蝉しぐれ

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 東と西では鳴く蝉が違うという。玄武は自然の変化にはうといほうでそれには気づかなかったが、横浜に引っ越してきてアオスジアゲハが少ないことには驚いた。ユズやカラタチや夏みかんの樹にあつまるのはもっぱらナミアゲハで、あの翅に人工塗料のような青水色が走るアゲハはめったに見ない。それを朱雀に言ったら、朱雀は北海道のアゲハは真っ黒なのだと言った。
「夏によお、植え込みとかにすげー集まるんだよ。20とか30、それくらいいる。マジで真っ黒で、普通のちょうちょみてえな模様とかねえんだ。あとでけえ。ガキのころとか、襲われるみてえで怖かったぜ」
 ヒッチコックの「鳥」みたいだと言うとその本は読んだことねえ、と返ってくる。一度名画を徹底的に見せる会でも開くべきか、と思いながら真っ黒な蝶たちに襲われるちいさいあかいすざくを想像すると口角が自然と上がる。
「なにニヤニヤしてんだよ、やらしーな」
「やらしかねえだろ」
「やらしくなくてもやらしーっつうんだよこういう時は」
 応酬はすぐに終わって、蒸した部屋には扇風機のモーター音と壊れかけた首振り機構ががたつく音が響く。クーラーは32度を超えるまではつけないのが玄武の流儀で、部屋の時計兼温度計兼湿度計が31.5度、70%を示しているあいだはリモコンは玄武の支配下にある。朱雀は家から着てきた濡れそぼったTシャツをとっくに脱ぎ捨てて代わりに玄武のタンクトップを勝手に引っ張り出して着ている。体の厚みが違うからはちきれそうになっているそのわずかな布に首筋から汗が垂れて染みを作る。襟足の毛は咲が配り歩いているシュシュで結ばれているが、水分を含んで軽さとは程遠い。
 じゃわじゃわじゃわと鳴き声を無理にオノマトペにすればそういうことになる。アパートの側に立つ大樹にはおそらく百の単位で蝉がくっついていて、それぞれに微妙に違った鳴き声をあげながら短い夏を足早に駆け抜ける。
「蝉は、あれは恋のうただったか?」
「しらねー。鈴虫はそうだぜ。声がいいほうがいい男なんだ。あとコオロギとか、秋の虫はみんなそうだ」
「蝉は……知らねえか」
 スマホに蝉 鳴き声 意味と打ち込むとグーグルはすぐにこども科学110番のサイトをサジェストしてくれる。
「ミンミンゼミは鳴いた後飛び立つ。アブラゼミはとどまる。どちらもメスに自分の居場所を教えるために鳴く」
 要約すると朱雀は一瞬へえという顔をしたがすぐに暑さが勝ったような表情になり火照った頬に汗を滴らせながらぱたぱたと顔を扇ぐ。
「クーラー、クーラーつけてくれえ」
「32度って言ってるだろ」
「テレビで言ってたぞ、適切な温度管理と水分補給をココロがけましょうって!」
 膨れる朱雀に玄武は立ち上がって玄関に行き、積んであるアクエリアスの箱から2リットルのペットボトルを取り出して朱雀の眼前にどすんと置く。
「ぬるいじゃねえか!」
「腹ぁ冷やすだろうが」
「嫌だ、冷蔵庫入れるぞこれ」
 朱雀はそう言って冷蔵庫を開けてげえ、と露骨に声を出すその理由は玄武にはわかっている。
「悪いが今日もそうめんだ」
 馬鹿でかいガラスのボウルの中には4人前のそうめんがたゆたっていてそこにありったけの氷が放り込まれ、扉のドリンクホルダーはめんつゆと麦茶と経口補水液でいっぱいだから朱雀がアクエリアスを冷やす隙間はどこにもない。
「はー、オレ、きのうもおとといもそうめん食った気がすんだけどなぁ!?」
「お前の家からお中元でいただいたんだ、お前に還元する義務がある」
 白木の箱が宅配便で届いたのはつい先週のことで涼しげな風景の絵葉書の裏に「いつもバカ息子が世話になってありがとうございます」と古めの丸文字で紅井母の名前が添えられていた。バカ息子の食うぶんの金は別におりにつけもらっているので申し訳ないと電話をすると彼女は呵々大笑しながらあいつ家だとそうめんしか出ないから玄武くんち行くっていうんだよ、だからそうめん食わせてやってよね。と言った。なので玄武はここ数日ひたすらそうめんを出し続けているが、昨日は担々麺風、おとといはしそをジェノベーゼ風に仕立てたソースと目先は変えているので朱雀に文句を言われる筋合いはない。今日は素直にめんつゆ味だがそれもちゃんとかつおだしをひいてつくっためんつゆだ。
 じゃわじゃわじゃわと窓の外で鳴く蝉にせきたてられるようにちゃぶ台にボウルをそのまま載せてふたりでそうめんをすすった。朱雀は食い始めればうまいうまいと言ってごま油をからめた蒸し茄子に千切りにしたきゅうりとハムも4分の3は自分の胃の腑におさめた。
 部屋にいるのに蝉の声は降りそそぐようでこれに「しぐれ」という言葉をあてた古人の感性はなるほどと思わせる。「しぐれ」は本来は冬の季語で遅い秋から降り始めるにわか雨のことをさす。その雨はいくつかの辞書をあたれば「ぽつぽつと」とか「降ったりやんだりする」とか表現されており、こんなふうに絶え間なく降りしきるものではないようだがいっぽうで冬に及ぼうとする雨が呼ぶ気候の厳しさのようなものは「しぐれ」の音に似合わず蝉の声と似るところもある、と玄武は茄子の残りで皿の油をぬぐう。
 対面の朱雀はひとつかみはあろうかというそうめんを大口を開けてかっ食らっている。そのこめかみからたらりとまた汗が垂れて麦茶のグラスが残した輪染みに落ちる。首回りにはペンダントのチェーンがやや乱れてかかっており汗かもともとの金属の光沢かわからない艶が頭が動くごとにぎらぎらと煌めいて網膜が痛い。
 そうめんを食い終わって流しに皿を運んだところで朱雀が嬉しそうに32.3度になったことを知らせてきた。玄武もあきらめて流しの小窓と玄関の脇の不用心な窓を閉め、朱雀はベランダにむかう掃き出し窓をきっちり締め切ってから玄武の席に置かれていたリモコンのボタンを勢いよく押した。前の住人以前からあるらしい古いエアコンがうなりをあげてぬるい風を吐き出しはじめやがてそれが冷風になるのを朱雀は送風口のすぐ下で、玄武はそこから少し離れたベッドの上で待つ。さっきまで盛んに聞こえていた蝉の声はガラス窓一枚隔てた瞬間にくぐもった葉擦れのような音に変質してもはやその用を足さなくなっている。
 そよそよと冷ややかな風が流れはじめ、扇風機は天井あたりにとどまった熱を対流させて部屋を冷やし、朱雀は少しでも涼を得ようと床に寝転がり始める。
「おい、今日掃除機かけてねえから」
「いーっていーって」
「……汗と埃を掃除するのは俺なんだが」
「あとでクイックルかけるからよ」
   朱雀はそう言って張った襟ぐりをぱちんとはじいて腹のほうに冷気を送り、くー、これだぜえとごろごろと転がる。露出した肌が触れたあたりに湿気のあとが曇って残るのを見た玄武は絶対に掃除が終わるまで帰さないことを心に決めながらようやく自分のあたりにまで流れ込み始めた冷えた空気に目を閉じた。感じてからは体が冷えるのはあっという間でいつの間にか濡れそぼっていたもみあげのあたりや痩せた背中の肩甲骨の間、それに腰骨のでっぱった部分に寒気を感じ、弛緩した朱雀の手からリモコンをとってみると設定温度が18度になっている。
「馬鹿か、肉売り場じゃねえんだぞ」
「オレぁ肉だ! 生肉だ! 冷やしてくれ!」
 寝ころんだままだらしなく叫ぶ朱雀を無視してお国推奨の28度に戻す。ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴと電子音が10回鳴るのに朱雀は眉をひそめてうるせーぞそれと吐き捨てた。玄武は言い返すのも馬鹿らしくなって朱雀にリモコンを放りちゃぶ台の上で汗をかいたグラスのぬるくなった麦茶を飲み干す。体温より少し低めの液体が喉食道胃へと流れるのがわかるこの感覚は気持ちがいい。「あれ」にすこし似ている。寒暖差にだるくなった体を持ち上げるのも面倒になり足先で朱雀の背をつつくと朱雀はごろりとこちらに汗ばんだ額を向けてアイス食おうぜと言う。
「食うばっかりかお前は」
「育ち盛りだからな」
「ほう、何センチ伸びた」
「おめーこそ何キロ増えたんだよ」
「あ?」
「おーおー、やるか?」
 言いながらふたりとも取っ組み合う元気も水分も残っておらず仕方ないので朱雀は半身を起こしてふたりぶんの殻になったグラスにクーラーで申し訳程度に冷えたアクエリアスを注ぎ、2杯ずつ空けたところでばちりと視線が合う。朱雀のぴんと張ったまつげは汗で束になっていて通った鼻筋には液体の流れたあとがあり下唇のしたの窪みには玉になった汗がいくつか浮かんでいる。
「……みーんみーん」
「は?」
「蝉」
「あ?」
「……いや、あっちーなって」
「汗まみれだぞ、顔洗ってこい」
 言いながら玄武の手は朱雀の着ているタンクトップの胸元を乱暴につかんで引き寄せ唇が重なりそれは混じりけのない塩味がしてアクエリアスはいったいどこ行ったんだと玄武は顔をしかめながら舌を伸ばすと口腔は風邪でもひいたように熱い。耳をくすぐる冷風と遠いところでまだじゃわじゃわ鳴いている蝉の声とクーラーのモーター音に扇風機のガタつき、それらを吹っ飛ばして舌に鮮やかなつるつるの歯とざらつく舌、朱雀のようやく慣れてきた呼吸音と汗の匂い、シーブリーズの名残り、遠い人口甘味料、脳が茹だって帰れなくなるのを玄武は知る。
「……暑い」
「だろ」
「それでも蝉の真似はしねえ」
 朱雀は照れくさそうに笑うとまだ汗でべとべとの腕を玄武の濡れそぼったうぶ毛が冷えはじめた首筋に回す。子犬のように顔をすりつけてくる肌の間には乾燥しはじめた汗しかないはずなのに磁力が働いているかのように離れがたく玄武は目を閉じて嗅覚と聴覚に意識を集中させ、物足りないと口の中でふくらむ舌をなだめながら髪がこすれて立てるしゃりしゃりした音や蒸された空気のいがらっぽい匂いを堪能する。電気は静かに部屋を冷やし閉じ切ったガラス窓は直射日光でじりじりと灼け、日向にはみ出した足がレースのカーテンの甲斐なく日焼けしていくのを感じながら玄武は朱雀と床に一緒になって寝転んでべたつく肌をくっつけては離し、途中で朱雀が玄武の眼鏡をはずしてちゃぶ台の上に器用に置いたのをきっかけに額を合わせてひそひそ話をするように小声で文句をささやき合う。窓の外では蝉がじゃわじゃわじーじーそれぞれに声を限りに鳴き叫びやむ気配はない。
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