すげえやつがあるんだよ。新手のやつさ。といってもありきたりな、吐き出すベンゼン環をちょっとばかしいじくったやつじゃねえ。まだどこの法律にも引っかからねえ、まるきり新式のやつを吐いてくれるんだ。もとはちっちぇえプログラムみてえなもんだ。それが人間の体の中で余ったアミノ酸を使ってマシンを自己生成する。あとは必要な元素の入ったものを食えば、体の中から〝そいつ〟があふれ出すって寸法さ。なにより出がどっからか分かんねえのがいい。噂じゃあどっかの大学か、バイオハックをやってる企業が漏らしたか、そんなとこらしいが、コードを読んだ俺の友達は言ってたぜえ、あれはひとりの仕業だってな。それくらい不親切にできてやがるってことだ。
お、どっか行くのか? 気をつけろよお、この時間からは法律も警察もなんにも守っちゃくれねえ。腕ごとクレジットを持ってかれるなんて話もざらだぜ。
手にはひとつのカプセルがある。さっきのパキパキにキマってた男が話していたやつだ。念には念を入れた徐放型。プログラムはごく簡単な塩基の断片というかたちで十二時間かけて体内に放出され、血管中の特定の場所――趣味の悪いことに大動脈の付け根にあつまり、そこでひとつのかたちを得る。そこまでがプリインされている部分だ。あとは組み合った塩基たちが血中からアミノ酸をもぎ取ってタンパク質をつくり、それが新しいプログラムになる。そいつが出来上がってしまえば、あとは男の言っていた通り、必要な元素を含むアンプルかカプセルを飲むことでいくらでもハイになれる。約束されたグッド・トリップ。
化学もプログラミングもてんでダメだった朱雀がどうしてそれを知っているか? 商品の能書きを語れない売人は無能で、つまり朱雀は無能ではない。
錆の浮いた外階段を上がり、二階の角部屋のカギを開ける。さっと左右を確認して素早く身を隠す。習い性になっている。部屋の中では二枚のモニタとスマートフォンの画面がぼうっと光っている。
「玄武、いつまでも寝てんじゃねえぞ」
マシンの前で毛布のみのむしになっていた男がもぞもぞと動き出す。
「……今は夜だ」
「夜ってこた、ヒルだろうが。起きろ」
「俺はグリニッジ標準時プラス八時間で生活してえんだが……」
「グリなんとかは知らねえけどよ、アガリ報告してきたぜ」
それを聞いて玄武はようやく頭をもたげた。
「いくらになった」
「六〇〇〇が三十件。だから、ほら」
「十八万」
玄武は寝ころんだままその長い手をデスクに伸ばし、スマートフォンを手にとると何か打ち込んだ。
「家賃、ガス、水道、電気、食費……ああ、お前どう考えても食いすぎだ」
「このでっけぇパソコンつけっぱなしにすんのやめたら電気代浮くだろ」
がん、と朱雀がパソコン本体を蹴るのを玄武は止めない。スマートフォンを胸に抱いてぼうっと天井を見ている。そこにあるのはモニタに映されているのと同じわけのわからないアルファベットと数字の羅列だ。
「だいたい、おまえ! 本家のおまえの取り分はどうなってんだよ」
「アレは趣味だ。だから金はとらない」
「そーかよ。金のかかる趣味だな!」
「めぐりめぐってお前の収入になってるだろう」
「そーだけどよ」
ふい、と玄武の視線が動いてようやく朱雀に止まる。
「お前、アンプルだけだろうな」
「言われたとおり、『本体』には手だしてねえよ」
「ならいい。アゲられたときに少しはましだ……」
そう言うとまた玄武はごろりと毛布にくるまってしまう。手元のスマートフォンで何かいじっているのだろう、天井の英数字が増えたり減ったりしている。
プラネタリウム。
一瞬その単語がよぎって朱雀は首を振った。
「晩飯、やきそばでいいか」
「ああ」
「ピーマンとキャベツと肉」
「ああ」
「ケチャップいれっぞ」
「ああ」
生返事、生返事、生返事。玄武はもうアッチに行ってしまったようだ。食うのはいったいいつになるやらと思いながら朱雀は続き間のキッチンの冷蔵庫から野菜と袋麺を取り出した。
玄武が開発したそいつには名前がない。玄武がいま取り組んでいるプロジェクトはひとつだけだから、名前は必要ないのだ。「本体」は朱雀が言い出した言葉だ。それも苦慮してひねり出した一言で、玄武は一度も口にしたことがない。必要なときにはアレとかソレとか呼んでいる。
朱雀はその「本体」の消耗品部分であるアンプルの売人だ。そいつはさっき言ったとおりスタンドアロンで物質を生産するが、人間の体の中にある元素は限られているから、ハイになるためには特定の元素を外部から取り入れてやらなければならない。もちろんそれはあらかじめ効率よく整列しているほうが都合がよく、だから「本体」を扱わない売人たちの間でも品質競争は発生する。
玄武が「本体」をどうさばいているのか朱雀は知らない。「本体」の生産設備はこの部屋にはないから、部屋の外にほとんど出ない玄武が作っているとは考えがたい。ということは設計図を渡しているということなのだろう。相手は信用のおけるひとだとは聞いたことがある。それ以上のことは話さなかった。朱雀もそんなに知りたくはない。玄武の世界は片方ではひどく狭く閉じて自分にだけ向いているし、もう片方ではウェブの世界にひろく開いている。そのことだけは朱雀を少しイラつかせる。
玄武がこっちに帰ってきたのは午前四時を回っていた。朱雀は地上波の再放送の歌番組を見ていた。歌番組が好きなのではなくCSやらBSやらの契約はするなと玄武が言うので地上波しか見るものがないのだ。
「腹が減った」
「やきそばチンしろ」
頷いた玄武がぐらりと立ち上がる。確認しただけでも六時間はずっと伏していた体が直立するとその高さに改めて驚かされる。一瞬足元をふらつかせた玄武は狭いアパートの天井に手をついて体を支える。
「……抜けたな」
「あ? おまえ試してたのか? 言えよ」
「ちょっとしたアップデートだ。来週あたりには出回るんじゃねえか」
「テキトーだなおい」
玄武がのそりと毛布を引きずりながらキッチンに向かうのを見送る。画面ではよくわからないどこか遠い国のポップスターが愛を歌っている。
「五〇〇W、二分」
「作ったの九時だぞ、五分チンしろ五分」
「熱いだろうが」
ぴっぴっぴとボタンを押してレンジを回し始めた玄武はそのままレンジの前に座り込む。本人は筋トレはしていると主張するが最近また目に見えて体力が落ちている。
「ほら、箸」
放ってやると空中でばらけかけた二本の箸をそれぞれの手で掴んで嫌そうな顔をする。フォークで横着する気だったようだ。テーブルをばんと叩いて座る位置を指定すると大人しく腰掛ける。ちょうど電子レンジが止まって童謡が鳴る。からすといっしょに帰りましょう。ひかえめに湯気が立つやきそばの皿の底はほんのりあたたかい。その程度でいいのか? 思いながら玄武の前に置く。
「で、なにがアップデートしたんだよ」
「簡単に言うと側坐核のつつき方を変えた」
「そくざかく」
「脳にあってつつくと快感をおぼえる。だが脳にはゲートがある。銀行の金庫に入るにはIDが要るだろう、あれと同じ……あれより多少厄介なゲートだ。そこを通らないと脳は刺激できない。俺たちは銀行強盗――いや、たとえが悪いな。『銀行の金を燃やすのが役目』とでも思ってくれ。マシンは銀行の職員に偽装してゲートを通る。その通りかたをスマートにした。あとは燃やし放題だ」
「……その、燃やしたやつはどうなんだよ」
「一緒に焼死」
そう言って玄武は大口を開けてぬるいやきそばにかぶりついた。
物事には始まりがあり、終わりがあり、玄武はそれを作る側の人間だ。そのアップデートは玄武の予想より四日ほど早く街に出回り始めた。朱雀も「本体」をよこせ、「本体」をアップデートさせろとつつかれて、アンプルを回してもらっている「親」との仲介をすることが増えた。
そしてある日朱雀は「親」に呼び出される。
「え、仕事減るって、なんで」
「効きがよくなったらしい。一度にこれまでの三分の二の量でよくなった。まあつまり、売り上げが三分の二になるっつうことだ」
ちぃ、と内心舌打ちをした。玄武の野郎、あいつ、オレのアガリが減るってわかってたろ。
「なあお前、プログラムの方も売らねえか? お前の太客ならお前から買うだろう。わざわざ俺に話すのも手間だし、もったいねえと思わねえのか」
「あー。それは、前も言ったけどオレはやらねえ」
しばらく「親」は朱雀を眺めて、言う。
「家族でも食われたか」
「んにゃ、オヤジもオフクロも元気にしてる。これはなんつーか、約束だからよお」
「……まあ、無理にとは言わねえが」
惜しいな。と「親」はこぼして、それから二週間分のアンプルとくしゃくしゃの札を渡してきた。
帰宅すると玄武はごみためから拾ってきたオフィスチェアの上で体育座りをしていた。長考のしるし。普段なら邪魔をしないところだが、朱雀はモニタの載ったデスクをばんと叩いて言う。
「おい、アガリ減るってなんで言わなかった」
ややあって玄武が顔を上げ、朱雀の方を向く。
「……ああ、もうか。早いな」
「早いなあ~、じゃねえよ! どうすんだ、マジでメシ代も出なくなるぞ」
「これから考える」
「はあ!?」
玄武は長い脚を下ろすと顎をさすって言う。
「金の心配はしなくていい。が、お前の仕事がなくなるのは困る。ふたりでこの部屋で遊んでるわけにもいかねえ。だからそれはこれから考える、ってことだ」
「……オレが遊んでちゃ邪魔かよ」
「まさか。ただ部屋から出ねえのは健康によくねえ」
「どの口がほざいてんだ」
言うと玄武はにやりと笑って、なにかコマンドを入力した。モニタの中身が切り替わって、人間の脳が浮かぶ。
「なんだこれ」
「シミュレータだ。お前にも見えるように画像化した。この方が分かりやすいだろ」
玄武は空中にひょいひょいとジェスチャを描き、脳が下部からじわじわと仄暗い桃色に染まり始める。
「今までのやつの効きはこうだった。血流に乗せる都合上万遍なく回っちまう。それを」
また空中に何かを描く。
「こうしたい」
今度は脳の下半分の中心にある小さな一点に濃い赤がはじけるように色づいた。
「あー、なんだ、言ってることはわかった」
「外科手術で『磁石』になるものを埋め込めば一発なんだが、まあクスリやるために頭かっぴらく馬鹿相手じゃ商売にならねえ。俺の仕事は静注なり経口摂取なりで脳のココにピンを打ち込んで、レセプタをじゃんじゃん増やすことだ」
玄武は一息に言い切るとデスクに置いてあったカップを手に取り口をつける。
「ショーバイとか、おまえ考えてたのか?」
「俺は考えてねえ。そういうのは向こうからやってくるんだ」
「はあ。そんでオレはどうしたらいいんだよ」
「しばらくは今まで通りやりゃあいい。売り上げの減った分は俺が補填する」
レトルトの海南鶏飯のダシを炊き上がったコメに混ぜて、そぎ切りにした鶏肉を載せ、香味野菜を効かせたタレを添える。スープも同じレトルトの鶏ダシに薄く切ったダイコンと青ネギを入れただけのものだ。
支度を整えてふたり分の箸を揃え、リビングに戻ると玄武はキーボードの上に手を置いて呆然としていた。もっともそれはコードを書く前の儀式みたいなものだから朱雀は関係なくオフィスチェアの背を蹴っ飛ばす。
「おい、メシ」
「……ああ」
「今食わねえんだったらしまっちまうぜ」
「いや、いく」
珍しくすぐ席を立って玄武はのそのそとダイニングに移動する。玄武はほぼ同じスウェットを七枚洗い替え用に持っていてそればかり着ているが、本人は区別がついているようでどれも同じくらいの傷み方だ。新年になると買い替えているらしいが、朱雀は玄武の会計年度を知らない。
「ほい、じゃあいただきます」
「いただきます」
ぱらぱらになったコメをむりやり箸でまとめて口に放り込む。滋味があってうまい。プロがうまくつくったものだから当たり前だ。朱雀も鶏ガラを買ってきて作ったことはあるが後処理が面倒でやめてしまった。
「んでどおなんだよ」
「何がだ」
「新しいやつ」
ここのところ朱雀の仕事は減る一方で、今週はついに稼ぎが三万を切った。どこからか湧いて出る玄武の金で当座はどうにかなっているが、なるべくなら頼りたくはない。
「八割がたってところだ」
「こないだも八割だった」
「行百里者、半於九十」
「日本語で話せ」
「什么?」
「あーあーオレが悪かった。悪かった」
「マウスとモルモットと犬と猿とシミュレータではうまくいってる。あとは人間だが、プレーンな脳がなかなかないんで困ってる」
言葉の合間に玄武はスープをすする。湯気がレンズにあたって曇る。玄武は眉をしかめて眼鏡を外すと目元をこする。
「シャブ中しかいねえのか、まったく。ちゃんとした治験のガワがあるのにスキャンする脳スキャンする脳大体イカレてやがる」
「おまえそういうの家からやってんのか?」
「あ? そうだが」
「オレにはCSもサブスクも見んなって言っといてよお」
「あのな、ああいう相互通信はセキュリティが――」
「おまえの得意なやつでどうにかなんねえのか?」
「やらねえ」
それが「ならねえ」ではないことに内心腹を立てながら朱雀は鶏肉を咀嚼する。うまい。これからもこのメーカーにしようと思って席を立ってゴミ箱の中のパッケージの写真を撮った。そしてふと気づく。
「なあ、オレの脳使えばいいんじゃねえか?」
「あ?」
「やってねえ脳が欲しいんだろ。あるぜ」
「――ダメだ」
玄武が語気を強める。
「何でだよ」
「お前の脳はそのためにあるんじゃない」
「……そーかよ、役立たずで悪かったな!」
立ちあがった音は思ったより大きく、足音は廊下に響き、朱雀は6ホールに足を突っ込んで部屋を出た。がしゃんとかけた鍵は中から開くのに、玄武を閉じ込めたような気がした。
行くあてもなく、結局コーヒーチェーンに入ってココアを頼んだ。それからスマートフォンをいじくる。といっても取り締りのキツくなっているこのご時世、朱雀程度の能力ではろくに楽しめるものは落ちていない。結局もう三億回はやったバブルシューターを始める。赤青緑黄紫ピンクのバブルを射出しては消していく。こいつをキメてからやると色彩が襲い掛かってきて最高に気持ちいいと顧客の誰かが言っていた。朱雀にとっては最低な暇つぶしだ。ぽんとバブルが出る。繋がった同色のバブルが消えていく。ぱちぱちぱち。
ココアの氷がとけて透明な上澄みになるまでそうしていた。そのあいだ客から二件連絡が入ったがアンプルは部屋にある。明日に回した。それで離れる客なら離れればいいと思った。
夜半の安いコーヒーショップの客層はそれはもうひどいもので、明らかにキメている学生風のいい身なりの連中が金払いでいえば最上層、日用品をまるごと紙袋に突っ込んだ無宿人やら肉体労働の後らしい作業着を汗で染めた男たちとたまに女、エタノールで酔いつぶれているおっさんやらカロリーをシュガースティックでとろうとするやつれた男やら、玄武の分まで活計を立てている朱雀は上客で、だから店員も薄まったココアにガムシロップを二個入れることを咎めない。
朱雀は底に沈んだシロップをストローの先でぐるぐるかき回しながら今更家を出てきたことを悔やむ。玄武を放っておいていいことがあったためしがない。今頃これ幸いとばかりにまた新しいやつを自分の脳で実験しているだろう。そんなことは絶対に体に良くないのだから家にいるときはできる限り止めるようにしている。朱雀には薬の作用機序なんてものはわからない。玄武から指定された「安全な」商材――アンプルだけを得意客に売りさばくただのプッシャーだ。玄武とつながっていることは「親」は知らないから朱雀は鼻の効くいっぱしの売人らしく見えるかもしれないが。
空いていた隣の席にやたらスカートの短い、だぼついたパーカーを着た女たちが座った。一番小さいサイズのコーヒーを机の端に避けて、プラスチックの筒のようなものを取り出す。それを肘裏の柔らかいところに押し当てて、小さな容器――中華料理屋でよくもらえる魚型の醤油入れのような、ウィンクしているエモジがエンボスになっているやつをその筒の中にほうりこむ。そして親指でぎゅっと上から押しこむ。ウィンクを満たしていた半透明の液体がすっと消える。正確には彼女らの体内に送り込まれる。無針注射を使えるってことはそれなりに金があるってことか、と朱雀はぼんやり思い、おそらくその金の出どころである女たちの親のクレジットカードを想像しながら席を立った。薬が効いてから絡まれて、あとから面倒になるのは嫌だ。
チェーンを出て一応左右を確認し、朱雀は路地裏に足を踏み入れる。ネオンの届かない空間には穀物を入れる麻袋や弁当の紙パッケージ、タンブルウィードに似た枯草の塊やはがれた靴底が転がっていて、それらを室外機の排気がゆらゆらと動かしている。壁に張り巡らされた水冷用のパイプは赤茶に錆び、道路はそこかしこがひび割れてねこじゃらしが顔をのぞかせている。誰かがご丁寧に砂利で亀裂を埋めた後があって、インフラという概念が国の保障の外でも維持されていることを伝える。
朱雀はプッシャーで、もちろんそれは非合法だが、もはやその法に則って朱雀を捕らえる公権力は機能していない。朱雀が物心ついたころに大規模な政治的混乱があり、それは何人かあるいは何十人かの命を奪い、銀行券を紙屑にし、軍隊を野良に、警察をただの暴力の集まりに変えた。だから朱雀が逃げているのは警察からではない。
代わりに位置情報や決済履歴や視線の動線を把握している誰かが、朱雀がこすっからい真似をしていることを非難し、尻尾をつかもうとする。捕まれば吊るし上げだ。玄武の言う通りに「本体」の世話はしていないからその分少しはマシだろうが、プッシャーなんて仕事は褒められたものではなく当然バッシングに遭うし、それなりの蟄居を新しい権力者に命じられることだろう。連絡手段は一切剥奪され「親」とも縁が切れるに違いない。そう言う中で朱雀があの家に戻った時に玄武はまだ部屋にいるだろうか? 玄武のことだから動くのが億劫だとか設備を移動させるのに無理があるとか、そう言う理屈をつけて何もしない可能性もあるが、神隠しにあったようにどこかに消えてしまう可能性だって否めない。
にゃあと鳴き声がして反射的にそっちを見やると猫がいた。ぼさぼさした毛の大柄な猫だ。実家に置いてきた愛猫のことを思い出す。もう二年、いや三年会っていないだろうか。今も両親に囲まれて愛されているだろうか。実家の地方の通信状況が悪化してからろくに画像も見られていない。通信自体はしたっていい、玄武も怒らない、だがそれをためらわせるのが朱雀の稼業だ。正しくないことをしているのがバレれば、累が及べばきっと親は怒る。いやいまさら怒られたって怖くはないし殴り合いになったら勝てるのもわかっている。それでも親に怒られるのは嫌だ。
いつの間にか猫は姿を消している。朱雀は頭を振って表通りに戻るとカウンターが開いていたビーフン屋に入って、申し訳程度にキャベツとベーコンが入った焼きビーフンを食った。頼んでからメニューを見たのでその価格が一日の食費の三分の一ほどすることに食いながら目を剥いた。インフレ、ってやつだ。ここの会計は現金、正確には無国籍企業の発行する換金できるチケット、朱雀はポケットの中をごそごそやって足りる額面があることを確かめ、左手でその紙くずを握りしめながら細い麺の最後の一本までを食いつくし、レモングラスが草そのままに入った水を二度お代わりして店員にキャッシュを渡して店を出た。
行きと同じようになるべく裏路地を使い、けれど明らかにカメラやGPSを避けているようなわざとらしいふるまいはしない。アパートにたどりつくと裏階段を上がって鉄扉を空ける。入れ替えていない空気のにおいに辟易しながら部屋に入り案の定消えていた灯りをつけると玄武が椅子の背もたれに体を預けてぐったりしている。慌てて近寄って閉じられているまぶたを開くと光に晒された瞳孔がきゅっと締まる。単にまた――また使っている、だけだ。人体実験を玄武は安直に自分でするから、結局いつもオレばかり心配している、と思う。椅子をぐるりと回し玄武の体を持ち上げて、運んでベッドに寝転がらせる。玄武の体は薬をやっている最中特有の体温の上昇があり、朱雀の前腕に嫌なぬくもりを残す。ときおりびくりと震える体にタオルケットをかけ、朱雀はしばらくベッドサイドで玄武を眺めた。紅潮した頬はわずかにかさつき、格好は構わないくせに髪型だけはきちんとオールバックにした、その前髪が幾筋か額に垂れている。
「玄武よお、やめようぜ」
言いながらそう言う権利は自分にはないと思う。玄武のコレとの付き合いは自分との付き合いよりずっと長い、だいたい玄武が他にどうやって食っていくのか朱雀には提案できないし玄武を食わせる甲斐性もない。いやそんな義理はもともとないといえばないのだが、他人の人生に干渉するからにはそれなりに責任を取るのが朱雀の信条で、今のところ朱雀の持ち札では玄武の生き方を変えることは無理だ。朱雀はベッドに肘をついているはずもない神様あるいはもっと大いなる何かに、とにかくこの男が捨て鉢にならずにはやめに体から薬を抜いてまっとうに生きられる世の中にしてくださいと祈った。
それから朱雀はチラシの裏紙に帰宅時間と今まさに書置きを書いている時間を記して、食事は作っていないこと、起きるまで待ってほしいことを書いて自分もソファベッドに横になった。眠りはすぐに訪れる、炭水化物あるいは神経の疲労のせいで。
目が覚めると玄武はまたモニタの前にいて、朱雀が身じろぎしたことに気がついたらしくこちらを向いて失敗だったと一言言った。朱雀は黙ったまま起きて背伸びをして一通りストレッチをする。その間玄武はぼうっとモニタを眺めていて、そこにはいつも通り謎の英数字の列が並んでいるから朱雀に中身を知る方法はない。軽い運動が終わると朱雀はまっすぐ冷蔵庫に向かい、豚の切り落としと野菜とレトルトのソースで回鍋肉を作り、レンジで冷凍ご飯を温めた。炒め物がじゅうじゅうと人間らしい音を立てる間も玄武は時折首を傾げたりため息をついたりしながらずっとモニタを見ていた。やがて肉に火が通り、朱雀は湯を沸かしていなかったことに気づいてからスープを作るのをあきらめて、メシ、と玄武に声をかける。玄武は椅子から降りるとスウェットをいったんウエストまで引き上げてからすこし落とし、のろのろと食卓に着いた。
大皿に盛った回鍋肉をレンゲで乱暴に取り分けて、真ん中に一人分は優にあるお代わりぶんを残してふたりは食事を始める。玄武は二三度ゆっくりまばたきをしたあと茶碗を持ち上げてただの白飯を口に運ぶ、その箸を持つ手がわずかに震えているのを朱雀は察知して眉をひそめ、忘れるために味の濃い肉を口に運ぶ、オイスターソースが効いているからコクがあるし米が進む。皿に落とした視線をちらちらと上げて見る玄武は覇気も生気にも欠けていて、ジャンキーが抜けきらない薬にまどろんでる様子にそっくりだし事実そうなのだった。唇は寝る前に見た赤みがすっかり抜けてむしろ青ざめているくらいだったし、白目は血管が見えるくらい充血していてどう考えたって健康に良くない、脳にも体にも負担がかかっている。プッシャーがそんなことを心配するなんて理に合わないのはわかっていても目の前にいるのは客ではなくて玄武だ。
「なあ、やっぱよせよ玄武」
口をついて出たのは本音とお仕着せがましい倫理で、玄武は顔をしかめて肉を飲み込むと一言言う。
「俺の楽しみを奪う気か? だいたいお前の稼ぎじゃ食えねえ」
「だったら田舎でも行ってなんか……米とか作って食えばいいだろ」
「農業ナメてんじゃねえぞ」
「ナメてねえよ、うちだってやってた」
「そういうことじゃねえ、一人前に稼いでから言え」
玄武がレンゲでかつかつと音を立てて大皿の肉を引き寄せて自分の取り皿に盛るのを朱雀は黙って見る。家計は朱雀の稼ぎが主だったのが例のアップデートの後は玄武のどこの誰からもらったのかも知れない謎の金に助けられている一方だ。朱雀の今のシノギではどうあったって二人を満足に食わせてバカ高い電気代を払ってたまに外食をするなんてことは不可能だ。それは全部玄武のせいだけれどひとつも玄武は悪くないとも言える。プッシャーなんて辞めればいいと頭ではわかっていてもこれまでついたどの職業より稼ぎがいいのも事実で、そもそも二人分でなければ今だって十分に食える、だけど玄武の手をここで離してしまえば二度とこの男とは巡り合えないに違いない。
「薬、オレが言うのは変なのはわかってるけど健康によくねえよ。玄武。あんま自分で試すな」
「……この肉はうまいな、キマってなくてもうまい。お前、最近料理の腕あがったろう」
馬鹿野郎、それはレトルトで味を決めてるのはメーカーの研究員でおまえは最大公約数の味をほめてるだけだ、そう返すのもばかばかしくて朱雀は皿に残ったやけに野菜の多い回鍋肉をまとめて自分の皿に取り、残っていた白飯と一緒に流し込む。玄武が自分の話を、とくに薬についての話をまともにとりあうわけがないと最初からわかっていて、だけどどうしたって言わずにはいられない。
玄武は皿洗いを引き受け、朱雀がバブルシューターをしながら昨日無視した顧客に連絡を入れている間に手際よくすべてを洗いついでにシンクも磨き上げてくれた。そういうきっちりしたとこがあんなら薬もやめろよと言いそうになってこれは火種だと察知して朱雀はやめる。玄武はまたモニタの前に戻るとどこかの店のチラシを反故にしたやつの裏面にぐるぐるとペンで何か図を描きはじめた。それが多分脳と分子の絵であることまでしか朱雀にはわからない。朱雀は生体認証に紐づいているほうの口座の残高を確かめて「仕送り用」の口座に少しだけ金を移す。これは故郷の両親がいじれる数少ないサービスの一つでもある。都会に出た息子がどうしてるんだか知らないが金だけは送ってくる、ある意味最低の状況だけれど消息すら明らかでないよりはマシだろうと思って続けている。
朱雀の故郷はまだ特急がまともに動いていたころは二時間半ほど乗れば着くような鄙びた田舎にある。両親はいろいろな仕事をした後に食堂を開いて、朱雀が生まれたころはそれなりに繁盛していた。そこで朱雀はもはや懐かしい義務教育を受けて健やかに育ち、途中で猫を拾って家族は四人になり、小さな不仲こそあれ家族は順調に運営されていた。
政府になにか大きなトラブルがあった、破綻が近い、そういう話が最初に聞こえてきたときもまだ地方の自治は機能していた。電気も水道もガスも通っていたしネットワークも交通インフラもすべて普通だった。だから家族は相変わらず食堂を続けてたまに季節限定のメニューを考えたり家の裏に父親が拵えた畑で薬味を育てたりして暮らしを続けた。たまに旅人がやってきていやあ首都はひどいもんだぜと言うのを母親はねぎらい、少し米を大盛りにして定食を出してやっていた。朱雀は食堂の隅で進学に必要な数式がどうしても解けないのに飽きて耳新しい世間話を聞いていた。もうね、金が使えねえんだよ。それから治安が悪い。警察が機能してなくて、軍隊が出張ってるけど、あれももう駄目だね、統率がとれてねえんだ。へえそうなのかと朱雀少年は思い、でもオレはたぶんここで進学に失敗して就職するし、まあ就職がだめでもこの店継げばいいからなあとのんきに構えていた。
最初におかしくなったのは道路だった。小さな地震で起きたアスファルトの割れは役所に行けばすぐに直ったのが放置されるようになった。そこから花が生えてきたのを見てだれかがいつかの流行り歌みたいだと言い、しかしそれがあんまりいろいろなところに広がると交通に支障が出る。自然人は公共交通機関に頼りはじめたころ、今度は国営の電車がダイヤ通りに動かなくなった。そこから役所のネットワークが落ちることが増えて、たまに電気が止まるようになり、ガスの値段がバカみたいに跳ね上がって、かろうじて水は井戸があるけれど蛇口をひねってもろくな量が出てこない。そこで朱雀の家もようやくおかしいと気づいたけれど、ネットワークにつながらない状態では仕入れだってままならないし、敏感な取引先は現金払いが通用しなくなって、代わりにデカい企業の発行するクレジットを要求してくるが、その時点ではとっくに正規のレートを逸れているから政府発行の金はもはや紙屑だ。
朱雀が進学も就職も諦めたのはそのころだ。食い扶持を減らすのが手っ取り早い解決法だったので止める両親をどうにか言い負かし最低限の荷物をバックパックに詰めた。そうして一番近い都市まで行くトラックに乗せてもらって家を出た。そこからいくつかヒッチハイクを繰り返して、今の住まいのあたりにおちついた。じきに田舎の回線はひどく不安定になり、日課だった動画での通話もあやうくなった。ローカルのイントラに近いネットワークにアクセスするためには法外な手数料がかかるので朱雀は連絡をおろそかにせざるを得なかった。物理の手紙が一瞬復権したけれどそれも郵便サービスがぼろぼろになって不着が増えたことで利用をやめた。最終的に非常に善意の強い企業が提供するオンライン送金サービスだけが残って、それは前述のとおり続けている。朱雀が直接帰郷するのも国営の代わりに発達した流通・交通系サービスは足元を見た価格を提示してきてそうそう気易くは帰れない。
そうしている間に、朱雀も職を転々とせざるをえなかった。最初は食堂で働いた。まかないつきで悪くはない店だったし調理師の免許だってとれるんじゃないかと思っていたら店が潰れた。いくつか和食や中華の店を渡り歩いたが良心がある店は立ち行かなくなり、悪徳商法で生き延びる店はだいたい払いが悪くて辞めざるをえなかった。仕事は無限にあったが満足な仕事はほとんどなかった。そんな中で朱雀が選んだのは個人請負の配達サービスだった。チャリを馬鹿みたいな値段で借りて脚力で取り戻すタイプの仕事だ。体は頑健だったからそれでだいぶ稼げた。だがそのうち顧客の質が落ちて、グレーどころか真っ黒な荷物を運ぶ羽目になった。それでも朱雀は怖いもの知らずで失うものもほとんどなかったから仕事を引き受けて、貯めた金を親に送った。そういう勤務態度を見ていた同じシマの男がある日声をかけてきた。
プッシャーやらねえか。
抵抗はあった。故郷の同級生のなかにも薬で身を持ち崩した人間はいくらでもいた。高いピルと堕胎代を払えない人間の娯楽は自然と安価で粗悪な薬にシフトしていた。子供を抱えた女が保護施設に赤ん坊を預けて失踪したり、明らかにキマった顔でふらふらと往来を歩く同級生の腹に一発食らわせて家まで連れ戻したこともあった。その手伝いをするなんてとんでもないと何度も断ったのに話はいくらでもやってきた。そしてそれと同じくして大手が始めた生体認証に紐づいた配送サービスが朱雀たちの食い扶持をどんどん削っていって、回ってくる仕事は銃器だとかよくない金だとか謎のチップだとかそういうものばかりになった。ある時点で朱雀は諦めて、運ぶだけなら、と首を縦に振った。薬を売るなんて最低最悪の行為だ。それがどれだけ体と精神をむしばんで人間をボロボロにしてしまうか朱雀はよく知っていたし見てもいた。アガリがだれに流れているのか朱雀は知らなかったがどうせ搾り取った利益を自分のあるいは身の回りの人間のためだけに使っているやつに違いなかった。それでも流れてしまったのは端的に言えばそれ以外の仕事が激減してろくに食えもしなくなりかけたからだった。最初は一度だけと思った、それから本当に明日のメシに困ってもう一度やった。あとはずるずると、まるで薬を使ってるやつみたいに滑り落ちていった。そうして朱雀は豪邸に一抱えもあるアンプルを運び、スラム街の元締めらしい男に小分けにされた薬を運んでは帳尻が合うまで数えるのに付き合わされ、徐々に自分の正義感と倫理が摩耗していくのを感じながら、ひたすら自転車を漕いだ。同僚ともろくにしゃべらずひたすら仕事をする、あとは食って寝て親に金を送るだけの日々が続いた。親からたまに届く短いテキストメッセージだけがかつての自分と今の自分を結び付けていた。
そんなとき珍しく薬以外の案件が降ってきた。運ぶ場所はスラムの地下室で運ぶのはメッセンジャーバッグにすっぽり入る小さな機械だった。胴元はこれは「高級品」だからなと桁違いの報酬と違約金をつきつけてきた。失敗したら一年はタダ働きをさせられる額だったが朱雀は乗った。それでこの仕事から抜け出られてまた料理人になるかいったん地元に帰るかできて、にゃこにも会えるなら危険はたいしたリスクではなかった。
そして朱雀がいくつかの困難を乗り越えた先に、旧式のインターホンで身分を名乗って開いた扉、そこから階段を何フロア分も降りてたどり着いたコンクリの部屋に、玄武は今みたいにモニタの前に座って何かをぶつぶつ呟いていて、あのーすいません、と声をかけて振り向いた、その目の胡乱な光で朱雀の運命は変わった。
いつの間にか瞑っていた目を開けると玄武はその時と一分も変わらない杢グレーのスウェットを着て座っている。青白い光に照らされた顔はあの頃より少し肉がそげて大人になったのかやつれたのかわからない。
なあ玄武こんなのよして、その金でオレといっしょにどっか違う国にでも逃げて、一から始めないか。
そう思って朱雀は口には出さず下唇を噛みしめる、朱雀にはその金はないし違う国でどう生きていいかもわからないしそもそも飛行機だって今はよっぽどのVIPでなければ乗れる代物ではない、玄武こそはどこかで、どこでも生きていける才覚の持ち主だけれど玄武にはここから出る意思は毫もない、ここでレトルトのメシを食って毛布にくるまって死なない程度に生きて、片方で世の中を薬で無茶苦茶にしている。玄武。おまえ何がしたいんだ? どうしたいんだ、生きたいのか、生きたくないのか、なんでオレの手の届くところにいる? なあ玄武。
携帯にプッシュ通知が入る。いつもの客からだ。朱雀は立ち上がるとこの部屋に最初から据え付けてあったどこかの会社からかっぱらってきたらしいロッカーの前に立つ。光彩をごまかすための黒コンタクト、指紋を隠すラテックス手袋、グレーのマスクにニット帽、普段は着ないパーカー。自分のスマートフォンで生体認証が機能しないことを確かめてから朱雀は玄武に出かけると告げ、ロッカーの中にあるゴミ袋からアンプルを四つ取り出してポケットにしまった。それからフェイクのためのメッセンジャーバッグを斜めがけにして部屋を出る。鍵をかけて――それは自分の安心のためだけの鍵だ、鉄の錆びついた階段をかんかん降りてから靴を間違えたことに気づき、もうそれはどうでもいいかと思ってそのままチャリにまたがった。
漕ぎだしはのろく、踏み込むたびに加速する。ネオンとブチ切れた配線が青く放電するのとがコミックの効果線みたいにうしろに流れて行く。約束の場所はいつものスラムの出会いカフェ、クレジットは使えないからわずかばかりの現金を持っていて、ペダルを踏みこむたびに腰のあたりでくしゃくしゃ鳴る。うるせえ、そういう音はいらねえ、と片手をハンドルから離してニット帽に隠れた耳を外に出すと人の笑う声やバイクのエンジン、三年くらい前のいまさらの流行歌、遠くのクラクションが一斉に耳に入る。街は眠らないし朱雀にも規則正しい生活はない。ラテックスに遮られてただの腕時計と化したウェアラブルデバイスは深夜二時を知らせている。
三十分ほど自転車を漕いでカフェについたがまだ客はいない。朱雀は一番安いミルクを頼んで店の奥のソファに腰かける。四人掛けの席に一人で座ることを店主は咎めない。朱雀は前世紀の懐古趣味なネオンサインを眺めながら、そこに描かれているヤシの木とかいうやつの本物をいつか玄武と見ることを想像してから、それが生えているらしい浜辺にも海にも自分は縁がなくましてや玄武がそういった場所で日光を浴びて歩き回ることなど今後決してないのだと思う。それは思い込みだが決して外れてはいないだろう。朱雀はポケットからバッグにアンプルをふたつ移して、ミルクから氷を取り出して突き出しのポテトチップスの皿に乗せる、薄まったミルクよりまずいものもそうそうない。
やがてがらんと入口のベルが鳴って客がやってくる。切羽詰まった顔をしているのは昨日すっぽかしたせいだ、朱雀は一応立ち上がって悪かったなと口だけで言って手を突き出す。客は――女は心底疎ましそうな顔をしながら店主にアイスコーヒーと頼んでチケットを差し出す、額面を確認した朱雀はバッグからかわいいエモジの刻印されたアンプルを取り出して女に渡す。
「少ない」
「おまえの額じゃそんなもんだ」
「前はこんなことなかった!」
「今は今、前は前だろ。嫌ならよそから買えよ」
朱雀がうそぶくのに女は歯ぎしりをして、というのも朱雀の扱っている品は最高品質であると朱雀自身に自負があり、まがい物を混ぜて嵩増しをしたりしていないアンプルは実際珍しい。女は黙ってアンプルを受け取ると店主に朱雀の分まで支払って立ち去った。店主はやや遅れてお連れ様の分ですとアイスコーヒーを出してきたが朱雀はブラックは飲めないからそのままにしておく。
朱雀はチケットをボトムのウエストにねじ込むとパーカーを上からかぶせ、残りのミルクをゆっくりすする。あれで女は一日か二日たっぷりトべる、もうちょっと冷静な頭があれば精製水なりを買って一週間くらい柔らかく楽しむことだってできるがたぶんそうはしない。ジャンキーはますます過激になるし先鋭化している、今の女だって一人で使うならただの遊びだが、誰かの前で競うように自分の量を誇示するような使い方をするならそれはパフォーマンスで女の相対している世間でのスコアを示す立派な指数になる。そうして客はうっかり信頼してしまった相手に朱雀の存在を口を滑らせて、朱雀の客はしっかり増える。朱雀は古い言葉で言えば個人事業主だから客の数やら儲けを「親」に報告する必要もない。ある日朱雀があっさり死ねばそいつらはみんな路頭に迷って次の良質なプッシャーに巡り合えるまで禁断症状と戦い続けるしかない。断薬のための施設に駆け込むなんてそんなダサいことはできない、彼らの価値観では。
朱雀はふうと息を吐きまだポケットに残っているアンプルふたつを指でまさぐる。エモジのウィンクが盛り上がっているのが感じ取れる。これだけ投与したって朱雀には何にもならない、尿に多少の兆候が出るだけでぶっ飛べもしない、玄武の作っている、そして誰かが流通させている「本体」のほうがキモなのだ、朱雀は消耗品を継ぎ足す業者でしかないしそれ以上になる気もない。朱雀は立ち上がると溶けた氷でふにゃふにゃになったポテトチップスの皿とグラスふたつをカウンターに返し、店主に会釈をして店を出る。チャリは幸い誰にも盗られておらず、朱雀は行きと同じペダルを漕いで家に戻る。違う道を通って大いに迂回し信号ではきちんと止まるがなるべくまぶたを開かないようにする、コンタクトレンズの作る誰でもない光彩はあちらさんのデータベースがアップデートされるたびに死ぬから朱雀はコンタクト屋に少なくない金を支払って安全なパターンを手に入れている。
信号が青になると排気の基準を満たさないおんぼろ車の粉塵くさいぬるまったガスがわっと顔にかかる、朱雀は顔をしかめながら地面から足を離してチャリを漕ぎ始める。交差点を九十度曲がってあらぬ方向に足を向け、もとは大学だった今は無宿人たちがたむろしているだだっ広い空間を走り抜ける。大学には自治権があるからセンサーが少ないと玄武が言っていたがそれはいったいいつの情報だろうか。思いながらキャンパスを斜めに横断して自宅の方角に向かう。いい加減夜も遅いし朱雀のような木っ端のプッシャーのあとなんて誰もつけていないことを承知しながら念には念を入れるのは玄武が家にいるからだ。
そうして戻った部屋で玄武はまだぐるぐる紙にペンを走らせていた。帰ったぜとだけ言い捨てて朱雀はマスクを外しキャップを脱ぐとチケットを引っ張り出して口座にアクセスする、長ったらしい暗証キーを打ち込んでいくつかの認証をクリアすると残高が表示される。朱雀はそこに受け取ったチケットに書かれたコードを打ち込み送信すると数字が増える。数万だけの取引だ、目立たないしとくにアラートも出ていない、安心してログアウトすると手袋とコンタクトレンズをゴミ箱に捨てる。その口座はチケットのコードに紐づいたデータをすべて切り捨てて新しく最初のチェーンを結び付けてくれる魔法の口座だ、信頼はどこが担保してくれているのか知らないがクレジットの発行元は巨大ファンドになっている。朱雀はその口座からまた少しずつメインバンクに金を移してキレイな金を作り出しているが、その送金ルートを抑えられたら一巻の終わりなのもわかっている。故郷の親父とオフクロにだけは迷惑かけたくねえな、と朱雀はいつの間にかこわばっていた肩首をぐるぐる回しながら思う。
ロッカーを開けてアンプルを戻す。ざっくりと差し入れた手でかき回した中にはおおよそ二ヶ月はしのいでいけるだけの量がある、だがそれでも稼ぎは減った。玄武が効率をよくしたせいで。そのうちコレだけじゃ食っていけなくなる日が来るかもしれない、その時玄武はまだ朱雀に「本体」は扱うなと言うだろうか。指先だけ染めるのか手首まで浸かるのか、色素の残り方に違いはあれど罪は罪で朱雀も玄武も間違いなく天国には行けない。なら現世でしっかり食って寝て遊ぶために金を儲けたいと思うのは悪いことか。朱雀は袋の中をまさぐって指先に触れるたくさんのエモジの凹凸に神経をいたぶられる。いや本当は「本体」を扱わなくても、朱雀自身がアンプルを売って歩かなくても、玄武は金を持っているし生活のために出してだってくれるはずなのだ。朱雀が頼めば玄武は嫌とは言わないだろう、今だって赤字の分は補填してくれている。その割合が半分より多くなったってほとんどになったって玄武は絶対に嫌とは言わないだろ。そうしないのは朱雀が単純に嫌だからだ、玄武が薬を作って手に入れた金で自分と玄武が食っていくのが心底嫌だ。朱雀が稼いだ金だってどれだけロンダリングしたって自分が知っている染みは消えやしないのに、玄武が誰かを追い込んで搾り取った金は使いたくなくてプッシャーをやって稼いだ金を使っている、別に何の差もない、本質的には。朱雀も玄武もひとしくおなじく人々を苦しめている。ハッピーを届けるサンタクロースにもイースターエッグを隠す大人にもなれなかった。
ぴっぴーと電子音が鳴る、振り向くと玄武がのろのろと立ち上がって乾燥機付きの洗濯機からいつもの杢グレーのスウェットを取り出している。今日は上下で三揃い洗ったらしい。玄武は壁に備え付けのフックに洗濯紐を張り、ハンガーにスウェットをかけるがその裾からはまだ水滴がしたたっている。
「何分かけた」
「五分」
「足りねえだろ、この湿気で」
「……三分追加する」
玄武はそう言って洗濯機にスウェットを突っ込むとタイマーをセットして回し始めた。最初は静かなモーター音が勢いが増すごとにうるさくなり、がたがたと機械自体が震えはじめて響く。階下の住人はもう慣れっこになっているのかいつ洗濯機を回そうと文句は言ってこないが、スウェットの水が天井から染みてきたらさすがに何か言われるだろう。朱雀は立ち上がって洗濯機をいったん止め、十分に設定して再スタートさせた。
「おい」
「んだよ」
「電気代」
「おまえが気にすることか」
「……まあそうか」
玄武はふっと気が抜けたように言葉尻を和らげて、またモニタの前の椅子に腰かけた。それからいつか見せられた脳のホログラムが投影機によって呼び出される。
「今から話すことは俺が頭を整理するための話だから理解しなくていい」
「おう」
「前回のアップデートでだいぶ効率的に成分を使えるようになった。ピン打ちの仕方も――たとえば磁石を打ち込んだみてえにして、分子構造物を引き寄せるのもうまくいった。だがこれには限界がある」
脳の下のほうがぼんやり桃色に染まり、一点に濃いピンクがにじむ。玄武がすいすいとジェスチャをすると二つ目の脳が現れる。
「結局一つの脳でできることには限界があるんだ。人間の生物的な快感は天井がある、お前欲望の三角形って知ってるか」
「知ってると思うか」
「人間の欲望は本質的にミラーリングされたものである、つまり欲望の対象Aを希求するのは自分ではない人間BがAを希求するからであって人間Bが不在の場合実は自分は対象Aについては欲望を持たない可能性があるっていう話だ。説自体はもう化石に等しいが化石にも使える化石とそうじゃねえ化石があってこれは前者だ、しっかり脳の性質を汲み取ってる」
「……人が持ってるとうらやましくなる、みてえなことかよ」
「そうだな」
玄武はぱちんとキーボードのエンターキーを叩く。朱雀は話が長くなりそうだと思ってソファに腰かける。玄武は気にせずに今度は十二に増えた脳をひょいひょいと指でつないだ。薄暗がりでホロの光を反射して光る爪の軌跡がそのまま残る。
「というわけで新案だ、脳と脳を繋げて快感の状態を競わせる。使うのは4Gの廃れた帯域だ、今はもう誰も管理しちゃいねえがそれなりに速度は出る。繋げた脳には特定の部位の電位を測って比べるだけの簡単な仕組みを打ち込む。そうすると脳味噌は焦るわけだ、自分よりより快感を得ている脳がある、あるいは自分が一番なのに追いつかれそうになる――シチュエーションはどうでもいいが、それで絶え間なく脳は刺激を欲しがるようになる、もちろん耐性がつくから使用量も増える。今度はお前の商売のほうにも悪いことはないはずだ」
一気にそれだけ話すと玄武はどこかをいじってホログラムを消した。モニタに青白く照らされる横顔が急に朱雀の視界に飛び込んでくる。朱雀は言われたことを噛み砕き脳に言い含めながら整理する。脳を繋げる。常に比べさせる。焦らせる。店で女が目を剥いて「少ない」と言っていた顔がよぎる。
「……脳味噌つなげて、足はつかねえのかよ」
「足がついて俺たちを捕まえるのは誰だ? もう警察も刑務所も裁判所も『ねえ』んだ。ああそれともあいつらが俺たちのことを気にするってことか?」
玄武はいくつかの企業の名前を挙げた、どこもインフラを整備してこの国中にネットワークを張り巡らせている。この国でふつうに暮らしていくならそれらの企業のどこかと契約して世界とつながる必要がある。朱雀の携帯も玄武のマシンもそういう意味では「繋がっている」。
「オフレコだが、これは黙認されてる。べつにあいつらにとっちゃネットワークがどう使われてようとかまいやしねえんだ。ただ利鞘が稼げねえ話には食いついてきて脅しをかけるだけでな。俺たちは――っつうのは出資者と俺のことだが、ちゃんと話を通した。『本体』の売り上げ――今回は買い切りじゃねえ、アカウントに紐づけて毎月いただく金の何割かを上納する。それで各社とも話がついてる。あちらさんだってメインの戦場の帯域じゃねえ、義務的に維持してた回線で儲かるんだ、それでOKが出た」
「じゃあ、あいつらはクスリがバラまかれてもなんも言わねえってことか」
「そうだ。お前ももう少しおおっぴらに商売ができるようになるんじゃねえか。銀行のほうはさすがに声かけてねえから資金洗浄は必要だが」
「……それってよお、『最悪』じゃねえのか」
朱雀が枯れた喉からひねり出した一言に、玄武はしれっとうなずいた。
「そうだ」