玄武の声がこだまする。うるせえ黙れ、オレはもう大人だ、自分で自分のことは決める――そう言ったのは、父親に対してだっただろうか。あのころは大人なんかじゃなかった、ちっとも。最初家を出ていくことを止めていた母親はわりとあっさり折れた、めずらしく理屈を通すね、そう言った。親父は一人息子も食わせられねえってメンツにこだわってたけど、それもオレがどうしても行くっていうんで、とうとう諦めた。だからよ、オレは自由なんだ。だからオレと一緒に来いよ。玄武にそう言った、あれは嘘だった。自由なんかじゃない。オレはこの街のすみっこでゴミムシみたいにうずうず動いているけど、その上で見張ってる誰かか何かの支配から全然出られちゃいない。それに加担しているのが玄武だとして、じゃあオレはどうしたらいい?
気づくとまた氷が解けていてココアの上に透明な層ができている。朱雀のスマートフォンには客からの連絡はあっても玄武からの連絡はない。もうずいぶんない。いや最初から一度きりだってなかったのかもしれない。いくつかのメッセージアプリとキャリアのアドレスとSMSを全部確かめるのが怖くて朱雀は店を出る。宵暗がりのなかまだそこにあったチャリにまたがって、メッセンジャーバッグからでたらめな宅配便の屋号をくっつけた折り畳みのリュックを取り出し、バッグをしまってリュックを背負うと、マスクをつけてまともな宅配屋のような顔をして漕ぎだす。今度の指定の場所は大きな食肉処理工場。完全に自動化された食肉が詰まった冷凍庫のそばでぞっとしない取引だ。朱雀が殺されてそこに並んだって誰も気づきやしないし、玄武だってしばらく帰ってこない朱雀を待って、そのうちどっかに引っ越してしまうに違いない。どうせシラけた顔をしてヘマをやらかして死んだか実家に帰ったか程度に思うだけで、玄武は朱雀に見捨てられることはない、玄武がそう思わないから。
ガタガタの路面をオフロード用ではないタイヤで駆け抜けて、舌を噛まないように歯を食いしばって飛ばす。廃駅になった路線のそばのちいさな建物を通り抜けて、貨物引き込み線をたどると工場が見えてくる。白くつややかで冷厳な建物の脇に無骨な倉庫がいくつも立てられていて、約束は5番棟だがナンバリングは手前からされているから五つたどるだけでいい。
チャリを止めてマスクをおろし、いつの間にか上がっていた息をなだめながら待つ。十五分二十分そこらの遅れは珍しくない、朱雀だって馬鹿正直に待っている必要はないが他にすることもない。ここくらい郊外になるともうろくに電波も入らないから何もできない。朱雀はハンドルに腕を預けて前屈姿勢をとり、ほとんど明かりのない暗がりから鬼か人か幽霊かなにかが出てくるのを待つ。どれでもいいができるなら取引相手がいい。サドルにまたがったまま重心を左右にずらしてバランスをとる、健康は健康だ、まだどうにかなる、体を使って金を稼げる。だけどそれがなくなったら朱雀はほんとうにもうどうしようもないし、そちら側にさっさと落ちてしまったやつらだって山ほど見てきた。絶対に手は出すな。玄武の声がまた蘇る。わかってるよやりゃあしねえよ。オレは生きてかなきゃいけねえんだ。おまえがいる限りは、少なくともおまえの行く末を確かめるまでは。
「おう」
声をかけられて顔をあげると肉付きのいい中年の馴染み客がいる。金払いは悪くないしゴネもしない上客だ。黙って手を差し出すと必要な額を支払ってくれる。クレジットの出元を確認してアンプルを渡す。ダース揃いの一袋を相手は検めて、もうひとセットあるならくれと言う。朱雀はやや警戒しながら相手が相応の金額を出すのを見つつ、後ろ手で背負ったリュックの中からメッセンジャーバッグを取り出した、ところで相手が視界から消えた。
下だ。
朱雀はとっさにチャリから跳ねおりて避ける。まだアンプルはバッグの中だ、相手はわかってるからこっちをのしにかかる。襲いかっかるこぶしが鼻先をかすめて、その手がやたら香水臭い。朱雀は態勢を整えるとバッグを抱えたまま左の拳を振り上げる。ボディ、いやだめだ、こいつは肉付きがいい――うえにひらりと拳をかわす。踏み出した足の親指の付け根を支点にぐるりと回って一撃を避ける。喧嘩慣れしているのかカラテでもやっていたのか知らないが相手はやたらと反射神経がいい、荷物を抱えた朱雀の打数が半分になっているとはいえうまくよける、よけた勢いをそのままに殴り掛かってくる。アンプルをやっちまうか? 一瞬よぎった考えはしかし邪魔だ、アンプル目当てじゃない、相手が欲しいのは朱雀の持ってる「親」への連絡先だ。そんなんやられたら商売あがったりだぜ、朱雀はラッシュをかわしながらちっと舌打ちをする、まだその余裕がある。跳びあがって空中で体をひねる、その回転がそのまま回し蹴りになる。こめかみを食った感覚。甲がしびれる。どさりと相手が倒れる音がして、それで終わり。
見事にノビてくれた相手がさっき投げ捨てたダースのアンプルを回収して、朱雀は倒れたチャリを起こすととんとんと地面を蹴って走り出す。片手でスマートフォンをいじって相手の連絡先の名前を「NG」に変える。この端末にはたくさんの「NG」がいるから一人増えたところでどれがだれだかわからないが、稼ぐ方法はまたひとつ閉じた。太ももでぐいぐいペダルを押し込みながら客を数えるともう五十も残っていない。ここのところ新規客は定着率が悪いから相手は減る一方だ。ましてや玄武の「効率化」で稼ぎは悪くなるばかり。ふざけんなオイ、オレがぶん殴られかけてんだぜ。おまえは知らねえけど、オレが言わねえから。
駅を過ぎて線路と並走する長い国道、とっくに国が管理をやめた長い道に入る。朱雀は漕ぐ力を少し弱めて慣性に任せる。がたんとアスファルトの継ぎ目から割れたところでチャリが揺れる。頭を揺らさないように気をつけて朱雀は街に戻る。途中でネズミの死骸と行倒れかけのジャンキーとバックでやりかけてる二人連れと珍しいことに自動販売機に補充をしている男を見かけた。朱雀は自動販売機の前でチャリを止めて補充が終わるのを待ち、男が去ったあとにオレンジジュースをためしに一つ買った。消費期限ぎりぎりだがまだ飲めるやつが転がり落ちてくる。プルタブを開けるとさっきの拳に乗った香水みたいな甘ったるい匂いがしたが味は悪くなかった。朱雀はあと四つ同じジュースを買った。一つも期限は切れていなかった。二つは玄武の土産にしようと思った。
部屋に戻ると玄武は寝ていた。わりあい夜にちゃんと寝るようになったと思いながら朱雀は背負ったままだったリュックをおろして中からメッセンジャーバッグを取り出す。アンプルの数を念のため数えて一つもこぼしていないことを確認し、リュックはグシャグシャにたたんでロッカーにしまう。掛け時計を見るとまだ九時前だった。腹がぐうと鳴る。そういえば今日は昼を食ったか。しかたなく冷凍の白飯と刻んだベーコンとネギ、卵、それになんでも中華風の味にする化学調味料でチャーハンを作る。ここのガスコンロは当然一般家庭用のものだから朱雀が昔店で作っていた味には及ばない、火だ、やはり火が大事なのだ。それでもどうにかぱらぱらに仕上がったチャーハンを、さすがに鍋そのままで食べるには中華鍋は大きすぎるので皿に盛り、レンゲでかき込んで食う。
食いながら素通しで見えるベッドの上の生き物を観察する。横向きに丸まって眠るその姿は胎児のかたちで、こちら側に向けられた背のシルエットの肋骨のあたりがふくらんではしぼみ、安定した呼吸が保たれていることがわかる。わかるったってそこまでだ、それが薬のもたらした安眠なのかどうか朱雀には知る由はない。チャーハンを食べ終えて皿にレンゲをからんと置いて、それでも玄武は起きないからこれは朝まで寝つづけるのだろう。朱雀は立ち上がると皿を流しに置き、水をはってから今度こそ着替えを持ってバスルームに向かう。誰かが昔ハマってたバンドのTシャツをもらったやつとスウェット、干からびたみたいな触感のバスタオル、そいつらを抱えて開けたドアの向こうに落ちていた。
空のアンプル。
かっと全身に炎が回って朱雀は振り向きなかば隠れたベッドを睨む。あの野郎わざとここに置いていきやがったオレが帰って風呂浴びるころにはアッチにブッ飛んでるってわかっててオレが見つけるようにこんなところに――玄武!
朱雀は持ち物を床にたたきつけてベッドに向かう。馬乗りになって丸まる肩を開かせて頬っぺたを枕から引っぺがすと玄武は少しうめいたがまだ目を覚まさない。頬を二、三度叩いたが起きない。顔色は悪くないし体温も下がっていない、朱雀の体の下で胸は健康に上下して呼吸は続いている。唇の端にほんの少しだけ唾液が溜まっていて、朱雀が乱暴に顔を揺らしたせいでたらりと垂れた。
「てめえ、よお、オレにはすんなっつっといてよお」
玄武の薄いまぶたに青く血管が浮いている。額の生え際の産毛はやわらかく、整えもしない眉はきれいなまま、唇も血の気が乗ってつやがある、死に化粧をするならこういう顔にしてやるか?
朱雀は玄武の上からどかずに考える。脱衣所にアンプルを落として布団にくるまるまで理性的に動けていたのだろう。だからそう量もキメていないし、臨床試験の終わっていないやつをブチ込むほど玄武は馬鹿じゃない。わかっているから、朱雀にできることは何一つない。起きたら罵りの言葉のひとつもかけるか? それだって軽く流されてしまうだろう。朱雀にはなんの口出しの権利もないのだから。じゃあなんでアンプルを落としたのか。馬鹿でも気づくように自分の薬の使用を知らせたのか。
「なんなんだよ、おまえは……」
朱雀は背を丸めて首を落とし、玄武の胸に頭を預けた。ゆっくり持ち上がって沈む、玄武の大柄な胸郭の上下に揺られているとほんとうに幼い子供のころを思い出す。なにもかもまだうまくいっていたころの、自分は親の腕の中で高い高いをされていればよかったころの。朱雀は目を閉じてしばらくそのままでいた。玄武はどうせ起きない。触れた額からはスウェット越しに玄武の体温がにじむ。どくどくと心臓の音もする。不穏なことは何ひとつない、生きている、玄武は間違いなく、今は、まだ今は。
ややあって朱雀は頭をあげ、のしかかっていたベッドから降りる。そのまま床に座り込んで、両手で顔を覆う。玄武は、遊んでいるだけだ。脳を使って。それがたまたま自分の脳で、効き目がどんなテストよりわかるからやっているだけだ。ジャンキーみたいに欲しくて欲しくて耐えられなくなることもない。玄武ひとりのことなら、朱雀がどうのこうの言えやしない。だけど話はそれだけでは終わらない、玄武の作った薬はもうボロボロになりかけた世界を確実に蝕んでいるし、朱雀の客たちは玄武の作るそれに踊らされて身代をぶっ壊すような大金を積み続けている。さらになんだ? なんて言った玄武は? ネットワークで脳と脳を繋いで、競わせて? それは玄武だけの問題になんてならない、世界中をダメにするようなプロジェクトだ、玄武はそこでどんな悪さをする。玄武の脳だって薬を使うんだからそれから逃れられやしないしだいたい自分で試さないと気が済まない口だ。玄武の脳も誰かの脳と繋がって、今度こそエサを欲しがって回し車を回すハムスターみたいになる。オレは玄武のためにアンプルを仕入れて薬の切れた玄武にやって、それで玄武から金をとったりして、関節が溶けたみたいになった玄武の口に無理やりメシを押し込んでケツを拭いて髭を剃って、また薬を欲しがったら与えて。
そしてそこにオレはひとりで、取り残されるのか。
朱雀が顔をあげるとマシンはひくい唸り声をあげてそこにある。諸悪の根源。こいつを壊してしまえば玄武の仕事はひと月かふた月遅れるだろう。けどそれだけだ、根本的な解決にはなりはしない、玄武の話では「それ」はもう実験段階までいっているしなんなら今玄武が使っているやつだってそうかもしれない。
朱雀は立ち上がり、べっとりとかいていた冷や汗を脱いだロンTで拭ってバスルームに向かった。考えることはもうほとんどなく、夜は依然そこにあり、朱雀もできれば寝るべきだった。