スチームパンクパロディ

幻燈


 黒野が長い脚で蹴り立てた扉は、蝶番を吹っ飛ばして倒れ、その衝撃で埃が朦々と舞い上がった。焦げたような粘膜を焼く臭いに紅井は顔を顰める。
ようやく埃の嵐が収まる。黒野が掲げた懐中燈ランプが照らしだしたのは、とても玄関とは思えない光景だった。趣味の統一されない高級そうな家具が所狭しと肩を並べ、合間合間に蚤の市フリーマーケットで見るようなガラクタやグシャグシャに丸められた油紙がねじ込まれている。天井からぶら下がるのは照明器具や鳥の剥製、双翼機の模型だ。全てが過剰で空間に隙間がない。そのど真ん中に一筋だけ、人ひとりがかろうじて通れる横幅の空間――《道》が誘い込むように空いていた。
 紅井は黒野の背後から回り込んで部屋に足を踏み入れる。獣道から一歩はずれて、油分と煤と埃で黒ずんだビロード張りのソファと低い机の合間に脚をひねり入れると、少し離れたところでなにかが崩落する音が響く。続いて朱雀、と咎めるように名を呼ばれて紅井は大人しく身を引いた。コートと手袋は見事に汚れ、足元には降り積もった埃に靴 底の跡がクッキリと残っている。少なくとも数週間、《道》以外の場所に人が踏み入った形跡はない。
「玄武、行くか」
 全身の汚れを払いながら尋ねると、黒野は応えず用心深く部屋を見回した。小さな燈が揺れ、壁に落ちる影が踊った。紅井が落とした何か舞いあがらせた塵が、煌めきながらゆっくり落ちようとしている。
「入るっきゃねえな。疾うにトンズラしてるんだろうが!」
 吐き捨てるような口調が黒野なりの昂奮の現れであることを、紅井は最近覚えた。この若い警部の青臭さは怒りや苛立ちとしてしか発露しない。
「煙くてしょうがねえよ、お前、鼻は大丈夫か?」
「俺がダメなのは猫だけだ」
 燈火で眼帯に嵌め込まれたレンズがギラリと光る。へいへい、と紅井は歩を進めることにした。何か仕掛けられていたとして、自分が死ぬほうが損失が少ない。

   *

 朝の定例会議の議場で、黒野はいつも通りに先頭の席で踏ん反り返り、眼帯のない片目を眇めて、同格の警部である捜査課長らを睨みつけていた。彼の頭は手帳要らずと噂されるとおりの出来で、会議の最中は一切の記録をとらない。だから机の上は彼の前だけ、小間使いが磨き上げたまま何も置かれない。ひたすら昨日の捜査の成果を聞き、己の報告は行動範囲と明白な新事実だけに留める。根は図太いはずの紅井すら肩身が狭く感じるが、黒野と行動を共にするようになってから九ヶ月、態度が改まる気配はひとすじもない。
 会議は警視庁ヤード本庁の抱え込む問題の共有を目的としている。帝都にいれば必ず見聞きする小競り合いの報告が続く。酒場で殴り合い、船場で爆発騒ぎ、貧民窟スラムでのコソ泥。国内外での人の行き来が増えたことで帝都内の事件は急増した。まともな働き口より多少の悪事で稼ぐほうが実入りがいいご時世だ。警官の補充が追いつくわけもなく、警視庁は常に人員不足だ。街場で自警団まがいの集団を率いていただけの紅井が、曲がりなりにも巡査の肩書きでこの場にいるのはそれが理由だ。
 議題はようやく巷を騒がせる盗賊団に移り、紅井は姿勢を正した。紅井と黒野はこの盗賊どもを追う特務班の所属だ。義賊を名乗る三人組と思しき彼らは、金持ちの屋敷から金品とりわけ美術品を盗み出して闇市場で売りさばき、上がりを貧民にばらまいている。首班は鼠小僧ならぬ怪盗猫柳を名乗る男で、事件後には新聞社にふざけた文面の犯行声明が送りつけられるのが常だ。
 この盗賊を当初警視庁は他の泥棒と同程度に見ていたが、三ヶ月前に海軍大臣別邸、大蔵大臣本邸、大銀行の頭取の貸し金庫、警視庁の高官宅と連続して四件の大規模かつ大胆不敵な盗みを働かれてさすがに目の色を変えた。流言の類では国家予算規模の損害が出たというが、その詳細は紅井たちには知らされていない。
 黒野が課長らを睥睨するなか、報告は淡々と行われる。書記が報告を黒板にまとめ、紅井はそれを支給の手帳に大まかな字で書き留める。
 曰く、港付近の市場で一味らしき長髪長躯の麗人が目撃された。同じ頃に帝国劇場前にて着飾った不審な男が子供相手に手品を見せていた。蚤の市で犯行に使われた印度麻の縄が売られているのが確認できた。
 推理の苦手な紅井からしてもろくな情報が上がらない。麗人とやらはこれまでの報告数の割にすべて噂止まり、着飾った芸人らしき男とてこの不況でうろつく人間が増えるばかりの公園に何人いることか。縄に至っては購入者をいちいちあたるわけにもいかない。
 早々に飽きた紅井は腹に手をやって愛猫がいないことに気づく。会議が始まった頃は股座で寝転がっていたはずだが、横目で見る範囲に姿はない。蟻一匹通さない警備が猫を好き勝手にうろつかせるのだから、本庁は本当に人が足りていないのだ。何か食べ物でもないかとポケットに手をやると、ガサリと音がしてクシャクシャになった〈ぎぞく ひゃくとおばん〉のチラシが出てきた。不定期に変わる電信の宛先と下手くそな猫の絵が描かれた、ガリ版刷りのものだ。帝都じゅうにバラ撒かれた証拠品は、今や回収すらされなくなった。
 右隣の黒野は相変わらず不機嫌そうな顔で黒板を睨んだまま、報告を求められて「なし」と口にし、進行役は虎の尾を踏むまいとしてか追加の言及を求めなかった。

 何の成果もない極めて退屈な会議が終わり、刑事たちは各自の机に戻る。形ばかりの点呼を終えて、さあ休憩だと上着を脱ごうとした紅井の腕を黒野が掴んで止めた。
「なんだよ」
 問いかけに答えず、黒野は背を向けてツカツカと部屋を出ていく。すぐさま後ろから同僚たちの潜めた笑い声が聞こえる。
所轄での乱暴な働きが認められて、本庁ヤードに配属となり、紅井はすぐに黒野と二人組になれと命じられた。紅井は彼の名前は噂で聞いていたが顔を合わせたこともなければ同じ現場にいたこともない。皮肉気な笑みを浮かべた課長は辞令を読み上げて、御愁傷様と続けた。あの一匹狼は誰の話も聞かねえ、人使いは荒いし平気で危険を冒す。昇進が早いのは相当ヤバいことやってるかららしいが、あの性格じゃあ近々上に潰される。前の相手? 乱闘に突っ込まされて鎖骨折ったぜ。お前も精々気をつけろよ。
 というわけで紅井は初顔合わせの前に実家に手紙を書いた。前略お袋様、オレは死ぬかもしれねえ。
 実際のところ心配はまったく不要だった。黒野は初対面で紅井の顔をまじまじ眺めると誰に聞かせるでもなくよし、と呟き、すぐに現場へと紅井を同行させた。間近で見る黒野は確かにやたらと指示だけ出して独りで動きたがるが、それに対する紅井の直球の意見を蔑ろにするところはない。訊けば噛み砕いた注釈を加え、細々した現場でのコツもそれとなく見せてくれる。人間だから捜査のところどころで無駄足も踏むが、その分は活動量と頭を生かした推理で補って余りある。結論を言えば、黒野は癖が強いだけで、間違いなく情熱的で有能な刑事だった。無策だが動けと言われればいくらでも動ける自分とは相性もいい、と紅井は思っている。
 上着の上からコートを羽織り、薄っぺらい財布とライター、紙巻煙草、身分証を確かめて部屋を出る。廊下でどこかから併走してきたにゃこを拾い、どうにか相棒に追いつく。黒野は丁度門前で辻馬車を拾っているところだった。
「どこ行くんだ」
「いいから乗れ。それからにゃこを死んでも俺に近づけるな。というか置いていけ」
「まだ朝飯食わせてねえんだよ」
「それなら目的地で放せ。どうせ寮に戻ってくるだろう」
 クルマを拾うような距離で無茶を言うが、確かににゃこはどこからでも平気で戻ってくる。紅井は一度オレ以外に足にしている奴がいるのかと問い詰めたことがあるが、愛猫は素知らぬ顔をしていた。
 座席に乗り込み、にゃこを黒野の反対側、扉と己の体で挟むように抱え込む。黒野は運転手にここから十分ほど離れた交差点の名を告げた。背を預けた座席が揺れて、一頭立ての馬が走り出す。午前中の帝都は交通量が少なく、蒸気自動車スチーム・カーの排気も減るので空が綺麗だ。手の内に乾き餌を零してにゃこに与える。馬が猫の気配を気にして首を振るので、御者がちらりと見咎めてきたが無視した。
 黒野は黙って市街を眺めている。紅井の側からは眼帯に隠されて表情は分からない。その上に刻まれた古傷のことを、紅井はまだ訊けないでいる。

 目抜通りの交差点で二人が降車すると、にゃこは紅井の腕を振りほどき敷石の上を駆けて消えた。黒野は黙ってそれを見送り、反対側へと歩き出す。
「ここらへん、お前んちの近くだろ」
「今日の目当ては違う、アジトだ」
「誰の」
「盗人――義賊どものに決まってんだろう」
 黒野がサラリと口にした言葉に二の句が告げない。今朝の会議の報告は嘘か。紅井はつい咎めるような視線を投げた。
「なんだよ、あの席の有象無象に聞かせる趣味はねえぞ」
「いや、その、報告義務とか」
「角の百貨店の従業員が、額縁の掃除に使う道具を求めた背の低い男を覚えていた。その後従業員が昼食に出た際に、リストランテの裏の屋敷に入る男を目撃した。よってこれから強行捜査に出る」
「マジかよ! なんでオレに」
「嘘八百だ」
 再度絶句する紅井に黒野は片頰を歪めて、さらに足を速めた。
 アジトらしき二階建ての建物はリストランテのさらに奥、脇道に逸れて小料理屋や居酒屋を通り過ぎた路地にあった。外観は少し前に流行った古典趣味の代物で、上階のバルコニーが路面にはりだしている。玄関周りはしばらく手入れされた痕跡がなく、白壁は煤の跡で薄汚れている。窓硝子はすべてステンドグラス仕立てになっており、割って入れるようなものではない。
「マジでここなのかよ」
「昨日運送業者から話を聞いた。大量の家具の移動を依頼されたらしい。中には美術品もある。荒らされちゃたまらねえから明日まで黙らせてある」
 その〝黙らせた〟方法にはあえて触れず、紅井は咥えていた紙巻き煙草を落とし、ブーツの踵ですりつぶしながら屋敷を見上げた。飾り柱を伝ってバルコニーまで登れないこともないが、ハズレだった場合のリスクが大きい。
「どうすんだ」
「チマチマしたやり方は好きじゃねえ、正面から行く」
 そう呟いた黒野が、火のついた葉巻を投げ捨てて玄関前に立ち、おもむろに扉を蹴りぬいたところで話は冒頭に戻る。

  *

 屋敷の間取りはいわゆる鰻の寝床で、玄関ホールとも呼べない小さな空間から廊下へ、《道》はうねりながら奥に続いていた。ふたりは罠がないかと細々した確認をしながら進む。廊下のそこかしこにも乱雑に家具など置かれ、左右にある部屋に通じるだろう、重厚な作りの木の扉はすべて塞がれている。紅井が部屋の中を調べるかと聞くと、黒野は首を横に振った。
 そうして行き着いた最奥の部屋は、これまでと同じように調度品とガラクタで埋まっていた。全ての窓は雨戸ごと閉じられ、燈りは黒野の持つ懐中燈だけだ。天井からは埃が積もったたくさんのモビールとシャンデリア、右手には古ぼけた長椅子、その上にはアラベスク織りのカーテンが無造作に投げかけられている。左手には雑然とした部屋の中で曲がりなりにも整って見える書類棚。そして真正面には一組の書斎机と椅子があり、そのさらに奥、突き当たりの化粧箪笥の上に、蓄音機がこれ見よがしに置かれている。屋敷の主の部屋はどうやらここで正解のようだった。
 紅井がキョロキョロと周囲を見回す間に、黒野は書類棚に近寄り、用心深く抽出しを開けて小さく舌打ちをした。中身を取り出して紅井に見せる。義賊の〝活躍〟を伝える新聞記事の切り抜きだった。
「コレクションかよ」
「自慢話だな」
 黒野が書類棚を探る間に、紅井は蓄音機の置かれた化粧箪笥に近づく。磨き抜かれたマホガニーの艶が、埃の層の下からうっすらとと光る。これもそれなりに高級品なのだろう。抽出の取っ手にかけた指先に、細い糸のようなものを感じたのと「触るなバカ野郎!」と叫ぶ声が聞こえたのが同時だった。
 瞬間、何かが破裂し、視界が煙で埋め尽くされた。熱くはない。だが猛烈に煙たい。
「玄武!」
 思わず相棒の名前を呼ぶ。怪我は。俺のせいで。呼吸するたびに喉奥に何かが張り付いて息苦しい。視界を確保しようと無闇に腕を振り回す。煙が薄れたところで手首を掴まれた。一瞬体中に緊張が走るが、いつもの革手袋の感触に紅井はほっと息を吐いた。
「落ち着け、爆発でも毒でもねえ」
「あぁ?」
「コーンスターチだ。映画キネマの特効で使うやつだ。風船にでも詰めてあったんだろう」
 見上げると、シャンデリアから無残に破けたゴム風船だったものがぶら下がっていた。紅井の引っ掛けた糸はあれに繋がっていたのだろう。噎せながら撫でつけた後頭部を払うと、白く細かい粉が際限なく落ちる。黒野は不愉快そうに眉根を寄せた。部屋中に舞い散った粉は自重でゆっくり落下していく。さっきもこんな風景を見たと紅井は漠然と思う。
「一歩間違えりゃ粉塵爆発だぜ、いい趣味してやがる」
「クッソ、粉まみれだ! 玄武、悪ぃ……」
 紅井の謝罪に構わず黒野は肩を払うと、蓄音機脇に置かれたレコードを取り上げた。
「おい」
「こっちは聞かせるためだ、何もねえ」
 黒野は粉まみれのケースから丁重にレコードを取り出す。ラベルを改め何も印刷されていないことを確認すると、テーブルに置いて電源を入れる。ブツブツと濁った破裂音がした後に、浮かれた行進曲が流れはじめた。場に似合わぬ陽気さに黒野は眉を顰めるがそれも声が流れるまでだった。
《ヤァヤァ警察諸君、ワガハイこそは名をば天下に轟かす大怪盗団の首領猫柳!》
 少年と言ってもいいだろう、高い声音は録音の質が悪いのかざらつき、時折例の破裂音に遮られる。
《今回も、ご多用中にこんな裏手の小屋敷までご足労痛み入る、だが一手打つのが遅かった、ワガハイらは既に逃げたので今回も諸君の負けである、お気の毒に。さて、諸君への頼みごと、ぜひお聞き届け願いたい。上手に見えたるは、ワガハイらがとある屋敷にて発見した正真正銘の真作。然るべき施設にご寄付いただけるよう、警察諸君の真摯な対応に期待している》
 それを聞いた黒野は長椅子に近寄り、重みのあるカーテンを捲り上げた。現れたのは豪奢な額縁に彩られた絵画やブロンズ像だった。黒野の目つきが変わるのが分かる。
《では、再度まみえる日にはまた楽しき頭脳戦を!》
 プツリと音を立ててレコードが静まる。紅井はスイッチをオフにして、長椅子の前でしゃがみこんでいる黒野に近づいた。
「どれもこれも本物だ」
「マジかよ」
 黒野はブロンズ像の土台の作りがどうだ、画家のサインがどうだと説明するが、紅井にその手の審美眼はない。ひとまず現場保存をと半開きのままだった書類棚に近寄り、抽斗を元に戻す。と、黒野の怒声が部屋に響いた。
「猫畜生が、折角の好機がコソ泥共のせいで台無しだ!」
 目に見えて苛立った黒野は、長椅子の隣に積まれた小机の山を蹴り飛ばした。連鎖して物が崩れる音が相次いで起こり、静まる。紅井はなにも言えずに見ているしかない。黒野は紅井を振り返り、大げさに美術品のほうへ手を翳してみせる。
「こいつらは被害届の添付資料にも、入られた家の財産目録にも載ってねえ。大方盗品か資金洗浄目的、良くて闇市場流れのコレクションだ」
「返す先がねえから、美術館に入れろって言ってたのか?」
 頷いた黒野は怒りが収まらない様子のまま、粉まみれの椅子に腰掛け、机に踵を叩きつける。そして懐から手帳を取り出し紅井に放り投げた。初めて見る黒野の手帳だった。開くと、普段の筆跡とは異なる細かい字で警視庁内の記録簿の通し番号、新聞記事の日付、過去の事件の資料の名が記されていた。その中に見知った警視庁ヤードの高官の名前が見え、紅井は顔を上げて黒野の青灰色の瞳を見つめた。
「チマチマ集めてた上の不正の資料だ。あいつら捜査中に見つけた美術品を横領してやがった。告発の手筈が整った瞬間に盗賊だ。そんで誰の家から盗ったか白状もしねえでこの始末か、やってられねえな! こっちは一年かけてクビ飛ばす算段してたってのによ!」
 黒野は溜息とも嘆息ともつかない息を大きく吐いて、立ち上がると出口に向かって大股で歩き出す。
「おい! どこ行くんだ」
「犯行声明とその手帳と現品がありゃあ、あとは本庁ヤードのバカ共でどうにかなる……どうにかうまく丸めるだろ。得にならねえ話にかかずらうつもりはねえ」
 そのまま振り返らずに進むので、紅井は慌てて手帳をテーブルに投げ捨てて後を追う。往きはあれだけ注意深く進んだ廊下が出るときはあっという間だ。外が眩く見える。最後に門と化した元・扉を潜るときに、黒野は上背のある体をそっと屈めた。その仕草で先ほどの怒りが持続していないことを悟った紅井は急いで彼の隣に並ぶ。
 日の光の下で見るお互いの格好は思った以上にひどかった。黒を基調にした制服は真っ白な粉で汚れ、ブーツははべたついた埃が擦れた跡が見事に残っている。
「……悪かったな、私情に付き合わせて」
「いや、その、オレが粉のやつやっちまったし、品は見つかったしよぉ、どっちかっつうと成功だろ!」
 黒野は紅井のとさかの先に残った粉を細やかな手つきで払い、襟足から背中にかけてをはたく。
「コートは戻ったらブラシをかけろ。コーンスターチは汚れ落としにも使ううから前よりきれいになるだろ」
「お前はどうすんだよ」
「この格好じゃ馬車も拾えねえ、一旦下宿に戻る。先に報告頼めるか」
 紅井が頷くと黒野は手帳はあの部屋にあったことにしろ、と念を押し、コートの裾を翻して走って行った。その姿をぼんやり眺めていた紅井のふくらはぎに痛みが走る。見下ろすといつの間にか愛猫がブーツに絡みついた埃と格闘していた。紅井はひとつ溜息をつくと警視庁に向かって歩き始める。やることはまだ残っている。

  *

 報告は黒野が戻る前に終えることができた。盗品が見つかりました、以外に話すことはなかったからだ。課長も言い含められていたようで何も聞かれず、盗賊団についての捜査は引き続き行われることになった。戻った黒野は持ち札がなくなったのを幸いとまたどこかへと去って行った。
 おざなりな報告書書きで午後を潰し、寮に戻って夕食が済んだところでまた愛猫が消えた。建てられてずいぶん経つ寮は本庁以上に抜け道が多い。この国の治安は本当に大丈夫なのかと心配になる。
「にゃーこー、でてこーい」
「朱雀」
 振り向くと分厚い記録簿を抱えた黒野が立っていた。赤みのある燈りのせいか昼間より幾分冷気が和らいでいる。本人には言っていないが、紅井はこの毒気の抜けた黒野の佇まいが好きだ。
「あいつ、いねえのか」
「おう、一緒に夜食でも食ってこようと思ったんだけどよ。お前、また図書館か」
「まあな。飯は近所か」
 紅井の大食は寮内でも知られていて、晩飯と夜食の量に制限がかけられている。仕方なく外食が増え、そのための夜間外出も大目に見られている。
「いつもんとこだ、解決した日に食いに行くと調子が出んだよ!」
「あんまりゲン担ぐんじゃねえぞ、手落ちが出る」
 黒野は嗜めるように言うが、そこの言葉の端には昼間の緊迫感はない。
「わーったよ、玄武も今日は早く帰れよ。……あんま無茶すんな」
 パン、と背中を叩くと黒野は一瞬気の抜けたような表情を見せ、今日初めてゆるやかに笑った。
「ああ、気ぃ遣わせて悪いな」

「おーい、おやっさん、あいてっか」
 扉を開けると店内から胡麻油の香りがあふれてくる。故国の記憶がないとはいえ東洋系の系譜を持つ紅井の食欲は増すばかりだ。料理長を兼任する店主も同じく東洋系で、そのせいかおまけが多いところも好みに合う。
「オウ、遅えな。エビ食うかエビ。炒めるぞ」
「任せるよ。先生は」
 店主は顎をしゃくって奥を示した。店の隅には間仕切りで作られた小さな個室がある。紅井は掲げられた〈占い屋どら猫〉の真新しい暖簾をくぐる。帝都では珍しい淡色の髪をした小柄な男が、卓の真向かいの席に腰掛けていた。
「よお、猫先生」
「ヤァヤァ、ようこそ。首尾は上々?」
 手の内で筮竹をジャラジャラと搔き回す男こそが、大怪盗・猫柳キリオ当人だった。
「うまくいったぜ、一応、全部な」
 紅井は丸椅子にドカッと腰を下ろし、財布から数枚の札を抜いて机に叩きつけた。畳んだ扇子でそれを引き寄せながら猫柳は口を尖らせる。
「ワガハイの言ったこと、信じてにゃかったでにゃんすか」
「警察がドロボウ信じてどうすんだ」
「占い屋は裏がないからウラナイと申しまして……」
 猫柳はまあ当たるもハッケ、当たらぬもハッケとも申すもんですが、と笑い、金を袂にしまった。
「あのよぉ、あの粉のやつ、金輪際やってくれんなよ」
「にゃはは、やっぱりれこーどの録音がヘタクソなもんで、接触不良のせいにできたらいいにゃあと……ちょっと仕込みすぎたでにゃんすかね」
「フンジンバクハツ? とか言ってたぜ」
「そいつぁ大変。盗みはしても人殺しの趣味はにゃいもんで、おふたりが無事でよかったよかった」
 猫柳はけらけらと笑い、しかしこんなに捜査が速いなんて驚き桃の木、本庁の刑事さんは腕がいいんですにゃあとうそぶいて、パッと扇子を開いた。
「眼帯クン、まさかトサカクンが内通してるとは夢にも思わず、今頃ヤケ酒でもかっくらってるでにゃんすか?」
「……内通じゃねえよ」
「にゃあにゃあ、これは失敬」
 扇子で口元を隠し猫柳は目だけで薄ら笑う。紅井は口籠って床を見つめた。

 今日の顛末は当然猫柳一党の仕込みだったが、事前情報を流したのは紅井だった。
 黒野は警視庁を挟んで寮と反対側の民家に下宿している。その彼が毎夜寮を訪れては図書室の捜査資料を漁っていることを、にゃこを追っていて偶然知った。直接聞くのははばかられ、同僚に尋ねても同僚の誰もなにも答えられない。自分で突き止めるしかないと、人が滅多に入らない古い記録の棚の前で、黒野のブーツの跡と棚板の埃が落ちた場所を丹念に探し、彼のあたっていた記録を特定した。自分の行動が露見しないように、埃の代わりに石膏と細かい綿を混ぜた粉末を撒いた。すべて黒野の教えた手法だ。
 黒野が探っていたのは美術品の闇取引だった。この十数年で帝国とその近隣国から消えた絵画、彫刻、工芸品のリスト。捜査に携わった今は高官となっている刑事や外交官たちの名簿。オークションの開催記録。広範な資料と、日々の捜査の中で黒野が見せる無駄が重なる。必死で辿った線が黒野の描いただろう画と重なったとき、紅井の心中にあったものは達成感ではなかった。
 このままでは黒野は死ぬ。黒野がどんな理由でこの事件を追っているのかは分からないが、盗品の出元は各国王室や軍の有力者に及んでいる。乱暴に明るみに出せば大陸中の火種になるのは、国際情勢に疎い紅井にも理解できた。聡い黒野は間違いなく承知の上で、警視庁どころか帝国全体の地雷を踏みぬこうとしている。
 そうなれば、彼は唯一絶対の忠誠を誓った女王陛下の名の下に殺されるのだ。
 悩みに悩んだ紅井が頼ったのが猫柳の盗賊団だった。《ぎぞく ひゃくとおばん》の子供じみたチラシの連絡先に電信を打った。数日して、単独捜査中に東洋系の男に中華料理店の割引チラシを渡された。中で待っていたのが猫柳だった。
 依頼は高官宅への侵入と美術品の窃盗。盗んだ物はどこへ持って行こうと勝手だが、なかでも高価なものはどうにかして正当な持ち主の元へ返還できるようにしてほしい。手引きはする。情報も出す。報酬は薄給を貯めたものがある。そう振り絞るように告げた紅井に、猫柳は金と手引きは不要だと笑って返した。
 刑事さんが何考えてるかなんてちっとも興味はないでにゃんすが、思いつめた若者を放っておくような、人情味が消えた浮世もそれはそれで許しがたし。情報だけくれたら、あとはワガハイたちにお任せを。ま、手数料だけは頂戴しますけどにゃ。
 それから猫柳は一味と策を弄し、紅井は怪しまれない程度に中華料理店に通っては進展しない捜査状況を明かした。そうして全ての仕込みが終わったのが四日前で、猫柳は仕上げに黒野だけにそれとわかるように罠を仕掛けた。釣果が出たのが今日だったのだ。
「どっちにしろ、このお店も今日で引き払う段取りなんで、今回のお話はここでどっとはらい。また縁があったら悪巧みでも」
 差し出された手を睨み、紅井は己の手のひらで強く叩く。面食らった顔の猫柳に精一杯の虚勢を張った。
「握手はお前が手錠してからだ、次はねえ」
 猫柳はくるりと表情を変え、笑みを浮かべる。
「そうこなくっちゃあ勝負のしがいがないでにゃんす!」
 ちょうどそこで店主が紅井を呼ぶ声が聞こえた。紅井は席を立つ。もう二度と、この暖簾をくぐることはない。

  *

 これは裏切りではないと紅井は思っている。自分は黒野を案じている。案じているから死なせたくない。黒野が何をしているか知ったときの血の気が引く感覚は、今まで味わったことのないものだった。だがそれより許せないものがあった。
 黒野は紅井が余暇に何をしているか、紅井の通う店がどこにあるのか、紅井の私生活にかかわることをこれまで一度たりとも尋ねてきていない。質問を重ねるのは常に紅井で、黒野は何も訊かない。その態度を信頼だと思うには、黒野玄武は周到すぎる。
 紅井の存在は、事件より出世より軽く、身辺を疑られるほどには実力を認めてられていない。
 それが癪に障る。いかに群れようと打ち解けようと、根本の孤独を黒野は否定せず守り続けている。技法を教えるのは純粋な好意からだろうが、翻せば黒野なしの紅井の人生を身勝手に描いている。今回の一部始終を話しても、彼は怒るより先に紅井を褒めて、それからそんなに腕が上がったんじゃあ相棒はもうやめだなと、平然と口にするだろう。それは紅井の望みではない。
 一人で抱え込むなと言いたい。手伝えることは何でもする。黒野の隠す運命に巻き込んで欲しいと思う。だが今の黒野は拒絶するだろう。受け入れられるまで、紅井は身勝手に黒野の命を守ると決めている。彼の執念を捻じ曲げて、どれだけ彼を傷つけてでも。
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