その夜紅井は静まった庁内でひとりで仕事を片付けていた。例の爆発騒ぎから一週間。黒野の要請に応えて庁内のかなりの人数を動かした紅井は、薬物流通の大元を断てたと、本来黒野が受け取るべきのぶんの賞賛と、相応の紙仕事を受け取った。昼間は別の仕事で外を駆けずり回っているので、自然と机に向かうのは夜になる。冷え込む時期ではないからいいものの、机の下の足はじわじわ冷えて固まりつつある。紅井は行儀の悪さは承知で靴紐を解き、足をブーツから引っこ抜く。強張った指を動かしてほぐしながら、空いた左手でくるぶしの辺りをさする。質の悪い綿の靴下が摩擦でじんわり温まってようやく人心地がつく。
黒野が決めた解決法は衛生局にも消防庁にも良くは思われない筋書きで、その煽りをモロに受けたのが紅井だ。日々損壊した建物の賠償をどうするだ、煤煙で真っ黒になった周囲の清掃をどうするだ、おおよそ警察官とは思えない書類に向き合い、相棒が起こした爆発をヤクの売人どものせいにする物語を書き続けている。齟齬があれば上長からすぐに書き直しを命じられるので、今書いている書類ももう三度目になる。冒頭は諳んじられるくらいには書き飽きた。紅井はがりがりとペン先で紙の表面を削りながら書き進める。容疑者乙は、爆発物を、捜査の妨害のために、倉庫に保管しており。時計がぼーんと半時を知らせて、凝り固まった肩に手をやりながら仰ぎ見ると二二時半を回っている。朝から歩き通し、昼飯もろくに食わずにこの時間まで粘った。集中力が全身から失せるのを感じ、今日はもう無理だと自分に言い訳をする。書き途中の文章を句点まで終えて、紅井はペン先を拭った。
脱いでいた外套を着込んで柱にかけられている鏡で襟袖を正し、もう一度机に向き直る。提出書類を手早くまとめて課長の机に置き、明日片付ける予定の書類を紙挟みに挟んで立てかける。とそこへ賑やかな声が廊下から聞こえてきた。大概そういう騒ぎ声は呑んで帰ってきた先輩刑事たちがあげると相場が決まっていて、自然と紅井の顔は嫌気で歪む。せっかく帰る支度を整えたのにと思いながら、相棒の目があるおかげで連れ出されこそはしない自分の身の上は、同期の刑事たちと比べていくらか楽だとも考える。黙って机の整理に集中しようと書類棚に手を伸ばした瞬間、背後からヤジのように声が飛ぶ。
「お前ら、外れるからな」
振り向くと明らかに酒精で顔を赤くした先輩がへらへらと笑いながら立っている。黒野ならだらしねえ連中だと顔をしかめるところだが、それどころではない。今なんて、と問いただす紅井に先輩刑事はますます笑みを深めながら答える。
「義賊の件だ。お前らは外れる」
「なん、なんでだよ」
「知らねえよ、上が旨い汁吸わせたい奴らがいるんだろ。あいつにも言っとけよ、全部無駄になりました、ってな」
「ふざけんな、そんな――そんな勝手が」
「オレに言ったって意味ねえぞ、オレは聞いただけだからな。それをいち早く伝えてやった、ありがたく思われてもいいんじゃねえか?」
先輩刑事はそう言ってヒャヒャ、と笑いながら部屋を出て行く。紅井はそれを呆然と見送った。それから身の回りの品を引っ掴む。とにかく、黒野に伝えなければならなかった。と、足元で猫の鳴き声がする。見おろすと愛猫がもう帰るのかとブーツに顔を擦り寄せている。この急ぎの時に、とも思うが黒野の元へは連れて行けない。紅井は慌てて宿直室に飛び込む。幸い不寝番が気前よくクッションを貸し出してくれた。紅井は席に戻ると硬い椅子にクッションを敷き、にゃこをそっと持ち上げて座面に置く。しばらく飼い主の顔を見ていた賢い猫は合点したようで、丸くなり寝に入った。ほっとして紅井は庁舎を出る。その途中、廊下のどこかで笑い声が聞こえた。無性に腹が立って仕方がなかった。
紅井は街路に出るとまっすぐ黒野の下宿へ向かった。例のごとく寮の図書館で調べ物に没頭している可能性もなくはなかったが、最終的に帰ってくる場所でとにかく待つのが得策だと思ったのだ。通りすがったパブからは光が溢れ、陽気なダンスのための小曲が流れてくる。猫柳はまたどこぞの店で占い屋を構えていないとも限らない。一度は黒野に習って密偵でも放つべきかとも思ったが、ヒラ刑事の稼ぎではままならなかった。そもそも黒野は義賊を明白に敵と捉えていたわけではないと紅井は踏んでいる。彼らが貧民に還元しようとした、権力者たちの些細な利鞘稼ぎをオープンにすること、つまり国家の腐敗をつまびらかにすることこそが目的だ。暴露の筋道を乱すからこそ、黒野は義賊に怒りを抱いた。それは義憤、とは言いづらい。むしろ用心するべきなのはこれからだった。さっき同僚が言っていたように捜査から外されるとなれば、黒野の負の激烈な感情は上層部に向かわないとも限らない。ただでさえ独りよがりと批判されがちな黒野が直接部に牙を向けば、無事でいられるものか。理由の知れない黒野の情熱をそれでも尊重したい紅井は、彼の怒りを自分が受け止めてでも、とにかく発散させねばならなかった。
黒野の下宿は中流階級の暮らす街並みの一角にあった。聞き覚えていた番地をもう一度確かめて、紅井はドアノッカーを鳴らす。しばらくしてはい、と澄んだ声がして扉が開いた。現れたのは品のいい中年の夫人だった。大家の未亡人というのはこの人だろうと算段をつけて紅井は襟を正す。
「遅くにすまねえ、玄武戻ってますか」
「いらっしゃいますよ、お名前は」
「その……部下、の紅井と、」
「ああ紅井……朱雀さん、ええ、戻られてますよ。お呼びしてきますから待っていてくださいますか」
夫人は微笑んで奥へ向かおうとする。
「あ、いや、長くなるんで部屋に……」
「おばさん、どうしたんだい」
階上から存外にぼんやりした声が響いて夫人と紅井は一斉に上を向く。降りてくる長身はゆったりした白い部屋着に身を包んでいる。ランプの明かりに照らされた滑らかな生地は薄く光を放つように艶めいて、黒野の肌を生気のあるものに演出した。黒野本人も勤務中の険のある雰囲気が少しほぐれて、寮で見るものとはまた違った寛いだ様子に見える。こんな顔をするのか、と思った瞬間、黒野の目が紅井に留まり、語気が強まる。
「どうした」
「急ぎの、内緒の話がある」
そう言い切ってから紅井は夫人をちらりと見た。黒野はそうかと呟くと、顎周りを二、三度触ってから夫人に向き直った。
「夜分にすまねえがあがらせてくれ。何も構わなくていい、ああ、茶もいらねえ」
黒野はそう言って階段を登っていく。絨毯敷きの上を室内履きで歩くから普段のように踵の音がしない。静かに歩く黒野も初めてだと思いながら紅井は後を追う。黒野の自室は三階の屋根裏部屋だった。聞くと二階までが大家の居住空間らしい。黒野は弱められていたガスの灯りの絞りを解放して火を強め、紅井に椅子を勧めた。うしろへ引くとがたんと思ったより大きな音がして紅井は焦る。が、階下は静まり返ったままだった。黒野は素知らぬ顔で葉巻に火をつけると深く煙を吸い、紅井を促した。
「玄武、絶対に怒鳴らないで聞け」
「何がだ、仰々しい」
「オレたち、猫柳の事件から外される」
瞬間黒野の瞳孔がきゅっと小さくなり、灰色の光彩がランプの光にギラリと光った。眉根が寄り、頬の筋肉に力が入る。解せないという表情を隠さずに、黒野は葉巻を咥えたまま紅井に顔を寄せる。
「どういうことだ?」
「知らねえ、さっき先輩が上がそう決めたって言ってきて、だからまだマジかはわかんねえんだけどよ」
紅井はそこまで言ってからなんの裏取りもせずにここまで来てしまったことに気づく。あくまで噂話の段階だ。黒野にとって価値のある情報ではないかも知れない。思った瞬間背筋が冷える。いまだ隠されている黒野のプライベートに軽々と土足で踏み込んでしまった。焦りながら噂なんだ、と言葉を継ごうとした紅井に、意外にも黒野はゆっくり微笑んだ。
「お前に言ってきたのは俺に伝わっても構わねえからだ。ってことはマジだろうな。……そうか。知らせてくれて助かった、遠くまですまねえな」
そう言いながらまだ吸いかけの葉巻を灰皿で潰す指には力が入っている。その怒りが自分へ向けたものでないと分かってからも、なお紅井の焦燥は止まない。黒野が静かでいるのは、たいてい怒鳴り声を上げているよりよほど多量の怒りや反感を孕んでいるからだ。黒野は紅井から視線を反らして口の中で何か呟いている。それがとんでもない策の算段でないことを祈りながら紅井は視線をこちらへ誘導するように言う。
「どうすんだよ」
純粋な質問というよりは牽制だった。黒野玄武という男をひとりにしているとろくなことがないということを紅井はこの間の件できっちりと学習した。連座という仕組みがどれだけ彼の思考に歯止めをかけるのかはわからないが、それでも単騎特攻させるよりはいくらかましだろうと思った。だが黒野の返答は意外なものだった。
「どうにもならねえさ、こういうのは。強いて言うなら正攻法だな、明日部長に掛け合う」
は、と口を開けた紅井に黒野はごく自然な笑みに似た、やるせないような表情を浮かべて言う。
「心配するな、うまくいくなんて欠片も思ってねえ。だいたい俺は寝技は苦手なほうだ。反抗の意思だけ見せるが精々だな」
目元を歪めて言い終えた黒野はふと気づいたような顔で紅井を見た。
「泊まっていくか。今から寮に戻るのは大変だろ。ベッドは俺ひとりでいっぱいだが、ソファなら空いてる」
黒野はそう言うと紅井の返事も聞かずにクロゼットを開いて中から夏向きらしいリネンを取り出した。質の良さそうなソファにシーツをかけ、黒野の手がはみ出した部分を整えると、寮のものより余程寝心地が良さそうなベッドが出来上がる。あっという間の手際に紅井が呆然としている間にも、黒野はクッションを枕のように設え、自分のベッドから毛布を剥ぎ取ると急ごしらえの寝台にかける。それから廊下に出て行き、扉の外からは、階下に客人が泊まることを伝える声が聞こえた。紅井は着っぱなしだった外套を脱いで小さなテーブルの上に置く。戻ってきた黒野はその外套をハンガーにかけて部屋の長押にかけた。
「にゃこはどうした」
「ああ、机に置いてきた」
「いいのか」
あいつは慣れてる、と答えると黒野はそうかと興味を失くしたように呟いた。と同時にこんこんとノックの音がする。応対しようとした紅井を制して黒野が席を立ち、扉を開けると盆を持った夫人が立っている。その上には小さな両手鍋とスープ皿が二枚載っていた。
「ご不要かもしれないけれど、おなかが空いておいででしょう」
そう言って微笑んだ彼女は紅井の目の前の机に盆ごとを置いて部屋を辞した。黒野が食え、と進めるのでふたを開ける。途端に煮込み野菜の良い香りが広がった。ありものだろうスープは崩れた野菜で少しだけ濁っている。入っていた玉杓子で芋やニンジン、ブロッコリー、芽キャベツを皿に注ぐ。添えられた木の匙で大雑把にスープをすくって啜った。じわりと温かい液体が胃の腑に流れ、塩気が舌を刺激する。急に空腹を自覚した。そういえば昼から何も食べていなかったのだ。大口を開けて野菜をぱくつく紅井を見て、黒野は全部食っていい、と呆れたように言った。その言葉に甘えてお代わりを注ぐ。黒野は無言でその様子を眺めてくる。
「そんなよぉ、見られてっと食いにくいぜ」
「とてもそんな風にゃ見えねえがな」
黒野は面白そうに頬を歪めると視線をついと宙へ投げた。紅井はあらかたの具を食い尽くして、さらにスープを皿にすくった。相棒となって十ヶ月が経とうというのに、黒野が何を考えているかはいまだにちっともわからない。黒野は頭が良すぎるし、紅井は先回りをするにはどうにも鈍い。黒野の眼がぼうっとどこかを眺めている間も、その頭は何かを考えて無限の可能性を削り殺そうとしている。同じやり方ではだめだと紅井は思う。黒野を見て、とにかく見続けて、なにか異変があったら問い質す。それを繰り返すことで黒野の考えに、あるいは見ているものに近づけるかもしれない。黒野はゆったりした夜着をまとった脚を組み替えて、煙草箱から二本目の葉巻を取り出そうとし、しかしその手を引っ込めた。
紅井が鍋の中身を完食したと知って、夫人は喜ぶより不足を心配した。紅井はその思いに感謝しながら、明日の朝飯は外で食いますから、どうか心配しないでくださいと告げる。黒野と中年の夫人ふたりぶんの買い置きを食い散らかすほどの不調法にはなりたくなかった。夫人が勧めるので紅井は風呂を借りることにした。火傷しない程度に温めた湯をバケツに三杯借りて、バスタブの中で石鹸の泡で身体を擦る。疲れた体に温かい湯が心地よかった。と同時にあの気難しい――少なくとも業務の上では神経質なほどにきっちりとした黒野が、未亡人の思いやりの中で暮らしていることを不思議に思った。もっと無機質な家主と暮らしているとばかり思い込んでいた。
湯上りにバスローブ――未亡人が嫌ではなければと貸してくれた亡き家長のものを借りて、紅井は黒野の部屋へ戻る。黒野は窓際に椅子を移動させ、小さなグラスに小指の幅ほどブランデーを注いでささやかな晩酌をしていた。紅井の濡れそぼった襟足に顔を顰めると箪笥からよく洗われたタオルを取り出して放ってくる。受け止めた紅井は首の後ろを拭いながら、おまえ、いい家に下宿してんな、と素直に感想を述べた。黒野は笑って家賃はそれなりにするがな、とまぜっかえす。そしてブランデーを飲み干すとグラスを出窓に置き、煙草箱の脇の箱から長煙管を取り出した。
「おまえ、それ」
「赤ん坊の指しゃぶりみてえなもんだ、気にするな」
黒野は煙管を咥えると机の引き出しから黒ずんだ欠片を取り出して火皿に落とす。マッチを擦ると黒野の青白い手が橙色に照らされた。点いた火が阿片を燻して、煙管からはゆっくりと煙が立ち上る。
「……そう嫌そうな顔をすんじゃねえ。お前に片付けさせてるアレだって、使用者の側からの情報も欠かせなかったんだ。見逃せよ」
黒野は苦笑いしながら、葉巻を吸うときと同じように深く煙を肺に入れる。紅井は阿片喫煙の現場を見るのは初めてだ。吸い始めの黒野の様子にさしたる変化はなく、目はいつものように怜悧に紅井を見据えている。
「せめて酒にするとかよ、そういうんじゃダメなのかよ」
「酒は眠る前に臓物が壊れる」
だから少しだけにしているだろう、と黒野は笑って煙管をまた吸った。黒野の薄い唇が開いて煙が流れ出す。窓から差し込む月の光で煙はより一層白くなり、黒野の濃色の髪によく映えた。それは黒野の周りに淀むように溜まり、白い夜着を幻想的にぼかしては流れて消えてゆく。黒野は煙の中心で煙管を繊細なガラス細工のように弄んでは、本人がまさしく例えたように赤子が乳を求めるごとく何度も口にした。伏せられた瞼からちらちらと覗く黒野の目はどこまでも正気で、阿片窟に持つ薄汚い印象が冴えた横顔でかき消されかけるのを紅井はどうにか押しとどめる。光景がどんなに美しかろうと黒野の身体はそれに蝕まれている。勢い込んでぎっと睨むと黒野は苦笑して煙管を唇から離した。
「大丈夫だ。もうやめるさ」
そう言って黒野は灰皿に雁首を叩きつけ、まだ煙を立てている黒い欠片に水差しでそっと水をかけた。わずかに残る煙は黒野が身じろぎをするたびに薄れて消えた。それですべては終わりだった。一向に眠たげに見えない黒野の瞳を見つめると苦笑いが返ってくる。もう寝ろ、とささやくように黒野が言って、紅井は大人しく即席のベッドに寝転がる。寝心地は悪くなく、二、三度身体を動かすとちょうどよくなった。黒野はカーテンを閉めると自分のベッドに腰を掛ける。なにか手元で書きつけている音がした。薄暗闇でもあの目は見えるのだとぼんやりと思う。
今日は長い一日だった。そして明日もきっと長い。紅井は積み残しの書類のことを考えてうんざりする。頭を切り替えて、明日の朝、黒野と共にする朝食のことを考えた。黒野の張り巡らせた蜘蛛糸のようなネットワークのどこかに、明日も辿りつけるはずだった。それと、明日の朝になれば部屋着の穏やかな黒野があのよく研がれた刃物のような警部殿に化ける場面を見られる、そう思うと子供の時分のように明日が楽しみになり、紅井は寝返りを打つ。そして黒野のベッドに目を向けてはっとする。
黒野の灰色の目が爛々と光を湛えているのを紅井は見る。視線は天井から壁を彷徨い、ちらりと紅井を見てまた逸れる。瞬きはほとんどなく、この暖かい家の中で、黒野は周囲を警戒し続ける野良猫のようだった。紅井は見るに耐えかねてまた寝返りを打つ。漆喰の壁が月光を受けて微妙な陰影を描いていた。阿片も酒も助けにならない黒野の抱え込んだ秘密の一端に、心の準備なく触れてしまった。そんな気がした。紅井は頭を抱え込むように丸まって眠ろうとして、その後まんじりとしない夜を過ごした。