ハッピー・ホリデイズ・フォー・ユー

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 紅井が捜査報告書を書き終えたのは二三時を回ったころだった。その日起きた面倒なもめ事――つまり被害者が延べ五人、加害者が延べ六人、参加者は全部で七人という金銭トラブルについて文章で表現するには、紅井の能力はまったく不適当だった。課長からまったく意味が分からん、書き直せ、再提出、せめて通じる言葉で書け、ありとあらゆる表現で罵られしまいには呆れられ、それでもこの時間まで提出に付き合ってくれたのだから課長も決して悪人ではない。
 こういう時に限って黒野を捕まえられなかったこと、自分の文書作成能力が異動後まったく成長していないこと、なにより晩飯を、クリスマス・イブの晩餐を食いはぐれたことが重なって紅井はひどく滅入っていた。今日は寮の貧相な食卓にも、ガチョウの丸焼きとミートプディング、それに好物のバターたっぷりのマッシュポテトとケーキ、悪くてもジンジャーブレッドが添えられていたはずなのだ。それを丸ごと食い損ねた。今から食堂に行ってもせいぜいスープと冷えた肉が残っている程度だろう。
 とぼとぼと灯りの消えた廊下を歩く。課長は後片付けを命じて先に帰ってしまった。書き損じをまるめて反故紙にして、ストーブの火を落として灰をかきよせ、ランプの灯を消してオイルを使用済みのブリキ缶に流してと、新入りの下っ端にはやることがたくさんあった。だから警視庁を出るころには日付も変わっていたと思う。
 紅井は支給の外套コートの上から私物のマフラーをぐるぐる巻いて、分厚い手袋をつけてぎゅっと瞼を閉じる。それから勢いよくドアを開けた。
 途端に耳が切れそうな突風が吹きこんでくる。かろうじて雪は降っていないが十二月の帝都はきんきんに冷え込む。気温はこれからますます下がる一方だ。ガスの暖色の灯りも物理的な寒さの前にはまったく効果がない。覚悟を決めて石畳の上へ踏み出した朱雀の後ろから聞き慣れた声がした。
「ハッピー・ホリデイズ」
 いつものコートを着込み、ブックバンドでくくられた本を小脇に抱えた黒野が立っていた。一瞬待ってたのか、と言いかけて、黒野が時間を無駄にするわけもないと思い返す。案の定黒野は可愛げなく片頬を歪めて言った。
「残念ながら図書室帰りだ。灯りがまだついてたんで、どうせお前だろうとあたりつけてきたんだ」
「今日が一番遅いぜ、ほんと人遣いが荒ぇ……」
 手袋をこすり合わせながら黒野と向き合う。真黒な出で立ちは夜の闇に溶け込みそうだ。眼帯にはめ込まれたレンズのきらめきと青ざめたと言ってもいい顔の白さが浮き上がるように見えて、紅井は一瞬それを美しいと思った。
「そうだ、メリークリスマス」
「今朝も言ってただろう」
「そうか?」
「そうだ。ハッピーホリデイズ」
 黒野が瞼を閉じてそう言うので紅井はいつものようにクリスマスじゃねえのか? と問う。黒野がなにか人と違うことをするときそこには理由があるから、これはもう癖とか習慣を超えて、黒野と相対するときの当然の行為になっている。
「なに、俺は陛下に殉じる決意はあるが、国教会は信じてないからな、まあ、祝日は祝日だから祝いはするさ」
「祝日ホリデイも何も、今日もばりばり仕事してただろうが」
「そこは俺たち公僕の悲しいところだな」
 そこで紅井がずる、と鼻水をすすったので黒野は少しだけ笑った。それからコートの裾をぱんと払って紅井の顔を見据えた。
「一つ提案がある。俺はこれから遅い晩飯を食いに、パブに行く」
「おう」
「ここから二〇分もない。寮とはちょうど二等辺三角形の位置関係だ、そっちも二〇分もない」
「おう?」
「パブには、スパイス入りワインと、ブランデーと、俺がキープしておいた七面鳥が一羽ある。シェパーズパイと、あとタルトだな、タルトタタンを頼んでおいた。――だが少し俺には多い」
 そこまで来て紅井の理解がようやく追いついた。ぱっと周りが明るくなったように感じる。その中心で黒野がやれやれといった風に笑顔を――少なくとも紅井にはそう見える表情をしている。
「来るか、朱雀」
 誘いに紅井は大きく頷いた。
「……ホリデイ、最高だな」
「お前がもうちょっとでもまともに文字を書けたらなおさらいいがな。まあ明日にでも添削してやる」
「やべえ、全部ぐしゃぐしゃにしちまった」
「……朝イチで暖炉の前から回収するぞ」
「おう! 任しとけ!」
 祝祭を終えて静まった夜の街にふたりぶんの踵の音が響く。ホリデイ・ディナーまであと二〇分。よく熾った暖炉の炎が紅井と黒野を待っている。
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